「未来ちゃん、もう寝てる?」
自分の部屋に入ると、未来は言われていたとおりに茜音のベッドの中に入っている。
「ううん……。もうみんな寝ちゃいましたか?」
「そうだねぇ、菜都実たちも疲れて寝ちゃってたかなぁ」
顔の火照りを冷ますため、途中に元両親の部屋だったところに泊めた二人の様子をのぞいてみたが、二人ともすでに動く気配はなかった。
「健ちゃんが、未来ちゃんはなかなか寝付けないからよろしくって言ってたよぉ」
「兄さん、分かってるんですね……」
「そりゃぁ、わたしよりも未来ちゃんとのつきあいの方が長いだろうからねぇ。ああ見えて、健ちゃんは細かいことまでちゃんと見てるよぉ」
「うん、ちょっと具合が悪いときでも兄さんだけは気がついてくれるから」
「そっかぁ。いいお兄さんしてたんだねぇ」
茜音は部屋の明かりを小さな常備灯だけに落とし、未来の隣に体を並べた。
「あ~、そのパジャマ可愛いねぇ。パジャマでセーラー襟ってなかなかないでしょぉ」
照れるように頷く未来だが、これを一緒に選ぶために女の子の寝具コーナーにいる健を想像すると少しおかしくなってくる。
「茜音さん、あんなこと、本当にいいんですか?」
「ほぇ? うん、いんだよぉ。みんな賛成してくれたし、わたしも未来ちゃんのことずっと見ていきたいから」
「でも、兄さんと茜音さんの邪魔になっちゃうかもしれないし」
「そのときはちゃんと言うよ。だから心配しないでも大丈夫ぅ」
未来の言うとおり、もしかすると二人の間にこれからも時々割り込まれる可能性はある。それはどこにでもある話だし、相手が未来で二人の関係も理解してくれているのであればあまり大きなことにはならないだろうと二人で結論づけた。
「わたしたちの心配よりも、未来ちゃんも幸せにならなくちゃねぇ」
「そんな……、私はどうせ……」
「そんなこと言わないのぉ。未来ちゃんにだっていい人が出来て、幸せになれる権利は持ってるんだもん。誰もその権利を奪ったりは出来ないし、未来ちゃんもそれを使わなくちゃ。それが当然だから。あ、それに、もうさん付けで呼ばなくてもいいよぉ。もうわたしはお姉さん役なんだから、好きなように呼んでいいんだよぉ」
「じゃぁ、兄さんがいるから、姉さんでいいよね?」
「ま、いいけどぉ」
もぞもぞと未来は体を動かして、茜音の胸元に顔を埋めた。
「今日も……、本当にありがとう。生まれて初めてだった。誕生日ってこんなに暖かい日だったんだって初めて分かったの。正確に言うと、私の本当の誕生日は分からないの。誕生日は私が珠実に入った日なんだ……。未来って名前も先生たちが付けてくれた。だから私は本当にどこの誰かは分からないんだ」
「そうか……」
未来の出生は以前に彼女が話してくれた後から、健からももう少し詳しい話は聞いていた。だからこそ、彼女には普通に暖かく接してあげることが必要だと考えていた。
「お母さんに会いたい?」
「うん。どこの誰かは分からないけどね……。最初は捨てていった人って思ったりした。でもね、大人の事情ってあるもんね。きっと理由があったんだよ……」
小さい頃はずいぶんと苦労したに違いない。そんな彼女に自分がしてあげられることと悩んだ茜音が導き出したのが今日のプレゼントの提案だった。
「きっと、会えるよ……。そのときに未来ちゃんが幸せでいればお母さんも安心できると思う。頑張ろうねぇ」
「うん……。ありがと……」
茜音と二人、未来の過去を取り戻してゆく新しい物語は、このときから始まる。それが思いもよらない結末になろうとは、この時誰も予想するものはいなかった。
【茜音・未来 2学期 受験シーズン】
「田中はまだ志望校を決めきれないか……?」
「はい……。なかなか決められないです……」
放課後、教室には担任の先生と未来の二人が机を挟んで向かい合っていた。
中学3年の2学期に入ったことで、3年生の状況は高校受験一色になってきている。
夏休みが終わるまでに志望校を決めてくるようにという宿題があったのだけど、未来はまだそのプリントの枠に進学先の学校名を入れることが出来なかった。
2学期の頭に、まず本人の意思確認のための二者面談が行われて、先生は未来にまずそれを聞いた。
「まぁ、田中の場合は、なかなか相談できる相手もなかなか難しいところはあるかも知れないからな」
「すみません……」
もちろん、担任の先生も未来の家庭や懐事情は分かっている。
安易に私立校を勧めることは出来ないし、そうかと言って公立校では同じレベルの生徒たちが集められるから、リスクも伴う。
「でも、夏休みの宿題も最近のテストも頑張ってる。去年までと違って、かなりいいところは狙えるとは思うんだが……。とにかく、来週くらいまでには、仮でもいいから目標を設定しよう。そこでまた考えようか」
「はい。分かりました」
先生も自分には時間がかかると分かっていたらしい。最後の時間があてがわれていたから。
「でも田中。何となく先生も分かってるぞ。あそこを狙っているんじゃないのか?」
戸締まりをした教室から昇降口に二人で向かいながら先生は話した。
「なんで……、ですか?」
間違いなく図星だ。でも、それは出来ないとずっと思っているのに……。
「でも、私……、あそこは……志望校に出来ません……」
先生は分かっている。針路志望調査の用紙に何度も書いたけれど、その度に消した。
結局、時間切れになって空白で出してしまったけれど、逆に空白だったことで、光を当ててみれば消した痕跡から読み出すことが出来たのかも知れない。
「やっぱり、私立ってのが最大の理由か?」
「そうですね……。特待生でもなれるのなら、別かも知れません。さすがに、私立高の費用負担となると……。いくらアルバイトをしても……」
珠実園では、アルバイトも可能ではある。でも、学費を稼ぐために仕事漬けになって学業が疎かになってはいけない。その約束を守りながらはさすがに難しい。
「高校は義務教育じゃないから難しいところだよなぁ。先生もいろいろと考えてみる。また来週な」
「はい。ありがとうございます。さようなら」
先生は真っすぐ校門を出て行く未来を見送る。
「田中には挑戦させてやりたい……。でも、入学がゴールじゃないからな……。何かうまい手があればいいんだが……」
翌日の朝、その未来が第1志望校にチャレンジするための強行突破案を持ってくるなど、そのときはまだ知る由もなかった。
その夜、児童福祉施設・珠実園では自習室の未来の机に松永健がやってきた。
「兄さん、どうしたの?」
「今日、担任の先生から電話あってさ。心配してくれてるぞ」
「うん。でも、兄さんも大変なのに相談なんかできないし」
未来は物心ついた時から一緒にいてくれる健をこう呼ぶ。
自分のプロフィールは正直なところ他人に公開できるようなものではない。
そんな自分のことを、同じ施設にいるという関係だったとしても、面倒を見てくれたことから、彼の存在は特別なものだ。
もちろん、健には未来と出会う前からの約束があり、その二人が再会すれば、自分の存在が希薄になってしまうという怖さが常にあった。
そして、この夏休みに二人は10年ぶりの再会を果たし、途切れた時間を取り戻した。
当日、健が仕事の都合で出発が遅れたとき、珠実園では自分以外の全員が健を応援していた。
そんな彼女など現れなければいい。
しかし、そんなことがないのは分かっていた。
見つけてしまっから。健が捜し求めている佐々木茜音という少女の存在を。
これだけ応援してくれる人がいる。きっと成功するだろう。
その日の夜遅く、健から伝わった茜音との再会。珠実園は沸きかえった。
その時点では、未来には茜音という少女はまだ現実のものとして認識していなかったし、まだ自分にもチャンスがあると思っていた。
しかし、すぐの夏休みにその「彼女」が学校の課外活動としてやって来た。
珠実園の夏のイベントであるサマーキャンプで、茜音の性格と、健の茜音に対する想い。なにより二人の絆の深さを知った。
茜音を避けて、ライバルとして存在しようと計画していたのに、彼女はあっさりとそれを見抜いたし、茜音の命をかけさせてしまったにも関わらず、そんなことも一切問わずに包み込まれてしまった。
正直、まだ健のことは一番の男性だと思っているし、その気持ちが完全に諦められているわけではない。
でも、敵わない。茜音を前にしたら勝てるわけがない。こんな自分を家族として迎え入れてくれたことは感謝しかない。
そんな自分の中の気持ちすら整理が着かなかった夏休み。本当はもっと別に悩むことがあることも分かっていた。
さすがに、自分の健に対する気持ちを彼に相談することはできない。
「そっか。兄さんに迷惑かけちゃうね」
「そんなことは構わないよ。未来ちゃんが行きたいところを書くだけでいいんじゃないか?」
「でも、兄さんも夜間に行ってるくらいだから……、書けないよ」
健は昼間は職員の見習いとして働き、仕事が終わった夜に夜間高校に通っている。本来は特にそうする必要は無いと言われてはいたらしい。少しでも早く仕事を覚えたいと、彼が自分で選んだ道だ。
「仕方ないなぁ……。本当はここで出していいか分からないんだけどさ……」
一度戻った健が次に現れたときに、手には封筒を持っている。
「これが必要になるって茜音ちゃんから」
「これって……」
未来は思わず息をのむ。本当に茜音姉さんは読心術を持っているのではないか。
渡された封筒に書かれている学校名は、櫻峰高等学校だ。中にはパンフレットと一緒に募集要項や願書も入っていた。
「でも、ここ私立校だよ? 学費もかかるし」
「茜音ちゃんが言ってたよ。奨学生の制度を使えばいいって」
そこも、すでに調べてあるのか……。
ただし、そのためには他の生徒たちより早い、12月に行われる先行試験をターゲットにしなければならない。
先輩たちの話だと、その試験は滑り止めや、試験慣れのために受ける子も多いという。
櫻峰高校は中堅クラスとは言え進学校だ。本来は中学時代にそれなりの成績を維持していないと一般受験すらさせてもらえないはずだ。
しかし、この先行入試は内申書無しだ。当日の成績だけの一発勝負を仕掛けられる。
どうしても昨年までの内申があまり良くない未来としては、そのハンデを背負わなくて済む。
茜音姉さんも自分の状況を十分に分かった上で、チャレンジしろと言ってくれているのだろう。
「分かった。私、ここ受ける」
その夜から、未来の志望校が決まった。
決意表明をした翌日、未来は朝一番に職員室に行き、担任に受験の進路希望を伝えた。
「そうか。やっぱり櫻峰に決めたのか。昨日言っていた学費の方は目途がついたのか?」
「いえ。そこはまだ解決していません。この試験がダメだったら、その時に考えます」
「ほぅ……」
前夜に説明された、奨学生になれば学費的なものを気にしないでよくなるという、また一発試験のターゲットに合わせるという策を聞き、リスクはあるが十分狙える範囲だと答えた。
「このまま頑張ってくれれば大丈夫だろう。確かに内申点を気にしなくていいなら、そのあとのことを考えずに、全力でやってみろ」
「はい。やってみます!」
そんなやり取りがあった職員室。学校から帰るとこれまでとは違い自習室に籠もって問題集や参考書を開く日々になった。
分かっている。あと3か月で奨学生になれるほどの学力をつけるためには、もうこの2学期の間は遊ぶ暇などない。
食事も健が自習室まで運んでやったほどで、ここまで熱中したことのない彼女を見たことがない様子に、周囲も見守ることにした。
「未来ちゃん、少し休みなよ」
年少組が寝静まった頃、健が夜食を持ってやってくる。
「もう少し頑張る」
おにぎりを食べる手を見ると、鉛筆のカスで汚れている。
いつも、どちらかと言えば学習態度はよくなかった未来がここまで打ち込めるのは、やはりあの高校にはそれなりの魅力があるのだろうか。
「未来ちゃんはどうしてあの高校を知ったの?」
櫻峰高校はこの珠実園がある横浜から少し離れた逗子と横須賀の間にある。通学としては十分に圏内なのだけど、市内に多くの学校がある地元で進学する子がほとんどだ。
「あの学校には恋愛成就のジンクスがたくさんあるんだって」
「ほぉ?」
大人が聞けば笑ったり、もっと真面目に考えるよう諭す理由だとしても、初めて人生の選択に迷う15歳には十分なきっかけだ。
櫻峰高校は文字どおりに、校内に多くの桜の木が植わっている。
また、高台にあり海も見えるロケーションでもあるため、若い男女の間で自然と青春を謳歌できるような環境が揃っている。
また、校風としても比較的寛容で、恋愛についても禁止などはしていない。もちろん、その分事件などを起こせばその処分は厳しいと聞いているが……。
それだけに、毎年いろいろと話題は伝わってくる。
「なるほどねぇ」
「先輩に聞いたんだけど、今の3年生で凄い恋愛をしている先輩がいるって聞いたし。そんな環境なら、私も少しは恋愛上手になれるかなって」
「あ、そ、そうなんだ……?」
それを聞いて健は苦笑した。もちろん、その話題のネタは彼には分かっている。
「不純な動機かな?」
「いや、行きたくない学校に行っているほどつまらないものはない。それに、行きたいと目標を決めたほうが力は入るもんだよ」
未来が櫻峰を選んだなら、きちんと話しておいた方がよさそうだ。
その夜遅く、次に珠実園に来るときは制服でお願いしたいと茜音にメッセージを入れておいた健だった。
翌日の土曜日、未来の部屋に茜音がやってきた。
「未来が人が変わったように猛然と受験勉強を始めたもんでさ。あの封筒は効果てきめんだったよ」
健に説明されながら、茜音が部屋に入ってくる。
「未来ちゃん、ウチに志望校決めたんだってねぇ。頑張ってるみたいだから、アップルパイ焼いて持ってきたよ。おやつに食べて?」
土曜日に予告もなく現れた茜音に未来は驚いた。いや、彼女の来訪に驚いたのではない。正確には茜音が身に着けている制服の方にというのが正しい。
「姉さん……、櫻峰だったんですね?」
他のメンバーも思い出してみると、茜音が制服で珠実園に現れたのは最初に学校から直行したときだけだったし、その時は委員会で未来は不在だったから、知らなくても仕方ない。
「でも、合格できるかは全然自信もないです」
「わたしもそうだったよ……」
茜音も決して順調な中学時代だったわけではない。幼い頃のトラウマを執拗につつかれ不登校になりかけたことから、結果的に転校した経緯もある。
その先でも話は完全に収まることもなく、高校も中高一貫の内部進学ではなく、外部受験をして今の櫻峰高校に進学したくらいだ。
状況的にはお互いにあまり変わらないのかも知れない。それでも、未来の場合は茜音というお手本がいる状況に変化した。
未来個人の思いとしては、ライバルである茜音の手を本来ならば借りたくないけれど、茜音も高校3年生。お互いに受験生ということもあって、この期間だけは休戦だ。
「あそこの入試問題は、あまり意地悪な問題じゃなくて、難しそうに見えても基本が分かっていれば解けるものばかりだから、落ち着くのが大事なの」
茜音が使っていたものと、今年用の過去問を持ってきてくれていた。
「うん、頑張ってみる」
「でも、未来ちゃん、どうして櫻峰なの?」
未来はもう一度、中学の先輩から伝わっている話をする。
「姉さん、そんな大恋愛の同級生って、どんな人なんですか? やっぱり素敵な人なんですか?」
「えっとー、あぁ……、それねぇ……」
一緒に聞いていた健がとうとう吹き出した。
「今までこれだけの材料があって、そこまで聞いてもまだ気づかないか?」
「えぇ?」
「そんな伝説にもなっちゃうような大先輩なら、すぐ目の前にいるじゃんか」
「えっ、そうなんですか?」
恐らく櫻峰高校で片岡茜音の名前を知らない者はいないし、彼女の先輩経由とはいえ、中学までその噂が伝わってくるほど。そんな雲の上の存在のような人物が、実は目の前にちょこんと座っている。しかも自分の受験を応援してくれると。
こんなことってあるのか。塾には行っていないけれど、精神的な支えとしてはどんなベテラン塾講師よりも強力で心強い。
それから、ますます未来は熱を入れた。学校から帰ると食事の時間以外は机の前から動かなかった。自分の場合はただ合格するだけではだめで、奨学生まで上り詰めなければならない。
それまではひとつの目標だった入学試験というものに、あの伝説の先輩が自分の味方についてくれている。これは失敗するわけにいかない。
それから茜音も時間を見つけては珠実園にやってきて、自習室に入ると問題の解き方を教えてくれた。彼女自身も受験生と言うこともあり、同じように机を並べて過去問や参考書を開いて隣で勉強するようになったからだ。
櫻峰高校で伝説のヒロインとなった茜音が自分の横で一緒に受験勉強をしている……。
そんな状況になってから、未来はすぐに気づいた。
いつもは仕事をしながらにこやかに笑っている茜音だけど、やはり制服姿で机に向かえば進学校の高校3年生である。未来の先輩を通じて、その女子生徒(=茜音)の成績を聞けば、いつも上位にいると聞いて驚く。
高校の授業日数や成績を維持しながらあの旅を続けていたというのだから、こうやって外には見せない顔を見ていると、大変な努力家であることも分かってきた。
未来が解らないことを聞いても、ちゃんと説明しながら解けるように教えてくれる。ちゃんと理解しているからできることだと。
自分たちの中学までその噂が響く茜音が個人教師としてついていてくれるなどということが知れたら……。同じ試験を受けるクラスメイトもいるから、絶対に言えない。
担任の先生にもすぐに分かった。とにかく盆ミスを潰して基本を落とさないようにとの特訓の効果が試験結果から見えてきていたし、紅葉が終わる頃には、各種の模試の結果を見ても受験の体制もほぼ出来上がりつつあった。
「姉さんは、なぜ音大志望ではないんですか?」
休憩時間のとき、未来は茜音に尋ねたことがある。
夏休みのあの一夜で、茜音の音楽の才能は同年代を飛びぬけていると分かり、あとで彼女の両親のことを調べてみると、日本どころか世界のオーケストラ界の中でも一目置かれる存在だったと分かった。その両親が事故でこの世を去ったっとき、唯一遺した一人娘が彼女なのだと。
その事実を知っている者は業界にはいくらでも存在するし、彼女が望みさえすれば、練習環境やその後の進路に困ることはない。
「うん、それも一時は考えたんだよ……」
ところが、茜音は音大には進まずに、短期大学への進学を希望しているという。短大だと言って、彼女が楽をしようとしているわけではない。短い期間に4年制大学と同じだけのカリキュラムを組むとのことで、それこそ長期休暇もなく学校に通うという生活を覚悟している。
それも、教育や福祉関係の進路に進むということで、あの茜音の持っている特技を生かさないのはもったいないと思っていたから。
「……ねぇ未来ちゃん。音楽って誰のためにあるのだと思う?」
「えぇ?」
思いがけない問いかけに、答えに困る。そんなふうに考えたことなどないから。
「音楽ってね、特別な人のものじゃないんだよ。みんなに平等なの。わたしも未来ちゃんも、今日生まれた赤ちゃんだって、みんな平等なんだよ」
「みんな平等……ですか?」
茜音は「うん」と頷いて、椅子から立ち上がって大きく息を吸い込むと、あの時と同じ声色で歌いだした。誰もが知っている曲。ベートーヴェンの交響楽第9番の第4楽章。いわゆる「歓喜の歌」という一番有名な合唱のサビの部分だ。それを見事にドイツ語の原曲のまま披露してみせた。
「なんだなんだ? 茜音ちゃんどうした??」
健をはじめとして、珠実園の面々も続々と自習室の扉から中に入ってくる。ソロとはいえあの声量だ。ドアなどは簡単に突き抜けてリビングまで届いたのだろう。
「みんなごめんね。驚かせちゃって……。 ね? 未来ちゃん。この曲って意味を知らなくたって学校でも聞いたことがあると思うけど、どう?」
「合唱会で歌ったことあります。けど、一人なのに全然違う……」
「この歌はね、解釈がすごく難しくて今でも研究材料になるようなものだよ。でも、ものすごく大雑把に言うと『みんなが力強く羽ばたいて自分の道を歩いていいんだ。みんなで夢をかなえて心を合わせて喜び合おう』って解釈が込められているの。これを珠実園のみんなに伝えるためには、わたしがコンサートホールの中にいちゃいけないんだよ」
「!?」
「未来ちゃん。茜音ちゃんの気持ちわかった?」
さっきの騒ぎで一緒に部屋に入った里見が頬を濡らしている。彼女も当初茜音の進路には疑問をもった一人だ。健の卒業に合わせて時期を調整したのかと思えば、そうではないと。
その答えを茜音はわずか数小節の歌を使って表現してしまった。
「わたしは自分の練習はするけれど、音楽は趣味。楽器を演奏したり歌を歌ったりするのは楽しいことなんだよって『伝える』ための進路を選んだの」
あの夏の日、小峰という個人的かつ強力なパイプを復活させた茜音。珠実園以外でも、同じように幼稚園や小学校など、彼個人や楽団が関係するイベントに参加することを即時に快諾したという。
そんな圧倒された中で、その日の勉強時間は終了になった。
夜遅く、健が夜食を持って自習室に入ってきた。
「少し休みなよ」
「うん。でも、もう少し」
右手の後ろ側がいつもどおり鉛筆のカスで汚れているのもすっかり見慣れた。
「どう? もうイメージできた?」
「うん……。でも、やってもやって不安になっちゃって」
「そうか……。それは誰もみんな同じだよ」
「ここで受からないと、姉さんに並ぶことが出来ないから」
「おっと、やっぱりそこかぁ?」
健は苦笑いだ。未来を突き動かしているのが自分への気持ちだと言うことも分かっている。
ただ、今はそれでいい。とにかく目標を設定したのだから、理由は何であれそこまでたどり着くことの方が大事だから。
「姉さん言ってたんだよ。最後に相手を選ぶのは兄さんだって。だから姉さんも負けないように頑張るって言ってた」
茜音が言いそうなセリフだと思った。先日の決意表明。あれは単なる未来へのメッセージではない。茜音自身へのメッセージでもあったはずだ。
あの言葉どおり、彼女はまだ先を見据えて努力を続けている。
「茜音ちゃんは、本当に先生とか向いているんじゃないかなぁ」
茜音との将来の道を自分も考えなければならない。
そして、それまでの時間は、自分たちが離れて暮らした10年間よりもずっと短い。また来年の春に自分がこの園から卒園をしなければならない日も意識せざるを得ない。
もちろん、そのときに未来を連れて行くことは誰も望まないし、彼女への許可も下りないだろう。
直接本人にはいえないけれど、その前にはこの未来の将来を任せられる誰かを見届けてやりたかった。
「頑張ったねぇ。明日は朝早いから気をつけるんだよぉ」
翌日の試験会場を設営し終わった後に、茜音が珠実園に寄ってくれた。
お守りにと、驚くべきものをくれた。
茜音の学生証と生徒手帳。よく見れば2年生のときの物で、学生証には無効の処理が施されている。ただ、有効期限切れだとしても絶対に他の人では手に入れることは出来ない本物だ。
「必ず持って行く!」
「うん。大丈夫だから」
邪魔になるからと、引き上げた茜音の後に健が戻ってきた。
「どうだった?」
「この3ヶ月、凄かった……。兄さん、あれが茜音姉さんの本当の姿なの?」
「そうだよ。茜音ちゃんは絶対に外で弱音を吐かない。ああやって、努力を重ねてるから、みんなが応援してくれるんだよ」
「私も、あんなふうになれるかな」
「大丈夫。明日は早いからもう休みな」
「うん。とにかく頑張る」
翌朝、受験当日の未来に弁当を持たせて見送った健は、玄関に大切な物が置いてあったのを見つけた。
置いていったのか。いや、今朝もお守りと言って握りしめていたはずだ。そうやって直前まで出していたから、うっかり置き忘れてしまったのだろう。
自転車で駅まで追いかけたものの、恐らく先に電車に乗ってしまっている時間だ。
健は切符を買ってホームに向かいながら携帯電話を取り出した。
後から健が追いかけているとは想像もしていない未来は、予定よりも早く到着していた。
やはり、人気のある学校だ。進学塾の教師らしき姿や、会場まで送ってきた父兄などの姿も多い。
受験票を確かめてみると、体育館ではなく、教室の方だと知りほっとする。茜音に言わせれば、どうしても体育館だと寒いので、手が悴んでしまう可能性があると聞いていたから。
受験番号を確認して、席に座り筆記用具などを用意したときに、彼女はようやく気がついた。
昨日もらったお守りが入っていない。朝食や出掛けるところまでは覚えている。玄関で置いてきたのか。
決して試験で使う物では無いけれど、精神的な支えとしてあれ以上の物は考えられないだけに、自分のドジさを恨むしかない。
途中で気付いたとしても、いまさら持ってきてもらうわけにはいかないし。
仕方ないので、落ち着かせるために参考書を開く。徐々に教室の中に人が増えて、教室の中にまた一人入ってきた時も、未来は集中を切らさないようにしていた。それでも、なぜか教室の中がざわめいたのに気づく。
顔を上げると、思わずぽかんとしてしまう。
ドアが開いたそこにいたのが、いつもどおりにブレザーからきっちり膝丈のスカート、ハイソックスまで、各中学の制服が入り交じる中、櫻峰高校の制服を着こなして入ってきたのが、この学校の最上級生でもある茜音だったから。
中には片岡という名札を見てそれが、あの噂になる人物だと気づいた者もいたようだ。
茜音は何事も無かったように、受験番号を確かめるようにして、自分のところで立ち止まった。
「おはようございます。忘れ物としてお届けがありました」
事務的に言うと、封筒を渡してくれた。見慣れた茜音の字だ。受験番号を教えていたのを覚えていてくれたのだろう。それをもっともらしく封筒の表側に書き込んである。
「あ、ありがとうございます」
他の受験生には分からないほど一瞬だったけれど、いつものように笑ってくれた。
「失礼しました。みなさん頑張ってくださいね」
また事務的に教室を出て行ったが、今までのピリピリした空気が和らいだ。
あの大先輩に会えたと喜ぶ女の子たちもいる。
封筒の中には、あの忘れてしまった品物が入っていた。
今朝までは無かった、途中のページに折り目が入っている。開いてみると『落ち着いて頑張って!』と封筒の表と同じ字で走り書きがしてある。
どんな経緯か、これを受け取った茜音は、なんとか試験前に届けるように遺失物を装って会場に潜り込んでくれたのだと。
こんな緊張感が張り詰める会場に怪しまれずに入り込めるというのは、茜音が学校でも公に信頼を得ているからに他ならない。
同じ場所に、応援がいてくれる。それだけで緊張は解れていった。
「おつかれさまぁ」
試験が終わって外に出ると、正門のところに見慣れた顔が待っていてくれた。
「姉さん、いくらなんでも目立ちますよ?」
「大丈夫だよぉ。わたしいつもこんな感じだし」
「そうですか……」
思わず苦笑する。これが演技なのか天然なのか。こんな受験生がたくさんいるところで、志望校の制服を着ている先輩がいること。さらに彼女は櫻峰高校の一学生という存在ではないのだから。
「今朝はありがとうございました。本当にドジったなと思ったんですけど。まさか、あんなに堂々と入ってくるなんて」
「あぁ、あれは健ちゃんにお願いされてね。別件で学校に行く途中だったから、駅で受け取ってそのまま。昨日のうちに受験番号聞いておいてよかったよぉ」
あのあとすぐに試験が始まったのだが、やはり櫻峰を受験する女の子たちには、もはや片岡茜音という存在は恋愛の神さま扱いなのだろう。
そんな人物があのタイミングとはいえ目の前に降臨したようなものだったから、俄然やる気にもなったり、余計に緊張してしまったりはあったと思う。
「でも、本当にいつもと変わらずに出来たと思う。本当にお礼を言わなくちゃ」
「それは、発表があってからだよ」
そして約十日後、未来の手には1枚の桜色の紙とともに、封印がされた分厚い封筒が担任から渡された。
「田中、よく頑張ったな。しかも宣言どおりの特待生で奨学金支給の条件だ。きっと、来月の一般試験に向けて、みんなどんな勉強をしていたのか聞きたがるぞ?」
「はい……。でも、塾には行きませんでしたし、学校の補習授業には出ましたけど……。とっても頼りになる先輩にいろいろ教わることはしました」
とても表ざたにはできない。櫻峰高校を受験する同学年に、実際に同校に通っている生徒のアドバイスを受けたというところまでは公表することはできたとしても、あの片岡茜音の個人指導を受けていたなどとは。また受験日当日のハプニングを切り抜けさせてくれたのも、茜音と自分との関係が築けていたからだ。
その日の学校の時間が終わると、未来は珠実園まで走り通した。
「ただいま!」
「どうしたの? そんなに息を切らして?」
夕食の準備をしていた里見が振り返る。
「茜音姉さんは?!」
「なんだか、今日は学校が遅くなったって。でも、夕飯から夜までは来るって連絡あったわよ」
じっとしていられない様子の未来に、茜音の代打として手伝いをお願いした里見。
「もぉ、あれだけライバルだってトゲトゲしてたのにねぇ……」
「遅くなりましたぁ」
すっかり聞き慣れた声がしたとたん、気がつくと園の玄関で未来が制服姿の茜音に抱きついていた。
「あわわわ……。よかったねぇ。未来ちゃんが頑張ったからだよぉ」
茜音はそのまま職員室に向かい、園長先生に告げた。
「わたしも、今日合格通知を受け取りました」
「そうか、おめでとう。茜音ちゃんも少しずつ準備を始めているんだな」
「はい。これからもよろしくお願いします」
園長はそんな茜音を孫娘の成長を見守っているように首を振っている。
「よし、我々もそれに向けた用意を始めるとしよう」
気が早く、高校での生活を茜音にいろいろと聞いている未来。
制服も渡せるものは手入れして譲ることを約束させられてしまった。
「あんまり困らせるなよ? 茜音ちゃんにとっても制服は思い出の品なんだからさ」
健の運転で横須賀まで送るとき、未来にくぎを差した。
「よっぽど嬉しかったんだね」
「未来ちゃんがあれだけ高いハードルを越えたのは初めてだからな。それが変な自信過剰にならなければいいんだけど……」
そんな健の予感が的中してしまうのは、1ヶ月も経たない時期だとその時は誰もが予想もしていなかった。