ETERNAL PROMISE  【The Advance】




 週末の朝、健が部屋で出かける用意をしている後で部屋のドアが開いた。

「おぉ、兄さん出かける準備してるのね」

「あぁ、おはよう。今日は2月にしては暑いから困っちゃうな」

 健が壁に掛かっている服と天気予報を見ながら悩んでいる。

「そっか。今日はコートも要らないみたいだもんね」

 この日は2月末だというのに、4月並みの最高気温だとのことで、何を着ていけばいいか困ってしまう。

「帰りは遅いの?」

「その辺は決まってないな」

「ふーん。夜もあんまり寒くならなさそうだしね」

 しばらく二人で悩んだ挙句、どうにか無難に落ち着かせた頃には、茜音との待ち合わせ時間に間に合う電車まであまり残っていなかった。

「いけねっ。じゃ行って来る」

「はーい。いってらっしゃい」

 駄々をこねると見ていた未来があっさり玄関で見送ったので、健は少し拍子抜けながらも駅までの道を急いだ。



「さてとぉ、私も急がなくちゃ」

 そんな健の後姿を見送ると、未来は急いで自分の部屋に引き返し、用意してあったコートとリュックをつかみ、後を追うように玄関を飛び出していった。




 この日の茜音との待ち合わせ場所はお互いの地元ではなく、途中の駅にしていた。

 やはり予定より数分遅れてしまった健が階段を駆け下りていくと、改札前で心配そうな顔をして見上げていた茜音に笑顔が戻った。

「ごめんごめん。出るのが遅れちゃって」

「いいよぉ。ちゃんと連絡くれたし、無事に着いてくれたから」

 途中で茜音の連絡先にメールを送っていたから、遅れていることは分かっていたはず。それでも到着するまでは無事を祈っている性格の持ち主が茜音だ。

「さ、行こうか」

「うん!」

「どっちから先に行こうか」

「そうだねぇ。まだ時間も早いし、アウトレットから先に行こうか」

 シーサイドラインの乗り場には同じような二人組が多く見られた。

 昨日の夜までどこに行くかは全く決めていなかった二人。せめて集合時間と場所を決めようと電話で話したとき、茜音はいくつかの場所をあげてきた。

 そのうちの最初の1カ所は、自動運転の列車に乗って駅1つ目。そこから歩いて10分ほどのアウトレットモールだった。

「まだ時間が早いから空いていてラッキー」

 ベイサイドにあるアウトレットパークは約170近い専門店が並ぶ場所で、その中には茜音がよく服を買うブランドの店などもある。当然アウトレットという性質上、いつも欲しいものがあるわけではないけれど、菜都実や佳織などと一緒によく訪れる。

「健ちゃん、もし退屈になったら外にいていいからね?」

「大丈夫。僕も茜音ちゃんの好みは知っておかなくちゃ」

「そっかぁ」

 普段から佳織や菜都実と来ていることも多いから茜音が入る店は決まっている。


 女性向けの衣料品店は男性一人だけではなかなか敷居も高いけれど、一緒に入るというならば話は別だ。

 もともとアウトレットという場所柄、若いカップルでの来店も多い。だから茜音が健と服を選ぶときは専門店や個別立地のお店よりも、このような少しカジュアルな雰囲気の場所にある店舗を選ぶことが多かった。

『なにを今さら言ってるの。茜音流の気配りでしょうが?』

 以前、ウィンディでそんな話をしたところ、菜都実から突込みが入ってしまった。

「やっぱ茜音ちゃんにはかなわないなぁ」

「うん?」

「ううん、なんでもないよ」

 思わず出てしまったつぶやきを引っ込める。

 目の前で楽しそうに品定めをしているのは、そんな気配りをしているとは微塵にも感じさせない、どこにでもいる普通の女の子にしか見えないのだから。





「健ちゃん、この上下の組み合わせどうかなぁ?」

 店内を見て回る中で、茜音が見つけたのはショーウィンドウに展示されていたサンプルだった。

 大きく胸元まで緩やかなカーブに開いた水色で薄手のカットソーと、その上に重ねるニットカーディガンのセット。

 白い膝丈のスカートはウエストに近い部分に何本ものタックが入っていて、その下はフレアスカートのように軽くふわっとしているデザイン。春先から初夏にかけての着こなしにはぴったりの装いだ。

「もう少し暖かくなったら普通に着られるかもね。試着してみたら?」

「そうだねぇ」

「あら、いらっしゃいませ」

 そんな二人を見かけて、店員が話しかけてきた。

「あ、こんにちはぁ。あの、あれ試着できますかぁ?」

 何度も来ているだけあって、店員とも顔なじみらしく、茜音は展示を指さして聞いている。

「さすが、よく気がつきましたね。これ、昨日入った春の新作の先行品なのでお安いんですよ。もしサイズが合えばお得かもしれないですね」

 彼女はそういってショーウィンドーから取り出して茜音に渡してくれた。

「うん! じゃぁ行ってきます~」

 荷物を健に持たせて、試着室に持ち込む。


「茜音ちゃんの力は凄かったよなぁ……」

 珠実園の子たちの衣料品の購入に同行したりもする健だけれど、限られた予算の中で枚数を買わなければならない現実では、茜音と同じようにお洒落をさせてあげたくても限度がある。

 特に小学高学年以上になると、男子はともかく、女の子らしくしたいという口に出来ない思いがあることも分かっているから、なんとかしたいと思っていた。


 昨年の秋口にそのことを茜音に話したところ、サイズが合わなくなって着られなくなってしまったものを含め、佳織、菜都実からも「みんなが気に入ってくれるなら、遠慮なく使って」とダンボール十数箱にもギッシリ詰まった衣類を提供してくれた。

 突然届いたあまりの量にその出所を聞くと、あの旅の中で知り合ったメンバーにも男女問わずに声をかけてくれていたとのこと。それを一つ一つ点検し、洗濯や染み抜きまでしたうえで男女別やサイズごとの分別、冬着だけでなく来年まで保管の夏物には防虫剤などを入れて用意してくれたのだとわかった。

 特に高知の千夏(ちなつ)、横浜の大竹姉妹の妹、(もえ)は茜音に近い嗜好の服も多かったことから、男子向けだけでなく、女子向けのバリエーションを一気に増やすことができたのが大きく、珠実園の周囲の住民からも、どこか大きなスポンサーが現れたのかと冗談混じりで言われるほどの変化だった。

 提供してくれたものはサイズや好みなどで振り分けたけれど、特に先の三人が提供したものは争奪戦で、サイズごとに公平にくじ引きにしたほどで、まだ十分なストックもある。茜音がおしゃれ着の洗濯の方法を教えてくれただけでなく、萌と一緒になって小さな補修もしてくれるようになったから、一着を使える期間も飛躍的に延びた。

 服だけでなく靴なども程度のいいものだけでなく、補修されたものまで提供されたことから、その分の予算を学用品などの必要な部分に回すことが出来る。

「そっかぁ、どんどん普段使いに着てくれていいんだけどねぇ。まだ出せるものはあると思うよ」

 そのことを知った茜音は、珠実園での手伝いの時に笑って言った。

 そのときになって分かったことだったが、茜音の服というのは数の多さもさることながら、その質も良くてリユースと言ってもまだ十分に使えるものがほとんどだった。

 しかし、彼女とて費用が無尽蔵にあるわけではなく、自身のアルバイトの給料の中からの貯金を使っている。

 その一方で、欲しいものがなかったり、お金が足りないときは生地を買って萌と一緒に自分で仕立てると言うのが彼女のレパートリーの多さの秘訣らしい。

『今年は時間がなかったから、1シーズンでダメにしてもいいから、遅くなってごめん!』

 そう言って12月に渡された子どもたち全員そろいの冬場のマフラーは、萌と茜音の合作だという。両者とも推薦入学試験が終わった後に、手芸用の編み機を持っていた萌と、ミシンを持ち込んだ萌が茜音の家に泊まり込んで仕上げた。各自のネームまで入っているその高速技には職員みんなで舌を巻いたものだ。




「ほらぁ、結構いいよぉ」

 試着室のカーテンが開き、上機嫌で出てくる茜音。

 今日は襟付きの桜色のシャツを着ていたのだが、それも含めて全着替えをしたようだ。恐らく実際に着るときには頭から足の先まで合わせてコーディネートしてくるだろう。

 この服は茜音の選択としては珍しく大人っぽさを強調した方だが、自然な感じで似合っているし、なによりも嬉しそうに鏡の前で1回転しているのを見れば、健としてはダメ出しをするつもりはない。

 それに、普段は可愛らしさを前面に出すことが多い彼女が、妙に大人っぽく、若々しい女性の色香まで感じさせてしまったことに、彼は驚きを隠せなかった。

 思わず、その姿に見とれてしまう。

「健ちゃん!? 見てくれてるぅ?」

 茜音のちょっと拗ねたような声に我に返る。

「えっ? う、うん、似合う似合う。いいんじゃないかな?」

「そうだねぇ。じゃぁ決める!」

 再び試着室に戻って元の服に着替えている間、健は店の外を何となく眺めていた。

「あれ……?」

 健が気がついたのは、見たことのある二人が物陰で話しているところだった。

「まったく……、つけてきたのか」

 さっき、出掛けに自分を見送っていたはずなのに。パンフレットを見ているその人物は恐らく誰かに借りたのであろう大きめのコートを着て深めに帽子をかぶっている。他人のふりをしているのだろうが、十数年の付き合いとなる彼の目はごまかせない。


 そこでようやく今日のことを未来が必要以上にゴネなかったことに合点がいった。

「ま、仕方ないか」

 そのことは、茜音には知らせないことにしようと思った。もし気づいてしまったらその時だ。

「買ってきたよぉ」

 茜音が嬉しそうにお店の袋を抱えて立っていた。

「気に入ったのがあってよかったね」

「うん。どうかしたの?」

 健が店の外を眺めていたのを不思議そうに聞く。

「いや、別になんでもない……」

「変なのぉ」


 その後、健のリクエストにあった靴を買っている間に、茜音も自分の靴を買い足して、このアウトレットでの買い物は終わりになった。

「ふぅ、結構買っちゃったなぁ。健ちゃんも気に入ったのがあってよかったねぇ」

「茜音ちゃん、靴を買う予定なんかなかったよね?」

「うん。せっかくお洋服買ったからぁ、それに合うのを買っちゃおうと思ってぇ」

 茜音は嬉しそうに袋から箱を出して見せてくれた。ローヒールの靴は茜音も何足か持っている。今回選んだのはアイボリーホワイトのパンプス。珍しいストラップが可動式になっていて、足の甲側に出ないように設定することもできる。

 茜音の靴でストラップなしで使用するタイプは非常に少ない。何度も試して脱げないことを確認して、なおかつ2ウェイで使用できるものを選んだことからも、彼女には冒険と安全の両方の策を取ったようだ。

「せっかくねぇ、服を普段より少し大人っぽくしてみたから、合わせてみたいなぁって思ってねぇ。多分次のデートの時に使ってみるよぉ」

 さっき試着したときの姿を思い出す。いつも見慣れている年下に見える雰囲気は消え、茜音が持つ本来の歳相応の魅力にあらためて気づかされた。

 この春からは短大で保育や介護を学ぶことになる彼女も、新しいイメージを作り出そうとしているのかもしれないと思った。

「少し休んでから次行こうか」

「そうだねぇ。でも荷物どうしよぉ?」

「駅のロッカーにでも入れておけばいいんじゃないかな」

「うん、それでいいやぁ。お腹も空いたし~」

 二人は立ち上がって駅の方に歩き出す。

 健はもう一度振り返ってみたが、さっきの二人の姿は見られなかった。




 そんな二人をずっと物陰から見ている二つの姿があった。

「なるほどぉ。こういう展開になったか……。でもここはデートでなくてもよく買い物に来ているはずなのに」

「もう、未来ちゃんたら、あの二人のデートをつけ回してどうするの?」

 通路の隅で腕組みをしていたのは、健を見送ったはずの未来だった。

「だって、気になるじゃないですか。あの二人がどういうデートしてるのか。私だって参考にしたいくらいだし。里見さんは気にならない?」

「だって、あの二人はもう決まっているようなもんだし、今さらつけ回すのも趣味じゃないし」

 もう一人、やれやれといった顔をしているのは、やはり珠実園の食事を預かる里見(さとみ)だ。


 実際問題、珠実園の中では健の彼女である茜音が登場したときから、二人のデートシーンというのはどんな感じなのかという話が良く出ていた。

 茜音が珠実園に来ているときは、なるべく二人きりになることは避け、園の仕事を手伝うことに注力しているので、なかなかこの二人が言われているような恋人モードに入っている姿は見られない。

 茜音の家に出入りすることができる未来ですらも、この二人がどのような会話をしているのかは聞いたことも無かった。


 そこで、今回の二人のデートが決まったあと、未来が中心になって、二人のデートの追跡が健に極秘で計画された。

 未来一人だけでは高校生二人の追跡をするには難しいことも考えられるし、何らかのトラブルに巻き込まれないとも限らない。茜音には健がついているからとしても、未来に誰もいないのではやはり不安だと言うことで、同行者を募ったのだが……。

『あんたもあきらめが悪いねぇ。今さらあの二人を邪魔する気?』

 意外にも一番その話題に敏感そうだった高校生の組が真っ先に辞退した。

 結局のところ、せっかく時間を超えて再会でき、幸せの絶頂にいる二人を刺激したくないというのが実際のようで、彼らと年が近いほどその傾向が強いようだった。

 その下のの中学生組にしても、茜音たちからのプレゼントをいろいろもらっていることもあって、いくら未来の頼みと言えども、素直に賛同できなかったらしい。

 そこで白羽の矢を立てられてしまったのが、茜音や健と昔からの付き合いがある里見。

 彼女もその話を持ちかけられた当初は同じように二人をつけ回すことには反対していた。

 しかしそれでも未来が諦めないところを見て、さすがに卒園者兼現職員の一人として中学生を夜まで一人歩かせるわけにはいかないと、仕方なく説得に応じたのだった。

『いい未来ちゃん、その代わり条件があるからね』

 出発前、里見は未来に言い聞かせる。

『あの二人のデート、絶対に邪魔するようなことはしてはダメ。もし少しでもそうなったら、無理矢理にでも帰るからね』

 里見の普段見られないような大まじめな雰囲気に未来も頷くしかなかった。




「それにしてもなぁ。あれ、本当にデートなのかな……」

 未来は店から出てきた二人を物陰から見ながらつぶやく。

「どういうこと?」

 里見はなぜ未来が首をかしげているのかの意図が見えていない。

「だって、デートって言ったら、もっと違うと思うんですよ」

「そうかなぁ? 私には十分デートに見えるけどなぁ。未来ちゃんにとっては違うんだ?」

 里見は不思議そうに未来を見た。

 その問いには答えずにじっと腕組みをしている。

「ほら、そんなところに立ってると見つかるわよ」

 茜音たちの二人が動き出したので、未来も慌てて建物の影に戻る。

「さぁ、次はどこに行くのかなぁ」

 その二人の後をさりげなくついていく。

 茜音はきっと横にいる健のことに夢中だろうから、どちらかと言えば注意しなければならないのは彼の方だ。

 直接二人に何かをしているわけではないが、やはりつけ回しているというのはやっている方もされている方も気持ちいいものではない。

 二人でいるときは、無防備とも言える茜音を守っていくと自負するだけのこともあって、健はかなり敏感になっている時がある。

 全ての時間ではないにせよ、やはり茜音に間接的にでも影響を及ぼすような可能性があると感じれば、その感度はもっとも高められてしまうだろう。

 そうなれば、二人が後ろにいるということくらい簡単に見抜いてしまうのではないか。

 里見としてもせっかくの二人の時間を楽しむための日であるのに、自分たちの存在がそれを台無しにしかねないと、どうやって未来をこの状態から引き離せるかを考えていた。

「新杉田方面か。このあとシーパラじゃないんだ……」

 そんな里見の心中を知ってか知らずか、オペラグラスで二人の状況を見ている。

 改札の中に消えると、彼女は駆け寄って急いで改札口にICカードをタッチして続く。

「あのね未来ちゃん。やっぱり私はこういうの賛成できないわ」

 列車が来て、一番後ろの車両に駆け込む二人。

 健と茜音が一番前に乗っているのを確認できているから、この後二人がどこに向かうのか確認しなければならない。

 未来は、里見には答えず、さっきから難しい顔をして腕組みをしている。

 京浜東北線に乗り込み、横浜方面に向かいながら、二人の様子を視界の端でとらえ続ける。

「里見さんってデートってしたことあるんですか?」

「それは私だって、これだけ生きてればデートくらいはあるわよ。その結果がどうなったかは別としてさ」

 唐突に未来に言われ、ちょっとムッとして里見が返す。

「だったら、里見さんのデートもあんな感じだったんですか? 買ってもらったりすることもなく?」

「うーん。そうねぇ。両方だったかな。でもあんまりおごられるのは好きじゃなかったな」

「そうなんですか? 普通ってそうじゃないんですか?」

「未来ちゃんの普通って、どっから来てるの? 未来ちゃんってずっと健君一筋だったから、他の人とデートなんかしたことないでしょ?」

「そうですけど……。でも、この間だって、兄さんは全部持ってくれたし、学校の友達と話していても、割り勘って聞かないし」

「そっかぁ。でも、それはお付き合いしている二人の間のお話だし、それがすべてではないと思うけどな」

 そう話しているうちに、電車は桜木町の駅に到着した。

「あ、降りるわよ」

「え? 桜木町? うーん、この辺って兄さんたちよく来るって話だけど……」

 未来は首をかしげて、改札口への階段を下りていく。

「遊びなのか買い物なのかよく分からないね」

 見失わないギリギリのところで後を追う二人。

 土曜日のお昼頃ともなれば、デートの恋人たち、家族連れ、友達同士のグループなどがたくさん集まっているので、気を抜くと見失ってしまいそうになる。

「どうやら、モールの方に行くみたいね」

「買い物とは限らないですよ。赤レンガだってあるんだから」

 横浜港のシンボルともいえるランドマークタワーや、その横にあるちょっとした遊園地の方面ではなく、以前は古びた赤レンガ倉庫くらいしかなかった周辺に出来たショッピングモールの方へ進んでいるようだ。そのモールの完成に続き、今では赤レンガ倉庫もきれいに改修され新しいスポットとして生まれ変わっている。

 茜音と健の二人は、特に迷うことなくショッピングモールの中に消えた。

「いろいろお買い物も大変だなぁ。未来ちゃん、私たちもお昼にしようか」

「そうですね」

 二人も急いで食べられるようにファストフードのお店に入って休憩することになった。





「これで買い忘れたものはもう無いかな……」

 その後、いろいろなお店に寄り、買い物を終えた二人。両手にはいくつもの袋を持っている。

「こんなにいいのかい? あれだけの服を集めたりいつも寄付でもらっているけれど、茜音ちゃんのポケットマネーなんだろ?」

「うん。それでも去年1年間の旅費に比べれば全然安いもん」

「それはそうかもしれないけど……」

「わたしはね、お金じゃ絶対に買うことができないものを手に入れることができたの。それに比べたら、このくらいは気にしないで……?」

「分かった」

「じゃぁ……、せっかくここまで来たから、ちょっとお散歩してから帰ろうよ」

 茜音は健とふたりでショッピングモールから出た。




「今度はどこに行くんだろう」

 茜音が健を誘い、話をしながらゆっくりと歩道を進んで到着したのは海に面した公園だった。

「もう夕方になるね」

「そうですね。こんなところに来て、何をする気なのかな」

 健たちはしばらく柵沿いで話し合った後、空いたベンチを見つけ、そこに座って笑っている。その近くの茂みに身を隠した未来と里美。

 今日の天気の最後を締めくくるような、春先にしては珍しいくらい澄み切った夕焼けが周囲を照らしている。

「今日は朝からずっと時間もらっちゃってごめんね」

「それは構わないよ。週末の仕事は別に特別なものがなければ大きなものはないし」

 夜間の高校に通う彼にとっては、平日の昼間は業務時間。子どもたちが学校に行っている間に、園の整備や掃除・補修作業などをして過ごしている。

「健ちゃんは偉いなぁ……。それに比べたら、わたしなんてまだまだ……」

「あんなにやってもらってまだまだなんて。茜音ちゃんの理想ってどこにあるんだろう?」

 それは健もずっと知りたかったことだ。昨年の夏から、彼女が珠実園の子供たちに与えた影響。目に見える物資だけではない。

 周囲の福祉施設間の意見交換会でも、珠実園の子供たちの様子が変わったということでも持ちきりになり、視察を受け入れることも多くなった。

 それは、隣に座っていてくれるたった一人の少女が変えてくれたものだ。

『茜音ちゃんが来てくれるようになってからよ』
 
 その意見は園内のどの職員に聞いても同じだと答える。

 この春には、年齢の規定によって卒園をしなければならないメンバーが自分を含めて何人かいる。

 昨年までは、就職先や進学を含めた進路に難儀したケースもあった。しかし、今年は一人としてそれがなく、一人ひとりが新しい目標をもって進路を決めることができた。こんなことは初めてだったから。

 『茜音ちゃんにはお礼しないとね』

 それだけの感謝を伝えたい少女は、自分の隣で「まだまだ」とつぶやいているのだから……。

「わたしには、取り戻したい空気があるんだよぉ……」

 しばらく考えていた茜音は、短くその言葉を吐き出した。





 その情景を見ていた里見が、とうとう決断した。

「未来ちゃん、帰ろう。この先は私たちが見ていていい場面じゃないから」

「そうですか?」

 未来はまだ続けたいようだが、今度は里見も譲らなかった。

「恋人同士の会話を邪魔したら、それこそあの二人でなくてもみんなに何を言われるか分からないわよ。珠実園に戻ってゴタゴタしたくなかったら、早いところ切り上げるわよ」

 里見は立ち上がって駅の方に戻っていく。

「もぉ、里見さんも強情なんだから」

 しかし一人でこの繁華街を一人で追跡するだけの勇気は未来にも無い。里見を追いかけるように未来もその場を引き上げるざるを得なかった。




『わたしには、取り戻したい空気がある……』

 茜音の言葉は、何を指すのだろう。確かに彼女は幼いころからいろいろなものを失ってきた。

 両親だけでなく、中学時代、高校時代にも近しい人をそれぞれ空へ見送っている。

 それだけじゃないはずだ。『空気』だといった。時間でも人でも場所でもない。つまり『限定していない』のではないか。

 隣に座って、港の明かりをみている茜音の手を握り、健は買い物を終えてからここに来るまでの時間を思い出していた。



「ねぇ、ここまで来たから、あの公園に行かない?」

 買い物を終えて表に出てくると、日もだいぶ西に傾いている。茜音が提案したのは、ここから歩いて30分くらいはかかってしまうような場所だったけれど、健はその提案にOKすることにした。

「気に入ったのが見つかってよかったね」

「うん。おみやげもいっぱい出来たし」

 こっちに来てから、特に探しものをしていたわけではなく、いろいろなお店を見回っているときに、茜音はさっきの服に合わせられるバッグを見つけた。

 薄クリーム色の厚手布でできていて、上の方にぐるりと水色の生地が帯のように巻いてあって、大きなリボン結びがアクセントとなっている。手提げにも肩からもかけられるようにもできる可愛らしい2ウェイバッグだ。

「あれどうだったかなぁ? ちょっとかわいすぎたかなぁ?」

「いいと思うよ。服の方が結構大人っぽくなってるから、バランスとるにはいいんじゃないかな」

「そっかぁ。春から制服がなくなっちゃうから、今度は毎日のお洋服考えなくちゃならないんだよねぇ」

「あれだけあるのに?」

 サイズ違いで着られなくなったものを除いても、茜音のクローゼットが他の女の子に比べ特に少ないというわけではない。

「うーん。そうは言っても今度は制服がないから、カジュアルなものに困っちゃうんだよぉ」

 どこまでが彼女の基準でカジュアルなのかは不明だが、健が見ていても茜音のセンスは最近の流行の先端を追いかけるのではなく、独自ではあるがしっかりしているのであまり気にすることはないと思われる。

 そんなことを話しながら、ランドマークタワーのすぐ近くに到着していた。

「ここだねぇ」

「そうだね……」

 しばし会話が途切れる。



 昨年の夏、二人が再会を果たした1週間後、茜音は人生で初めてのデートを経験した。

 一応、事前には予定とコースも二人で相談して決めていた。

 しかし、いざ顔を合わせた二人にとって、予定していたコースは意味をなさなかった。

 観覧車や遊覧船に乗ったあとは、ひたすら話し続けた。

 それまでの時間を取り戻すかのように、二人は飽きもせずにお互いのその後を報告しあった。

 その日の最後、港が見えて少し静かなところを探し歩いて見つけたのがこの公園だ。




「あのときと同じだね……」

 当時と違い、まだ夕焼けの残る空。海に面した柵に寄りかかり、茜音は健の腕に触れた。

「まだ半年しか経ってないんだねぇ」

「そうだね。長かったのか短かったのかよく分からないよ」

「うん、わたしも……。同じこと思ってた。色々あったなぁって」

 二人の初デートの余韻が残る翌日、片岡の両親の計画で、彼女は正式に健を家族に紹介することになった。

「あのときにさぁ、茜音ちゃんをお願いしますって、頭下げられて、どう返したらいいかちょっと困っちゃったんだけどね」

「そうだねぇ。それじゃぁ結婚を申し込みに行った時みたいだよねぇ。でも逆かぁ」

「そうだね。また時期が来たら、今度は本番かな」

「あはは。うん、うちは相手が健ちゃんなら、時期は二人で決めなさいって言われてる。わたしも待ってるしぃ。それに……もう待ちたくない……」

 二人が再会して、僅か半年と少ししか経っていない。それにしてはこれまでの10年間にも勝るとも劣らないたくさんの出来事が二人の間に起きた。

「でも、楽しかったよぉ。二人になるって、こんなに安心できるんだって分かった」

「僕もそう思う。ようやくこれで僕も一人じゃなくなったんだなって思って、ホッとしたって言うのかな。茜音ちゃんがああいう中で本当によく無事でいてくれたって言うか……ね。ありがとう。頑張ってくれて」

 健は一人での生活とはいえ、珠実園という中で育ってきた。確かに思春期の微妙な時期ではあったものの、そこは同じような施設の仲間たちがまわりにいたおかげで、周りが思うほど人一倍苦労してきたとは彼自身あまり感じていない。

 しかし、知れば知るほど茜音のこの10年間は、彼女にとって過酷だったと彼は思った。

 事故の記憶は表面上は消えても心の深層からはなかなか消えることは出来ない。

 片岡家に引き取られてからも、新しい小学校、中学校に進んだところでは、必ずそのことは蒸し返され、実の両親がいないことを理由にたびたび苦労を重ねてきていた。

 一度入学した地元の中学校にはなじめず、僅か1ヶ月で転校を余儀なくされたという。


 年末の大掃除の時、茜音はその時の制服を発見した。

 まだ真新しい冬服。一度も袖を通すことが出来なかった新品の夏服。片岡夫妻はそれらを処分せずにこの家に大切に保管しておいてくれた。

『これ、着られなかったんだよ……』

 試着してみたところ、ほとんど当時から身長も変わっておらず、中学生という伸び盛りの時期を持たせるために少し大きめに作ったこともあり、今でもほぼぴったりに着られた。

『ごめんねぇ、着てあげられなくて……。わたしが弱虫だったから、ごめんね……』

 彼女なりに悔しかったのだろう。もう一度大事そうにクローゼットに戻しながら、茜音はポロポロと涙が止まらなかった。

 健の提案で、夏服のセーラー服はともかく、ブレザーの冬服ならブラウスやベスト、スカートならば使えるのではないかということで、茜音はそれに合う服を探したり、服のことならと、すっかり親友となった萌とリメイクの相談もしているという。




「本当はね、卒業した中学でもあった。でも、もうお父さんたちにも心配させられなかったから。何があっても我慢した……。健ちゃんとの約束もあったから泣かなかった。いつも自分を押し殺してた。わたし、また話せなくなっちゃった……。高校に入って、菜都実と佳織に会うまで、わたしは、本当にダメな子だったんだよ……。あのままだったら、きっと健ちゃんにも見捨てられていたかもしれない」

 残っている当時の写真もいくつか見せてもらった。

 確かに茜音の笑顔の写真は高校に入ってから。でも、自分が見ると、表面上では笑っていても、どことなくいつも寂しそうな影を感じる。

「でも、それはわたしが本心からのものではなかったと思う……。健ちゃんに会えて、ようやくわたしは本当のわたしに戻れたのかもしれないよ」

「それは、佳織さんたちも言ってたね。あの日を境に茜音ちゃんが変わったって。顔がこれまでよりも優しくなったって。今が本当の茜音ちゃんの姿なんだね」

 正確に言えば、それが正しくない表現であることも分かっている。

 「両親は自分に音楽の技術を教えることはなかった」と茜音は言う。それでも、間違いなく持っているであろう絶対音感や、演奏や歌唱の才能を自然に植え付けた両親を失ったところから、彼女の人生は元に戻ることはなくなっているからだ。


「もう、疲れ果てて無理は出来なくなってた……。だから、本当にあの時はもう一人じゃ生きていけないって本当だったよ。川に落ちてだんだん眠くなっていく時に思ったの。これで楽になれるかなって……。パパとママのところに行けるって。でも、きっとパパとママがまだ来ちゃいけないってわたしを追い返したんだよね」

 茜音はそこで自然と腰を下ろしていたベンチから立ち上がり、彼の目の前でふわりと回って見せた。昔から変わらない嬉しいときの彼女の癖。

 桜色のブラウスに白く柔らかい毛糸のカーディガン。紺と濃緑とエンジのチェックのプリーツ入りミニスカートと紺のハイソックス。彼女にしては最近の流行りにまとめた方だ。

 そのミニスカートが回転に合わせふわりと持ち上がる。太ももの上の方まで持ち上がったとき、健は思わずそれ以上は見てはいけないと思って目をつぶった。

「えへへ。健ちゃんなら見えちゃってもいいのにぃ。これだけ暗くなれば他の人からは見えないよ」

「でもさ……」

「こういうことが出来るのも、きっと神様がくれた奇跡なんだよぉ」

 近づいてきた茜音のダークブラウンの大きな瞳は優しそうに笑っていた。

 幼い頃から変わらない。この瞳を自分の手に取り戻すことは無理なのではないかと一時期思っていたこともある。家庭に引き取られているにも関わらず、彼女は全力をかけて約束を守って……、自分に会いに来てくれた。

「そうだね。奇跡だね。僕たちが最初と再び出会えたこともみんな……」

「うん。ね、ランドマークに上らない? きっときれいだよぉ」

「うん、賛成だ」

 健もベンチから立ち上がり、ちらっと後ろを見る。最初そこに居たであろう気配は既に消え去っていた。