「茜音さん、おやすみなさい」
「おやすみぃ」
部屋に戻る子どもたちを見送り、茜音はさっきまで演奏会の会場になっていた部屋に残って一人片付けを続けていた。
グランドピアノのふたを閉め、自分も部屋に帰ろうかと思ったとき、隣のダイニングの明かりがついていることに気づく。
「あれぇ、里見さん消し忘れたのかな」
リビングの明かりを消しながら隣の部屋を覗き込むと、窓際に人影が見えた。
「未来ちゃん?」
ウッドデッキから暗い外を見ていた彼女は振り返った。
「茜音さん。もう大丈夫なんですか?」
「うん、もう平気。心配かけて本当にごめんなさい。お風呂にもいれてくれたって聞いて。ありがとう……」
未来のそばに行くと、乾いた涼しい風が久しぶりの全力演奏で火照った体に心地よい。
「はぁ~、涼しぃ~」
さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこかに消え、どこかあどけなさも残るいつもの彼女に戻っている。
「あの、さっきの歌、凄く上手でした……。どうやって練習したんですか?」
「えぇ? あぁ……、いつも子守唄で聞いていたし、好きな歌だからねぇ」
茜音は空を見上げる。夕立の後の空には夏の星座がたくさん見えている。
「本当はねぇ、あの『虹の彼方に』は歌うつもりなかったんだよ……。練習はしてたけど、人前で歌ったこと一度もなかったし」
「そうなんですか? とっても上手だったのに」
「うん。『星に願いを』と同じくらい、ママに聞かせてもらった歌だからねぇ。あと、この衣装をもらったのもあったし……」
「持ってきたんじゃなかったんですか?」
さっきの時間から茜音が着ている服は、菜都実や佳織も出所を知らなかった。少なくとも茜音のクローゼットに入っていた物ではないという。
足下も演奏の時に履いていた靴を手にしてクルーソックスを二つ折りにしていた。もちろん屋内は土足禁止になっているから、衣装の一部だとのこと。
「これねぇ。ママが学生の時にオズの魔法使いのドロシーをやったときの衣装で作ったり揃えたものなんだよ。もちろんあの歌も歌ったって。小さい頃に写真を見せてもらって、可愛いから欲しくてねぇ。おねだりして、大きくなったらもらえるように約束していたんだけど。あの事故があって、どこにあるか分からなくて……。また会えるまでこんなに時間がかかっちゃった。ここの小峰さんが持っていて、渡してもらえたんだ。ママに会えたように思った。だからその時のつもりになって歌っちゃった。だから髪型も変えちゃったでしょ? 衣装が衣装なら髪型も変えなくちゃね」
「プロですよ、そこまでいったら。そのままミュージカルにして出られそう」
「セリフがねぇ、楽譜と違って頭のなかに入らないんだよぉ。ママはやっぱりすごい人だったんだなぁ」
「茜音さんでも苦手なものがあるんですか?」
「うん。わたしは中途半端な出来損ないなの。本当ならね、もっといっぱい教わらなくちゃいけないことがあったはずだから」
「そんな、あれで出来損ないなんて……」
「だって、パパもママもわたしに音楽を習わせることはしなかったんだよ? 遊びで真似っこはしていたけどね」
「え? さっきのあれで独学ですか!?」
先ほどのパフォーマンスは半端な力量ではない。それが独学だというなら、あとは天性のものだろう。
さっきの話を聞いただけでも、バイオリンもピアノも個人が易々と持てるレベルではない。それを幼い頃におもちゃ替わりに使っていたと聞けば、どれだけの人物かということになる。目の前にいるのはどこにでもいそうな女子高生なのに……。
「二人ともね、『茜音が自分でやりたくなったら教えてあげる。無理に教えるものじゃない』って。でも、その前にお星さまになっちゃった……。今になってみれば、レッスン受けていてもよかったなと思ったりもしてるけど。きっと嫌になっていたかもしれないな。公私がぐちゃぐちゃになっちゃうから。だから感謝してるの……」
昔の母親が着た服を喜んで身につけている。それだけでも彼女が母親のことが好きで親子の絆が深かったことが分かる。
未来は健が言っていた茜音の家族に対する思いを改めて教えられたような気がした。