その日、茜音はウィーン・ミッテ駅から列車に乗って空港を目指していた。
自分の帰国ではない。それにはあと1週間残っている。
2月も終わりに近づき、まだ寒いながらも最初にやってきた1月よりは春めいた日が少しずつ増えてきているのを感じる。
こちらに来てもうすぐ2ヶ月。最初は普通の交換留学生のような扱いをされていた茜音で、いろいろな音楽学校に通ったり、現地の福祉施設を忙しく回っていた。
それらを回りながら、まだ日本は児童福祉で遅れていることを痛感したと同時に、珠実園には良いところを投入できるアイデアを次々にレポートに仕上げていった。
忙しい中で寂しくなかったかと言えばもちろん嘘になる。
それでも時代は変わった。自分の手元のスマートフォンからいつでも健やいつものメンバー連絡が取れたし、自分の代わりを勤めてくれている千夏からも分からないことへのフォローは、時差をのぞけば国内にいるのと変わらない。
1ヶ月ほどしたとき、茜音はある音楽アカデミーとオーケストラを訪問した。
そのアカデミーの学長は茜音を見ると突然興奮しながら抱きしめてくれた。
「アカネ、よく来てくれました」
感激の挨拶を話しているのを聞くだけが精一杯で、あとは通訳を通じて話を聞いて驚いた。
その昔、シュウイチロウとナルミと一緒に仕事をしていたと。顔を見た瞬間に二人の娘だとすぐに分かったとのことだ。
茜音の演奏を聴いたあと、彼は懐かしそうにつぶやいた。
「あなたのご両親と同じ音がする」
そして、二人が通ったレッスン室も見せてくれた。そして、その部屋の楽器類は自由に使ってもよいとのことだ。
それだけではない。
その日の夕方、茜音は荷物を持ってホテルのロビーに呼ばれた。
「さっきの学長先生が片岡さんをこちらの部屋に案内しなさいと言われまして」
その部屋はアカデミー生が使う宿舎だった。宿舎と言ってもほぼ日本で言うアパートで、キッチンやバスも完備されている。建物や家具自体は古いのだろうが、大切に使われているようで不便さは感じなかった。
ここからならばアカデミーのレッスン室まで歩いていける距離になる。
ただ、通訳がいてくれるホテルからは離れてしまうという心配を解消するため、同じ宿舎にいる日本人の女性を紹介してくれた。
彼女はすでに茜音の素性を聞いていたらしく、丁寧に説明や案内もかって出てくれた。
「片岡さんに見せたい物があるんですよ」
最初の日に宿舎の資料室に案内されて、奥の方に入る。
各部屋の番号の棚には、歴代の利用者の名前の箱が納めてあった。
「えっ……」
茜音も思わず声を上げる。ドイツ語で書かれてはいるものの、そこに記されている名前には恐ろしく見覚えがあったからだ。
「あの部屋はしばらく使われていなかったんです。今日の昼過ぎに学長に呼ばれて、あの部屋をメークアップしてほしいと言われてね。何事かと聞けば、昔の仲間の娘が来てるって。あんなに興奮している学長なんて初めて見たな」
茜音はその箱をそっと抱えた。必ず返すという約束で部屋に持ち帰る。
「ご両親のものですもんね。日本に持って帰ってもいいくらいでしょうけど」
つまり、自分が今泊まっている部屋は、二十数年前に両親が暮らしていた空間だということ。
その夜から茜音は仕事としてのレポートをまとめると、その箱の中を整理し始めた。もはや、これは世代を超えたタイムカプセルだ。
勉強したノートの中には、もちろん音楽の技術や表現力を上げるためなどの技術的な物もあれば、二人の日記もあった。
この時代、まだ茜音は産まれていない。それに、まだ二人とも旧姓だから結婚もしていないことになる。
以前の資料から、二人が籍を入れたのは茜音がお腹に宿ってからだとの記録や小峰の証言もあるので間違っていない。
約5年間に渡る日記を読み進めていくのは根気のいる作業だ。
楽しいことばかりでなく、辛かったり苦労したことも沢山書かれていた。それでも二人で助け合って乗り越えてきたことが分かる。
そして、茜音は一通のメッセージを日本の健に送った。
航空券は手配するので、自分をウィーンに迎えに来て欲しいと。
すぐに、茜音の帰国1週間前からスケジュールを空けて、一緒の便で帰国する算段をたててくれた。
そんな準備を終え、彼を迎えに茜音は空港に一人で向かった。