「そんなことがあったの。人生も分からないねぇ」
佳織もため息をつく。
佐々木家の方から、今後茜音については手を出さないとする誓約が取れたことを報告しにきてくれた。そこに例のテレビでの影響を心配した小峰が同行してきたという。
「その、美鈴さんてのはどうなったの?」
「うん、話したみたいだよ。最初は猛反対されたみたいだけど、最近はそうでもないみたい」
あの後も個人的に連絡をとり続けている美鈴とは、それまでとは一転して良好な関係となっている。
彼女の話によれば、佐々木家としても美鈴が反対していた以上に茜音に強固に拒絶され、法的措置も辞さないという姿勢には驚いたようだとのこと。
今回の親権移動については、茜音も成人していることやこれまでの経緯からも、仮に裁判となった場合に勝てる見込みもないということになり、茜音を戻すことは諦める結論に至ったようだ。
それに追加で、母方の祖母が会いに来たこと。事故後の対応についての謝罪があったことも報告された。
「茜音はそれでいいの?」
「うん、だってそれぞれの立場があって、出てこられないことだってあると思うし。仕方ないんだよ」
茜音だって、すぐにその結論に至ったわけではない。やはり自分は不要な存在だったという感情がある一方、周囲に言えないながらも、自分の誕生を陰ながら喜んでくれた人がいたという事実。
また、こちらもまだ大きく公表はできないけれど、お互いに出会いを喜ぶことができた従姉妹の存在も非常に大きかった。
茜音自身、さまざまな事はあったにせよ、何とか乗り越えて大人にもなったし、将来の伴侶もいてくれる。過度な干渉さえないのであれば、それは事実として受け入れていくしかないと思うようになっていた。
「そんな茜音に、ちょっと急で悪いんだけど……」
佳織が申し訳なさそうに、話題を変える。
「うん?」
「実は、これ出てくれないかな」
差し出されたのは、市内の音楽コンクールのパンフレットだった。
「えー? だって、わたし練習も何にもしてないよ?」
「実は、出る予定の人が怪我しちゃって……。人数の関係から代役を立てなきゃいけなくなって。他の人に頼めないよこんなの。茜音だからなの。お願い!」
佳織に差し出された課題曲の楽譜を受け取り、封を切ってざっと辿る。
「小峰さん、けっこう難しいですよこれ……」
恐らく楽譜を見ながら弾くだけなら、数回練習すれば出来るだろう。問題は曲の解釈で、作曲者が何を表現したいのかを見極めることだ。これを見誤ると、どうにもチグハグな演奏になってしまう。
「成美さんの曲の解釈は楽団の中でも随一でしたが、教わっていませんでしたか?」
「教わるも何も、わたしには特訓ありませんでしたし」
もちろん、当時から家には楽器もあったし、自由に触らせてもらった。しかし、当時開いていたレッスンの練習生に課していたような課題を茜音には与えなかった。
「うん、佳織にもお世話になったし。いいよ。やってみる」
その日から、教室の空き時間や、家に帰ってからも茜音はピアノの前に座っていた。
横で見ていた健が語ったところによると、楽譜は鉛筆で真っ黒になるほど書き込まれ、鍵盤に指を走らせてはそのたびに頭を抱えていたという。
本来の出場者には1ヶ月前に渡されているのが、茜音には1週間しかない。課題曲は新曲だから、他の参加者同様に誰にも相談をすることは許されないという。
ハンデは承知だが、佳織やここまで育ててくれた小峰に恥はかかせたくなかった。
「できたぁ……」
茜音のそんな声が聞こえたのは、コンクール当日の午前1時を回った頃だった。
市内のコンクールとはいえ、プロアマを問わずの参加となる。当然どこのレッスン教室にも所属していない茜音はアマチュア扱いだ。
しかし、その差は正直なところ歴然だった。
「小峰さん、茜音ってどこが違うんですか?」
休憩時間に、客席にいた佳織は隣の小峰に聞いた。音楽の耳は持っていない佳織ですら、どこか他の演奏者と異なるところがあったように感じられたほどなのだから。
「音が正確なのはもちろんですが、楽譜上には書かれていない、作曲家が何を表現したいかを演者が読み取ることを『解釈』と言います。これを他の方とは微妙に変えておられる。私の予想でしかありませんが恐らくお嬢様の方がより正確だと思います。これを僅か1週間で仕上げてくるのは見事です。これはもう天性としか言えません。やはり天才のお二人の血筋なんでしょうね」
口には出さず小峰が首を傾げているのは、審査に時間がかかっていることだ。理由の想像はついていた。もちろん、台風の目になってしまった茜音の存在だ。
課題曲の作曲者は明かされていないし、その譜面の読み方や解釈も各自が自由ではあった。きっと、問題となっているのは彼女の素性なのだろうと。
僅か1週間前のエントリー変更にもかかわらず、審査員をうならせる技術をもつ無名のピアニストは誰なのか。
このコンクールは、アマチュア部門とはいえ各パートの優勝者には2ヶ月の留学研修というご褒美がある。どこの教室にも属していないともなれば、それなりの人物でないと選出理由に箔が付けられない。
この会議の中、審査員の一人が首を傾げた。
「昔、この片岡さんとほぼ同じ解釈ができた人がいる。ただ、歳も違うし、お名前も違う」
「そうなんです。あの方はお亡くなりになってます。惜しいことをしたもんだ。彼女が同じ解釈をして演奏すれば十分に優勝させられるのだが」
「もしかして……。まさか、そんなことが……?」
結果はすぐに出た。あのテレビの影響もあった。インターネットで検索してみると、茜音の名前からすぐに情報が詳細に分かった。
片岡茜音。
もはや伝説とも言われた。彗星のように突然現れて、各賞を総ざらいした後に海外留学した一人の女性ピアニスト、佐々木成実を母親に。国内最高クラスの楽団コンサートマスターを務めていた佐々木秀一郎を父親に持つ。
後に不慮の事故で亡くなってしまった二人が、唯一遺した一人娘なのだと。
会場からの帰り道、トロフィーを抱えながら佳織と健と一緒に電車に乗る。こんな物を持ち帰るとは思っていなかった。
「茜音ぇ、なんであんたはそこまでやっちゃうかなぁ?」
会場で着ていた赤いドレスは、クローゼットの中から大急ぎで選んだものだ。もともと成長すれば雰囲気の似ていた親子だったのだろう。母親の衣装を着ても違和感なく収まっていた。
「頼まれたからにはね……。それよりも健ちゃん、どうしよぉかぁ……」
あくびをかみ殺しながら、手元の袋を見下ろす。バックに衣装と一緒に入れてある封筒が問題の種だ。
春休みにかけて、オーストリアのウィーンに2ヶ月の研修体験。学生には春休みにちょうどいい時間だけど、職を持っている茜音には休暇にしては長すぎてしまう。
「そしたら、本物の研修にしちゃおうよ。もともと茜音ちゃん、音楽セラピーの勉強がしたいって言ってたし。現地で調整してみたら?」
現地での調整と、茜音の不在期間を他の職員と、今度の春からの珠実園入りが決まっている河名千夏と西村和樹の二人に連絡をして、卒業式を待つ和樹に部屋の片づけをお願いし、一足先に千夏に入ってもらうことで乗り切ることになった。
「ねぇ健ちゃん……。2ヶ月、ごめんね。忙しいときなのに」
出発の前日、二人はいつもどおりに並んでベッドに入っていた。
「大丈夫。みんないってらっしゃいって言ってくれたし。この春卒園の子たちの最後までには帰ってくるわけだし」
珠実園のメンバーも、茜音が助っ人として音楽コンクールに出場することは知っていたものの、まさか優勝トロフィーを持って帰るなどとは思っていなかったから、「ひとまず」と園に寄って、テーブルの上にドンとおかれたときには、歓声と納得の声が半々だった。
高校3年生の時にみんなの度肝を抜いた彼女の力量なら、この結果は当然だというのが理由だ。
同時に、電車の中で話していた茜音の研修の話題が発表される。
「茜音先生、戻ってきてくれるんですよね?」
「うん、どんな形でも必ず戻るよ。みんなの晴れ姿見なくちゃね」
茜音が帰ってくるのが3月の頭だから、せめて各学校を卒業する子どもたちの晴れ姿を見届けたいと思っていた。
二人だけになったとき、茜音は健にだけ本音を漏らす。
「それもそうなんだけど……。18歳でもう一回会えてから、2ヶ月間も会えないなんて初めてなんだよ」
「そうだったか……。もう茜音ちゃんとは何年もずっと一緒にいる気がしていた。あの10年間なんかなかったみたいに」
「わたしもそうなんだよ……」
いつも隣にいるようになって、もう2年以上が経つ。茜音にいつでも会える。そんな環境に慣れきってしまっていることに気づいた。
「だから、この2ヶ月の時間が怖い。帰ってきたら、わたしの居場所がなくなっちゃうかもしれないって思うと怖いよ。健ちゃん、もっとわたしって頑張らなくちゃいけないのかなぁ」
仕事に追われる毎日。確かに落ち着くまでは頑張ろうという約束はした。そして、茜音はそのための準備を着実に進めてきてくれた。
偶然とはいえ、留守を守ることになるけれど、2ヶ月彼女と離れて暮らさなければならない。
二人が離れて過ごした10年間からすればあっという間かも知れない。それでも、もう一度気持ちを確かめ合って二人三脚で歩いていくことを約束した茜音をそろそろ安心させてやりたい。
「茜音ちゃん。約束する。僕はこの2ヶ月で準備をするよ。茜音ちゃんとずっと一緒にいられるように」
「健ちゃん……。茜音、変わっちゃうかも知れないよ? そんなわたしでも、隣にいさせてもらえるの?」
嬉しそうに涙を流した茜音の頬にキスをする。
「茜音ちゃんは変わらない。きっと2ヶ月したら、僕が心配するくらい凄い女の子になって帰ってくると思う。僕はそんな茜音ちゃんを予約したい」
「うん、予約されちゃったぁ。空港まで迎えに来てくれる?」
「もちろん。明日も行くよ」
その日も、茜音は健の手を繋ぎながら目を閉じた。
その日、茜音はウィーン・ミッテ駅から列車に乗って空港を目指していた。
自分の帰国ではない。それにはあと1週間残っている。
2月も終わりに近づき、まだ寒いながらも最初にやってきた1月よりは春めいた日が少しずつ増えてきているのを感じる。
こちらに来てもうすぐ2ヶ月。最初は普通の交換留学生のような扱いをされていた茜音で、いろいろな音楽学校に通ったり、現地の福祉施設を忙しく回っていた。
それらを回りながら、まだ日本は児童福祉で遅れていることを痛感したと同時に、珠実園には良いところを投入できるアイデアを次々にレポートに仕上げていった。
忙しい中で寂しくなかったかと言えばもちろん嘘になる。
それでも時代は変わった。自分の手元のスマートフォンからいつでも健やいつものメンバー連絡が取れたし、自分の代わりを勤めてくれている千夏からも分からないことへのフォローは、時差をのぞけば国内にいるのと変わらない。
1ヶ月ほどしたとき、茜音はある音楽アカデミーとオーケストラを訪問した。
そのアカデミーの学長は茜音を見ると突然興奮しながら抱きしめてくれた。
「アカネ、よく来てくれました」
感激の挨拶を話しているのを聞くだけが精一杯で、あとは通訳を通じて話を聞いて驚いた。
その昔、シュウイチロウとナルミと一緒に仕事をしていたと。顔を見た瞬間に二人の娘だとすぐに分かったとのことだ。
茜音の演奏を聴いたあと、彼は懐かしそうにつぶやいた。
「あなたのご両親と同じ音がする」
そして、二人が通ったレッスン室も見せてくれた。そして、その部屋の楽器類は自由に使ってもよいとのことだ。
それだけではない。
その日の夕方、茜音は荷物を持ってホテルのロビーに呼ばれた。
「さっきの学長先生が片岡さんをこちらの部屋に案内しなさいと言われまして」
その部屋はアカデミー生が使う宿舎だった。宿舎と言ってもほぼ日本で言うアパートで、キッチンやバスも完備されている。建物や家具自体は古いのだろうが、大切に使われているようで不便さは感じなかった。
ここからならばアカデミーのレッスン室まで歩いていける距離になる。
ただ、通訳がいてくれるホテルからは離れてしまうという心配を解消するため、同じ宿舎にいる日本人の女性を紹介してくれた。
彼女はすでに茜音の素性を聞いていたらしく、丁寧に説明や案内もかって出てくれた。
「片岡さんに見せたい物があるんですよ」
最初の日に宿舎の資料室に案内されて、奥の方に入る。
各部屋の番号の棚には、歴代の利用者の名前の箱が納めてあった。
「えっ……」
茜音も思わず声を上げる。ドイツ語で書かれてはいるものの、そこに記されている名前には恐ろしく見覚えがあったからだ。
「あの部屋はしばらく使われていなかったんです。今日の昼過ぎに学長に呼ばれて、あの部屋をメークアップしてほしいと言われてね。何事かと聞けば、昔の仲間の娘が来てるって。あんなに興奮している学長なんて初めて見たな」
茜音はその箱をそっと抱えた。必ず返すという約束で部屋に持ち帰る。
「ご両親のものですもんね。日本に持って帰ってもいいくらいでしょうけど」
つまり、自分が今泊まっている部屋は、二十数年前に両親が暮らしていた空間だということ。
その夜から茜音は仕事としてのレポートをまとめると、その箱の中を整理し始めた。もはや、これは世代を超えたタイムカプセルだ。
勉強したノートの中には、もちろん音楽の技術や表現力を上げるためなどの技術的な物もあれば、二人の日記もあった。
この時代、まだ茜音は産まれていない。それに、まだ二人とも旧姓だから結婚もしていないことになる。
以前の資料から、二人が籍を入れたのは茜音がお腹に宿ってからだとの記録や小峰の証言もあるので間違っていない。
約5年間に渡る日記を読み進めていくのは根気のいる作業だ。
楽しいことばかりでなく、辛かったり苦労したことも沢山書かれていた。それでも二人で助け合って乗り越えてきたことが分かる。
そして、茜音は一通のメッセージを日本の健に送った。
航空券は手配するので、自分をウィーンに迎えに来て欲しいと。
すぐに、茜音の帰国1週間前からスケジュールを空けて、一緒の便で帰国する算段をたててくれた。
そんな準備を終え、彼を迎えに茜音は空港に一人で向かった。
「健ちゃん!」
到着客が出てくるゲートで、茜音はすぐにその人物を見つけて飛びついた。
「茜音ちゃん、元気そうでよかった」
「うん、寂しかったよぉ」
挨拶代わりに、久しぶりのキスをする。空港という公共の場面なので、すぐに離れた茜音は真っ赤になって笑った。
そんな茜音を一目見た健は確信した。お互いに寂しかったけれど、彼女はこの地で確実に成長した。音楽家としても、教育者としても、そして自分の最愛のパートナーとなる女性としても。
研修の日程については、健がこちらに来られることになってから休日を返上して自己研究の部分を前倒した。この最後の週は見学施設もないので、事実上休暇にすることが出来る。
到着も早々に、彼の荷物をあの部屋に置いて、二人デートに出かけた。
昔、茜音の両親もこうして二人で歩いたであろう街を娘である自分が健と歩いているのは不思議な感じもした。
翌日のオペラの予約を取って、レストランでの食事。さすがに2ヶ月もいれば食事のメニューにも困らない。二人分の食事を頼んで、茜音は種明かしをした。
「えー、茜音ちゃんのご両親が暮らしていた部屋なの?」
「うん、まだわたしが産まれる前で、結婚もしていないときだけどね。今のわたしたちと同じ」
そして、この最後の一週間は、二人でその足跡をたどりたいと説明した。
「なるほどねー。そういうことだったんだね」
最初、茜音からのメッセージを受け取ったときは、彼女が寂しさに耐えきれずに助けを求めてきたのかと思った。真相を聞いてみれば真逆だ。両親の過去に対峙して、自分が未来に進むための糧にしようとしていた。
久しぶりに隣に温もりが戻ったベッドで、茜音は健の腕の中から抜けようとしなかった。
「健ちゃん、これって、わたしのことだよねきっと……」
昼間はレッスンに通ったアカデミーの練習室や校内を案内して、夕方は予約していたオペラを見て帰ってきたあとに、茜音は健にそのノートを見せた。
健がまだ寝ているときに、茜音が見つけた日記の項目だった。
「これ、そうだね……。だからだったんだ」
このページが書かれたのは、もう日本に帰国しなければならない時期が迫った頃だろう。
二人が今後受けるであろう困難にも、手を取り合って生きていくとの約束。そして、子育ての夢が書いてあった。
二人とも音楽家として成功することができたが、その裏では多くのものも失った。
音楽は人を悲しませてはいけない。そして、誰かに強要されて始めるものではない。
子どもが生まれたら、その子には音楽を楽しんでもらえる環境を作るだけで、英才教育などは行わない。他の道を進むのであれば、それを応援する。もし、自らが望んで同じ道を選んだときに、そこから始めればよい。
そして、記されていた。
『こんなわたしたちにも、天使が舞い降りますように』
そこで初めて、茜音は日付の横に書かれていた暗号のような数字の意味に気づいた。成実の基礎体温だと。
このまま日本に帰れば離されてしまう運命の二人。そんな別れを何とか回避するため、帰国したときには妊娠中にしてしまいたい。秀一郎が自分の子だと認知すれば、たとえ家から追い出されたとしても、三人で家族を作れる。その試みは本当にギリギリまで続けられたようだ。
「茜音ちゃんは、要らない子じゃないよ。必要としている人がたくさんいたし、今でも変わらないんだよ」
「うん……。そうなのかもしれないね……」
続きのページはなにも書かれていなかった。しかし、最後のページに折り畳まれた便せんが封筒に入って挟まれていた。驚いたことに封は切られていない。きっと日本語で書かれているこれらのノートには入念なチェックも入らなかったのだろう。
「どうしよう……」
「茜音ちゃんしか開けられないと思うよ」
健の言うことが一番正しいと思われる。茜音以上に封を切れる資格を持つ者などいない。
あの学長が知ったとしても、他の人物ではなく、茜音に開封を依頼するであろう。
部屋に備えてあったペーパーナイフを古い封筒の隙間に差し込んで丁寧に封を開けていった。
封筒の中から取り出した便せんを開いてみると、間違いない。見慣れた筆跡が飛び込んできた。
『大切なあなたへ
もし、この手紙を私たちの子であるあなたが読んでくれているなら、こんな素敵な奇跡はありません。いつかそれが叶うことを信じてお手紙を書きます。
もしかしたら、私たちのせいで、あなたには辛い人生を送らせてしまっているかもしれない。それでも私たちは誓います。精一杯の愛をあなたに注ぐことをね。
日記にも書いたように、私たちはあなたを無理に音楽家になるようには言いません。あなたの道は真っ白なの。自分の道は自由に選んでいいものなのよ。
いま、私のお腹には、お父さんと一緒にお願いした天使、あなたがいてくれると確信しています。
男の子か女の子かはまだ分からないけどね。どちらでもいい。大きくなって、素敵な人と出逢ってお互いの将来を誓えたなら、迷わずに結ばれて欲しい。私たちはあなたのお相手の方にお願いするだけ。
私たちの大切な想いから生まれたあなたを幸せにしてあげてくださいと。
永遠の愛を込めて…… 秀一郎&成実』
「パパもママも……、こんなの反則だよぉ……」
涙が止まらない。これまでも二人の想いが詰まった日記は読んできたけれど、これは間違いなく自分に宛てたメッセージそのものだ。
幼い頃からの記憶が一気に溢れてくる。
確かに5歳での別れは急だったし、大きすぎるターニングポイントになってしまったことは予想外だったに違いない。
それでも、二人は茜音が外に出ても恥ずかしくないように、最低限のことを覚えさせてくれていたし、茜音が持ち続けた家庭のイメージは間違いなくこの二人から受け継いだものだ。
どんなに辛くても乗り越えてこられたのは、きちんと愛情を教わっていたから。
『育ててあげられなくてごめんね』
雪山の中で、母親から聞いた最後の言葉。
茜音を授かった喜び。これから一緒に過ごすはずの時間が途切れてしまう悲しみと悔しさ。そして、独り残してしまう娘の行く末の心配。これらが全て凝縮されていたから。
健も横で涙を抑えられなかった。
間違いなく茜音は「望まれて」生を受けたことが証明された。たくさんの想いが彼女には詰まっている。全てが明らかになった今、彼女を幸せにするために二人ですぐにでも歩き出さなければならないと思う。
「健ちゃん……」
「うん?」
一生懸命に笑顔を作っている茜音が、幼いあの日の姿と重なる。
10年という途方も無い時間の約束。あの日の茜音もきっと無理だとは思っていたのだろう。それでも彼女は懸命に笑ってくれた。
「わたしね、2カ月だったけど、離れて分かったの。わたしは健ちゃんがいてくれなきゃダメなんだって。冷静になって分かったの。あなたがいてくれるから、わたしが笑えるの」
「うん」
両腕で華奢な体を抱きしめる。
自分を見上げた彼女の顔。涙の筋が何本もあったけど、ただ愛おしかった。
そんな唇をそっと合わせる。
「茜音ちゃん。結婚しよう」
「えっ…………?」
大きな瞳から再び雫が零れ落ちる。
「帰ったら話を進めよう。二人で歩いていこう」
「わたしで……、いい?」
「片岡……、ううん、佐々木茜音さん。僕のお嫁さんになってください」
茜音は彼の胸元に顔を埋めた。
「お願い……します……。健ちゃん……」
背中に回した腕に力を入れる。
「茜音ちゃん、もう逃がさないぞ」
「うん、最後までここにいさせて……」
茜音は静かに肯いた。
食事をして、お風呂に入って、ベッドに入る。
こんないつもと変わらない生活シーンなのに、胸がドキドキしてしまう。
もう一人だと泣かなくていい。そして、ついに辿り着いたゴール。そしてスタート地点でもある。
「ねぇ、健ちゃん……」
「うん?」
前日と同じく、茜音が健の胸元から見上げてくる。
「このお部屋も、このベッドもきっと20年以上前から変わらないんだろうね」
「そうだね」
一番上のマットレスは交換されているだろうが、家具としては変わっていないだろう。
「このお部屋って、パパとママのお願いで、わたしが空から降りてきたお部屋なんだよね。わたしたちも同じお願いしてもいいのかな?」
「茜音ちゃん……」
以前だったら、意味が分かっているかの確認をしただろう。
「わたしは健ちゃんのお嫁さんになるの。だから、お願いしてもいいかなって……」
これまで何度も二人で愛を確認してきた。それは、順番違いの間違いを起こさないように、準備をしてからだった。
いま、茜音が望んでいるのは、その準備は行わないこと。二人が望んだ天使を迎え入れるためだから。
健にキスをして、茜音は健と自分のパジャマのボタンを外しながらサイドテーブルの明かりを消した。
「ありがとうございました」
約1ヶ月過ごした宿舎を後にする。
昨日までに、お世話になったアカデミーなどには挨拶も済ませた。
「本当に、持って行かなくていいの?」
茜音が部屋に借りていた両親の日記や書類を返しに行ったとき、日本に持ち帰ることも提案されたものの、彼女は首を横に振った。
持ち帰れば間違いなく大騒ぎの品だ。せっかく空の上で静かな時間を過ごしているであろう二人に迷惑をかけたくない。
「これは、パパとママの二人の記録です。ここにはわたしはまだいません。だから、ここに静かに置いておくことが一番だと思います」
あの手紙のことを話すと、それは間違いなく二人の娘である茜音が受け取ることを想定して書かれてある物だからと、土産として渡された。
「さぁて、帰ろうか」
すっかり顔なじみになっていた宿舎の面々に見送られ、空港までの電車に再び乗った。
二人ともスーツケースひとつの身軽さだ。あちこちのお土産は一昨日までに用意をして先にオーストリアを発っている。
昨日も手をつなぎながら朝から街歩きを始め、いくつもの美術館やプラーター遊園地などを訪れて、時間の許す限り二人だけの時間を過ごした。
離陸する飛行機の窓から、2カ月過ごした街並みを見下ろしながら、涙が自然にこぼれた茜音。
「また、戻ってくるよ……」
茜音にとって、この街は特別な意味を持つ場所に変わっていた。
夜間飛行になって、窓のブラインドを下ろす。
「疲れた?」
「健ちゃんこそ。なんかあちこち振り回しちゃったみたいで、ごめんね」
機内食を食べながら、これからのことを少しずつ話していく。
「帰ったら、お墓参りに行こうよ。茜音ちゃんを幸せにしますって、ちゃんと報告しなくちゃ」
「うん。そうだね」
あの手紙は大切にしまってある。
「片岡のご両親にもちゃんと言わないとね」
「健ちゃん、焦らなくても大丈夫だよ? 片岡のお母さんもお父さんも、もうわたしに任せるって言ってるから反対されることもないし」
もちろん、結婚は茜音の人生の最大の転換点となる。進めなければならないと思う一方で、急ぎすぎてミスをしたくないという考えと両方の葛藤がある。
「近く、僕は苗字を変える予定でいるんだ」
「えぇ? そうなの?」
茜音の身辺調査をお願いしてしてた頃、健も自分の戸籍などを調べてもらっていた。
茜音を迎えたとして、突然親戚が現れてあれこれ言われるのは避けたい。それに、今の保護者代行が園長先生になっていることからも、今後のことを考えて整理しなければと思っていた。
その結果、健自身はもうどこの籍にも属していなかった。松永という苗字も、以前からあったために変えていなかっただけだと分かった。
「だから、佳織さんに言われたんだよ。僕が変更して、茜音ちゃんがお嫁さんにきてくれることにすれば、新しい苗字にできるって」
健も悩んでいたのだ。茜音と次に進むために何をしたらいいのか。
「なるほどねぇ。なんにしようかぁ」
東京までのフライトの間、二人は自分たちの名前を考えていた。松永も佐々木にしても、トラブルの原因になるようなものは使いたくない。
「健ちゃん、ありがとう」
ここにきて、いろんなことがあったけど、今の自分が帰る場所は彼の腕の中。
それがはっきりしただけでもこの2カ月は無駄にはならなかった。
「あのね、わたしは、やっぱりみんなの『あかね先生』なんだと思う。いろんな勉強したし、ピアノやバイオリンを弾いたりみんなと一緒に歌うのが大好き。それでいいんだって。パパもママも解ってくれるよ。わたしが自分で決める道だから」
これまでは、どうしても自分の出生が明らかになるにつれ、両親の意志を継がなければならないのかと迷うときもあった。
はっきりと自分の道を選んでよいと二人からの応援をもらった今は自信を持って言える。
「帰ったらお仕事だよぉ」
この研修旅行のレポートを出し終わったあと、茜音は最初で最後の音楽コンクール生活にピリオドを打った。
【茜音 25歳】
「ほら、茜音! 手袋忘れてるよ!」
「ふぇえ! 重いから動けなぁい。美鈴ちゃん助けてぇ」
「まったく、ウエディングドレスがこんなに重くなるなんて想定外だわな」
「はいはい。しかたないんですよ、皆さんが選んだドレスがこれだったんですからねぇ」
沖縄本島のリゾートホテル横にあるチャペルは朝から笑い声が絶えなかった。
「男連中は楽でいいよなぁ」
「いつものスーツとあまり変わりませんしね。でも、髪型とかセットしますから」
菜都実のぼやきも美鈴が慣れたように受け流している。
これはなにも遊んでいるわけではない。
今日は、あの三人が晴れ姿で集合する日だったから。
茜音、菜都実、佳織の三人がそれぞれの人生を歩き出してから5年が過ぎようとしていた。
一番最初に動いたのは、やはり一番先に決断をした菜都実だ。
幼なじみで婚約者でもあった秋田保紀が修行する沖縄・宮古島に渡って半年後に、二人は結ばれていた。
今では彼の両親とともに2世代で店を切り盛りして、菜都実も看板娘としてすっかり定着しているという。
目下の悩みは、このまま宮古島に残るのか、地元の横須賀に戻って実家の店を継ぐのかということらしい。
次に動いたのは茜音たち。
ウィーンから帰国後、健と二人で相談し、先に健が苗字を変える手続きに入った。佳織の弁護士事務所の協力を得て、家庭裁判所で変更が認められた。
これで茜音を迎え入れられる。彼の手続きが終わり、片岡の両親、そして佐々木の両親が眠る墓へ報告した。二人で選んだ苗字は、お互いから1文字ずつを取った『松木』とした。それを聞いた佳織は「二人らしい」と笑っていたけれど。
もちろん、二人とも珠実園の仕事は続けている。健は昨年、珠実園の副園長として正式に就任。茜音は支援センター側の主任として今年から動いている。
あのウィーンでの2カ月で吸収したものをさらに広げていた。
茜音が思い切ったのは、あのテレビ出演で覚えてくれていた視聴者からの質問や、将来への不安を持った子たちのためにと、これまでの半生を全て公開していることだった。
本来であれば、両親から受け継いだものを活かすこともできる家に生まれ、才能も持ちながら、それとは全く違う生き方を選んだ彼女の言葉は、周囲に本人の想像以上に響いたらしい。
出産前から年齢別に分けている音楽セラピーの教室はキャンセル待ちが出るほどの盛況ぶりで、小峰との縁を活かした音楽活動も大人気だ。
最後は、ひとつ下の高校時代からの後輩、原田青年と交際を続けていた佳織。
彼女が決めた、弁護士を目指した理由は学生時代に宣言したまま、目標を変えることなく貫かれた。
「茜音たちの役にたちたい」茜音や健のような生い立ちの子どもたちが独立や試練を乗り越えるために、時々立ちはだかってしまう様々な壁を乗り越える手伝いをしたいというもの。
大学の法学部を首席で卒業し、弁護士事務所で修行を積んでいる。司法試験に向けた勉強や研修を早くから始め、国家試験である司法試験も一発突破して、目標に向けて一気に突き進んだ。
その確定を持って入籍。今では珠実園の専属弁護士として、公私ともに関係は続いている。
こんな三人だから、二十歳の春にした約束を覚えていた。
「三人揃って結婚式を挙げたい」
こんな無茶苦茶な野望としか言えない相談も、やはり茜音のチームに最後に加わったメンバーが叶えることになった。
茜音の半生を振り返った中で存在を知った従姉妹。美鈴はその後、両親へ進路や恋人の存在を公表。
最初はなかなか認めてはもらえなかったけれど、粘り強い交渉で、最後は進路も自ら選んだ男性との未来も勝ち取った。
その後はウェディングプランナーとして活躍している。やはりベースに繊細な感性を持ち合わせているだけあり、彼女への指名は後を絶たないという。
そんな美鈴に茜音は自分たち三人の約束の話を持ちかけた。そして、そのために誰も挙式は行っていないことも。
「それなら、皆さんの意見をまとめましょう!」
茜音からの経緯を聞いて、すっかり乗り気になった美鈴が全員の希望などを聞いてまとめ上げてくれることになった。
「いやぁ、まさか本当に実現しちゃうもんだねぇ」
「茜音の交友関係を辿っていくと、みんなそれぞれの職業だから、どうにかなっちゃうんだよね。自然に集まっちゃうんだなぁ」
入籍を済ませてから随分時間を経ての挙式ということもあり、普通の形ではなく「大真面目に楽しんでやろう」と、美鈴を中心としてチャペルでの挙式も席を決めず、またバージンロードも3組を一度に入場させたりとアレンジ。披露宴も「固いし1番の主役はいないから」と席を決めず、屋外パーティー形式にしてしまった。
各個人の写真も撮ったし、3組を混ぜたポーズもたくさん撮った。
「なんか、ひと区切りだねぇ」
男性三人がホテルのバーラウンジに消えたので、女子側は私服に戻してからプールサイドのカフェに陣取った。
こんな三人娘の相手となる男性陣も、旧知のように自然と仲がよくなっていたので、こんな組み合わせも珍しい話しではない。
「とにかく、茜音はもう落ち着いたし、あたしも、あと何年かしたら、横須賀に戻るような話でいるよ。遊びに来るなら早いうちがいいかもね」
どうやら、菜都実たちに継ぐときにはお店を改装する予定だとマスターからは聞いている。
「佳織はようやくこれからだもんね。あ、美鈴ちゃんお疲れさまぁ。こっちにおいでよぉ」
今回の一番の協力者は彼女であると誰もが認めている。
「いいんですか?」
「遠慮しないで」
最初に美鈴の話を聞いたときには、やはり茜音を苦しめてきた家の人物ということで佳織だけでなく菜都実も警戒していた。
しかし、実際には茜音の奪回作戦を最終的に諦めさせたり、家から勘当も覚悟の上で、自らのパートナーと結婚するなど、その行動力は従姉妹の茜音と似たり寄ったりだと分かり、その誤解も解けた。
なにより、彼女の尽力が無ければ今回の無謀な計画は現実にできなかった。
「やっぱり、従姉妹ってことで遠慮無く言えちゃったのもあったよねぇ」
「本当に、今回はお仕事って感じじゃなくて、やっていて楽しかったですよ。こんなこと出来るんだって。みんなのアイディアが凄いなって思って。なんか、一緒になって楽しんじゃったのもちょっと反省だったり」
そこに、既に西村姓となっている千夏も加わった。本当は茜音と同じチームで仕事をしているから、この沖縄には来られない予定だったのを、せっかくだからと珠実園のみんながカバーしてくれて、今朝の沖縄入りで駆けつけてくれた。
「あれ? 和樹くんは?」
「大丈夫。副園長が連絡つけてくれて、みんなで飲んでますよ」
パーティーのあと、今回の旅行を許してくれた職場のみんなへのお土産を選んでいたという。
「そっかぁ。千夏ちゃんところも一緒だったらもっと面白かったのになぁ」
「3組合同だって大変だったんだから、美鈴ちゃん可哀相だよ」
「でも、今回担当させてもらえて、本当に楽しかったし、その一員にしてもらえたなんて、光栄です。ほんと茜音さんには声もかけられないと思っていたから」
このチームでは美鈴が茜音と最後に出会ったメンバーとなる。
最初は口も聞いてもらえないと思っていた存在が、今では両親以上に相談できる相手になっている。
「茜音はね、本当に強くなったよ。それはあたしたちからも太鼓判押せる。だから、せめて、この五人の間だけでも、茜音を裏切ったりしないで欲しいんだ。久しぶりに会ったけど、なんてのかな、安心感があったなぁ。リーダーが戻ってきたってそんな感じ?」
「菜都実、言い過ぎだよぉ」
この中でリーダーと言ってもそれは形だけで、その場の事態に一番得意なメンバーが対応するのは高校時代から変わらないし、それは自分たちが一番大切にしてきた感性だから。