櫻峰高校で伝説のヒロインとなった茜音が自分の横で一緒に受験勉強をしている……。
そんな状況になってから、未来はすぐに気づいた。
いつもは仕事をしながらにこやかに笑っている茜音だけど、やはり制服姿で机に向かえば進学校の高校3年生である。未来の先輩を通じて、その女子生徒(=茜音)の成績を聞けば、いつも上位にいると聞いて驚く。
高校の授業日数や成績を維持しながらあの旅を続けていたというのだから、こうやって外には見せない顔を見ていると、大変な努力家であることも分かってきた。
未来が解らないことを聞いても、ちゃんと説明しながら解けるように教えてくれる。ちゃんと理解しているからできることだと。
自分たちの中学までその噂が響く茜音が個人教師としてついていてくれるなどということが知れたら……。同じ試験を受けるクラスメイトもいるから、絶対に言えない。
担任の先生にもすぐに分かった。とにかく盆ミスを潰して基本を落とさないようにとの特訓の効果が試験結果から見えてきていたし、紅葉が終わる頃には、各種の模試の結果を見ても受験の体制もほぼ出来上がりつつあった。
「姉さんは、なぜ音大志望ではないんですか?」
休憩時間のとき、未来は茜音に尋ねたことがある。
夏休みのあの一夜で、茜音の音楽の才能は同年代を飛びぬけていると分かり、あとで彼女の両親のことを調べてみると、日本どころか世界のオーケストラ界の中でも一目置かれる存在だったと分かった。その両親が事故でこの世を去ったっとき、唯一遺した一人娘が彼女なのだと。
その事実を知っている者は業界にはいくらでも存在するし、彼女が望みさえすれば、練習環境やその後の進路に困ることはない。
「うん、それも一時は考えたんだよ……」
ところが、茜音は音大には進まずに、短期大学への進学を希望しているという。短大だと言って、彼女が楽をしようとしているわけではない。短い期間に4年制大学と同じだけのカリキュラムを組むとのことで、それこそ長期休暇もなく学校に通うという生活を覚悟している。
それも、教育や福祉関係の進路に進むということで、あの茜音の持っている特技を生かさないのはもったいないと思っていたから。
「……ねぇ未来ちゃん。音楽って誰のためにあるのだと思う?」
「えぇ?」
思いがけない問いかけに、答えに困る。そんなふうに考えたことなどないから。
「音楽ってね、特別な人のものじゃないんだよ。みんなに平等なの。わたしも未来ちゃんも、今日生まれた赤ちゃんだって、みんな平等なんだよ」
「みんな平等……ですか?」
茜音は「うん」と頷いて、椅子から立ち上がって大きく息を吸い込むと、あの時と同じ声色で歌いだした。誰もが知っている曲。ベートーヴェンの交響楽第9番の第4楽章。いわゆる「歓喜の歌」という一番有名な合唱のサビの部分だ。それを見事にドイツ語の原曲のまま披露してみせた。
「なんだなんだ? 茜音ちゃんどうした??」
健をはじめとして、珠実園の面々も続々と自習室の扉から中に入ってくる。ソロとはいえあの声量だ。ドアなどは簡単に突き抜けてリビングまで届いたのだろう。
「みんなごめんね。驚かせちゃって……。 ね? 未来ちゃん。この曲って意味を知らなくたって学校でも聞いたことがあると思うけど、どう?」
「合唱会で歌ったことあります。けど、一人なのに全然違う……」
「この歌はね、解釈がすごく難しくて今でも研究材料になるようなものだよ。でも、ものすごく大雑把に言うと『みんなが力強く羽ばたいて自分の道を歩いていいんだ。みんなで夢をかなえて心を合わせて喜び合おう』って解釈が込められているの。これを珠実園のみんなに伝えるためには、わたしがコンサートホールの中にいちゃいけないんだよ」
「!?」
「未来ちゃん。茜音ちゃんの気持ちわかった?」
さっきの騒ぎで一緒に部屋に入った里見が頬を濡らしている。彼女も当初茜音の進路には疑問をもった一人だ。健の卒業に合わせて時期を調整したのかと思えば、そうではないと。
その答えを茜音はわずか数小節の歌を使って表現してしまった。
「わたしは自分の練習はするけれど、音楽は趣味。楽器を演奏したり歌を歌ったりするのは楽しいことなんだよって『伝える』ための進路を選んだの」
あの夏の日、小峰という個人的かつ強力なパイプを復活させた茜音。珠実園以外でも、同じように幼稚園や小学校など、彼個人や楽団が関係するイベントに参加することを即時に快諾したという。
そんな圧倒された中で、その日の勉強時間は終了になった。
夜遅く、健が夜食を持って自習室に入ってきた。
「少し休みなよ」
「うん。でも、もう少し」
右手の後ろ側がいつもどおり鉛筆のカスで汚れているのもすっかり見慣れた。
「どう? もうイメージできた?」
「うん……。でも、やってもやって不安になっちゃって」
「そうか……。それは誰もみんな同じだよ」
「ここで受からないと、姉さんに並ぶことが出来ないから」
「おっと、やっぱりそこかぁ?」
健は苦笑いだ。未来を突き動かしているのが自分への気持ちだと言うことも分かっている。
ただ、今はそれでいい。とにかく目標を設定したのだから、理由は何であれそこまでたどり着くことの方が大事だから。
「姉さん言ってたんだよ。最後に相手を選ぶのは兄さんだって。だから姉さんも負けないように頑張るって言ってた」
茜音が言いそうなセリフだと思った。先日の決意表明。あれは単なる未来へのメッセージではない。茜音自身へのメッセージでもあったはずだ。
あの言葉どおり、彼女はまだ先を見据えて努力を続けている。
「茜音ちゃんは、本当に先生とか向いているんじゃないかなぁ」
茜音との将来の道を自分も考えなければならない。
そして、それまでの時間は、自分たちが離れて暮らした10年間よりもずっと短い。また来年の春に自分がこの園から卒園をしなければならない日も意識せざるを得ない。
もちろん、そのときに未来を連れて行くことは誰も望まないし、彼女への許可も下りないだろう。
直接本人にはいえないけれど、その前にはこの未来の将来を任せられる誰かを見届けてやりたかった。
「頑張ったねぇ。明日は朝早いから気をつけるんだよぉ」
翌日の試験会場を設営し終わった後に、茜音が珠実園に寄ってくれた。
お守りにと、驚くべきものをくれた。
茜音の学生証と生徒手帳。よく見れば2年生のときの物で、学生証には無効の処理が施されている。ただ、有効期限切れだとしても絶対に他の人では手に入れることは出来ない本物だ。
「必ず持って行く!」
「うん。大丈夫だから」
邪魔になるからと、引き上げた茜音の後に健が戻ってきた。
「どうだった?」
「この3ヶ月、凄かった……。兄さん、あれが茜音姉さんの本当の姿なの?」
「そうだよ。茜音ちゃんは絶対に外で弱音を吐かない。ああやって、努力を重ねてるから、みんなが応援してくれるんだよ」
「私も、あんなふうになれるかな」
「大丈夫。明日は早いからもう休みな」
「うん。とにかく頑張る」
翌朝、受験当日の未来に弁当を持たせて見送った健は、玄関に大切な物が置いてあったのを見つけた。
置いていったのか。いや、今朝もお守りと言って握りしめていたはずだ。そうやって直前まで出していたから、うっかり置き忘れてしまったのだろう。
自転車で駅まで追いかけたものの、恐らく先に電車に乗ってしまっている時間だ。
健は切符を買ってホームに向かいながら携帯電話を取り出した。
後から健が追いかけているとは想像もしていない未来は、予定よりも早く到着していた。
やはり、人気のある学校だ。進学塾の教師らしき姿や、会場まで送ってきた父兄などの姿も多い。
受験票を確かめてみると、体育館ではなく、教室の方だと知りほっとする。茜音に言わせれば、どうしても体育館だと寒いので、手が悴んでしまう可能性があると聞いていたから。
受験番号を確認して、席に座り筆記用具などを用意したときに、彼女はようやく気がついた。
昨日もらったお守りが入っていない。朝食や出掛けるところまでは覚えている。玄関で置いてきたのか。
決して試験で使う物では無いけれど、精神的な支えとしてあれ以上の物は考えられないだけに、自分のドジさを恨むしかない。
途中で気付いたとしても、いまさら持ってきてもらうわけにはいかないし。
仕方ないので、落ち着かせるために参考書を開く。徐々に教室の中に人が増えて、教室の中にまた一人入ってきた時も、未来は集中を切らさないようにしていた。それでも、なぜか教室の中がざわめいたのに気づく。
顔を上げると、思わずぽかんとしてしまう。
ドアが開いたそこにいたのが、いつもどおりにブレザーからきっちり膝丈のスカート、ハイソックスまで、各中学の制服が入り交じる中、櫻峰高校の制服を着こなして入ってきたのが、この学校の最上級生でもある茜音だったから。
中には片岡という名札を見てそれが、あの噂になる人物だと気づいた者もいたようだ。
茜音は何事も無かったように、受験番号を確かめるようにして、自分のところで立ち止まった。
「おはようございます。忘れ物としてお届けがありました」
事務的に言うと、封筒を渡してくれた。見慣れた茜音の字だ。受験番号を教えていたのを覚えていてくれたのだろう。それをもっともらしく封筒の表側に書き込んである。
「あ、ありがとうございます」
他の受験生には分からないほど一瞬だったけれど、いつものように笑ってくれた。
「失礼しました。みなさん頑張ってくださいね」
また事務的に教室を出て行ったが、今までのピリピリした空気が和らいだ。
あの大先輩に会えたと喜ぶ女の子たちもいる。
封筒の中には、あの忘れてしまった品物が入っていた。
今朝までは無かった、途中のページに折り目が入っている。開いてみると『落ち着いて頑張って!』と封筒の表と同じ字で走り書きがしてある。
どんな経緯か、これを受け取った茜音は、なんとか試験前に届けるように遺失物を装って会場に潜り込んでくれたのだと。
こんな緊張感が張り詰める会場に怪しまれずに入り込めるというのは、茜音が学校でも公に信頼を得ているからに他ならない。
同じ場所に、応援がいてくれる。それだけで緊張は解れていった。
「おつかれさまぁ」
試験が終わって外に出ると、正門のところに見慣れた顔が待っていてくれた。
「姉さん、いくらなんでも目立ちますよ?」
「大丈夫だよぉ。わたしいつもこんな感じだし」
「そうですか……」
思わず苦笑する。これが演技なのか天然なのか。こんな受験生がたくさんいるところで、志望校の制服を着ている先輩がいること。さらに彼女は櫻峰高校の一学生という存在ではないのだから。
「今朝はありがとうございました。本当にドジったなと思ったんですけど。まさか、あんなに堂々と入ってくるなんて」
「あぁ、あれは健ちゃんにお願いされてね。別件で学校に行く途中だったから、駅で受け取ってそのまま。昨日のうちに受験番号聞いておいてよかったよぉ」
あのあとすぐに試験が始まったのだが、やはり櫻峰を受験する女の子たちには、もはや片岡茜音という存在は恋愛の神さま扱いなのだろう。
そんな人物があのタイミングとはいえ目の前に降臨したようなものだったから、俄然やる気にもなったり、余計に緊張してしまったりはあったと思う。
「でも、本当にいつもと変わらずに出来たと思う。本当にお礼を言わなくちゃ」
「それは、発表があってからだよ」
そして約十日後、未来の手には1枚の桜色の紙とともに、封印がされた分厚い封筒が担任から渡された。
「田中、よく頑張ったな。しかも宣言どおりの特待生で奨学金支給の条件だ。きっと、来月の一般試験に向けて、みんなどんな勉強をしていたのか聞きたがるぞ?」
「はい……。でも、塾には行きませんでしたし、学校の補習授業には出ましたけど……。とっても頼りになる先輩にいろいろ教わることはしました」
とても表ざたにはできない。櫻峰高校を受験する同学年に、実際に同校に通っている生徒のアドバイスを受けたというところまでは公表することはできたとしても、あの片岡茜音の個人指導を受けていたなどとは。また受験日当日のハプニングを切り抜けさせてくれたのも、茜音と自分との関係が築けていたからだ。
その日の学校の時間が終わると、未来は珠実園まで走り通した。
「ただいま!」
「どうしたの? そんなに息を切らして?」
夕食の準備をしていた里見が振り返る。
「茜音姉さんは?!」
「なんだか、今日は学校が遅くなったって。でも、夕飯から夜までは来るって連絡あったわよ」
じっとしていられない様子の未来に、茜音の代打として手伝いをお願いした里見。
「もぉ、あれだけライバルだってトゲトゲしてたのにねぇ……」
「遅くなりましたぁ」
すっかり聞き慣れた声がしたとたん、気がつくと園の玄関で未来が制服姿の茜音に抱きついていた。
「あわわわ……。よかったねぇ。未来ちゃんが頑張ったからだよぉ」
茜音はそのまま職員室に向かい、園長先生に告げた。
「わたしも、今日合格通知を受け取りました」
「そうか、おめでとう。茜音ちゃんも少しずつ準備を始めているんだな」
「はい。これからもよろしくお願いします」
園長はそんな茜音を孫娘の成長を見守っているように首を振っている。
「よし、我々もそれに向けた用意を始めるとしよう」
気が早く、高校での生活を茜音にいろいろと聞いている未来。
制服も渡せるものは手入れして譲ることを約束させられてしまった。
「あんまり困らせるなよ? 茜音ちゃんにとっても制服は思い出の品なんだからさ」
健の運転で横須賀まで送るとき、未来にくぎを差した。
「よっぽど嬉しかったんだね」
「未来ちゃんがあれだけ高いハードルを越えたのは初めてだからな。それが変な自信過剰にならなければいいんだけど……」
そんな健の予感が的中してしまうのは、1ヶ月も経たない時期だとその時は誰もが予想もしていなかった。
【茜音 高3 3学期】
「健ちゃん、今度の土曜日お出かけしない?」
片岡茜音《あかね》はキッチンでおやつを用意しながら振り向いた。
「土曜日? うん、大丈夫だと思うよ」
リビングで掃除を手伝っていた松永健《けん》は笑顔で即答した。
「じゃ、決定ね」
茜音は買い物途中で買ってきたシュークリームと紅茶を三人分用意した。
「未来ちゃん、おやつだよぉ」
こちらも庭で片付けをしてくれていた田中未来を呼ぶ。
「はーい」
「お疲れ様ぁ。寒かったでしょう」
ミルクティのために牛乳を温めて持って来る。
日曜の午後、茜音の家では荷物の整理が行われていた。
茜音の両親の品は自分で少しずつ片付けていたけれど、やはり力仕事は男性の力を借りたいと痛感。
そこで、すっかり茜音の彼氏として定着した健にお願いをしたところ、今も児童福祉施設で一緒に過ごしている未来が手伝いに来てくれていた。
「今日はありがとう。あとはわたし一人で片付けられるから」
今夜もこの家に泊まり、明日はここから直接高校に通うことになっている茜音とは違い、健と未来はこの後彼らが生活している施設である珠実園に帰らなければならない。
健と二人だけならもう少し……、と言うことも考えていた茜音だけど、未来が一緒ではそういった時間をねだることも躊躇われる。
そこでカレンダーを見ていた茜音が計画したのが、次の土曜日に外出することだったらしい。
「茜音姉さん、今日もここで泊まるんですか?」
「うん。もう少しクローゼットとかの中を整理しないとならないからね」
そのために、この家に入ってくるときに2回分の食事の用意は買ってきてある。
「そうなんだ。なかなか終わらないね」
「仕方ないねぇ。パパとママの大切な思い出だから、なかなかあっさりと処分できないしぃ」
茜音は苦笑して言う。彼女が6歳の時に失った両親が残した品々だけに、それがどの程度重要なのかを判断するのに時間がかかっているのだという。
冬休みも終わり、無事に進路も決まった茜音。学校中で注目されていた10年越しの約束も無事に果たし終え、一時期の混乱も収まり、今は残り少ない高校生活をのんびりと楽しんでいる。
「明日は、学校も午前中で終わるから、ウィンディの前に珠実に行くね」
前年の夏、学校の課題の関係で偶然訪れたのが、健と未来のいる珠実園だった。
生まれてすぐに園の前に置き去りにされていたという彼女を世話していたのが、茜音と離ればなれになった後の健だったということもあり、未来は健に絶対の信頼を置いていたし、年頃になってきてからは、淡い思いを持ち始めていた。
その矢先に園内でも伝説となっているもう一人の主役である茜音がやってくると分かる。
健を取られたくないと思うあまり、未来は茜音に対抗心を燃やしていた。
しかし、偶発的な事故とはいえ、未来は茜音の命に関わる問題に直面し、二人の想いの深さを知った今は、妹分役としての関係に収まっている。
そんな三人の関係も落ち着いたことから、表面上は落ち着いたように見える茜音にも悩みがある。
やはり三人という微妙な人数構成で、お互いの思いが分かっているだけに、自分ひとりだけということも出来ないと思っていた。(もっとも、友人の上村菜都実に言わせれば「そんなこと気を使いすぎ」と笑われてしまったけれど)
そんな茜音は半日で終わる授業時間の後は、珠実園に顔を出すことも多い。そこにいる面々は二人の関係を分かっていてくれるので気を使ってはくれるけれど、仕事の手伝いに行っている以上、健の業務を中断させて話し込んだりということは出来ない。
そのことをウィンディでの仕事中に何気なく言ったところ、
「またー。二人きりになりたいのなら、ちゃんと誘ってみたら? 健君だって茜音ラブなんだから断ることは無いんじゃん?」
「そうだと思うんだけどねぇ。やっぱタイミングが難しいんだよぉ」
「あんまり強引に出るのも変だけど、未来ちゃん的にも茜音が健君と付き合っていることは分かっているわけだし、いいんじゃないかな?」
菜都実と近藤佳織《かおり》の答えをもらい、さてどのタイミングで言ったものかと悩んでいたときに、今回の茜音家の大掃除の話を聞いた健が自ら手伝いを申し出てくれた。
その作業中から茜音は切り出すタイミングを見計らっていたのだが……。
「ねぇ、兄さん。今度の週末は私に付き合ってくれてもいいでしょ?」
作業も終わり、紅茶をすすりながら未来は横に座っている健に話しかけた。
「うーん。今度の週末は茜音ちゃんと出かけることにしたんだけど」
「えー? 今日も茜音姉さんのところで、今度も?」
明らかに拗ねているような声を出す。
「だって、未来は学年末近いと思って」
「だからって、兄さんだけデートに出かけるわけぇ? ずるいよぉ」
未来の言うことも分からないでもない。それでも進学先を無事に決めたとは言っても、学年末試験を控えている彼女と出かけるわけにはいかない。
それに、やはり二人の関係は今の彼女ではどうにもならないところまで進んでいるような気もする。
「もう、仕方ないなぁ」
しばらくもめたが、結局その週末は予定通りに出かけることで決まった。
「あーあ……」
珠実園への帰り道、車の中で未来がため息をつく。
「なにをそんなにしょげてるんだよ」
「だってぇ」
気持ちは分からないでもないが、それにしても今日の彼女の様子には何か引っかかることがある。
「おまえ、まさか……」
「えっ? そんな事ないない」
慌てたように否定するが、健は未来の気持ちをとうに察していた。
「まだ、自分の中で決着できてないんだろ?」
黙り込んでしまった未来。
昨年の夏までは未来が健を思う気持ちにライバルはいなかったため、彼女もあまり気持ちを表すことがなかった。
茜音の登場により、未来の計画が狂うことが分かると、彼女は何とかして健をつなぎ止めようとしたが、それも彼自身から否定されてしまった。
そんな状況の中、三者の間での事態は落ち着いたにみえたのだが、まだ未来は完全に納得はできていないように見えるときがあるのを健は知っている。
「あんまりさ、茜音ちゃんに迷惑かけるなよ? また前みたいなことになったら、いくら未来ちゃんでも……」
「う、うん……」
以前の事件のことからも、直接・間接にかかわらず茜音に危害が及ぶことになれば、今度こそ健も黙ってはいないだろう。
その二人の気持ちが分かっているにもかかわらず、健が自分の初恋相手ということもあり、なかなか自分の気持ちを整理しきれないでいるのも、ちょうど未来の年頃かもしれない。
その一週間、未来がそのことで健に詰め寄ることはなかったが、何もないとは健も考えられず、何となくもやもやとしたものを抱えながらの週末を迎えることになった。
週末の朝、健が部屋で出かける用意をしている後で部屋のドアが開いた。
「おぉ、兄さん出かける準備してるのね」
「あぁ、おはよう。今日は2月にしては暑いから困っちゃうな」
健が壁に掛かっている服と天気予報を見ながら悩んでいる。
「そっか。今日はコートも要らないみたいだもんね」
この日は2月末だというのに、4月並みの最高気温だとのことで、何を着ていけばいいか困ってしまう。
「帰りは遅いの?」
「その辺は決まってないな」
「ふーん。夜もあんまり寒くならなさそうだしね」
しばらく二人で悩んだ挙句、どうにか無難に落ち着かせた頃には、茜音との待ち合わせ時間に間に合う電車まであまり残っていなかった。
「いけねっ。じゃ行って来る」
「はーい。いってらっしゃい」
駄々をこねると見ていた未来があっさり玄関で見送ったので、健は少し拍子抜けながらも駅までの道を急いだ。
「さてとぉ、私も急がなくちゃ」
そんな健の後姿を見送ると、未来は急いで自分の部屋に引き返し、用意してあったコートとリュックをつかみ、後を追うように玄関を飛び出していった。
この日の茜音との待ち合わせ場所はお互いの地元ではなく、途中の駅にしていた。
やはり予定より数分遅れてしまった健が階段を駆け下りていくと、改札前で心配そうな顔をして見上げていた茜音に笑顔が戻った。
「ごめんごめん。出るのが遅れちゃって」
「いいよぉ。ちゃんと連絡くれたし、無事に着いてくれたから」
途中で茜音の連絡先にメールを送っていたから、遅れていることは分かっていたはず。それでも到着するまでは無事を祈っている性格の持ち主が茜音だ。
「さ、行こうか」
「うん!」
「どっちから先に行こうか」
「そうだねぇ。まだ時間も早いし、アウトレットから先に行こうか」
シーサイドラインの乗り場には同じような二人組が多く見られた。
昨日の夜までどこに行くかは全く決めていなかった二人。せめて集合時間と場所を決めようと電話で話したとき、茜音はいくつかの場所をあげてきた。
そのうちの最初の1カ所は、自動運転の列車に乗って駅1つ目。そこから歩いて10分ほどのアウトレットモールだった。
「まだ時間が早いから空いていてラッキー」
ベイサイドにあるアウトレットパークは約170近い専門店が並ぶ場所で、その中には茜音がよく服を買うブランドの店などもある。当然アウトレットという性質上、いつも欲しいものがあるわけではないけれど、菜都実や佳織などと一緒によく訪れる。
「健ちゃん、もし退屈になったら外にいていいからね?」
「大丈夫。僕も茜音ちゃんの好みは知っておかなくちゃ」
「そっかぁ」
普段から佳織や菜都実と来ていることも多いから茜音が入る店は決まっている。
女性向けの衣料品店は男性一人だけではなかなか敷居も高いけれど、一緒に入るというならば話は別だ。
もともとアウトレットという場所柄、若いカップルでの来店も多い。だから茜音が健と服を選ぶときは専門店や個別立地のお店よりも、このような少しカジュアルな雰囲気の場所にある店舗を選ぶことが多かった。
『なにを今さら言ってるの。茜音流の気配りでしょうが?』
以前、ウィンディでそんな話をしたところ、菜都実から突込みが入ってしまった。
「やっぱ茜音ちゃんにはかなわないなぁ」
「うん?」
「ううん、なんでもないよ」
思わず出てしまったつぶやきを引っ込める。
目の前で楽しそうに品定めをしているのは、そんな気配りをしているとは微塵にも感じさせない、どこにでもいる普通の女の子にしか見えないのだから。
「健ちゃん、この上下の組み合わせどうかなぁ?」
店内を見て回る中で、茜音が見つけたのはショーウィンドウに展示されていたサンプルだった。
大きく胸元まで緩やかなカーブに開いた水色で薄手のカットソーと、その上に重ねるニットカーディガンのセット。
白い膝丈のスカートはウエストに近い部分に何本ものタックが入っていて、その下はフレアスカートのように軽くふわっとしているデザイン。春先から初夏にかけての着こなしにはぴったりの装いだ。
「もう少し暖かくなったら普通に着られるかもね。試着してみたら?」
「そうだねぇ」
「あら、いらっしゃいませ」
そんな二人を見かけて、店員が話しかけてきた。
「あ、こんにちはぁ。あの、あれ試着できますかぁ?」
何度も来ているだけあって、店員とも顔なじみらしく、茜音は展示を指さして聞いている。
「さすが、よく気がつきましたね。これ、昨日入った春の新作の先行品なのでお安いんですよ。もしサイズが合えばお得かもしれないですね」
彼女はそういってショーウィンドーから取り出して茜音に渡してくれた。
「うん! じゃぁ行ってきます~」
荷物を健に持たせて、試着室に持ち込む。
「茜音ちゃんの力は凄かったよなぁ……」
珠実園の子たちの衣料品の購入に同行したりもする健だけれど、限られた予算の中で枚数を買わなければならない現実では、茜音と同じようにお洒落をさせてあげたくても限度がある。
特に小学高学年以上になると、男子はともかく、女の子らしくしたいという口に出来ない思いがあることも分かっているから、なんとかしたいと思っていた。
昨年の秋口にそのことを茜音に話したところ、サイズが合わなくなって着られなくなってしまったものを含め、佳織、菜都実からも「みんなが気に入ってくれるなら、遠慮なく使って」とダンボール十数箱にもギッシリ詰まった衣類を提供してくれた。
突然届いたあまりの量にその出所を聞くと、あの旅の中で知り合ったメンバーにも男女問わずに声をかけてくれていたとのこと。それを一つ一つ点検し、洗濯や染み抜きまでしたうえで男女別やサイズごとの分別、冬着だけでなく来年まで保管の夏物には防虫剤などを入れて用意してくれたのだとわかった。
特に高知の千夏、横浜の大竹姉妹の妹、萌は茜音に近い嗜好の服も多かったことから、男子向けだけでなく、女子向けのバリエーションを一気に増やすことができたのが大きく、珠実園の周囲の住民からも、どこか大きなスポンサーが現れたのかと冗談混じりで言われるほどの変化だった。
提供してくれたものはサイズや好みなどで振り分けたけれど、特に先の三人が提供したものは争奪戦で、サイズごとに公平にくじ引きにしたほどで、まだ十分なストックもある。茜音がおしゃれ着の洗濯の方法を教えてくれただけでなく、萌と一緒になって小さな補修もしてくれるようになったから、一着を使える期間も飛躍的に延びた。
服だけでなく靴なども程度のいいものだけでなく、補修されたものまで提供されたことから、その分の予算を学用品などの必要な部分に回すことが出来る。
「そっかぁ、どんどん普段使いに着てくれていいんだけどねぇ。まだ出せるものはあると思うよ」
そのことを知った茜音は、珠実園での手伝いの時に笑って言った。
そのときになって分かったことだったが、茜音の服というのは数の多さもさることながら、その質も良くてリユースと言ってもまだ十分に使えるものがほとんどだった。
しかし、彼女とて費用が無尽蔵にあるわけではなく、自身のアルバイトの給料の中からの貯金を使っている。
その一方で、欲しいものがなかったり、お金が足りないときは生地を買って萌と一緒に自分で仕立てると言うのが彼女のレパートリーの多さの秘訣らしい。
『今年は時間がなかったから、1シーズンでダメにしてもいいから、遅くなってごめん!』
そう言って12月に渡された子どもたち全員そろいの冬場のマフラーは、萌と茜音の合作だという。両者とも推薦入学試験が終わった後に、手芸用の編み機を持っていた萌と、ミシンを持ち込んだ萌が茜音の家に泊まり込んで仕上げた。各自のネームまで入っているその高速技には職員みんなで舌を巻いたものだ。
「ほらぁ、結構いいよぉ」
試着室のカーテンが開き、上機嫌で出てくる茜音。
今日は襟付きの桜色のシャツを着ていたのだが、それも含めて全着替えをしたようだ。恐らく実際に着るときには頭から足の先まで合わせてコーディネートしてくるだろう。
この服は茜音の選択としては珍しく大人っぽさを強調した方だが、自然な感じで似合っているし、なによりも嬉しそうに鏡の前で1回転しているのを見れば、健としてはダメ出しをするつもりはない。
それに、普段は可愛らしさを前面に出すことが多い彼女が、妙に大人っぽく、若々しい女性の色香まで感じさせてしまったことに、彼は驚きを隠せなかった。
思わず、その姿に見とれてしまう。
「健ちゃん!? 見てくれてるぅ?」
茜音のちょっと拗ねたような声に我に返る。
「えっ? う、うん、似合う似合う。いいんじゃないかな?」
「そうだねぇ。じゃぁ決める!」
再び試着室に戻って元の服に着替えている間、健は店の外を何となく眺めていた。
「あれ……?」
健が気がついたのは、見たことのある二人が物陰で話しているところだった。
「まったく……、つけてきたのか」
さっき、出掛けに自分を見送っていたはずなのに。パンフレットを見ているその人物は恐らく誰かに借りたのであろう大きめのコートを着て深めに帽子をかぶっている。他人のふりをしているのだろうが、十数年の付き合いとなる彼の目はごまかせない。
そこでようやく今日のことを未来が必要以上にゴネなかったことに合点がいった。
「ま、仕方ないか」
そのことは、茜音には知らせないことにしようと思った。もし気づいてしまったらその時だ。
「買ってきたよぉ」
茜音が嬉しそうにお店の袋を抱えて立っていた。
「気に入ったのがあってよかったね」
「うん。どうかしたの?」
健が店の外を眺めていたのを不思議そうに聞く。
「いや、別になんでもない……」
「変なのぉ」
その後、健のリクエストにあった靴を買っている間に、茜音も自分の靴を買い足して、このアウトレットでの買い物は終わりになった。
「ふぅ、結構買っちゃったなぁ。健ちゃんも気に入ったのがあってよかったねぇ」
「茜音ちゃん、靴を買う予定なんかなかったよね?」
「うん。せっかくお洋服買ったからぁ、それに合うのを買っちゃおうと思ってぇ」
茜音は嬉しそうに袋から箱を出して見せてくれた。ローヒールの靴は茜音も何足か持っている。今回選んだのはアイボリーホワイトのパンプス。珍しいストラップが可動式になっていて、足の甲側に出ないように設定することもできる。
茜音の靴でストラップなしで使用するタイプは非常に少ない。何度も試して脱げないことを確認して、なおかつ2ウェイで使用できるものを選んだことからも、彼女には冒険と安全の両方の策を取ったようだ。
「せっかくねぇ、服を普段より少し大人っぽくしてみたから、合わせてみたいなぁって思ってねぇ。多分次のデートの時に使ってみるよぉ」
さっき試着したときの姿を思い出す。いつも見慣れている年下に見える雰囲気は消え、茜音が持つ本来の歳相応の魅力にあらためて気づかされた。
この春からは短大で保育や介護を学ぶことになる彼女も、新しいイメージを作り出そうとしているのかもしれないと思った。
「少し休んでから次行こうか」
「そうだねぇ。でも荷物どうしよぉ?」
「駅のロッカーにでも入れておけばいいんじゃないかな」
「うん、それでいいやぁ。お腹も空いたし~」
二人は立ち上がって駅の方に歩き出す。
健はもう一度振り返ってみたが、さっきの二人の姿は見られなかった。