「あのときと同じだね……」
当時と違い、まだ夕焼けの残る空。海に面した柵に寄りかかり、茜音は健の腕に触れた。
「まだ半年しか経ってないんだねぇ」
「そうだね。長かったのか短かったのかよく分からないよ」
「うん、わたしも……。同じこと思ってた。色々あったなぁって」
二人の初デートの余韻が残る翌日、片岡の両親の計画で、彼女は正式に健を家族に紹介することになった。
「あのときにさぁ、茜音ちゃんをお願いしますって、頭下げられて、どう返したらいいかちょっと困っちゃったんだけどね」
「そうだねぇ。それじゃぁ結婚を申し込みに行った時みたいだよねぇ。でも逆かぁ」
「そうだね。また時期が来たら、今度は本番かな」
「あはは。うん、うちは相手が健ちゃんなら、時期は二人で決めなさいって言われてる。わたしも待ってるしぃ。それに……もう待ちたくない……」
二人が再会して、僅か半年と少ししか経っていない。それにしてはこれまでの10年間にも勝るとも劣らないたくさんの出来事が二人の間に起きた。
「でも、楽しかったよぉ。二人になるって、こんなに安心できるんだって分かった」
「僕もそう思う。ようやくこれで僕も一人じゃなくなったんだなって思って、ホッとしたって言うのかな。茜音ちゃんがああいう中で本当によく無事でいてくれたって言うか……ね。ありがとう。頑張ってくれて」
健は一人での生活とはいえ、珠実園という中で育ってきた。確かに思春期の微妙な時期ではあったものの、そこは同じような施設の仲間たちがまわりにいたおかげで、周りが思うほど人一倍苦労してきたとは彼自身あまり感じていない。
しかし、知れば知るほど茜音のこの10年間は、彼女にとって過酷だったと彼は思った。
事故の記憶は表面上は消えても心の深層からはなかなか消えることは出来ない。
片岡家に引き取られてからも、新しい小学校、中学校に進んだところでは、必ずそのことは蒸し返され、実の両親がいないことを理由にたびたび苦労を重ねてきていた。
一度入学した地元の中学校にはなじめず、僅か1ヶ月で転校を余儀なくされたという。
年末の大掃除の時、茜音はその時の制服を発見した。
まだ真新しい冬服。一度も袖を通すことが出来なかった新品の夏服。片岡夫妻はそれらを処分せずにこの家に大切に保管しておいてくれた。
『これ、着られなかったんだよ……』
試着してみたところ、ほとんど当時から身長も変わっておらず、中学生という伸び盛りの時期を持たせるために少し大きめに作ったこともあり、今でもほぼぴったりに着られた。
『ごめんねぇ、着てあげられなくて……。わたしが弱虫だったから、ごめんね……』
彼女なりに悔しかったのだろう。もう一度大事そうにクローゼットに戻しながら、茜音はポロポロと涙が止まらなかった。
健の提案で、夏服のセーラー服はともかく、ブレザーの冬服ならブラウスやベスト、スカートならば使えるのではないかということで、茜音はそれに合う服を探したり、服のことならと、すっかり親友となった萌とリメイクの相談もしているという。
「本当はね、卒業した中学でもあった。でも、もうお父さんたちにも心配させられなかったから。何があっても我慢した……。健ちゃんとの約束もあったから泣かなかった。いつも自分を押し殺してた。わたし、また話せなくなっちゃった……。高校に入って、菜都実と佳織に会うまで、わたしは、本当にダメな子だったんだよ……。あのままだったら、きっと健ちゃんにも見捨てられていたかもしれない」
残っている当時の写真もいくつか見せてもらった。
確かに茜音の笑顔の写真は高校に入ってから。でも、自分が見ると、表面上では笑っていても、どことなくいつも寂しそうな影を感じる。
「でも、それはわたしが本心からのものではなかったと思う……。健ちゃんに会えて、ようやくわたしは本当のわたしに戻れたのかもしれないよ」
「それは、佳織さんたちも言ってたね。あの日を境に茜音ちゃんが変わったって。顔がこれまでよりも優しくなったって。今が本当の茜音ちゃんの姿なんだね」
正確に言えば、それが正しくない表現であることも分かっている。
「両親は自分に音楽の技術を教えることはなかった」と茜音は言う。それでも、間違いなく持っているであろう絶対音感や、演奏や歌唱の才能を自然に植え付けた両親を失ったところから、彼女の人生は元に戻ることはなくなっているからだ。
「もう、疲れ果てて無理は出来なくなってた……。だから、本当にあの時はもう一人じゃ生きていけないって本当だったよ。川に落ちてだんだん眠くなっていく時に思ったの。これで楽になれるかなって……。パパとママのところに行けるって。でも、きっとパパとママがまだ来ちゃいけないってわたしを追い返したんだよね」
茜音はそこで自然と腰を下ろしていたベンチから立ち上がり、彼の目の前でふわりと回って見せた。昔から変わらない嬉しいときの彼女の癖。
桜色のブラウスに白く柔らかい毛糸のカーディガン。紺と濃緑とエンジのチェックのプリーツ入りミニスカートと紺のハイソックス。彼女にしては最近の流行りにまとめた方だ。
そのミニスカートが回転に合わせふわりと持ち上がる。太ももの上の方まで持ち上がったとき、健は思わずそれ以上は見てはいけないと思って目をつぶった。
「えへへ。健ちゃんなら見えちゃってもいいのにぃ。これだけ暗くなれば他の人からは見えないよ」
「でもさ……」
「こういうことが出来るのも、きっと神様がくれた奇跡なんだよぉ」
近づいてきた茜音のダークブラウンの大きな瞳は優しそうに笑っていた。
幼い頃から変わらない。この瞳を自分の手に取り戻すことは無理なのではないかと一時期思っていたこともある。家庭に引き取られているにも関わらず、彼女は全力をかけて約束を守って……、自分に会いに来てくれた。
「そうだね。奇跡だね。僕たちが最初と再び出会えたこともみんな……」
「うん。ね、ランドマークに上らない? きっときれいだよぉ」
「うん、賛成だ」
健もベンチから立ち上がり、ちらっと後ろを見る。最初そこに居たであろう気配は既に消え去っていた。
展望台直行のエレベーターに乗り、展望室に向かう。
夕焼けの時間も終わり、小さい子や家族連れなども引き上げたあとは、昼間とは少し変わった落ち着いた雰囲気に変わる。
その場にいる人たちの会話も小声で隣にいるパートナーに伝わるくらいのトーンになっている。
その目の前に広がる景色は、港町の夜景からずっと続く光のイルミネーションだ。
「きれいだねぇ……」
横浜港から左右に広がる東京湾、右手の奥の方には茜音が通う櫻峰高校もある横須賀も見通せる。海の反対側に回ると、意外に丘陵地帯が多い横浜市の住宅街が続く。明るく晴れていれば箱根はもちろん富士山まで見通せる。
そんな夜景を見ながら展望台を一回りすると、港の景色が見下ろせるところにベンチが空いていた。
「ここでいいかな」
「うん」
「ちょっと、なにか温かいもの買ってくるよ。待っててくれる?」
「わかった。先に帰っちゃヤダよ?」
小さい子供のように心配する茜音に、健は笑って頷いた。
「健ちゃん、本当に今日は無理言ってごめんね……」
「何にも無理してないよ? どうしたの茜音ちゃん?」
ベンチに戻り、缶のホットココアを渡したところで、さすがに疲れたのか茜音は少しトーンを落として健に話した。
「だって、今日は本当なら未来ちゃんの日だったのに……」
「気にしてる? いいんだ。あの子にはもう僕があまりそばにいない方がいい」
「え?」
隣を見上げると、彼の目は真っ直ぐ茜音に向けられていた。
「だって、僕には茜音ちゃんがいる。それは未来ちゃんにもはっきりと言ったことだし。あの子は僕から独立していって欲しいんだ。だから、僕のそばにはあまりいない方がいいんだよ」
「未来ちゃん、寂しがってる。わたし分かるの……」
「でもさ、それで茜音ちゃんはいいのかい?」
「うん……。今日だって、きっと我慢できなかったんだと思うよ」
「気がついてたんだ?」
今さらながら、あれだけはしゃいでいた茜音が尾行していた未来の存在を把握していたことに驚く。
「帰って、きつく言っておくよ」
「ううん、それはしなくていい。こうやって最後は二人きりになれたから……」
ふと健にもたれかかった茜音の身体に力がなかった。
「茜音ちゃん?」
缶を落としそうになった手を握るとハッとした。
慌てて額に手を当てると、あきらかに熱い。落とされた照明のもとでも、茜音の顔が赤くなっているのが分かる。
「いつから?」
「朝くらい、かな。お昼にお薬飲むの忘れちゃって。効き目が切れちゃったんだね……」
さっきまでとは違い、笑う声も弱々しい。
「なんでそんな無理をしてまで……」
「だって……。わたしもずっと楽しみにしてたんだもん。健ちゃんとのデートだったから……」
「そんなの、いつだって出来るよ。さ、急いで帰ろう」
「うん。今日はこっちのお家に帰ることにしてるから……。お財布の中に鍵が入ってる……」
「大丈夫なのか?」
茜音は頷いたが、ふらついて満足に歩けるような状態ではない。それに、自分の鍵の在りかを教えることは、このあとあまり長くは持たないということを伝えているのだと。
どっちにせよ、ここからなら横須賀の家よりも横浜市内にある茜音の生家の方が近い。
これまで運び込んだものを思い出して、病人を介抱をするための基本的な用意も整っている。彼の決断は早かった
「電車は無理だな。もう少しだ、しっかりするんだ茜音ちゃん」
健はエレベーターを降りると、茜音の肩を持つようにしてタクシー乗り場へ急いだ。
気がつくと、窓からは明るい朝日が入ってきている。
「あれぇ……」
小さく声を出すと、茜音の母親が振り向いた。
「気がついた?」
「おかぁさん。どうしているの……?」
この部屋は間違いなく自分の家で、寝かされているのも茜音のベッドだ。
「健君がね、連絡してくれたの。私が着くまで茜音の看病してくれていたのよ。さっきお医者さんにも来てもらって、注射打ってくれたから。薬も出してくれて今日いっぱいは安静にしていなさいって」
言われてみれば、左腕に小さな痛みが残っている。枕元には薬の袋も置かれていた。
「先生、びっくりなさってたわよ。あんなちっちゃかった茜音がこんなに大きくなったのかって」
思い出す。この家にいた当時も茜音はよく風邪を引いた。でも、両親の仕事柄やギリギリまで我慢してしまう茜音の性格も手伝い、気づくのは茜音がダウンしてからのことが多かった。
夜中に急診に駆け込んだり往診にきてもらったりも多かったので、覚えていてくれたのだろう。
当時世話になっていた病院の名前は電話台のところに張ってあったので、それを見て連絡してくれたようだ。
「そっかぁ……。健ちゃんは?」
最後にはっきりと覚えているのは、朦朧として身体が動かなくなってしまった自分を抱えてタクシーに乗せてくれたところまでだ。
その後は一体どうなったのか。きっと心配しながらここまで運んでくれたに違いない。
「私が来たから、ちょっと用事があるって出て行ったわよ。でも、もうすぐ戻るって連絡があったけど」
「そっかぁ。それじゃぁ安心だぁ」
「もぉ、この子は。そうよね、私より彼の方が茜音にはいいお薬よね」
図書館の仕事をしている彼女は、日曜日でも当番があるため、茜が目を覚ましたことを確認すると部屋を出て行った。
お気に入りの窓から清々しい風が入ってくる。昨日と同じように暖かい日になるそうだ。
「健ちゃんに謝らなくちゃ……」
せっかくのデートの最後があれでは、健になんと弁解していいか分からない。
朝から調子が悪いのは気がついていたけれど、まさか途中で気を失うようなことになるとは予想していなかったから。自己管理ミスは素直に反省しなければならない。一緒にいてくれたのが彼だったのがせめてもの救いだ。
表に車の音がして、しばらくして部屋の扉が開いた。
「よかった。目が覚めたんだ」
「健ちゃん……」
「そのまま。うん、顔色もだいぶ戻ったみたいだね。本当によかった」
起きあがろうとする茜音を制し、いつもと変わらない優しい顔で覗きこむ。
「昨日の買い物がロッカーに入ったままだったから取りに行ってきたんだよ。僕の分も入ってたからね」
見覚えのある袋を持ってきてくれていた。
「そっか。ありがとぉ。そこに置いてくれればいいよ」
健も昨日はそんなことはすっかり忘れていた。とにかく茜音を無事に寝かさなければと思いここまで抱きかかえてきたのだから。
「……健ちゃん。ごめんなさい……」
「いいんだ。元気になれば、いつでもやり直せるから。茜音ちゃんの身体が一番大事だよ」
「そうだよね。ありがとうね」
薬のせいか、彼の顔を見て安心したのか、茜音にまた睡魔が襲ってくる。
「茜音ちゃん。早くよくなって、また行こうな」
健が濡らしたタオルを額に乗せなおしたときには、茜音は再び小さい寝息を立てていた。
昔と変わらないこの部屋の天井。
「ママ、まだいないの……?」
目覚めた茜音の声は小さくて、部屋の外には聞こえていないようだ。
窓から差し込んでくる光には、彼女の名前と同じく茜色が混じっている。
朝、突然熱を出した茜音は、幼稚園をお休みした。
しかし、両親にはどうしても外せない音合わせのリハーサルがあるとのことで、茜音が困らないようにお昼ご飯などを用意し、早く切り上げてくることを約束して出かけていった。
薬が効いていて、さっきまで熟睡できていたせいか、身体は楽になっていた。それでも茜音はじっと寝ていなければならないという言いつけを守っていた。
「なんにも聞こえないの、いやだよぉ」
シンと静まり返った家の中の沈黙に耐えきれなくなり、たたんであったショールを肩からかけて窓の下にある台によじ登る。
高台にあるこの家の正面2階にある茜音の部屋の窓からは住宅地と少し離れた市街地の一部が見える。その日の天候や時間によって街の色が変わる。この景色が好きで茜音はずっとここを遊び部屋にしてきた。
そして幼稚園の年長になった今年の春、ようやく自分の部屋として与えてもらえた。それまでは夜も家族三人で川の字になっていたのを、彼女専用のベッドを入れてもらい、来年の小学校入学に備えてと机も先日入った。
しかし、その「自分の部屋を持つ」状況が逆に彼女の寂しさを膨らませる結果となってしまった。
同じ部屋に他に誰も寝ていないことから、恐がりの茜音は部屋を完全に暗くすることが出来なくなった。
近くのコンセントに常夜灯を付けてもらったとしても、まだ夜になっていないこの時間にもかかわらず部屋に一人ぼっちになっている。
これまでは共通の部屋だったから、両親が帰ってくれば真っ先に茜音のことを気づいて声をかけてくれた。しかしこれからはそうは行かない。
この部屋に入ってこようという行動がなければ、茜音は大好きな二人の顔を自分から探さなくてはならない。
「うぅぅ……」
少しずつ暗くなり、灯りがつき始めたまわりの家々。しかしこの家はまだ暗いままだ。
急に寂しさがこみ上げて、再びベッドに戻る。
「ママぁ、パパぁ……」
何度もつぶやくが、家の中にある物音は彼女が発するものだけだ。
「ママ……」
その1時間後、練習を途中で切り上げ先に帰宅した母親が家に帰って真っ先に開けた部屋は、愛娘が一人留守番をしていてくれた場所。
常夜灯の薄明かりの部屋の中、彼女は布団の中で膝を抱え小さくうずくまり、泣き疲れて眠っていた。
「茜音……」
平熱まで下がっているのを確認して、一度身支度を整えてくると、その夜は茜音のベッドで一緒に休む。
翌朝、目を覚ました茜音がその状況に気づいて1日甘えていたのは言うまでもない。
「……ちゃん、茜音ちゃん?」
名前を呼ばれて、意識が戻る。
「うんん……?」
健が茜音の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「ほ、ほぇ……」
気がつくと、自分の頬に幾筋も涙の跡が残っている。
「大丈夫? ずっとうなされているみたいだったから」
「そっか、夢を見てたよぉ」
「夢?」
「うん……。まだ幼稚園の頃に病気で一人でこの部屋にいたときのこと。寂しくて泣いてたときのことだと思うよぉ」
「そっか、それでママとかパパとか言ってたんだ」
「うん。健ちゃんに会う前のことだよぉ」
そうだ。茜音がこの家を一度離れたのは幼稚園年長の冬休み。だから以前の記憶時代には健とはまだ出会ってもいない。
「楽しかった頃?」
「うーん。楽しかったのかなぁ。パパとママは優しくて暖かくて……。家族の中は楽しかったよ。でも、お家の外はそうでもなかったかもしれない。思い出せないから……」
健が思い出してみると、茜音のその頃の話は主に両親の話で、幼稚園や親戚の話というのは聞いたことがなかった。まだ封印されている記憶があるのかも知れないけれど。
「そういえばねぇ、健ちゃん。さっき聞こうと思っていたことがあったの……」
話題を変えたくて、茜音は健に話しかけた。
「なに?」
「あのねぇ、昨日健ちゃんがここに運んできてくれたと思うけど、それ以外に誰かいてくれたの?」
「いや? 僕一人だけど」
「じゃあ、あのお洋服からパジャマに着替えさせてくれたのも健ちゃん?」
壁のコートかけには、茜音が昨日着ていた服がハンガーに掛けられている。皺にもなっていないから、この部屋に到着してすぐに着替えさせてるれたのだろうが、そのときの記憶が全くない。
「うん。どうしようか迷ったんだけど……。茜音ちゃん汗びっしょりだったし、服のままだと寝苦しいと思って。お湯とタオルで身体を拭いてパジャマにしたんだ」
「そっかぁ。お母さんが、健ちゃんが夜通し看病してくれたって言うし、着替えも終わってたって感心してたんだぁ。でもぉ、それだったらぁ、昨日スカートの中見えそうになったときに目をつぶらなくてもよかったのにぃ。わたしのお洋服脱がせたんだもぉん?」
面白そうに茜音は笑う。
「う、うん、どうしようか悩んだんだ……。茜音ちゃんに無断でそんなことしていいなんて思ってなかったし。でも、茜音ちゃん苦しそうで、じっとしていられなくて……」
健は真っ赤になって取り繕おうとした。考えてみれば茜音の言うとおりだ。当然その時はただ茜音を楽にしてあげたいという一心だったから、責められることはない。そのことは当然彼女も分かっている。
「ううん。いいのぉ。本当にありがとう。一緒にいてくれたのが健ちゃんでほんとよかった。わたしのこと助けてくれたの何回目だろうねぇ」
施設にいた頃から、ずっと一緒にいてくれた健。
いじめられたときも病気になったときもいつも一番の味方になってくれた。だからこそ、茜音は彼女の全てを健にだけは見せることが出来る。
昨年の夏、川の中に落ちて記憶が途切れていたときの様子を友人たちから聞いた。まさかの事態に動けなかった二人に構わず、彼は自分を水の中から抱き上げ、そのままあの足場の悪い坂を一気に登って毛布で包んでくれたという。『あれは真似できないわ』と菜都実も証言している。
「そういう意味じゃ、健ちゃんは私の白馬の王子様だねぇ。お父さんとかお母さんよりも頼りにしちゃってるかなぁ……。でも、健ちゃんは今は珠実園の頼りになるお兄さんでもあるんだよね。わたしが独り占めするわけにいかないね」
「いいんだ。ちゃんと理由は話してきた。これから茜音ちゃんを送っていくよ。それが一番大事だから」
そのために健は一度園に戻って車を取ってきたのだと気づいた。
「うん。それじゃぁ着替えるよぉ。健ちゃん、パジャマから着替えさせてぇ?」
「茜音ちゃんの服は難しくて無理だなぁ」
「うそだぁ」
健はハンガーの服を茜音に渡す。目があった瞬間、二人とも思わず吹き出してしまった。
「まー、まだ襲われたって言われたくないからね。戸締まりの用意だけしてくるよ」
「わかったぁ」
結局、茜音はその週の半分を体調の回復に使ってしまったという。
「それじゃ、みんなまたねぇ」
「片岡さんたち、またお店に行くね」
教室を出ようとする三人にクラスメイトから声がかかる。
「うん、いつでも会いに来てねぇ」
「お幸せにね~」
「あぅ、それはまだだよぉ」
1年間過ごした教室とも、今日でお別れだ。
「あら、片岡さんも卒業生ね。無事卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
さっきまではまだ多くの生徒や教師がいた校舎内、今はその数もだいぶ少なくなっている。
あの夏を越えて、もはや学校のヒロイン伝説を作った茜音のことを知らない者はいなくなった。
胸に花飾りを付け、卒業証書の筒を持って階段を下りていく姿を見て、もう彼女が校内で見られないのを惜しむ声も聞こえるくらい、その存在は愛されるようになっていた。
「片岡せんぱーい!」
「あ、こんにちは。今日はどうしたの?」
パタパタと走ってくる下級生たちは、学校の中でも茜音を熱烈に応援してくれた2年下の女子二人だ。
「茜音、先に門の所に行ってるね」
「うん、すぐ行くねぇ」
菜都実と佳織は他の生徒や教師たちに挨拶をしながら昇降口へ歩いていった。
「どうしたのじゃないですよ。今日が最後じゃないですかぁ!」
「あはは、どっか遠くに引っ越しちゃうわけでもないのに、オーバーだなぁ」
二人が息を切らしながら茜音の前に駆け込んできた。
「だって、もう学校の中で先輩見られないのは寂しくて」
「うん、わたしも寂しいよ。二人にもいろいろ心配かけたね……」
この二人は中学生の頃に茜音の存在をインターネットのSNS上で知り、その時から応援してくれていた。
高校をこの桜峰に決めたのも、茜音がいるからという理由を教えてくれたこともあった。
「本当に、遠くに引っ越しちゃったりはしないんですよね?」
二人は少し心配そうにしていた。茜音の通う短大は都内にキャンパスがあるため、横須賀から通学するのか、地元を離れてしまうことが心配のようだ。
「遠くに行くことはないかな。今のお家は出て、横浜で一人暮らしを始めるつもり。でも授業がない週末とかは帰ってくるし、お店の方にはしばらくはお世話になるから。何かあったらいつでも遊びに来てよぉ」
「はいっ、分かりました。あのぉ、なにか記念品みたいなのもらえませんか?」
「あはは、やっぱり欲しいの?」
いわゆる『制服の第二ボタン』的なものを記念品として引き継ぐのはよくある話。ただ相手が同時に二人となると、少し考えてしまう。
「そうだねぇ……。何がいいかなぁ」
しばらく自分の服装を見ていた茜音。
「じゃぁ、この2つをあげるよぉ」
制服の襟のところから、学年色が入っていないリボンタイと校章のピンを外した。
「い、いいんですか?」
二人は予想以上の品物に、逆に緊張してしまっている。
「うん。二人とも卒業まで2年あるから、使ってあげてねぇ」
「はいっ!」
「それじゃぁ、いつもありがとうねぇ。またお話ししようねぇ」
後輩の二人に丁寧に頭を下げると、手を振りながら出口へ向かった。
「おまたせぇ」
「あ、来た来た。茜音! みんな待ってるぞ」
「へぇ?」
学校の正門のところで菜都実が茜音を見つけた。
「みんな写真撮りたがってるんだからさ」
「そうなのぉ?」
校内シンデレラとなった茜音だけでなく、いつも彼女のそばにいた二人というのもいつのまにか注目されるようになっていた。
「ほらほら!」
下級生だけでなく、教師側から声をかけられていたように、昨年夏休みの結果は前年度から引き継がれていた生徒会広報によって発表されていて、全校が知ることとなった。
同時に、直後の学園祭ではこの三人を中心に、実行委員からの課題を完璧に再現した展示を作り上げたことで、クラス展示の最優秀賞をも獲得している。
このことによって、片岡・上村・近藤の三人組の実力を知らない生徒はいなくなった。
中学までいつも苦汁を飲まされていたのが嘘のような高校3年生の後半だった。
「ありがとうございましたぁ!」
何組かのクラスメイトたちとの写真を撮り終えると、もう一度感慨深げに校舎の方を振り返る。
「どうしたん?」
「うん……、いろいろあったなぁって。わたしが初めて入学式と卒業式の両方が出来た学校だからなぁって思って……」
「そうか。茜音って小学も中学も転校続きだもんね」
佳織は茜音が転出した最初の中学校に在籍していたことを知って驚いていた。
僅か1ヶ月という期間、別のクラスだったこともあって、彼女の転校だけでなく存在すら知らなかったのも仕方ない。
それでも、もし当時出会うことが出来ていたら、そして茜音があの計画を当時から発動していたら……。
一番先に賛同できたし茜音も転校せずに済んだかもしれないと思っていた。
「ねぇ、茜音のタイと校章は?」
じっと振り返っていた茜音を菜都実が引き戻す。
「うん、欲しい子がいたからあげてきたよ。予備もあるし、そっちはちゃんと取っておく」
ようやく区切りがついたのか、茜音も家路へ歩き出す。
「どうするの? 今日はお店でお祝いでしょ?」
「ここからは直行しないとね。みんな待ってるんでしょ」
卒業式のあとは、ウィンディで内祝いをすることになっていた。これまでなかなか表に出てこなかったそれぞれの両親も呼ぶことにしている。
三人の希望で、貸し切りにはしない。常連客もいることを考えると、店は結構混雑してそうな気配だ。
「気合い入れていきますかぁ」
学校で時間を食ってしまったため、予定よりも遅れて店に駆け込んだときには、他の面々は到着していた。
「遅くなりましたぁ~」
店の一角を変更し、関係者のみのお祝いとしているが、マスターをはじめ、もともとウェイトレス係の三人が関係していることもあって完全にパーティーに集中できるわけでもない。あちらこちらから呼び声がかかる。
「みんな無事に卒業おめでとう」
マスターでもある菜都実の父親が料理を出してくれる。
「そんな、やりますよぉ」
「いいよ。今日は菜都実さんもお客さんだからね」
別の声が奥から聞こえた。
「ほぇっ? 健ちゃん!?」
思いがけない声が聞こえて振り返ると、カウンターの中にエプロン姿の健が立っていた。
まさか、厨房に立って手伝いをしていたのが、この半年ですっかり茜音のパートナーとして落ち着いた健だとは、茜音も聞かされていなかった。
「今日は臨時のバイトでね。それに、茜音ちゃんがここにいるきっかけになったんだから今日この場にいる資格は十分にあるだろう?」
「はいぃ……」
入学した日に出会ってから3年間。いろいろな事件があったにせよ無事に三人とも高校を卒業し、次への進路も決まったことを祝うもの。
「合格発表の日の最初の茜音ったら、本当に今と変わらないなぁ」
「へぇ、それまだ言うのぉ?」
高校時代に菜都実と佳織が初めて茜音に出会ったことから始まり、最後の1年と最近までの思い出話に花が咲いた。
「本当にさぁ、こういう高校生活は予想しなかったな」
佳織が感慨深げに漏らした。
「茜音って、他人の人生まで変えちゃうところが凄いわぁ。悪い方じゃないからみんな納得しちゃうけど」
菜都実が奥からドリンクの氷を補充してきて続ける。
「そうかなぁ?」
「だって、この店だって2年前はこんなに繁盛してなかったよ? ねぇ?」
このウィンディは、そもそもヨット乗りや釣りのレジャーを楽しんだ後の時間をゆったり過ごせるようにと個人経営の喫茶店としては大き目の店構えだ。だから以前は一番混雑する週末でも満席になることはなかった。
しかし、最近は週末ともなると、そもそもの層以外のお客さんが増えたために満席という日も珍しくなくなった。
「本当に、茜音ちゃんと佳織ちゃんには頭が下がったよ。メニューも増やしてくれたし、茜音ちゃんの演奏のおかげで夜が忙しくなったからね」
マスターの言うとおり、二人がアルバイトに加わってからと言うもの、どちらかと言えば男性向けが多かったメニューに、甘味や軽食の種類も増やし、女性や家族連れが来店しやすいようにした。
それ以上に、店の一角に張り出されているスケジュールの日は夜まで混雑がやまない。
茜音が菜都実の妹のピアノを引き継いで始めた生演奏は、今ではすっかりこの店の名物となってしまっている。普段はフリルのエプロンを付けたマイペースの店員も、この時は別の顔を見せる。
プロからもお墨付きと言われるその腕前は、今ではピアノだけに留まらず、自宅にあったバイオリンの演奏も披露することもあり、店の雰囲気をぐっと引き締める。
この時間を目的に来客する人もいるおかげで店の売り上げは予想以上に伸びていたという。
「これで二人がいなくなると痛いんだよな」
この店が実家の菜都実はいいとして、茜音と佳織がいなくなってしまうのはウィンディにとっても大きな損失となるだろう。
「そうだねぇ。あたしは大丈夫かなぁ。茜音はどうするの?」
佳織も当面は実家から通うことになっているので、このまま続けることは問題ない。
「うーん。平日毎日は厳しくなるかもしれないですけどぉ、週末なら続けられるかなぁ」
平日は横須賀の家ではなく、横浜の実家から学校に通うことを考えている茜音。しかし、最低限の生活費などを稼がなければならないのも事実なので、日数は少なくなってしまっても仕事を続けさせてもらえるのであればありがたい。
「交通費もちゃんと出すから、いつでも来て欲しいな。こいつも喜ぶし」
マスターは菜都実の頭に手を置いた。
「はぁい。続けられる限りは頑張ります」
結局、今後の時給のアップも約束してもらい、この日も結局最後まで手伝っていくことになった。