「そんなこともあったねぇ」
里見が片付けをしている間、ピアノの前に座っている茜音はそのときのことを思い出すように、ゆっくりと同じ曲を弾き始めた。
「そのときに話は聞いていたのよね。茜音ちゃんのピアノって今になって初めて聞いた。あの当時にこれを生でいきなり弾かれたら誰だって驚くわよ」
里見が感心したように腕組みをしての感想だ。
「昔からこんな才能をもってたのに、どうして言わなかったの?」
「話したとしても、あんまり他の人には面白い内容じゃないですし……」
しばらく話し込んでいると、急に空が暗くなった。
「これは来るな……」
健が呟いて数分が経ったとき、空から大粒の雨が落ちてきた。
「あぁ、降って来ちゃったねぇ」
ピアノから立ち上がり、茜音は窓から外を見た。
朝の天気予報のとおり、夕立と分かるような大粒の雨だった。
「戻ってくるかな?」
「さぁ、あの子たちだから、そのまま遊んでいる気がするけどね。みんな水着だし」
三人で窓の外を見ていたが、誰も戻ってくる気配がない。
「まぁねぇ、菜都実と佳織も一緒だから大丈夫だと思うけど」
「茜音ちゃんは行かないの?」
「うん……。ちょっと体調が……」
「え、そうだったの? 誘ったりしてごめん」
健が慌てた。茜音の様子にはそんなことは微塵にも感じさせなかったから。
「ううん、さっき着いてからだからいいんだよぉ。大丈夫だからぁ」
茜音は逆にすまなそうに言った。せっかくの日に、自分の体調で周囲を心配させたくはない。
「健君、女の子はね、好きな男の子の前では強がったりするものよ」
「里見さぁん……」
里見は茜音に牛乳を温めて持ってきてくれた。
「お砂糖は2つでいいのよね?」
「あのぉ、使っちゃって平気なんですか?」
「平気平気。茜音ちゃんは変わってないねぇ。健君もそれが気に入ってるんだろうけどさ」
役目を終えた里見は茜音に向かい合ってテーブルに座った。
「昔話のついでに、もう一つ二人が知らない話をしてあげようか?」
「はい?」
里見が微笑みながら二人に話しかける。
「なんですか?」
「あのねぇ、二人が駆け落ちしちゃった夜があったでしょ?」
「ま、まぁ……。ずいぶん無茶しましたけど」
「そうねぇ。実はね、あのとき何人かは知ってた。二人がこっそり出て行くのをね」
「ほえ~~?」
「本当ですか?」
そのことはこれまで何も知らなかった。皆が捜してくれたことはいろんな人から聞いている。
迷惑をかけたことを、まだ全員に謝ることも出来ていない。二人にとってそれが残っている気がかりなことでもある。
「ついでに、園長先生もあの晩は何かがあるって予想していたのよ。まさかあそこまで遠くに行っちゃうとは思っていなかったみたいだけどね。だから誰も出てこなかったでしょ? 二人が出て行くの、あたしは知ってた」
「どうして。止めなかったんですか……?」
当時低学年の自分たちが夜中に無謀なことをするのを分かっていたなら、園内の決まりでは高学年の子はすぐに注意することになっていたからだ。
「だって、みんな思ってたんだもん。二人を引き離すのはあんまりだって。最後くらい許しちゃえってね。あたしも賛成組。ちょっと心配だったけど、二人なら大丈夫って思ってたの。一応何かがあってからでは遅いから捜索願だけは出したけど、二人が戻ってくるまで待つって決めてたんだよ」
「そうだったんですか……。みんなに借りがあるんだなぁ」
里見は笑って続けた。
「いいんだって。みんな二人のことは応援してるよ。もう結婚したり、茜音ちゃんみたいに家庭に入った子もいる。いつかみんなで集まりたいね」
里見の様子だと、恐らく彼女は各自の連絡先を知っているように思えた。
「あ、茜音ちゃんは動きが早くて追いかけられなかったんだよ。だから、健君にも茜音ちゃんの連絡先を教えられなかったの」
雨に洗われている緑を見ていた時、聞き慣れた大きな声が響いてきた。
「茜音、健君大変!!」
「どうした!?」
佳織は走り通してきたらしい。水着にTシャツを重ねた状態で雨に打たれるまま、三人の前に現れた。
「未来ちゃんが……」
「どうしたの?」
その名前を聞いて、茜音にも緊張が走る。
「川の……、反対側に取り残されちゃって……。帰ってこられなくなって……。雨で水かさが増えちゃってるし……」
「分かった。すぐに行く」
健が立ち上がったとき、茜音は先に濡れるのも構わず走り出していた。
「茜音ちゃん! 無茶はするなよ!」
健の声は聞こえていたが、それに振り向いている余裕はない。茜音は他のメンバーがいる河原へ急いだ。
茜音が河原へ走り込んだときには、菜都実がすでに全員を一カ所に集め、状況を確認しているところだった。
「茜音! あんた平気なの? 健君は?」
「うん。健ちゃんは引率の先生を呼びに行ってる。なにがどうなってるの?」
「ほら、あそこわかる?」
菜都実が指さしたところは、川がカーブを描いている場所。こちら側は浅いが反対側が深くなっているような場所だ。
「未来ちゃん、あそこから動けないのよ」
「なんであんなことに……?」
「原因はあそこよ」
菜都実はこちら側で固まっている男の子のグループを見た。
「未来ちゃん泳げないの分かっているのに、無理矢理あそこに上らせちゃって身動きできなくなっちゃったのよ。水が急に増えて、他は帰ってこられたけど、未来ちゃんは動けないわけ」
「それじゃぁ困ったな……。この雨じゃ、水かさが戻るのを待つなんてできないし……」
二人は一人残っている未来を見た。普段は強気な視線の彼女だが、今は心細そうにこちら側を見ている。
もう雨に打たれ体温も奪われて動けないのだろう。泳げたとしても一人では危険だ。茜音の読みでは、残された時間はあまり長くない。
「……わたしが行く」
「茜音? あんた正気?」
菜都実は叫んだ。三人で海やプールに行くことも多く、茜音が泳ぎが上手なことは分かっている。しかし、泳げない人間をこの急流でもう一人抱えて渡るなど、自殺行為にも等しい。
「まだ未来ちゃんに体力が残っている今じゃなきゃダメなんだよ」
「ならあたしが行くのに」
「ううん、菜都実はこっち側にいて」
茜音はそう言い切ると、様子を見ている集団のところにやってきた。
「誰か釣り糸を持っていたよね。それを出してちょうだい」
さっきまでの、皆が知っている茜音とは思えないほどの厳しい口調だった。有無を言わせないような迫力に、釣りをしていた子から糸が差し出される。
「何をする気?」
「これをわたしがなんとかあっちまで持って行くから。健ちゃんが来たら、糸の端にロープを付けて反対側まで渡して。あとはこっち側で引っ張ってくれる? だからこっちに力のある菜都実じゃなきゃダメなんだよ。わたしと未来ちゃんを二人引っ張らなきゃならないから」
ずいぶんと危険な方法だが、確かに一番早く片付けるにはこれしかない。茜音が反対岸にたどり着けるかどうかにかかっている。
「あそこを泳ぎ切るのはどんなに凄い人でも無理だよぉ。行くとしたらもう少し上流から探してみようか」
菜都実と二人で川を上流に歩いてみる。数分のところに、川の流れがよどんでいる場所があった。
「あそこから?」
「うん。あそこなら泳ぎ切れると思う」
「水着じゃなくて平気?」
服を着たままの泳ぎはとてもきつい。服が抵抗になってしまい、手を動かすにも大変な力が必要になる。
「着替えに戻る時間はないよ。うまく飛び込めばあっちの岸に流れが行ってるから、大丈夫だと思う」
茜音は借りた釣り糸を体に巻きつける。
「茜音、これ短いけど、あんたが向こうに着くくらいの長さはあるから。こっちで持ってるから」
「うん、ありがと」
同じように菜都実が差し出した細いロープも体に結びつけた。
「健ちゃんがみんなを連れてくるはずだから、それまでにあっちに行かなくちゃ」
ブラウスとスカートをその場で脱ぎ捨て、キャミソールとスパッツの上下になる。靴は逆に必要だからとロープに靴紐で結び付けた。
「じゃ、こっちお願いね」
深呼吸をした茜音はそう言うと、助走をつけて淀みに向かって飛び込んだ。
「くっ、引かれるな。茜音、大丈夫!?」
予想以上に流れが速い。あれに巻き込まれたら茜音が流されてしまう。今は彼女の運に任せるしかなかった。
少し予定よりも流されたあと、彼女は無事に渡りきった。
「はぁ……。よかった……」
向こう岸で膝と両手を地面につき、大きく息をしている茜音は思った以上に消耗している様子だ。
「茜音! 大丈夫なの?」
しばらくして、彼女はOKサインを菜都実に返した。
「はぁ、はぁ……ふぅ……。絶対……また健ちゃんに怒られるなぁ……」
服を脱いでおいてよかった。自分の体力の回復を待つ間に裸足に靴を履いておく。
菜都実に合図をして、互いに持っている糸を切らないように、茜音はこちら側の岸を先ほどの場所まで進んでいく。水かさが上がっているため、道はないに等しかった。
足を取られないように気をつけながらようやく未来の取り残された現場にたどり着く。
「未来ちゃん、大丈夫?」
「え?」
膝を抱えて顔を伏せていた未来は、突然の声に驚いたようだ。
「どうやってこっちに?」
「ちょっと泳いじゃったぁ」
未来も茜音の姿を見て大体の流れは察したようだ。
「でも……、茜音さんに助けられたら、私……」
「ほえ?」
意外な未来の言葉に面食らう。
「茜音さんに助けられたら、私もう兄さんと……」
「バカっ! こんな時に何を言ってるのよ!」
「茜音さん……?」
彼女も普段とは違う茜音の様子に驚いていた。
「生きるか死ぬかの時に、そんな小さいことで悩まないの。助かってから考えればいいんだよそんなこと! それとも、もう二度と健ちゃんに会えないでいいの?!」
未来の水着の肩ひもをつかみ、茜音は怒鳴った。
「ごめんね大きな声出して。でもね、誰も悲しませたくないんだよぉ」
怯えてしまった未来の頭をなでる。いつもの調子に戻った茜音の声。
「わたしだって、未来ちゃんっていうライバルが出来たから、ちょっと焦っちゃった。でも、選ぶのは健ちゃんだよ」
反対側を見ると、菜都実が戻ってきた佳織や健と引率の職員に状況を説明している。
「あはは、健ちゃんが『また無茶して』って顔してるよぉ」
菜都実から説明を受けた健はこちらを向いて腰に手を当てている。
しばらくして、言っていたとおり、長いロープと浮き輪が両岸をつないでいる釣り糸に結びつけられた。
「これが切れたらおしまいだからねぇ。未来ちゃんも手伝ってぇ」
二人で力を合わせて、そのロープをたぐり寄せる。
「よぉし、これでつながったよぉ」
ようやく二人の手元にロープが届いた。茜音はそれを輪にして体に結びつける。
「それじゃぁ、こっちで未来ちゃんをとめるねぇ」
最初から持ってきていた短い方のロープを未来の腰と浮き輪に通し、もう一本に結びつける。
「未来ちゃんは泳げないんだよね?」
「うん……」
「わかった。じゃぁ、浮き輪の上に座っていても、わたしにつかまっていて。どんなことがあっても離しちゃダメだよ。浮き輪のバランスは頑張ってね」
二人で水面ギリギリのところに降りる。足が水の中に入ったところで未来は言われたとおり浮き輪の上に腰掛け、茜音の腕をつかむ。
「最初はわたし潜っちゃうかもしれないけど、何があってもこの手を離しちゃダメだからねぇ」
未来がうなずいて、茜音は岸の方を見る。万一のことがあってもこれ以上流されないよう、ロープの端が木に巻き付けられているのを確認し、菜都実たちとのタイミングを合わせる。
「いくよぉ。ちょっとだからがんばれぇ」
巻き付けてあるロープが引かれた。
「よぉし、いくよぉ!」
思い切って岸を離れる。急に深くなり足が着かなくなった。未来のバランスを崩さないために、泳ぐと言うよりも姿勢を保っているのがやっとだ。ぐいぐいとロープに引かれるのがわかった。実際には1分もかからなかったはず。濁った水の中ではずいぶんと長く感じられた。気がつくと浅瀬に来ていて、顔を水の上に出せるところまで来ている。
「未来ちゃん、もう大丈夫だよぉ。降りて立てるよぉ」
ぎゅっとつぶっていた未来の目が開いた。
「ありがとぅ……」
「もう、大丈夫だからねぇ……」
未来が自分の足で立ち上がり、他の面々にに迎えられたのを見届けると、茜音はその場に崩れ落ちた。
「未来ちゃん、そこにいるんだろ? 入りなよ」
「うん……」
中から彼の声がして、未来はドアを開けた。
ベッドには茜音が寝かされており、健が横に置いた椅子に座っていた。
「大丈夫だったか?」
「うん。もう平気」
一度入浴して体を温めたのでもう水着ではなく、元の服を着たいつもの姿に戻っていた。
「さっきは、頼んじゃって悪かったな……。本当は僕がやるはずだったんだけど……」
「兄さんが茜音さんのお風呂入れたら、ちょっとここじゃマズイでしょ。そのくらいは私でもできるよ……。でも……」
「でも、どうした?」
口を閉ざした未来に、健はたずねた。
「茜音さん、すごく軽かった……。思ったよりずいぶん痩せてた……。服が厚手で気がつかなかったけど、私でも抱え上げられた……」
「そうか……」
健は黙って未来の前に小さな薬の瓶を見せた。
「それ、持ち物の中にあった栄養補助剤だ。数日前からなにも喉を通らなくなったらしい。仕方ないから、そんな薬で持たせていたんだ」
「えぇ? でも……、そっか」
そんなバカなと思ったけれど、振り返ってみると、食事の時間も茜音は給仕などに徹していて、ほとんど食べていないことに今更ながら気づく。
「昔と同じだ。神経で胃がやられると何も食べられなくなるんだ。昔も薬とか点滴で持たせたことがあったんだ」
健は、茜音の額にかかった髪を、そっとのけてやる。
「兄さんは、それを分からせるために……?」
「違う、それは偶然。調子が悪いってのは聞いていたんだけど、どう悪いのかはさっき里見さんから聞いて知ったんだ。誰にも知られたくなかったんだよ。だから本当は僕がやるべきだったのかもしれない」
未来は改めて寝かされている茜音を見た。
さっきはあんなに大きな声で恐く見えたのに。目の前に寝かされているのは、頼りなく見えるほど自分と大差ない小柄な少女だ。
「茜音ちゃんはいつもそうだ。ギリギリまで我慢しちゃうから……。それを見抜けなかった僕に全部責任がある……」
「兄さん……」
こんなに心配そうに声を絞り出す健を未来は見たことがない。
「恐かったかい?」
「えっ、うん……、私泳げないから」
「違うよ、あのとき怒鳴った茜音ちゃんだよ」
普段は大きな声を出すことはない茜音。だからこそのギャップに驚いたのは事実……。
「うん……。でも、仕方なかったと思う。私を助けに来てくれたのに、一人で意地張って……。まさかこんなことになるとは思ってなかったし」
それは健以外の誰にとっても茜音が倒れる事態は想定外だ。
「未来ちゃん。茜音ちゃんは、もう大切な人を誰も失いたくないんだ。だから、きっと僕があそこにいたとしても、きっと作戦は同じだったと思う。茜音ちゃんは未来ちゃんを認めたんだよ。自分の大切な家族の一人として」
「家族……?」
未来は、自分の家族を知らない。この世に生を受けすぐに、彼女は珠実園の門のところに置き去りにされていたという。
健のことを兄と呼ぶのは、そんな幼い頃から自分の面倒を見てくれたことに由来する。
「茜音ちゃんは事故で両親を亡くすまで、仲のいい家族の中で大事に育てられてきたんだ。だから、家庭がどんなに暖かい物かを知ってる。僕たちが茜音ちゃんから学ばなきゃならないものはたくさんあるんだよ」
「そっか……」
うなずいた未来を健は見て続けた。
「未来ちゃん。僕は言っておかなくちゃならないことがあるね……」
「うん?」
未来の表情が少しこわばった。
「言わなくちゃいけないことがある」
ついにそのときが来たと、未来は理解していた。
「ごめんな。未来ちゃんの気持ち分かってて、ずっと何も言わなくて」
「うん……」
「知ってるとおり、未来ちゃんと会う前から、僕と茜音ちゃんは二人だった。当時から将来のことは言っていたけど、それがどこまで本当になるかは分からなかったけどね。でも、僕もこの10年、茜音ちゃんことを忘れた日は1日もなかった。そして、それは茜音ちゃんも同じだった。先月再会したときに、僕はずっと思ってきたことを茜音ちゃんに言った。これからは何があっても茜音ちゃんを守っていくって」
「兄さん……」
ずっといつかは告げられると分かっていた答えだ。
健たち二人の話は、珠実園の中でも十分すぎるほど有名だったし、そんな二人の恋愛物語は、年頃を迎えた女の子たちにとって憧れとさえ言われているほどになっている。
一方で、幼い頃から健に面倒を見てもらってきた未来。
兄と呼びながらも本当の兄妹でないことは十分承知していた。
だからこそ、伝説となるほどの恋愛ストーリーの主人公である健のそばにいられることが自慢だったし、淡い期待も抱いた。
「私は、結局負けちゃった……。最初からそう思っちゃいけなかったんだよね。兄さんが茜音さんに会いに行くとき、本当は行って欲しくなかった。聞けば聞くほど、茜音さんが約束を破る人には思えなかったし、茜音さんが兄さんのことを真剣に探してるって知っちゃっていたから……」
「え?」
健には初耳だ。そうなると健がずっと探し出せなかった茜音の所在を彼女は知っていたことになる。
「学校でね、プログラミングの時間に見つかったんだよ。兄さんたちの名前を入れて検索したら出てきた。中を読んで、この人がそうなんだって……。でも、書き込みはできなかったし、兄さんにも知らせること出来なかった……。ごめんなさい」
「そっか。未来ちゃんの気持ちを考えれば、仕方ないことだよ。もう過ぎたことだ」
もしそのときに互いの情報を知ったとしても、結局二人はあの日まで会うことはなかっただろう。気持ちの上での雲泥の差はあったとしても。
「だから……、今度来る人が同じ名前だって知ったとき、もうどうしていいか分からなくて……」
「僕を取られるって思ったのか……?」
無言の返事を返した未来。
「だって、兄さん、もう珠実園を出て行かなきゃならない歳だし。きっと茜音さんのところに行っちゃうと思ったし……」
「まだ何も決まってないし。決まったとしてもまだ先の話だよ。いきなりいなくなることはないさ」
健にも未来が急に密着度を上げてきたことは分かっていた。分かっていても、自分には普段通りに接してやることが、彼女に出来るせめてものことだった。
「うん……、本当に茜音さんって凄い人なんだね。兄さんが惚れるのが分かった気がする。なんか、素直に祝福してあげられるような気がしてきたなぁ」
「なに言ってるんだか。そろそろ菜都実さんか佳織さんが来るはずなんだ。僕はみんなの夕飯の支度をしに行くから、しばらくついていててあげてくれるか?」
顔を赤くしながら、健は立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「うん……、分かった。私ももう少し休んでるね」
「寝てるからって、いたずらしちゃダメだぞ」
「大丈夫。今度茜音さんになんかしたら、それこそ兄さんに愛想つかされちゃう」
未来の顔がいつも通りに笑ったのを確認すると、健はその部屋をあとにした。
「あれ佳織、茜音は?」
夕立は上がったものの、地面がぬかるんで危ないとの判断で、その日の夕食はウッドデッキでのバーベキュー開催となった。
健や里見と一緒に手伝いをしていた菜都実は、佳織が一人下に降りてきたのを見つけた。
「目も覚ましたし、あとで降りてこられると思うよ。今はここの家主さんとお話し中」
「は? 茜音になんか関係あんの?」
菜都実は一瞬訳が分からなかったが、すぐに思い直した。
「茜音ってさぁ、どこに味方がいるか分からないよなぁ」
「まぁ、ただでさえあちこち出歩いているから、そんなところかもしれないけどね」
食事が終わる頃になると、子供たちは自然にデッキのあるダイニングキッチンではなく、大きな客間の方に集まりだした。
「今年はどんな曲かなぁ」
「なんかあるの?」
未来が健と話しているところに、菜都実が割り込んだ。
「ここの家主さんってさ、有名なオーケストラのコンサートマスターなんだって。だから毎年このタイミングでいつも演奏してくれるんだよ。その時々で曲が違うってのがあってさ」
「なるほどねぇ……」
珠実園の子たちがなかなかプロの生演奏というものに触れることは容易ではないだろうから、楽しみにしているということも理解できる。
その話をまた横から聞いて、佳織は納得したように腕組みをしていたけれど、それと同時にその人物が茜音と会っているということに、何かがあると感じた。
日も暮れ、周囲も暗くなった頃、その人物は客間に姿を見せた。
「皆さん、お久しぶりですね。ずいぶん大きくなられた方もいるようですが、お元気で何よりです」
バイオリンを手に現れたその男性は小峰と紹介されていた。普段は東京のオーケストラに所属し、コンサートマスターをしている身でありながら、この珠実園には何かと縁があって協力をしてくれているという。
「うわぁ……。あの楽団のコンサートなんて、とても取れないわ……」
小峰の自己紹介に佳織が目を丸くしている。
「本日は、思いがけない方とお目にかかれたので、特別な演奏でお聴かせできることになりました」
小峰氏はドアを開けて、玄関ホールで待機していた人物を招き入れた。
「あ、あのぉ……、本当にいいんですか……?」
そう言いながら楽譜を抱えて入ってきたのは、
「あれ、茜音だよな……?」
「珍しい。髪型まで変えてくるなんて」
「っていうかさぁ、あんな服を持ってきていたっけ?」
菜都実と佳織の指摘のとおり、その人物は茜音以外にないわけだが、いつも見ている彼女の姿ではなかった。
普段、両サイドの前の方で三つ編みを2本作っている髪型を、このときは後ろ側に垂らしている髪も入れて二つに分けて太い編み込みにしている。
服もこれまで見たことがない、白い丸襟のブラウスに青と白のギンガムチェックのエプロンドレスを合わせ、上品さというよりも、素朴さが強調されているようなデザインだった。白いストラップパンプスも持参品ではない。
「皆さんもご存じの、片岡茜音さんが本日の特別ゲストです」
小峰は茜音の隣に立って説明を続ける。
「以前のお名前は佐々木茜音さんとおっしゃいます。そして以前、私は茜音さんのご両親とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていました」
「えっ?」
菜都実が驚いた顔をしているが、佳織は謎解きが終わったような表情だった。
「この茜音さんのご両親は、佐々木秀一郎さんと成実さんとおっしゃいまして、お父様の秀一郎さんは当時、楽団の先代コンサートマスターをしておられました。世界でも有数のバイオリニストです。そして、お母様の成実さんは、新人でありながらトップのピアニストでしたから。お二人はいつもこの家で練習をされていたんですよ。そして、そのお嬢さんの茜音さんも幼い頃によくこちらに見えていますからね」
「えぇー?」
一斉に視線が茜音に注がれる。
「やっぱりかぁ……」
「なによ、知ってたの?」
納得している佳織に、健と菜都実が目を向けた。
「知らなかったわよ。だとしても、お店であれだけ弾ける茜音の才能を考えたら、なんかあるって普通思うじゃない」
「そっかぁ」
「『茜音』さんのお名前は、お生まれになった9月10日当日の夕焼けを茜色と、ご両親を結びつけてくれた音楽への感謝を込めてつけられています。茜音さんもご存知ではなかったでしょう?」
「はい。そんな話、はじめて聞きました……」
準備も終わり、茜音はピアノの前に座った。使い込まれたピアノだから、彼女が昔触った記憶があるという謎も解けていた。
今年の演奏会は特別だ。これまでのソロではなく、組み合わせを自由に変えられる。
目配せでタイミングをとったり、強弱も自在なところに、プロである小峰と、それに即座に応えられる茜音の実力は付け焼刃ではない。
小さな子達が歌えたり退屈しないような選曲で、あっという間に感じてしまった小一時間をセッションで演奏したあと、二人は小休止の水を口に含み、茜音に進行が任された。
「せっかくなので、このあとはわたしたちの歌を入れていきますねぇ。曲だけ決めてぶっつけ本番なので、間違えちゃってもごめんなさい。英語の歌詞ですけど、小学生のみんなでも聞いたことがあると思います」
再びのアイコンタクト。茜音の手が鍵盤の上を走り、小峰がバイオリンの音色を重ねる。
「ん? このイントロどっかで聞いたことがあるような……」
菜都実がつぶやく。
英語の歌詞であったけれど、メロディーは頭にすっと入ってくる。
「あ、『美女と野獣』だ……」
「そっか、二人だからデュエットできるんだ……」
男性パート歌唱が入る部分の伴奏はピアノのみに委ねる。
本来は分厚いオーケストラ譜面を即座にピアノ用にアレンジしてしまうなんて、もはや高校生の域を超えている。また普段お店ではボーカルを入れない。はじめて聞く茜音の声量はマイクを通していない。三人で行くカラオケのそれとは全く違う。
「すごぉい……」「すげぇ……」
演奏だけにとどまらず、実際の年齢を超えた歌唱力を見せられては、いつも一緒にいる二人でもただ驚くしかない。
「健君も相方歌えるようにならないとねぇ」
「えぇ? あんなの無理だなぁ」
これを即興で行えるのは素質も当然ながら、友人たちには内緒のトレーニングを行っている証拠だ。そうだとしても、普段見たこともない目つきから、頭の中をフル回転させるような集中力を投入しているのが分かる。
「茜音ちゃんのは特技というより、生まれ持ったものでしょ?」
里見は初めて見る茜音の別の顔に驚きを隠せない様子だ。
「まさに美女と野獣ならぬおじさんでした。さぁ、ここで今日は皆さんにクイズをお出ししたいと思います。難しいかもしれませんが、挑戦してみてくださいね」
小峰はホールの隅に設置してあるステレオの方に歩いて行った。
「これから、同じ曲を2回流します。片方がこちらにあるピアノで、もうひとつは秘密の場所で録音したものです。みんなに答えてもらいます。どちらかお分かりですかな?」
ピアノの演奏曲は、ベートーベン作曲の「エリーゼのために」の冒頭部分。習ったことがない子たちでも聞きなれたものの選曲は小峰らしい。
それを2回再生する。
子どもたちが、「1回目」、「2回目」だと叫んでいるが、茜音は答えを出さない。
「茜音さんはいかかですかな?」
「どちらも聞いた記憶がある音なので……」
茜音は最初の音色のキーを押し込んでみる。
「そうですね。こっちです。1回目のがこのピアノで、スタインウェイのD-274。当時も丁寧に調律されていますね。2回目のは……、たぶんお家にあるカワイのSK-EXだと思います。しばらく使われていなかったので、この間フルメンテナンスをお願いしたら、『ここにあったのか!』と驚かれて、ピアノ工場の職人さんを呼んでこられる騒ぎになったんですよ」
茜音が何気なく調律をお願いする電話をかけてからの騒ぎを手短に話す。
「素晴らしい。正解は1番目がこのピアノです。2回目のは茜音さんのおっしゃったとおり。型番まで見事です。どちらもお母様の演奏を録音したものですよ」
「茜音姉ちゃんすげぇ!!」
みんなの興奮はそれだけに収まらない。
小さい子たちは大騒ぎだけども、健をはじめとしたメンバーはすでに言葉が出なくなっていた……。
「では第2問目」と、小峰はバイオリンを2丁並べてみる。
「これら二つは、作られた年代が大きく違います。どちらが古いでしょうかな?」
使われた曲目は、これも誰もが知っているであろうバッハの「G線上のアリア」。
今度は、子どもたちは目を閉じたまま音色を聞いていた茜音の方をじっと見ている。
「小峰さん、これを聞き分けるのは難しいですよぉ。どっちも……。父の音色がします……。最初の方はイタリアのストラディバリウス……200年以上前のものです。もうひとつは、国内製のピグマリウスでしょうか……。それでも木材の熟成がしっかり進んでいますので40年以上前のものだと思います」
小峰は拍手で正解を表した。
「素晴らしい。完璧にお見事です。そして、どちらもお父様の音色とおっしゃった。そのとおり。どちらもお父様から生前お預かりしている品です。こちらもお嬢様にお返ししますよ」
小峰が彼女の事を「茜音さん」から「お嬢様」に呼び名を変えている。茜音の両親が尊敬されていたことと同時に、茜音の中にその片鱗を見出せたのであろう。
「小峰さん……。こちらは父の形見としてそのまま使われてください。わたしはこちらで十分すぎますから」
茜音はイタリア製の名器を小峰にそっと手渡す。
「お嬢様……、そちらは練習用だとお父様がおっしゃってましたよ」
「いいんです。楽器は、分かる方が管理をしてくださって初めて素敵な音色を奏でます。わたしのバイオリンは音を出すのが精いっぱいです。練習用で十分すぎます。これからも多くの人の心を癒してくだされば父も喜びます。お時間のある時にわたしにレッスンしていただいてもいいですか?」
「お嬢様……。もちろん、この不肖小峰が務めさせていただきます」
目を赤くして、茜音の手をそっと包み込む。
「茜音って、やっぱり凄すぎる……」
「なんてシーンを目にしてるの、私たち……」
あとで二人が知るのは、小峰に譲った方が最低でも数億円、茜音が受け取った方でも家が1軒建ってしまう値打ちとのこと。
菜都実と佳織も、普段一緒にいる友人の驚異の素性には、感想を表現する方法が見つからなかった。
「では、私はこの辺で一度下がらせていただきますよ。お嬢様、あとはお願いいたします」
「えっとぉ……、任されても困っちゃうんだけどなぁ……」
さっきまでの騒ぎからいつもの声に戻り、少し考えた後……、
「それでは……、もう時間も遅いので、いつもお店で最後に弾かせてもらっている曲を行きますね」
ウィンディでの演奏の最後と同じように、菜都実が部屋の明かりを落とした中で茜音は『星に願いを』を初めての原曲弾き語りで披露した。
「ありがとうございましたぁ」
「え~?? 茜音さんアンコールはぁ?」
お店ではいつもこの曲をアンコール用に使っている。子どもたちに言われてしばらく悩んだ茜音。
「それじゃぁ……。まだ誰の前でも演奏したことがない曲です……。わたしの大好きな1曲を弾いてみますねぇ……」
しかし、彼女はすぐには鍵盤に向かわない。このピアノも彼女の母親が演奏したものだ。
「茜音ちゃん、大丈夫……?」
「うん。大丈夫だよ」
茜音は小さくうなずいた。あれだけの集中力を使ったあとでは、さすがに疲労も出てきているだろう。
「えっと……、みんなも知っているように、わたしの今回のお手伝いは今夜、そして明日は珠実園に帰ると終わりです。それなのに心配をかけてしまって、本当にごめんなさい……。迷惑をかけたおわびに何かと考えました」
茜音はそこで再びピアノに向き直った。
「最後は……、曲はみんな知っていると思います。映画、オズの魔法使いより『虹の彼方に』です。聞いてください……」
"...Somewhere Over the Rainbow..."
映画を見たことがなくとも、あまりにも有名で、色々とカバーされているから、この曲を聴いたことがない人はいないだろう。菜都実たちも曲自体は知っているけれど、茜音の弾き語りは初めてだ。
「……わたしも幼い頃に両親を亡くして、皆さんと同じように施設で育ちました。いろんなことがあるかもしれないけど、わたしはあの経験があったから、今があるんだと思ってます。わたしは将来、皆さんのお手伝いができるように勉強して戻ってくることを約束します……」
静まりかえった部屋の中で、茜音の手が鍵盤から離れた。
「茜音さん、おやすみなさい」
「おやすみぃ」
部屋に戻る子どもたちを見送り、茜音はさっきまで演奏会の会場になっていた部屋に残って一人片付けを続けていた。
グランドピアノのふたを閉め、自分も部屋に帰ろうかと思ったとき、隣のダイニングの明かりがついていることに気づく。
「あれぇ、里見さん消し忘れたのかな」
リビングの明かりを消しながら隣の部屋を覗き込むと、窓際に人影が見えた。
「未来ちゃん?」
ウッドデッキから暗い外を見ていた彼女は振り返った。
「茜音さん。もう大丈夫なんですか?」
「うん、もう平気。心配かけて本当にごめんなさい。お風呂にもいれてくれたって聞いて。ありがとう……」
未来のそばに行くと、乾いた涼しい風が久しぶりの全力演奏で火照った体に心地よい。
「はぁ~、涼しぃ~」
さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこかに消え、どこかあどけなさも残るいつもの彼女に戻っている。
「あの、さっきの歌、凄く上手でした……。どうやって練習したんですか?」
「えぇ? あぁ……、いつも子守唄で聞いていたし、好きな歌だからねぇ」
茜音は空を見上げる。夕立の後の空には夏の星座がたくさん見えている。
「本当はねぇ、あの『虹の彼方に』は歌うつもりなかったんだよ……。練習はしてたけど、人前で歌ったこと一度もなかったし」
「そうなんですか? とっても上手だったのに」
「うん。『星に願いを』と同じくらい、ママに聞かせてもらった歌だからねぇ。あと、この衣装をもらったのもあったし……」
「持ってきたんじゃなかったんですか?」
さっきの時間から茜音が着ている服は、菜都実や佳織も出所を知らなかった。少なくとも茜音のクローゼットに入っていた物ではないという。
足下も演奏の時に履いていた靴を手にしてクルーソックスを二つ折りにしていた。もちろん屋内は土足禁止になっているから、衣装の一部だとのこと。
「これねぇ。ママが学生の時にオズの魔法使いのドロシーをやったときの衣装で作ったり揃えたものなんだよ。もちろんあの歌も歌ったって。小さい頃に写真を見せてもらって、可愛いから欲しくてねぇ。おねだりして、大きくなったらもらえるように約束していたんだけど。あの事故があって、どこにあるか分からなくて……。また会えるまでこんなに時間がかかっちゃった。ここの小峰さんが持っていて、渡してもらえたんだ。ママに会えたように思った。だからその時のつもりになって歌っちゃった。だから髪型も変えちゃったでしょ? 衣装が衣装なら髪型も変えなくちゃね」
「プロですよ、そこまでいったら。そのままミュージカルにして出られそう」
「セリフがねぇ、楽譜と違って頭のなかに入らないんだよぉ。ママはやっぱりすごい人だったんだなぁ」
「茜音さんでも苦手なものがあるんですか?」
「うん。わたしは中途半端な出来損ないなの。本当ならね、もっといっぱい教わらなくちゃいけないことがあったはずだから」
「そんな、あれで出来損ないなんて……」
「だって、パパもママもわたしに音楽を習わせることはしなかったんだよ? 遊びで真似っこはしていたけどね」
「え? さっきのあれで独学ですか!?」
先ほどのパフォーマンスは半端な力量ではない。それが独学だというなら、あとは天性のものだろう。
さっきの話を聞いただけでも、バイオリンもピアノも個人が易々と持てるレベルではない。それを幼い頃におもちゃ替わりに使っていたと聞けば、どれだけの人物かということになる。目の前にいるのはどこにでもいそうな女子高生なのに……。
「二人ともね、『茜音が自分でやりたくなったら教えてあげる。無理に教えるものじゃない』って。でも、その前にお星さまになっちゃった……。今になってみれば、レッスン受けていてもよかったなと思ったりもしてるけど。きっと嫌になっていたかもしれないな。公私がぐちゃぐちゃになっちゃうから。だから感謝してるの……」
昔の母親が着た服を喜んで身につけている。それだけでも彼女が母親のことが好きで親子の絆が深かったことが分かる。
未来は健が言っていた茜音の家族に対する思いを改めて教えられたような気がした。