「そんなことがあったの。人生も分からないねぇ」

 佳織もため息をつく。

 佐々木家の方から、今後茜音については手を出さないとする誓約が取れたことを報告しにきてくれた。そこに例のテレビでの影響を心配した小峰が同行してきたという。

「その、美鈴さんてのはどうなったの?」

「うん、話したみたいだよ。最初は猛反対されたみたいだけど、最近はそうでもないみたい」

 あの後も個人的に連絡をとり続けている美鈴とは、それまでとは一転して良好な関係となっている。

 彼女の話によれば、佐々木家としても美鈴が反対していた以上に茜音に強固に拒絶され、法的措置も辞さないという姿勢には驚いたようだとのこと。

 今回の親権移動については、茜音も成人していることやこれまでの経緯からも、仮に裁判となった場合に勝てる見込みもないということになり、茜音を戻すことは諦める結論に至ったようだ。

 それに追加で、母方の祖母が会いに来たこと。事故後の対応についての謝罪があったことも報告された。

「茜音はそれでいいの?」

「うん、だってそれぞれの立場があって、出てこられないことだってあると思うし。仕方ないんだよ」

 茜音だって、すぐにその結論に至ったわけではない。やはり自分は不要な存在だったという感情がある一方、周囲に言えないながらも、自分の誕生を陰ながら喜んでくれた人がいたという事実。

 また、こちらもまだ大きく公表はできないけれど、お互いに出会いを喜ぶことができた従姉妹の存在も非常に大きかった。

 茜音自身、さまざまな事はあったにせよ、何とか乗り越えて大人にもなったし、将来の伴侶もいてくれる。過度な干渉さえないのであれば、それは事実として受け入れていくしかないと思うようになっていた。

「そんな茜音に、ちょっと急で悪いんだけど……」

 佳織が申し訳なさそうに、話題を変える。

「うん?」

「実は、これ出てくれないかな」

 差し出されたのは、市内の音楽コンクールのパンフレットだった。

「えー? だって、わたし練習も何にもしてないよ?」

「実は、出る予定の人が怪我しちゃって……。人数の関係から代役を立てなきゃいけなくなって。他の人に頼めないよこんなの。茜音だからなの。お願い!」

 佳織に差し出された課題曲の楽譜を受け取り、封を切ってざっと辿る。

「小峰さん、けっこう難しいですよこれ……」

 恐らく楽譜を見ながら弾くだけなら、数回練習すれば出来るだろう。問題は曲の解釈で、作曲者が何を表現したいのかを見極めることだ。これを見誤ると、どうにもチグハグな演奏になってしまう。

「成美さんの曲の解釈は楽団の中でも随一でしたが、教わっていませんでしたか?」

「教わるも何も、わたしには特訓ありませんでしたし」

 もちろん、当時から家には楽器もあったし、自由に触らせてもらった。しかし、当時開いていたレッスンの練習生に課していたような課題を茜音には与えなかった。

「うん、佳織にもお世話になったし。いいよ。やってみる」

 その日から、教室の空き時間や、家に帰ってからも茜音はピアノの前に座っていた。

 横で見ていた健が語ったところによると、楽譜は鉛筆で真っ黒になるほど書き込まれ、鍵盤に指を走らせてはそのたびに頭を抱えていたという。

 本来の出場者には1ヶ月前に渡されているのが、茜音には1週間しかない。課題曲は新曲だから、他の参加者同様に誰にも相談をすることは許されないという。

 ハンデは承知だが、佳織やここまで育ててくれた小峰に恥はかかせたくなかった。

「できたぁ……」

 茜音のそんな声が聞こえたのは、コンクール当日の午前1時を回った頃だった。