ある日、秀一郎は自主練を終えた成実に自分の所属する楽団の演奏会のチケットを渡した。

「この日が千秋楽です。予定がよろしければ観に来ていただけると嬉しいです」

「え……、こんな券を私が頂いていいんですか?」

「いつも頑張っているご褒美です。たまには力を抜いて音楽に癒されてもいいと思いますよ」

 成実も知っているこの公演のチケットは毎年プラチナチケットでB席ですらなかなか手に入らない。

 当日、成実がそのチケットを手に会場に赴くと、指定されていた席はS席の中央という信じられない場所で、成実には夢のような時間だった。

「お待たせ。遅くなってごめんね」

 ステージ衣装ではなく、普段着に戻した秀一郎は、楽器を手にしているということ以外、どこにでもいる普通の青年だった。

「いえ。本当に今日はありがとうございます。なんだか途中で涙が出てきちゃって。秀一郎さん、素敵でした」

 恥ずかしそうな彼女の顔を見ると、目元のメイクを直しているのが分かった。

「まだまだ。目指すはコンサートマスターですよ」

「凄いです。それに比べたら、私なんて全然……」

 落ち込んでしまった成実に何があったのか尋ねる。

「せっかく、あんなに教えていただいたのに、教員採用試験には落ちてしまいました。ただ、演奏は満点だったそうです。秀一郎さんのおかげです」

 そのため、今から遅くはなってしまうが職探しに入らなければならないとのこと。

「きっと、レッスンの時間もお金も割けなくなってしまいます。だから……」

「成実さん」

 俯いた成実を抱きしめる。思っていたよりもずっと華奢な体だった。

「それなら、うちの楽団に来ませんか? ピアニストが先日引退してしまって、今日の演奏会でもほかから借りてきた状態です」

「そ、そんな……。私は……。お姉さんがいらっしゃいますよ?」

 あの眩しい光のステージ。一度は憧れたこともある。でも、自分はそんな英才教育を受けたこともないし、娘を演奏家に出来るような家庭の余裕もない。

「僕がついています。姉はソロが好きですからね、成実さんはセッションがお上手なのでこちらの方が向いていますよ」

 成実は気付いていない。この僅か数ヶ月で、教員などというレベルはとうに通り越し、すでに師範を取れるくらいまでその実力は十分に上がってきている。自分の姉とすら対等に渡り合えるであろう。

 この才能をこのまま消してしまうなど、勿体ない。

 それなら、就職が決まるまでかもしれないという条件で、秀一郎は成実を楽団の練習に連れて行った。

 みんなの前で一曲を弾き終えると、全員がスタンディングオーベーションで答えた。

「佐々木さん、どこでこんな逸材を?」

 これまでコンクールにも出ていない無名の成実。

 噂はあった。佐々木秀一郎に弟子がいるのではないかと。それがピアニストの卵だったとは。

 全員が確信する。まだ荒削りな部分はあるけれど、絶対に伸びると。

「いかがでしょう。深谷さんを当楽団のピアニストとしてお迎えするのは?」

「異議なし!」

 全員の声が練習室に響いた。