「先生、よろしくお願いします」
教室の扉を開けて入ってきた女性を見て、佐々木秀一郎は何かを感じた。
「初めまして。深谷成実さんとおっしゃいましたか?」
申込書には確か19歳と書いてあったが、まだ高校生の少女と言っても通用してしまいそう。
でも、ダークブラウンの瞳は強い意志を感じさせながらも柔和な視線で自分を見ていた。
「はい。教師になるためにはピアノを弾ける必要がありまして……」
「なるほど」
成実に聞いてみると、ピアノは好きではあったけれど、特段に習ったりすることはなかったそうだ。
しかし、一度簡単な楽譜を見せて弾いてもらったとき、秀一郎はそれが単なる直感で無かったことを確信する。
誰かに習っていなかったことで、逆に変な癖がついていない。基本通りに一生懸命に弾いている姿は、逆に微笑ましいくらいだ。
「深谷さんは練習で絶対に伸びる」
「ありがとうございます。でも、うちは貧乏なのでピアノもありませんし、アルバイトもあるので、ずっと練習と言うわけにもいかなくて……」
このピアノレッスンだって、彼女の懐具合からしたら決して安くはないはずだ。
この街には昔から有名な音大があり、付属校は小学校からある。そのため、付属小学校に入るために幼稚園の時期に転居し、レッスンを受けてお受験に臨むという流れすらあった。
音楽家の佐々木家にとって、そんな要望もあって開いている教室は、コンクールなどには参加していなくても、教え方が上手だと人気で、子供から大人まで幅広い年代のレッスンを引き受けている。
個人レッスンともなると、なかなか時間をとることも大変だ。
「そうか……。家は遠くないですよね?」
「はい、歩いて15分と言うところでしょうか」
最初のレッスン時間が終わって、二人は秀一郎が練習で使っている庭の小屋に入った。
「このお部屋は?」
「もともと僕の部屋になる予定がレッスン室になってしまったので、こちらに作ってもらったんです。さすがに姉のグランドピアノをプレハブってわけにいかないしね。僕はバイオリンだから、防音さえしてあればどこでも大丈夫だし。ただ、アップライトピアノにはなってしまいますが」
確か、成実が教室の空きを聞いたとき、本課の学生かどうかを聞かれた。ピアニストである姉のクラスはいっぱいだけど、基本レッスンならばまだ空きがあると言うことで受けてもらえた。
「だから、僕は夕方以降は空いているんです。どうせ使わないから、こちらで好きなときに練習してください」
「で、でも……」
防音された部屋でピアノを弾けるという環境を借りるだけでも費用はかかってしまう。成実にそこまでの余裕はなかった。
「自主練ですから、レッスン費用はいただきません」
「えっ……?」
思わず顔を上げた成実に秀一郎はニコリとして頷いた。
「その代わり、僕がここで練習していてもいいですか?」
「も、もちろんです!」
こんな二人の出会いが単なる偶然でなかったと気づくまで、それほど時間はかからなかった。
自主練習と言いながら、「ひとりごと」という名目で秀一郎のアドバイスは入ったし、逆に彼の練習を聞いて感想を述べるなど、レッスン時間とは別の時間を深めていった。