ETERNAL PROMISE  【The Advance】




 翌日、健と茜音は仕事を休んだ。

 茜音はすっかり憔悴していたし、健もそんな彼女を置いていけなかった。それに、佳織が結果を持ってくるとなれば尚更だった。

 夜にチャイムが鳴り、健に促されて仕事を終えた佳織が入ってきたときも、茜音は表情を戻すことが出来なかった。

「茜音……」

「ごめんね、佳織……」

「分かってる。見つけちゃったのね」

 親友のこんな顔は見たくはなかった。でも、自分で見つけてしまったのなら調査結果を話すことも出来る。

「佳織さんはその日記を知っていたんですか?」

「ううん。でも、調べさせてもらったの。茜音の戸籍。ご両親に遡っていくと、どちらからも除籍になってた。婚姻の事実すら消されていた。だから、分かったのよ。これまでの謎と今回の騒ぎの原因が」

 つまり、両家とも二人の子どもがいたことを放棄したのだ。婚姻することで、新しい籍を作ることが出来る。そこで、二人の記録を消してしまったのだ。

 これなら、仮に茜音の父親である秀一郎に姉がいたとしても、データ上では無関係となってしまう。

「なんてこった……。僕と同じか……」

 健も自分の戸籍が浮いていることを知っている。今の保護者は珠実園の園長になっているからだ。

「でも、それならなんでずっとそっとしておいてくれなかったの?」

「それも見当がついたよ。茜音……」

 佳織は1枚の通知書と1冊の通帳を見せた。

「茜音、この通帳見たことがある?」

「知らないなぁ。佐々木茜音で作られてる?」

 茜音がいつも利用しているのとは別の銀行の通帳。しかし、途中で名前が変わっているため、苗字の修正履歴が印字されていた。

「これ、今のご両親が、茜音が困った時用に預かっていたって。お嫁に行くときに渡す予定だったそうよ」

 最後に通帳記帳されたのが先日だが、その中身を見たときに。健も茜音も息をのんだ。

「すごい……」

 恐らく、普通に暮らしていけば、この先茜音も健も働く必要がないだけでなく、十分すぎるほどの余裕があるだろう。

「そのお金はね、佐々木のご両親の貯金と生命保険。どちらも受取人は茜音だけに指定してあるの。このお家もすべて茜音名義になるようになってた。これを知っちゃえばね……」

 法務局で生前の二人が残した遺言書の写しを見せてもらったときに、佳織もため息をついたのを思い出す。

 あれほど早くとは予想していなかったにせよ、彼女の両親は自分たちに万一のことがあったときのことを常に考えてあったのだと。

「茜音、ご両親はちゃんと今でも茜音のことを守ってくれているんだよ。あんたが幸せになる時に苦労しないようにって」

「そういうことか……」

 本当はこういう問題に他人が口を出せるものではない。


「健ちゃん、佳織。連絡取ってくれる? 会いますって」

「茜音、大丈夫なの? もう成人なんだし、拒否もできるのよ?」

 こんな茜音に、大人の事情をぶつけたところで、傷つくのは彼女自身だ。

「ううん。ちゃんと自分で言わなくちゃ。それでハッキリさせる」

「分かった。その代わり私も公的証人として行く。いいでしょ?」

 佳織は親友の手を握った。




 一週間後、茜音と健、佳織の三人は打ち合わせてあったホテルに出向いた。

 そこにはすでに、片岡夫妻も到着しており、こちらも緊張の面持ちだ。

「大丈夫です。状況的に見ても、茜音が正しいのは間違いないです」

 佳織は今日までの時間で、先輩の弁護士たちに今回のケースを聞いて回った。

 実の姉弟だったとしても、茜音の父親は一方的に実家から縁を切られたこと。そこで自分にかかった保険や両親が自らの収入で建てた財産一式を「自分たちの一人娘に」と公的な遺言書をつけて相続させたのであれば、茜音が圧倒的に優位であるとお墨付きももらってきた。万一の時は先輩弁護士たちも力になってくれると。


 時間になって、ロビーに現れた一行。そこに初めて見た存在に茜音は緊張が体を走り抜けた。

 自分の両親と同じくらいの夫婦と自分と同い年くらいの女性。それにもう少し年下と思われる少年の四人。

 そうか、彼女が『あの服』を着るべきだった人物なのかと思う。よく見ると自分と似ている部分も多い。

 考えるまでもなく、彼女は自分とは従姉妹になるのだ。これまでの人生に雲泥の差はあれど……。

 展開から、あまり他人に聞かれたくないこともあるので、レストランでも個室を用意してもらっていた。

 簡単な自己紹介の後、話題は本題に入った。茜音の親権を移したいと。

「最初にお伺いしたいことがあります。なぜあの当時、これだけ多くの報道がされながら、茜音に声をかけなかったのでしょうか」

 新聞の記事をまとめたファイルを取り出して、テーブルの上に置く。

「お父さん……」

 普段は柔和な父親。それが声を押さえつつも厳しい口調で切り出した。

「茜音は、本当によくできた子でした。自分の置かれた状況をきちんと理解しており、里親である私たちに迷惑をかけたことはひとつもない。そんな子をあなた方は見捨てたのです。それが茜音に対するどんなに残酷な仕打ちだったのか、ご存知ではないでしょう」

「当時は私たちもこの子を育てながら、海外公演などもありまして。そこにもう一人を迎え入れることは出来ませんでした」

「そういった事情も承知しております。ですが、それならば、せめて頼れる身寄りがいると、誰かを通じてでも茜音に伝えてあげることが出来なかったのですか。いつか迎えに来てもらえるという希望すら持てず、孤独に耐えてきた。私たちの家で初めて三人で眠ったとき、茜音は一晩中温もりを求めてきました。私たちは自ら子どもを授かることは出来ません。ですから茜音を実の娘として育て上げました。そして、ようやく一人の女性として歩き出せるところまできた。それを皆さんは大人の事情でまた蒸し返そうというのですよ」

 茜音は父親を見上げた。大人の事情。そう、佳織と一緒に調べてくれていたのだ。

 茜音が莫大な財産を受け継いでいること。そしてもう茜音は成人しているから養育義務は負わなくて済むこと。その上で養育者という立場であれば、弟の残した財産の一部を養育費として請求できると。

「そ、それは片岡さんでも同じでは?」

 言ってしまった。つまり、その計画を認めてしまったと同じだ。

 茜音の表情が一気に堅くなったのが分かった。




 予想どおりの証言を引き出し、父親は怒りに声を震わせた。

「なんてことを……。私たちは茜音の養育費をもらったことは一切ない。私たちの娘は自分たちで養育するのが当たり前の話だ。不動産を含めたすべての相続財産は、相続税も我々で負担し、茜音に返してある。これらの使い方は茜音が自分で決めることだ」

 そこで一息ついた。

「しかし、これも私たちの大人の話であることには間違いない。佐々木家の皆さんの元に戻るというのも選択のひとつだ。最後は茜音の判断を尊重する。私たちはそれをサポートするだけだ。茜音、あとは自分で決めなさい」

 茜音の肩を大きな手が優しくたたく。あとはおまえに任せる。いつもの仕草だった。

「茜音さんは、どうされます? みんな戻ってくるのを待っていますが」

「…………。いいえ。わたしは……、帰りません。帰れるはずがないんです」

 長い沈黙の後、茜音は口を開いた。

「わたしは……、佐々木家の皆さんから見たら、いらない子です。本当は産まれてはいけなかった存在です……」

「茜音……」

 母親が口元を押さえた。

「わたしが産まれたとき、誰も、わたしの両親以外に誰も祝福してくれた親族はいなかったそうです。わたしの妊娠が分かって結婚したとき、みんな、パパとママが最初からいなかったことにした。わたしは存在しちゃいけなかった。産まれちゃいけなかった! だから、あの事故で死んじゃえばよかった……」

 あの日記を読んでしまった日、茜音は自分の出生とこれまでの人生についてすべてを知ってしまった。

「そんなわたしに、帰るお家をつくってくれたのが、お父さんとお母さんです。わたしは片岡茜音です。そして、佐々木秀一郎と成実の一人娘です。それより他にわたしの親戚はいません。もう、これまでと同じく、わたしのことは知らずに、見知らぬ他人としてください。もう、いやだよ……。これ以上……もう……パパとママをいじめないでぇ……」

 泣きじゃくる茜音を健と佳織が抱きしめる。言葉を出したくても、もう出てこない。

 これ以上は茜音を壊してしまう。限界だった。

「これが茜音の答えです。今日はお引き取りください。また、手続きを強行されるのであれば、私たちもすでに弁護士さんにはお話しをしてあります」

 一行はそれ以上続けようとはせず、部屋を出ていった。

「よく、頑張ったな」

 みんな同じだ。辛かったに違いない。

 あの答えを出したことで、本当に退路を断つことになる。それが正解なのかは誰も答えることなど出来ないけれど、茜音が自分の意思をハッキリと告げた。それで十分だ。

「お父さん、今日はありがとう。あれで頑張れたよ。佳織も、お仕事で忙しいのにありがとう」

 健が付き添い、ロビーの喫茶室で落ち着かせて帰ることにする。こんな赤い目では電車にも乗れないから……。




 両親と佳織を先に返し、健と二人でアイスティーに口を付けたときだった。

「あの……、すみません……」

 見上げたところにあった顔に、茜音は表情をこわばらせた。

 さっき、あれだけ拒絶した佐々木家の一行で、一番隅に座っていた女性。本当ならば従姉妹と呼べる存在の彼女だった。

「両親と弟は先に帰しました。私一人です……」

 その表情は、先ほど感情をむき出しにした茜音に怯えているようにも見えた。

「どうして……」

 とにかく、立っていても始まらないので、空いている席に座ってもらう。

「本当に、今日は申し訳ありませんでした。あんなことをするべきではないと何度も言ったのに、聞いてはもらえませんでした」

「えぇ?」

 意外な展開に二人は面食らった。ここまでの話では佐々木家の全員が茜音を取り戻しにきているように聞こえていたのだが、少なくとも彼女はそうでなかったことになる。

 美鈴(みすず)と彼女は名乗った。少し年上に見えたけれど、それは身長があるだけの話で、茜音よりも半年違いの同学年と判明した。

「片岡さんのことは、本当に先日のテレビで知ったんです。凄いなって素直に思いました。私もそんなふうに強くなりたいって」

 美鈴はぽつりぽつりと話し始めた。茜音が見つかったことで、彼女の母親が今度こそ弟の遺した物が手にはいると話しているのを聞いてしまった。

「その話をこっそり聞いてしまって、本当に恐ろしくなりました。なんて酷いことを考えてるんだろうと。あんなに一生懸命に頑張っているのに。同時に嬉しくなったんです。そんなすごい尊敬しちゃう人が従姉妹だって分かったんです」

 当初は美鈴も親戚として接触をするのは難しいと考えていた。恐らく茜音は自分たち一族を恨んでいるに違いない。

「きっとお話しすら出来ないだろうと。だから、私が佐々木家を飛び出してからにしようと思っていました」

「どういう……こと?」

「片岡さんにもご婚約された方がいらっしゃるように、私も将来を誓った方がいます。でも、それは両親には内緒です」

「え?」

 ここまで来ると、茜音の興味は別なところに移った。この美鈴は、家の中で苦労してきたのではないかと。

 さっきの短時間でも感じることができた。美鈴の母はかなりの強気の持ち主でもある。きっと秀一郎という人材を失ったため、当時の彼女に音楽一族の将来を委ねたのだろう。

「私も音楽は好きです。でも、私のそれは人に安らぎや希望を与えるためです。お金のためではありません。それもあって、私は音楽家としては進んでいません」

 そうなると、彼女の立場は微妙になる。それを良しとしてくれる家庭環境ならばいい。きっとそうではないだろう。

「私は家族の中でも変わり者扱いです。そこに、一般男性を好きになったと言ったところで、許してもらえることはないと思います」

 そこで、勘当されることを覚悟の上で、家を飛び出す準備をしていると。

「苦労してしまいますね、わたしたちどちらも」

 美鈴は顔を上げた。正面に座っている茜音、その瞳に自分が映っている。そして、彼女の顔が笑った。

「片岡さん……」

「茜音でいいんです。美鈴さん。本当に、こんな従姉妹がいるなら、もっと早く知っていればよかった」

 きっと、いろいろ問題は起きてしまうかも知れないけれど、最後は美鈴の意志の強さだ。

「どんなに好きでも嫌いでも、親子なんですよ。だから、話してみるのが最初の一歩だと思います」

「強いなぁ、茜音さん」

 茜音はスマートフォンを取りだした。

「連絡先渡します。一緒にがんばろう。応援する」

「ありがとう、茜音さん」

 最後、二人は固い握手を交わした。




 佐々木家との断絶を宣言してから1ヶ月。茜音は一人、珠実園の教室で作業をしていた。

 もう少し先だけど、冬から春へ飾り付けの模様替えも自分の仕事であるので、その準備に入っている。

 そこに一人の来客が扉を開けて入ってきた。

「こんにちは」

「遅い時間に申し訳ありません。どなたもご予約がなく、教室にいらっしゃるとのことでしたので」

 いつも、この教室に相談に来る年代ではない高齢の女性だった。

「いえ、構いませんよ」

 折り紙とはさみを片付けて、机を直した。

 ドアの所に『相談中』の札を出す。どうしてもプライベートの話が多いため、他人には中に入って欲しくない相談者も多いため、取り次ぎなどはドアの所に張り付けておいてもらうのが暗黙の了解になっていた。

「実は、行方が分からない孫を捜しております」

「お孫さんですか?」

 それならこの年代でも納得がいく。同じような相談は時折受けることがある。

 この時間ならもう他の相談もないだろう。受付に電話をして、自分宛の面会を止めてもらった。

 センシティブな事情を聞くために、座る場所と向きを変えて、小声で会話が出来るようにした。

「私の娘は、ずいぶん身分違いの恋をしてしまいまして。昔ではありませんから、問題はないのでしょうが、娘が苦労することや相手のお家のこともあり反対をしておりました」

「せっかくのお話なのに、それを言わなければならないというのも辛いですよね……」

 彼女は茜音を見て微笑んだ。

「仕方ありません。しかし、二人は意を決して家を飛び出してしまったのです」

「そんな……。駆け落ちですか……」

 相談ノートに事情を書き綴っていくうちに、なにかが引っかかる。でもこれは仕事だ。続けてもらった。

「そのときが、娘を見た最後でした。後に娘は事故で亡くなったのです」

「残念なことに……。そこでお孫さんがいたことを?」

「娘が飛び出したことに主人は本当に怒り、籍を抜いてしまったのです。孫がいたことやその子にはなんの罪もないことは以前から分かっておりましたが、主人の手前、それを口に出すことは出来なかったのです」

「はぃ……」

「きっと、こちらのような施設にお世話になっているのではないかと、探し始めたのです」

「それはどうして……」

 必死に冷静を保ちながら、メモを取る。この件はかなり自分には重そうだった。

「昨年、そんな主人も亡くなりました。口では娘のことを最後まで怒っておりましたが、本音は寂しかったのでしょう。亡くなる直前に、娘と孫の名前を口にしたのです。一度だけ知る機会があり、それをちゃんと覚えていたんですね。今さらその子に対して言う事はありません。元気に過ごしているならそれでいい。ただ、私も動けるうちに、主人の代わりに謝罪をしなければなりません。それを止められなかったのは私も同罪なのですから」

「うん……」

 仕事中に引き込まれてはいけないと知っていながら、こらえきれなくなった涙をそっとハンカチで拭い、再びペンを取る。

「申し訳ありません……。あの……、そのお孫さんのお名前を教えていただけませんか?」

 茜音は視線を上げた。そして気づく。

 自分と同じ瞳の色だと……。




 夕焼けの差し込む教室。

 依頼人が発した捜索人の名前を聞くまでもない。茜音は隣に崩れるように彼女に抱きついた。声を上げて彼女の腕に抱かれて泣いた。

『その子の名前は……、佐々木 茜音といいます』

 もちろん、彼女はこのことを分かっていたうえで、この珠実園を訪れてくれたのだ。



「よく、ここまで大きく立派になったのね、茜音さん」

「はぃ……。おばあちゃん……」

 茜音が生まれて初めて、その単語を使ってその人を呼ぶことを許された瞬間。

「よく、ここが分かったんですね」

「探しました。あのテレビを見てすぐに分かりましたよ。でも場所が分からなくて、いろんな人に聞いて、ようやく見つけられました。外からあなたを見たときに、こちらも泣きたくなりましたよ。本当に苦労させてしまった」

「大丈夫です。いっぱい、いっぱい、いろんなことあったけど、頑張ったよ。元気だよ」

 さっきとは逆に、茜音はこれまでの半生を語る番だった。

 予想のとおり、事故の後は誰の引き取り手も現れず、児童福祉施設に預けられたこと。

 その施設が閉鎖されることになって、駆け落ち事件を起こしたこと。

 現在の家に引き取られて今の姓を名乗っていること。

 今の施設には、幼い頃に一緒に駆け落ちをした男の子が成長して、副園長を務めているということ。

 将来、時期が来たら二人で結婚をして家庭を持つという夢を共有していること……。

「まぁまぁ。茜音さんも成実と同じくお転婆さんね。でも、そこまで一緒にいると決められている男の子が見つかっているなら、お婆ちゃんも安心した」

 鞄から大切に封筒に入っているものを取り出して見せてくれた。

 一枚の写真付きのはがきは20年前の年賀状。一度は破かれてしまったのだろう。テープでそれは補修されていた。

 どうやら茜音のお宮参りとお食い初めの時の写真のようだ。差出人を見ると、佐々木秀一郎・成実・茜音(長女・3か月)と書いてある。当時、写真を2枚使った年賀状は珍しかったに違いない。

「茜音さんが産まれた年のものでしょう。幸せそうな家族写真でホッとしました。あなたが産まれたこと、本当は一緒に祝ってあげたかった。おじいさんは茜音さんの名前と姿をこれしか知らないから、こんなに立派になったことを知れば驚くでしょう。でも、私たちは本当にひどいことをしてしまった。謝っても謝り切れるものではないわ」

「ううん。大丈夫。パパもママも優しかった。だから、頑張れたんだよ」

 二人とも仕事中であることも忘れ、頭を撫でられた茜音は無邪気に甘えていた。

 個人的にと今の住所を交換し、すっかり暗くなった玄関から見送る。

「あの……」

「どうしたの?」

「今度、おじいちゃんに会いに行ってもいいですか? ママの写真も持って行きます」

「もちろん。是非いらしてください。お爺さんも喜びます」

「うん。気をつけて帰ってくださいね」

 彼女の姿が見えなくなったあとも、茜音は玄関先で手を振っていた。




「そんなことがあったの。人生も分からないねぇ」

 佳織もため息をつく。

 佐々木家の方から、今後茜音については手を出さないとする誓約が取れたことを報告しにきてくれた。そこに例のテレビでの影響を心配した小峰が同行してきたという。

「その、美鈴さんてのはどうなったの?」

「うん、話したみたいだよ。最初は猛反対されたみたいだけど、最近はそうでもないみたい」

 あの後も個人的に連絡をとり続けている美鈴とは、それまでとは一転して良好な関係となっている。

 彼女の話によれば、佐々木家としても美鈴が反対していた以上に茜音に強固に拒絶され、法的措置も辞さないという姿勢には驚いたようだとのこと。

 今回の親権移動については、茜音も成人していることやこれまでの経緯からも、仮に裁判となった場合に勝てる見込みもないということになり、茜音を戻すことは諦める結論に至ったようだ。

 それに追加で、母方の祖母が会いに来たこと。事故後の対応についての謝罪があったことも報告された。

「茜音はそれでいいの?」

「うん、だってそれぞれの立場があって、出てこられないことだってあると思うし。仕方ないんだよ」

 茜音だって、すぐにその結論に至ったわけではない。やはり自分は不要な存在だったという感情がある一方、周囲に言えないながらも、自分の誕生を陰ながら喜んでくれた人がいたという事実。

 また、こちらもまだ大きく公表はできないけれど、お互いに出会いを喜ぶことができた従姉妹の存在も非常に大きかった。

 茜音自身、さまざまな事はあったにせよ、何とか乗り越えて大人にもなったし、将来の伴侶もいてくれる。過度な干渉さえないのであれば、それは事実として受け入れていくしかないと思うようになっていた。

「そんな茜音に、ちょっと急で悪いんだけど……」

 佳織が申し訳なさそうに、話題を変える。

「うん?」

「実は、これ出てくれないかな」

 差し出されたのは、市内の音楽コンクールのパンフレットだった。

「えー? だって、わたし練習も何にもしてないよ?」

「実は、出る予定の人が怪我しちゃって……。人数の関係から代役を立てなきゃいけなくなって。他の人に頼めないよこんなの。茜音だからなの。お願い!」

 佳織に差し出された課題曲の楽譜を受け取り、封を切ってざっと辿る。

「小峰さん、けっこう難しいですよこれ……」

 恐らく楽譜を見ながら弾くだけなら、数回練習すれば出来るだろう。問題は曲の解釈で、作曲者が何を表現したいのかを見極めることだ。これを見誤ると、どうにもチグハグな演奏になってしまう。

「成美さんの曲の解釈は楽団の中でも随一でしたが、教わっていませんでしたか?」

「教わるも何も、わたしには特訓ありませんでしたし」

 もちろん、当時から家には楽器もあったし、自由に触らせてもらった。しかし、当時開いていたレッスンの練習生に課していたような課題を茜音には与えなかった。

「うん、佳織にもお世話になったし。いいよ。やってみる」

 その日から、教室の空き時間や、家に帰ってからも茜音はピアノの前に座っていた。

 横で見ていた健が語ったところによると、楽譜は鉛筆で真っ黒になるほど書き込まれ、鍵盤に指を走らせてはそのたびに頭を抱えていたという。

 本来の出場者には1ヶ月前に渡されているのが、茜音には1週間しかない。課題曲は新曲だから、他の参加者同様に誰にも相談をすることは許されないという。

 ハンデは承知だが、佳織やここまで育ててくれた小峰に恥はかかせたくなかった。

「できたぁ……」

 茜音のそんな声が聞こえたのは、コンクール当日の午前1時を回った頃だった。




 市内のコンクールとはいえ、プロアマを問わずの参加となる。当然どこのレッスン教室にも所属していない茜音はアマチュア扱いだ。

 しかし、その差は正直なところ歴然だった。

「小峰さん、茜音ってどこが違うんですか?」

 休憩時間に、客席にいた佳織は隣の小峰に聞いた。音楽の耳は持っていない佳織ですら、どこか他の演奏者と異なるところがあったように感じられたほどなのだから。

「音が正確なのはもちろんですが、楽譜上には書かれていない、作曲家が何を表現したいかを演者が読み取ることを『解釈』と言います。これを他の方とは微妙に変えておられる。私の予想でしかありませんが恐らくお嬢様の方がより正確だと思います。これを僅か1週間で仕上げてくるのは見事です。これはもう天性としか言えません。やはり天才のお二人の血筋なんでしょうね」

 口には出さず小峰が首を傾げているのは、審査に時間がかかっていることだ。理由の想像はついていた。もちろん、台風の目になってしまった茜音の存在だ。

 課題曲の作曲者は明かされていないし、その譜面の読み方や解釈も各自が自由ではあった。きっと、問題となっているのは彼女の素性なのだろうと。

 僅か1週間前のエントリー変更にもかかわらず、審査員をうならせる技術をもつ無名のピアニストは誰なのか。

 このコンクールは、アマチュア部門とはいえ各パートの優勝者には2ヶ月の留学研修というご褒美がある。どこの教室にも属していないともなれば、それなりの人物でないと選出理由に箔が付けられない。


 この会議の中、審査員の一人が首を傾げた。

「昔、この片岡さんとほぼ同じ解釈ができた人がいる。ただ、歳も違うし、お名前も違う」

「そうなんです。あの方はお亡くなりになってます。惜しいことをしたもんだ。彼女が同じ解釈をして演奏すれば十分に優勝させられるのだが」

「もしかして……。まさか、そんなことが……?」

 結果はすぐに出た。あのテレビの影響もあった。インターネットで検索してみると、茜音の名前からすぐに情報が詳細に分かった。

 片岡茜音。

 もはや伝説とも言われた。彗星のように突然現れて、各賞を総ざらいした後に海外留学した一人の女性ピアニスト、佐々木成実を母親に。国内最高クラスの楽団コンサートマスターを務めていた佐々木秀一郎を父親に持つ。

 後に不慮の事故で亡くなってしまった二人が、唯一遺した一人娘なのだと。



 
 会場からの帰り道、トロフィーを抱えながら佳織と健と一緒に電車に乗る。こんな物を持ち帰るとは思っていなかった。

「茜音ぇ、なんであんたはそこまでやっちゃうかなぁ?」

 会場で着ていた赤いドレスは、クローゼットの中から大急ぎで選んだものだ。もともと成長すれば雰囲気の似ていた親子だったのだろう。母親の衣装を着ても違和感なく収まっていた。

「頼まれたからにはね……。それよりも健ちゃん、どうしよぉかぁ……」

 あくびをかみ殺しながら、手元の袋を見下ろす。バックに衣装と一緒に入れてある封筒が問題の種だ。

 春休みにかけて、オーストリアのウィーンに2ヶ月の研修体験。学生には春休みにちょうどいい時間だけど、職を持っている茜音には休暇にしては長すぎてしまう。

「そしたら、本物の研修にしちゃおうよ。もともと茜音ちゃん、音楽セラピーの勉強がしたいって言ってたし。現地で調整してみたら?」

 現地での調整と、茜音の不在期間を他の職員と、今度の春からの珠実園入りが決まっている河名千夏と西村和樹の二人に連絡をして、卒業式を待つ和樹に部屋の片づけをお願いし、一足先に千夏に入ってもらうことで乗り切ることになった。




「ねぇ健ちゃん……。2ヶ月、ごめんね。忙しいときなのに」

 出発の前日、二人はいつもどおりに並んでベッドに入っていた。

「大丈夫。みんないってらっしゃいって言ってくれたし。この春卒園の子たちの最後までには帰ってくるわけだし」

 珠実園のメンバーも、茜音が助っ人として音楽コンクールに出場することは知っていたものの、まさか優勝トロフィーを持って帰るなどとは思っていなかったから、「ひとまず」と園に寄って、テーブルの上にドンとおかれたときには、歓声と納得の声が半々だった。

 高校3年生の時にみんなの度肝を抜いた彼女の力量なら、この結果は当然だというのが理由だ。

 同時に、電車の中で話していた茜音の研修の話題が発表される。

「茜音先生、戻ってきてくれるんですよね?」

「うん、どんな形でも必ず戻るよ。みんなの晴れ姿見なくちゃね」

 茜音が帰ってくるのが3月の頭だから、せめて各学校を卒業する子どもたちの晴れ姿を見届けたいと思っていた。

 二人だけになったとき、茜音は健にだけ本音を漏らす。

「それもそうなんだけど……。18歳でもう一回会えてから、2ヶ月間も会えないなんて初めてなんだよ」

「そうだったか……。もう茜音ちゃんとは何年もずっと一緒にいる気がしていた。あの10年間なんかなかったみたいに」

「わたしもそうなんだよ……」

 いつも隣にいるようになって、もう2年以上が経つ。茜音にいつでも会える。そんな環境に慣れきってしまっていることに気づいた。

「だから、この2ヶ月の時間が怖い。帰ってきたら、わたしの居場所がなくなっちゃうかもしれないって思うと怖いよ。健ちゃん、もっとわたしって頑張らなくちゃいけないのかなぁ」

 仕事に追われる毎日。確かに落ち着くまでは頑張ろうという約束はした。そして、茜音はそのための準備を着実に進めてきてくれた。

 偶然とはいえ、留守を守ることになるけれど、2ヶ月彼女と離れて暮らさなければならない。

 二人が離れて過ごした10年間からすればあっという間かも知れない。それでも、もう一度気持ちを確かめ合って二人三脚で歩いていくことを約束した茜音をそろそろ安心させてやりたい。

「茜音ちゃん。約束する。僕はこの2ヶ月で準備をするよ。茜音ちゃんとずっと一緒にいられるように」

「健ちゃん……。茜音、変わっちゃうかも知れないよ? そんなわたしでも、隣にいさせてもらえるの?」

 嬉しそうに涙を流した茜音の頬にキスをする。

「茜音ちゃんは変わらない。きっと2ヶ月したら、僕が心配するくらい凄い女の子になって帰ってくると思う。僕はそんな茜音ちゃんを予約したい」

「うん、予約されちゃったぁ。空港まで迎えに来てくれる?」

「もちろん。明日も行くよ」

 その日も、茜音は健の手を繋ぎながら目を閉じた。