ETERNAL PROMISE  【The Advance】




 そんな二人をずっと物陰から見ている二つの姿があった。

「なるほどぉ。こういう展開になったか……。でもここはデートでなくてもよく買い物に来ているはずなのに」

「もう、未来ちゃんたら、あの二人のデートをつけ回してどうするの?」

 通路の隅で腕組みをしていたのは、健を見送ったはずの未来だった。

「だって、気になるじゃないですか。あの二人がどういうデートしてるのか。私だって参考にしたいくらいだし。里見さんは気にならない?」

「だって、あの二人はもう決まっているようなもんだし、今さらつけ回すのも趣味じゃないし」

 もう一人、やれやれといった顔をしているのは、やはり珠実園の食事を預かる里見(さとみ)だ。


 実際問題、珠実園の中では健の彼女である茜音が登場したときから、二人のデートシーンというのはどんな感じなのかという話が良く出ていた。

 茜音が珠実園に来ているときは、なるべく二人きりになることは避け、園の仕事を手伝うことに注力しているので、なかなかこの二人が言われているような恋人モードに入っている姿は見られない。

 茜音の家に出入りすることができる未来ですらも、この二人がどのような会話をしているのかは聞いたことも無かった。


 そこで、今回の二人のデートが決まったあと、未来が中心になって、二人のデートの追跡が健に極秘で計画された。

 未来一人だけでは高校生二人の追跡をするには難しいことも考えられるし、何らかのトラブルに巻き込まれないとも限らない。茜音には健がついているからとしても、未来に誰もいないのではやはり不安だと言うことで、同行者を募ったのだが……。

『あんたもあきらめが悪いねぇ。今さらあの二人を邪魔する気?』

 意外にも一番その話題に敏感そうだった高校生の組が真っ先に辞退した。

 結局のところ、せっかく時間を超えて再会でき、幸せの絶頂にいる二人を刺激したくないというのが実際のようで、彼らと年が近いほどその傾向が強いようだった。

 その下のの中学生組にしても、茜音たちからのプレゼントをいろいろもらっていることもあって、いくら未来の頼みと言えども、素直に賛同できなかったらしい。

 そこで白羽の矢を立てられてしまったのが、茜音や健と昔からの付き合いがある里見。

 彼女もその話を持ちかけられた当初は同じように二人をつけ回すことには反対していた。

 しかしそれでも未来が諦めないところを見て、さすがに卒園者兼現職員の一人として中学生を夜まで一人歩かせるわけにはいかないと、仕方なく説得に応じたのだった。

『いい未来ちゃん、その代わり条件があるからね』

 出発前、里見は未来に言い聞かせる。

『あの二人のデート、絶対に邪魔するようなことはしてはダメ。もし少しでもそうなったら、無理矢理にでも帰るからね』

 里見の普段見られないような大まじめな雰囲気に未来も頷くしかなかった。




「それにしてもなぁ。あれ、本当にデートなのかな……」

 未来は店から出てきた二人を物陰から見ながらつぶやく。

「どういうこと?」

 里見はなぜ未来が首をかしげているのかの意図が見えていない。

「だって、デートって言ったら、もっと違うと思うんですよ」

「そうかなぁ? 私には十分デートに見えるけどなぁ。未来ちゃんにとっては違うんだ?」

 里見は不思議そうに未来を見た。

 その問いには答えずにじっと腕組みをしている。

「ほら、そんなところに立ってると見つかるわよ」

 茜音たちの二人が動き出したので、未来も慌てて建物の影に戻る。

「さぁ、次はどこに行くのかなぁ」

 その二人の後をさりげなくついていく。

 茜音はきっと横にいる健のことに夢中だろうから、どちらかと言えば注意しなければならないのは彼の方だ。

 直接二人に何かをしているわけではないが、やはりつけ回しているというのはやっている方もされている方も気持ちいいものではない。

 二人でいるときは、無防備とも言える茜音を守っていくと自負するだけのこともあって、健はかなり敏感になっている時がある。

 全ての時間ではないにせよ、やはり茜音に間接的にでも影響を及ぼすような可能性があると感じれば、その感度はもっとも高められてしまうだろう。

 そうなれば、二人が後ろにいるということくらい簡単に見抜いてしまうのではないか。

 里見としてもせっかくの二人の時間を楽しむための日であるのに、自分たちの存在がそれを台無しにしかねないと、どうやって未来をこの状態から引き離せるかを考えていた。

「新杉田方面か。このあとシーパラじゃないんだ……」

 そんな里見の心中を知ってか知らずか、オペラグラスで二人の状況を見ている。

 改札の中に消えると、彼女は駆け寄って急いで改札口にICカードをタッチして続く。

「あのね未来ちゃん。やっぱり私はこういうの賛成できないわ」

 列車が来て、一番後ろの車両に駆け込む二人。

 健と茜音が一番前に乗っているのを確認できているから、この後二人がどこに向かうのか確認しなければならない。

 未来は、里見には答えず、さっきから難しい顔をして腕組みをしている。

 京浜東北線に乗り込み、横浜方面に向かいながら、二人の様子を視界の端でとらえ続ける。

「里見さんってデートってしたことあるんですか?」

「それは私だって、これだけ生きてればデートくらいはあるわよ。その結果がどうなったかは別としてさ」

 唐突に未来に言われ、ちょっとムッとして里見が返す。

「だったら、里見さんのデートもあんな感じだったんですか? 買ってもらったりすることもなく?」

「うーん。そうねぇ。両方だったかな。でもあんまりおごられるのは好きじゃなかったな」

「そうなんですか? 普通ってそうじゃないんですか?」

「未来ちゃんの普通って、どっから来てるの? 未来ちゃんってずっと健君一筋だったから、他の人とデートなんかしたことないでしょ?」

「そうですけど……。でも、この間だって、兄さんは全部持ってくれたし、学校の友達と話していても、割り勘って聞かないし」

「そっかぁ。でも、それはお付き合いしている二人の間のお話だし、それがすべてではないと思うけどな」

 そう話しているうちに、電車は桜木町の駅に到着した。

「あ、降りるわよ」

「え? 桜木町? うーん、この辺って兄さんたちよく来るって話だけど……」

 未来は首をかしげて、改札口への階段を下りていく。

「遊びなのか買い物なのかよく分からないね」

 見失わないギリギリのところで後を追う二人。

 土曜日のお昼頃ともなれば、デートの恋人たち、家族連れ、友達同士のグループなどがたくさん集まっているので、気を抜くと見失ってしまいそうになる。

「どうやら、モールの方に行くみたいね」

「買い物とは限らないですよ。赤レンガだってあるんだから」

 横浜港のシンボルともいえるランドマークタワーや、その横にあるちょっとした遊園地の方面ではなく、以前は古びた赤レンガ倉庫くらいしかなかった周辺に出来たショッピングモールの方へ進んでいるようだ。そのモールの完成に続き、今では赤レンガ倉庫もきれいに改修され新しいスポットとして生まれ変わっている。

 茜音と健の二人は、特に迷うことなくショッピングモールの中に消えた。

「いろいろお買い物も大変だなぁ。未来ちゃん、私たちもお昼にしようか」

「そうですね」

 二人も急いで食べられるようにファストフードのお店に入って休憩することになった。





「これで買い忘れたものはもう無いかな……」

 その後、いろいろなお店に寄り、買い物を終えた二人。両手にはいくつもの袋を持っている。

「こんなにいいのかい? あれだけの服を集めたりいつも寄付でもらっているけれど、茜音ちゃんのポケットマネーなんだろ?」

「うん。それでも去年1年間の旅費に比べれば全然安いもん」

「それはそうかもしれないけど……」

「わたしはね、お金じゃ絶対に買うことができないものを手に入れることができたの。それに比べたら、このくらいは気にしないで……?」

「分かった」

「じゃぁ……、せっかくここまで来たから、ちょっとお散歩してから帰ろうよ」

 茜音は健とふたりでショッピングモールから出た。




「今度はどこに行くんだろう」

 茜音が健を誘い、話をしながらゆっくりと歩道を進んで到着したのは海に面した公園だった。

「もう夕方になるね」

「そうですね。こんなところに来て、何をする気なのかな」

 健たちはしばらく柵沿いで話し合った後、空いたベンチを見つけ、そこに座って笑っている。その近くの茂みに身を隠した未来と里美。

 今日の天気の最後を締めくくるような、春先にしては珍しいくらい澄み切った夕焼けが周囲を照らしている。

「今日は朝からずっと時間もらっちゃってごめんね」

「それは構わないよ。週末の仕事は別に特別なものがなければ大きなものはないし」

 夜間の高校に通う彼にとっては、平日の昼間は業務時間。子どもたちが学校に行っている間に、園の整備や掃除・補修作業などをして過ごしている。

「健ちゃんは偉いなぁ……。それに比べたら、わたしなんてまだまだ……」

「あんなにやってもらってまだまだなんて。茜音ちゃんの理想ってどこにあるんだろう?」

 それは健もずっと知りたかったことだ。昨年の夏から、彼女が珠実園の子供たちに与えた影響。目に見える物資だけではない。

 周囲の福祉施設間の意見交換会でも、珠実園の子供たちの様子が変わったということでも持ちきりになり、視察を受け入れることも多くなった。

 それは、隣に座っていてくれるたった一人の少女が変えてくれたものだ。

『茜音ちゃんが来てくれるようになってからよ』
 
 その意見は園内のどの職員に聞いても同じだと答える。

 この春には、年齢の規定によって卒園をしなければならないメンバーが自分を含めて何人かいる。

 昨年までは、就職先や進学を含めた進路に難儀したケースもあった。しかし、今年は一人としてそれがなく、一人ひとりが新しい目標をもって進路を決めることができた。こんなことは初めてだったから。

 『茜音ちゃんにはお礼しないとね』

 それだけの感謝を伝えたい少女は、自分の隣で「まだまだ」とつぶやいているのだから……。

「わたしには、取り戻したい空気があるんだよぉ……」

 しばらく考えていた茜音は、短くその言葉を吐き出した。





 その情景を見ていた里見が、とうとう決断した。

「未来ちゃん、帰ろう。この先は私たちが見ていていい場面じゃないから」

「そうですか?」

 未来はまだ続けたいようだが、今度は里見も譲らなかった。

「恋人同士の会話を邪魔したら、それこそあの二人でなくてもみんなに何を言われるか分からないわよ。珠実園に戻ってゴタゴタしたくなかったら、早いところ切り上げるわよ」

 里見は立ち上がって駅の方に戻っていく。

「もぉ、里見さんも強情なんだから」

 しかし一人でこの繁華街を一人で追跡するだけの勇気は未来にも無い。里見を追いかけるように未来もその場を引き上げるざるを得なかった。




『わたしには、取り戻したい空気がある……』

 茜音の言葉は、何を指すのだろう。確かに彼女は幼いころからいろいろなものを失ってきた。

 両親だけでなく、中学時代、高校時代にも近しい人をそれぞれ空へ見送っている。

 それだけじゃないはずだ。『空気』だといった。時間でも人でも場所でもない。つまり『限定していない』のではないか。

 隣に座って、港の明かりをみている茜音の手を握り、健は買い物を終えてからここに来るまでの時間を思い出していた。



「ねぇ、ここまで来たから、あの公園に行かない?」

 買い物を終えて表に出てくると、日もだいぶ西に傾いている。茜音が提案したのは、ここから歩いて30分くらいはかかってしまうような場所だったけれど、健はその提案にOKすることにした。

「気に入ったのが見つかってよかったね」

「うん。おみやげもいっぱい出来たし」

 こっちに来てから、特に探しものをしていたわけではなく、いろいろなお店を見回っているときに、茜音はさっきの服に合わせられるバッグを見つけた。

 薄クリーム色の厚手布でできていて、上の方にぐるりと水色の生地が帯のように巻いてあって、大きなリボン結びがアクセントとなっている。手提げにも肩からもかけられるようにもできる可愛らしい2ウェイバッグだ。

「あれどうだったかなぁ? ちょっとかわいすぎたかなぁ?」

「いいと思うよ。服の方が結構大人っぽくなってるから、バランスとるにはいいんじゃないかな」

「そっかぁ。春から制服がなくなっちゃうから、今度は毎日のお洋服考えなくちゃならないんだよねぇ」

「あれだけあるのに?」

 サイズ違いで着られなくなったものを除いても、茜音のクローゼットが他の女の子に比べ特に少ないというわけではない。

「うーん。そうは言っても今度は制服がないから、カジュアルなものに困っちゃうんだよぉ」

 どこまでが彼女の基準でカジュアルなのかは不明だが、健が見ていても茜音のセンスは最近の流行の先端を追いかけるのではなく、独自ではあるがしっかりしているのであまり気にすることはないと思われる。

 そんなことを話しながら、ランドマークタワーのすぐ近くに到着していた。

「ここだねぇ」

「そうだね……」

 しばし会話が途切れる。



 昨年の夏、二人が再会を果たした1週間後、茜音は人生で初めてのデートを経験した。

 一応、事前には予定とコースも二人で相談して決めていた。

 しかし、いざ顔を合わせた二人にとって、予定していたコースは意味をなさなかった。

 観覧車や遊覧船に乗ったあとは、ひたすら話し続けた。

 それまでの時間を取り戻すかのように、二人は飽きもせずにお互いのその後を報告しあった。

 その日の最後、港が見えて少し静かなところを探し歩いて見つけたのがこの公園だ。




「あのときと同じだね……」

 当時と違い、まだ夕焼けの残る空。海に面した柵に寄りかかり、茜音は健の腕に触れた。

「まだ半年しか経ってないんだねぇ」

「そうだね。長かったのか短かったのかよく分からないよ」

「うん、わたしも……。同じこと思ってた。色々あったなぁって」

 二人の初デートの余韻が残る翌日、片岡の両親の計画で、彼女は正式に健を家族に紹介することになった。

「あのときにさぁ、茜音ちゃんをお願いしますって、頭下げられて、どう返したらいいかちょっと困っちゃったんだけどね」

「そうだねぇ。それじゃぁ結婚を申し込みに行った時みたいだよねぇ。でも逆かぁ」

「そうだね。また時期が来たら、今度は本番かな」

「あはは。うん、うちは相手が健ちゃんなら、時期は二人で決めなさいって言われてる。わたしも待ってるしぃ。それに……もう待ちたくない……」

 二人が再会して、僅か半年と少ししか経っていない。それにしてはこれまでの10年間にも勝るとも劣らないたくさんの出来事が二人の間に起きた。

「でも、楽しかったよぉ。二人になるって、こんなに安心できるんだって分かった」

「僕もそう思う。ようやくこれで僕も一人じゃなくなったんだなって思って、ホッとしたって言うのかな。茜音ちゃんがああいう中で本当によく無事でいてくれたって言うか……ね。ありがとう。頑張ってくれて」

 健は一人での生活とはいえ、珠実園という中で育ってきた。確かに思春期の微妙な時期ではあったものの、そこは同じような施設の仲間たちがまわりにいたおかげで、周りが思うほど人一倍苦労してきたとは彼自身あまり感じていない。

 しかし、知れば知るほど茜音のこの10年間は、彼女にとって過酷だったと彼は思った。

 事故の記憶は表面上は消えても心の深層からはなかなか消えることは出来ない。

 片岡家に引き取られてからも、新しい小学校、中学校に進んだところでは、必ずそのことは蒸し返され、実の両親がいないことを理由にたびたび苦労を重ねてきていた。

 一度入学した地元の中学校にはなじめず、僅か1ヶ月で転校を余儀なくされたという。


 年末の大掃除の時、茜音はその時の制服を発見した。

 まだ真新しい冬服。一度も袖を通すことが出来なかった新品の夏服。片岡夫妻はそれらを処分せずにこの家に大切に保管しておいてくれた。

『これ、着られなかったんだよ……』

 試着してみたところ、ほとんど当時から身長も変わっておらず、中学生という伸び盛りの時期を持たせるために少し大きめに作ったこともあり、今でもほぼぴったりに着られた。

『ごめんねぇ、着てあげられなくて……。わたしが弱虫だったから、ごめんね……』

 彼女なりに悔しかったのだろう。もう一度大事そうにクローゼットに戻しながら、茜音はポロポロと涙が止まらなかった。

 健の提案で、夏服のセーラー服はともかく、ブレザーの冬服ならブラウスやベスト、スカートならば使えるのではないかということで、茜音はそれに合う服を探したり、服のことならと、すっかり親友となった萌とリメイクの相談もしているという。




「本当はね、卒業した中学でもあった。でも、もうお父さんたちにも心配させられなかったから。何があっても我慢した……。健ちゃんとの約束もあったから泣かなかった。いつも自分を押し殺してた。わたし、また話せなくなっちゃった……。高校に入って、菜都実と佳織に会うまで、わたしは、本当にダメな子だったんだよ……。あのままだったら、きっと健ちゃんにも見捨てられていたかもしれない」

 残っている当時の写真もいくつか見せてもらった。

 確かに茜音の笑顔の写真は高校に入ってから。でも、自分が見ると、表面上では笑っていても、どことなくいつも寂しそうな影を感じる。

「でも、それはわたしが本心からのものではなかったと思う……。健ちゃんに会えて、ようやくわたしは本当のわたしに戻れたのかもしれないよ」

「それは、佳織さんたちも言ってたね。あの日を境に茜音ちゃんが変わったって。顔がこれまでよりも優しくなったって。今が本当の茜音ちゃんの姿なんだね」

 正確に言えば、それが正しくない表現であることも分かっている。

 「両親は自分に音楽の技術を教えることはなかった」と茜音は言う。それでも、間違いなく持っているであろう絶対音感や、演奏や歌唱の才能を自然に植え付けた両親を失ったところから、彼女の人生は元に戻ることはなくなっているからだ。


「もう、疲れ果てて無理は出来なくなってた……。だから、本当にあの時はもう一人じゃ生きていけないって本当だったよ。川に落ちてだんだん眠くなっていく時に思ったの。これで楽になれるかなって……。パパとママのところに行けるって。でも、きっとパパとママがまだ来ちゃいけないってわたしを追い返したんだよね」

 茜音はそこで自然と腰を下ろしていたベンチから立ち上がり、彼の目の前でふわりと回って見せた。昔から変わらない嬉しいときの彼女の癖。

 桜色のブラウスに白く柔らかい毛糸のカーディガン。紺と濃緑とエンジのチェックのプリーツ入りミニスカートと紺のハイソックス。彼女にしては最近の流行りにまとめた方だ。

 そのミニスカートが回転に合わせふわりと持ち上がる。太ももの上の方まで持ち上がったとき、健は思わずそれ以上は見てはいけないと思って目をつぶった。

「えへへ。健ちゃんなら見えちゃってもいいのにぃ。これだけ暗くなれば他の人からは見えないよ」

「でもさ……」

「こういうことが出来るのも、きっと神様がくれた奇跡なんだよぉ」

 近づいてきた茜音のダークブラウンの大きな瞳は優しそうに笑っていた。

 幼い頃から変わらない。この瞳を自分の手に取り戻すことは無理なのではないかと一時期思っていたこともある。家庭に引き取られているにも関わらず、彼女は全力をかけて約束を守って……、自分に会いに来てくれた。

「そうだね。奇跡だね。僕たちが最初と再び出会えたこともみんな……」

「うん。ね、ランドマークに上らない? きっときれいだよぉ」

「うん、賛成だ」

 健もベンチから立ち上がり、ちらっと後ろを見る。最初そこに居たであろう気配は既に消え去っていた。




 展望台直行のエレベーターに乗り、展望室に向かう。

 夕焼けの時間も終わり、小さい子や家族連れなども引き上げたあとは、昼間とは少し変わった落ち着いた雰囲気に変わる。

 その場にいる人たちの会話も小声で隣にいるパートナーに伝わるくらいのトーンになっている。

 その目の前に広がる景色は、港町の夜景からずっと続く光のイルミネーションだ。

「きれいだねぇ……」

 横浜港から左右に広がる東京湾、右手の奥の方には茜音が通う櫻峰高校もある横須賀も見通せる。海の反対側に回ると、意外に丘陵地帯が多い横浜市の住宅街が続く。明るく晴れていれば箱根はもちろん富士山まで見通せる。

 そんな夜景を見ながら展望台を一回りすると、港の景色が見下ろせるところにベンチが空いていた。

「ここでいいかな」

「うん」

「ちょっと、なにか温かいもの買ってくるよ。待っててくれる?」

「わかった。先に帰っちゃヤダよ?」

 小さい子供のように心配する茜音に、健は笑って頷いた。




「健ちゃん、本当に今日は無理言ってごめんね……」

「何にも無理してないよ? どうしたの茜音ちゃん?」

 ベンチに戻り、缶のホットココアを渡したところで、さすがに疲れたのか茜音は少しトーンを落として健に話した。

「だって、今日は本当なら未来ちゃんの日だったのに……」

「気にしてる? いいんだ。あの子にはもう僕があまりそばにいない方がいい」

「え?」

 隣を見上げると、彼の目は真っ直ぐ茜音に向けられていた。

「だって、僕には茜音ちゃんがいる。それは未来ちゃんにもはっきりと言ったことだし。あの子は僕から独立していって欲しいんだ。だから、僕のそばにはあまりいない方がいいんだよ」

「未来ちゃん、寂しがってる。わたし分かるの……」

「でもさ、それで茜音ちゃんはいいのかい?」

「うん……。今日だって、きっと我慢できなかったんだと思うよ」

「気がついてたんだ?」

 今さらながら、あれだけはしゃいでいた茜音が尾行していた未来の存在を把握していたことに驚く。

「帰って、きつく言っておくよ」

「ううん、それはしなくていい。こうやって最後は二人きりになれたから……」

 ふと健にもたれかかった茜音の身体に力がなかった。

「茜音ちゃん?」

 缶を落としそうになった手を握るとハッとした。

 慌てて額に手を当てると、あきらかに熱い。落とされた照明のもとでも、茜音の顔が赤くなっているのが分かる。

「いつから?」

「朝くらい、かな。お昼にお薬飲むの忘れちゃって。効き目が切れちゃったんだね……」

 さっきまでとは違い、笑う声も弱々しい。

「なんでそんな無理をしてまで……」

「だって……。わたしもずっと楽しみにしてたんだもん。健ちゃんとのデートだったから……」

「そんなの、いつだって出来るよ。さ、急いで帰ろう」

「うん。今日はこっちのお家に帰ることにしてるから……。お財布の中に鍵が入ってる……」

「大丈夫なのか?」

 茜音は頷いたが、ふらついて満足に歩けるような状態ではない。それに、自分の鍵の在りかを教えることは、このあとあまり長くは持たないということを伝えているのだと。

 どっちにせよ、ここからなら横須賀の家よりも横浜市内にある茜音の生家の方が近い。

 これまで運び込んだものを思い出して、病人を介抱をするための基本的な用意も整っている。彼の決断は早かった

「電車は無理だな。もう少しだ、しっかりするんだ茜音ちゃん」

 健はエレベーターを降りると、茜音の肩を持つようにしてタクシー乗り場へ急いだ。




 気がつくと、窓からは明るい朝日が入ってきている。

「あれぇ……」

 小さく声を出すと、茜音の母親が振り向いた。

「気がついた?」

「おかぁさん。どうしているの……?」

 この部屋は間違いなく自分の家で、寝かされているのも茜音のベッドだ。

「健君がね、連絡してくれたの。私が着くまで茜音の看病してくれていたのよ。さっきお医者さんにも来てもらって、注射打ってくれたから。薬も出してくれて今日いっぱいは安静にしていなさいって」

 言われてみれば、左腕に小さな痛みが残っている。枕元には薬の袋も置かれていた。

「先生、びっくりなさってたわよ。あんなちっちゃかった茜音がこんなに大きくなったのかって」

 思い出す。この家にいた当時も茜音はよく風邪を引いた。でも、両親の仕事柄やギリギリまで我慢してしまう茜音の性格も手伝い、気づくのは茜音がダウンしてからのことが多かった。

 夜中に急診に駆け込んだり往診にきてもらったりも多かったので、覚えていてくれたのだろう。

 当時世話になっていた病院の名前は電話台のところに張ってあったので、それを見て連絡してくれたようだ。

「そっかぁ……。健ちゃんは?」

 最後にはっきりと覚えているのは、朦朧として身体が動かなくなってしまった自分を抱えてタクシーに乗せてくれたところまでだ。

 その後は一体どうなったのか。きっと心配しながらここまで運んでくれたに違いない。

「私が来たから、ちょっと用事があるって出て行ったわよ。でも、もうすぐ戻るって連絡があったけど」

「そっかぁ。それじゃぁ安心だぁ」

「もぉ、この子は。そうよね、私より彼の方が茜音にはいいお薬よね」

 図書館の仕事をしている彼女は、日曜日でも当番があるため、茜が目を覚ましたことを確認すると部屋を出て行った。

 お気に入りの窓から清々しい風が入ってくる。昨日と同じように暖かい日になるそうだ。

「健ちゃんに謝らなくちゃ……」

 せっかくのデートの最後があれでは、健になんと弁解していいか分からない。

 朝から調子が悪いのは気がついていたけれど、まさか途中で気を失うようなことになるとは予想していなかったから。自己管理ミスは素直に反省しなければならない。一緒にいてくれたのが彼だったのがせめてもの救いだ。

 表に車の音がして、しばらくして部屋の扉が開いた。

「よかった。目が覚めたんだ」

「健ちゃん……」

「そのまま。うん、顔色もだいぶ戻ったみたいだね。本当によかった」

 起きあがろうとする茜音を制し、いつもと変わらない優しい顔で覗きこむ。

「昨日の買い物がロッカーに入ったままだったから取りに行ってきたんだよ。僕の分も入ってたからね」

 見覚えのある袋を持ってきてくれていた。

「そっか。ありがとぉ。そこに置いてくれればいいよ」

 健も昨日はそんなことはすっかり忘れていた。とにかく茜音を無事に寝かさなければと思いここまで抱きかかえてきたのだから。

「……健ちゃん。ごめんなさい……」

「いいんだ。元気になれば、いつでもやり直せるから。茜音ちゃんの身体が一番大事だよ」

「そうだよね。ありがとうね」

 薬のせいか、彼の顔を見て安心したのか、茜音にまた睡魔が襲ってくる。

「茜音ちゃん。早くよくなって、また行こうな」

 健が濡らしたタオルを額に乗せなおしたときには、茜音は再び小さい寝息を立てていた。



 昔と変わらないこの部屋の天井。

「ママ、まだいないの……?」

 目覚めた茜音の声は小さくて、部屋の外には聞こえていないようだ。

 窓から差し込んでくる光には、彼女の名前と同じく茜色が混じっている。

 朝、突然熱を出した茜音は、幼稚園をお休みした。

 しかし、両親にはどうしても外せない音合わせのリハーサルがあるとのことで、茜音が困らないようにお昼ご飯などを用意し、早く切り上げてくることを約束して出かけていった。

 薬が効いていて、さっきまで熟睡できていたせいか、身体は楽になっていた。それでも茜音はじっと寝ていなければならないという言いつけを守っていた。

「なんにも聞こえないの、いやだよぉ」

 シンと静まり返った家の中の沈黙に耐えきれなくなり、たたんであったショールを肩からかけて窓の下にある台によじ登る。

 高台にあるこの家の正面2階にある茜音の部屋の窓からは住宅地と少し離れた市街地の一部が見える。その日の天候や時間によって街の色が変わる。この景色が好きで茜音はずっとここを遊び部屋にしてきた。

 そして幼稚園の年長になった今年の春、ようやく自分の部屋として与えてもらえた。それまでは夜も家族三人で川の字になっていたのを、彼女専用のベッドを入れてもらい、来年の小学校入学に備えてと机も先日入った。

 しかし、その「自分の部屋を持つ」状況が逆に彼女の寂しさを膨らませる結果となってしまった。

 同じ部屋に他に誰も寝ていないことから、恐がりの茜音は部屋を完全に暗くすることが出来なくなった。

 近くのコンセントに常夜灯を付けてもらったとしても、まだ夜になっていないこの時間にもかかわらず部屋に一人ぼっちになっている。

 これまでは共通の部屋だったから、両親が帰ってくれば真っ先に茜音のことを気づいて声をかけてくれた。しかしこれからはそうは行かない。

 この部屋に入ってこようという行動がなければ、茜音は大好きな二人の顔を自分から探さなくてはならない。

「うぅぅ……」

 少しずつ暗くなり、灯りがつき始めたまわりの家々。しかしこの家はまだ暗いままだ。

 急に寂しさがこみ上げて、再びベッドに戻る。

「ママぁ、パパぁ……」

 何度もつぶやくが、家の中にある物音は彼女が発するものだけだ。

「ママ……」

 その1時間後、練習を途中で切り上げ先に帰宅した母親が家に帰って真っ先に開けた部屋は、愛娘が一人留守番をしていてくれた場所。

 常夜灯の薄明かりの部屋の中、彼女は布団の中で膝を抱え小さくうずくまり、泣き疲れて眠っていた。

「茜音……」

 平熱まで下がっているのを確認して、一度身支度を整えてくると、その夜は茜音のベッドで一緒に休む。

 翌朝、目を覚ました茜音がその状況に気づいて1日甘えていたのは言うまでもない。