「あーあ、菜都実行っちゃった」
風呂を終えた後のリビングで茜音はソファーに勢いをつけて座った。
「みんなで笑顔で送り出せたんだよ。今度は遊びに行かなくちゃ」
「そうだねぇ。でも珠実園の宿泊キャンプにはちょっと遠いよなぁ……」
「いいんじゃないか? あれとは別に企画すればいい」
春休みも最後の日、佳織と茜音に健を加えて早朝のウィンディに集まった。
「じゃぁ、行ってくる。いままでありがとう」
両親に抱きついている菜都実に涙はなかった。
「頑張ってきなさい。幸せになるのよ」
「うん、ちゃんと届けとか式をやるときは相談するから。あと、赤ちゃんも準備が出来たら頑張る」
昨日は親子三人、川の字で寝たという。
店の準備で抜けられない両親の代わりに、三人が車で羽田まで送ることにしていた。
「いいよ、行こう」
車に乗り込んで菜都実は頷いた。
「いい?」
「うん。忘れ物ない。あっても国内だし」
「そーいう問題じゃないでしょ」
「佳織、あたしを泣かそうったってそうはいかないぞ?」
「バレたか」
すでに大きな荷物は現地に送ってある。最初の数日分と送れなかった手回り品を持っての出発だった。
「絶対に遊びに行くからね」
「あたしだって、里帰りはするわよ。それに、将来的には戻ってくる予定だから。だから、あのお地蔵様もそのままにしたんだ。三人であの街で暮らしていた記憶だから。お寺にもちゃんと言ってきたよ。留守は任せなさいってさ」
数カ月前と同じように、ゲート前で手を振る。
「ねぇ、二人とも?」
「なに?」
「茜音が先か、うちが先か分からないけど、うちは入籍はしても式はしばらく出来ないから、みんなで一緒にやらない?」
「3組同時? 大変そう~」
「あのチームならなんとかなるっしょ」
「だれか、ウエディングプランナーの就職いたっけ?」
「まだ先の話だから、ゆっくり考えよう。じゃぁ、行ってきます!」
「菜都実、いってらっしゃい」
最後にとびきりの笑顔を見せて、彼女はゲートの奥に消えた。
「健ちゃん……。わたしたちも、落ち着いたら、結婚できるよね……」
茜音の家での風呂上り。最近は健も自分の荷物をこの家に移しつつあり、二人で暮らす時間が多くなっている。
「うん。茜音ちゃんのドレス姿見たいなぁ」
本当なら、もういつでも構わない。茜音自身はその準備も済ませた。二人で話し合って、健が正式に落ち着いたら、そのタイミングで入れようと決めたのがつい先日。
本当なら婚約指輪を買うと言っていたのに、茜音はシンプルなシルバーリングを自分で買って健に渡した。
「これをつけて。健ちゃんにはめてもらえば、それでエンゲージリングだよぉ」
「まったく、茜音ちゃんはしっかりしてるなぁ」
分かっている。こんなリングなどでは表しきれない。彼女はすでに仕事も含めた人生をパートナーに預けているのだ。楽しいことはもちろん、大変なこともあるに違いない。
昨年の沖縄で誓った。真っすぐではないけれど、二人で手をつないで人生を歩くと。
8歳の時に、茜音を連れ出すと決めたときと似ている。
「茜音ちゃん……」
「なぁに?」
あの時のあどけなさはだいぶ大人っぽく変わったけれど、大好きなダークブラウンの瞳は当時と変わらない。
「あの時から、いろんなこと言って、茜音ちゃんにも苦労かけちゃった。それなのに、僕のところに来てくれた。ありがとう。茜音ちゃんとのゴール、一緒に目指していいかな?」
パジャマ姿の茜音が隣に座る。ふんわりとシャンプーの香りがした。
「あの日、二人だけの列車の中で約束したよ。どこまでも健ちゃんについて行くって。だから、ずっと一緒なの」
自分を見上げて笑った茜音が目をつぶる。健はそんな彼女の唇をそっとふさいだ。
【茜音 22歳 秋】
「茜音先生、先生をご指名のお客さまなのですが、お通ししてもよろしいですか?」
「は、はぃ。こんな時間に?」
児童福祉施設、珠実園の職員室。
今日の仕事を終え、交代で入ってくれる夜勤の先生への引継も終わらせた。
帰り支度を始めていた片岡茜音は受付からの電話を受けた。
時間はもう夕方の5時を回っている。
この珠実園は、2年前の春に大幅なリニューアルをした。
それまでは児童保護施設という役割を中心としていたが、その時から地域の児童センターを併設することになって、子育て支援などにも力を入れた市の施設として稼働している。
もちろん、もともと入居している子どもたちの中には家族との関係が上手くいかずに預けられているなどの境遇などもあるため、積極的に関与させるようなことはしていない。
本人の興味や希望がある場合は、支援センターでの活動に学業や生活に支障がないように手伝いをお願いする程度に留めている。
茜音は短大を卒業した後、この珠実園の職員として正式に採用され、今ではすっかり「あかね先生」と定着して子どもたちにも人気だ。
心理カウンセラーの資格や、幼稚園の教員免許を持つ彼女の役目はなかなか忙しい。
平日は珠実園に入居している中でも幼い子どもたちの教室を開催したり、地域の未就園児を対象にした教室。
それらに伴う相談や市の保健師などとの打ち合わせなど毎日は予想以上に多忙だ。
休日も可能な限り入所している子どもたちとの時間を大切にした。
もちろん、これは珠実園の次期園長であり、茜音の婚約者でもある松永健の協力と理解があってのことだ。
今日は金曜日で、明日は久しぶりの完全オフをもらっている。
昨日の夜、熱を出してしまった子の看病をしていたので、昨日は家に帰らずに療養室で仮眠をしただけだ。
まだ22歳の若さがあると言っても、夕方になってはあまり他人に見せられる顔ではなかったのだけれど。
「お待たせしました。片岡です」
応接室に待っていたのは、二人の男性で、片方は茜音もよく知っている人物だった。
「小峰さん!」
「お久しぶりですね。お疲れのところ申し訳ありません」
初老の男性は、珠実園の運営や子どもたちの夏休み遠足などでも世話になる。また、存命だった頃の茜音の両親と一緒の楽団にいたこともあり、当時の二人だけでなく、幼い頃の茜音のことも覚えていた。
「実は、テレビである企画があがりまして、その関係で私のところにお話が来たのですが、私一存では決めかねる内容でして、これはお嬢様の判断をいただきたいと思いまして」
「はぃ……」
「あ、あの……、こちらの方は、あの佐々木茜音さんなんでしょうか?」
小峰との会話を聞いていたもう一人の男性が目を丸くする。
「ご紹介が遅れましたな。こちらがお宅さんたちが探していた佐々木さんご夫婦のお嬢様です。丁重に頼みますよ」
話を聞いてみると、テレビの取材と出演協力という話だった。
茜音の一家が飛行機事故に遭ったのはもう17年前の話だ。
事故の検証や遺族の証言などを集めている中で、助けられた生存者を探していた。
茜音の両親は当時から世界的に著名な演奏者として名前も挙がっている。その娘が助かっていることは当時の記録にも残っているものの、彼女の足取りは忽然と消えていたからだ。
「ちょっといいですか? 私の一存では決められないので……」
茜音は内線で園長室を呼び出した。
「ごめん、来てもらってもいいかなぁ?」
電話の主はすぐ行くと言ってくれ、間もなく二人の男性が入ってきた。
「おや、小峰さん。これはどうも」
入ってきたのは、珠実園の園長先生と松永健の二人だった。
もちろんこの二人とも、小峰氏のことはもちろん知っているし、一時的には茜音の保護者でもあったわけで、これまで茜音をメディアに出さないようにしてきた二人の意見が聞きたかった。
取材の趣旨を聞いた二人も唸った。
番組は非常に真面目な物だったし、それを否定したりはしない。
心配しているのは茜音のメンタルだ。
茜音が事故後、初めて当時の施設、ときわ園にやってきたとき、彼女は言葉を発することが出来ないほど傷ついていたからだ。
両親を失い、親戚が誰も迎えに来ないことを絶望したこと。また周囲の好奇の目に晒されて、子供らしく笑うことすら出来ず、小さくなって怯えていた。
園長先生と同い年の健が中心になって、それこそ総力戦で必死に茜音の笑顔を取り戻した。
そして、ようやく一人の女性としての幸せを手に入れられるところまで持ってきた。
ここで対応を間違えば、また茜音を突き落としてしまいかねない。
「どうする? 珠実園としては取材そのものは構わないけど、茜音ちゃんの気持ちだよ」
しばらく考えて、茜音はとうとう口を開いた。
「分かりました。でも、スタジオはごめんなさい。事故の後や両親についてはお話しします。あとは、お仕事中の撮影は、子どもたちのプライバシーをちゃんと守ってあげてください」
当日、内容については別途打ち合わせということで、その日は切り上げることになった。
「茜音ちゃん、本当に大丈夫?」
こちらも仕事を終えた健と車で二人の家に帰る。もともとは茜音が事故前に佐々木家の一人娘として両親と暮らしていた場所だ。
茜音を最後に施設から引き取り、片岡家の家族として迎えてくれた両親は茜音が遺産として引き継いだ彼女の生家と財産には手をつけず、18歳の誕生日に返した。
そのおかげで茜音がまだ社会人2年目でありながら戸建ての家に住める理由だ。
「うん、迷ったんだけどね。珠実園の子どもたちにも、『あかね先生もこんなだった』って説明する必要もあると思うし。あの子たちがこういう生き方もあるって知ってもらえるようになれば、それでもいいかって思ってね」
もう自分は誰かを導く立場になっている。特別なことは出来ないけれど、自分の半生を話すことくらいはしてもいい。
「強くなったんだねぇ」
「ううん、違うよ。わたしには健ちゃんっていう帰れるところができたから。だから、弱虫な茜音はそのまんまなの」
以前なら、あの話題を持ち出すことすらタブーになっていた茜音。長い年月を経た今でも、決して忘れている物ではない。それでも少しでも前に進みたいと努力を続けてきた彼女の気持ちを健も解っている。
「辛かったら、当日でもストップをかけるから。無理はしないでね」
「うん、ありがとう」
いつものように、茜音は健の手を握りながら床についた。
「あかね先生、昨日のテレビに出てたねぇ」
朝、教室の準備をするために食堂の前を通ると、中から声がした。
「あれぇ、みんな見てくれたんだぁ。おはようございます」
中に入ると、もうすぐ食事も終わりの時間で、少しずつ後片付けが始まっている。
「茜音ちゃんて苦労してたんだねぇ」
職員室に入っても、話題はそれで持ちきりだ。茜音の要望どおり、スタジオ入りはなく、代わりに珠実園での収録もあったので、大半のメンバーはどのような内容になるのか興味があったようだ。
「えぇ? でも里見さんとか、未来ちゃんは知っていたはずだけど、言ってなかったの?」
食堂の中で片付けをしていた田中未来に声をかける。
「言えないですよ、姉さんの大事な秘密ですから」
「テレビに出ちゃったくらいなんだから、もう秘密でもなんでもないけどねぇ」
この未来も昨年高校を卒業して、同時に珠実園を卒園しているが、高校時代の成長を認められて、今でも資格の勉強をしながら職員として通いで働いている。
「施設名は出ていなかったけど、知っている人はすぐに分かるだろうし。問い合わせがあるかも知れません。そのときはわたしが直接対応するので知らせてください」
朝のミーティングでそんな話題を振っておいた。茜音が小さい頃に受けた嘲笑などとは、さすがに大人になると変わる。
教室に通う子供たちのお母さんたちからは、そんな境遇からここまで成長してきた茜音への賛辞がほとんどだったし、それが原因で彼女の元を去ってしまうような事態にはならなかった。
「茜音先生も気が楽になりました?」
お昼の時間、子供たちを食べさせた後に支援センターの休憩室で昼食を摂っていた茜音に保健師さんが話しかけてくれた。
「そうですねぇ。正直、今朝は怖かったですよ。でも、みんな受け入れてくれて、ありがたかったです」
「そもそも、胸を張って生きていけるはずなのに。なんでそうなっちゃうのかしらね」
「あまりにもこれまでと違うから、拍子抜けしちゃって。珠実園の子どもたちへのメッセージってところでしょうか」
そう。これまで謎とも言われていた茜音の半生を公表した最大の理由がこれだ。
「大丈夫。みんな分かってるわよ」
「だといいなぁ」
午前中とは違い、午後はスケジュールも比較的余裕がある。
園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら遊具の片づけと点検をしていたときだった。
胸ポケットに入れていた業務用の携帯が鳴った。
「はぃ、片岡です。あ、健ちゃ……じゃなかった、副園長。どうしました?」
業務中なので仕方ない。プライベートゾーンになる住居棟では、家族として子どもたちと接することも多いから、この切り替えには気を使う。
「えぇ? そんなことって……。分かったよ。あとで園長室に行くね」
通話を切って、元通りにポケットに入れた後、茜音はため息をついて夕焼け空を仰いだ。
「そんな連絡が入ったのねぇ……」
日中の仕事を終えて、珠実園の子どもたちの宿題を教え終わった後、宿直室で茜音は健から電話の中身をもう一度聞いた。
「今ごろ出てこなくてもなぁ……」
連絡は先日のテレビ局からだった。交通孤児となって片岡家に迎え入れてもらえるまで、身寄りのいなかった茜音に、親戚だというものから連絡が入ったという。
「片岡のご両親は、茜音ちゃんの気持ちに任せると言っていたよ。引き取るといっても今の茜音ちゃんにはきちんと家族がいるんだから」
「うん。分かってる……。でも……」
茜音には、そもそもこんな話を聞く前から分かっていた。どこかに自分よりも少し大きな女の子がいる親戚がいたはずだと。
それは、今でも大切に保管されている幼い頃に着ていた1着の服だった。
茜音と健が施設を飛び出した8歳の駆け落ち劇でも着られていたそれは、茜音の母親の手作りだ。でも、事故当時の茜音は5歳だったから、事故当時ではサイズが合わない。
まさか3年後を見越して作ったとは思えないから、これを渡すはずだった相手がいたことになる。
茜音が生まれ育った佐々木家は横浜だったから、北海道に友人がいたとするより、親戚筋だと考えた方が妥当だという推論を持っていた。
「健ちゃん、ごめん。ちょっとその件は保留してもらっていいかな。ちょっと調べたいことがあるの」
「うん、わかった。茜音ちゃん?」
「うん?」
「無理しちゃダメだぞ? 茜音ちゃん一人が被る問題じゃない」
「ありがとう。ほんと、健ちゃんには迷惑かけてばっかりだなぁ」
力なく宿直室を出て、茜音は住居棟の屋上に出た。もともと山の上に建てられたホテルのあった場所なので眺望は良い。港の夜景を遠くに見下ろしながら、ベンチに腰をかけて自分のスマートフォンを取り出す。
「もしもし、佳織?」
『茜音? 久しぶり! どうしたの、声に元気ないわよ?』
さすがだ。一緒に青春時代の一番楽しい時間を駆け抜けた親友に空元気は通用しない。
「うん、実はちょっと調べてほしいことがあるんだぁ」
佳織に今回のことを手短に話す。そして続けた。
「わたしも、まだどうしていいか分からない。でも、どこかにヒントはあると思うんだ」
『なるほどねぇ。いいよ。すぐ調べてあげる。実習にちょうどいいや』
「ごめんね。お仕事だからお金も払うよ。事務所の先輩さんたちにも迷惑かけちゃうから」
『茜音からお金なんてもらえないよ。任しといて。分かったらすぐに連絡する。今度遊びに行くからね!』
佳織との電話が切れて、茜音はひとつ肩の荷が下りたように感じた。
「茜音ちゃん……、少しは休んだら?」
日曜日、健は夜通し部屋にこもっている茜音に朝食を持ってきた。
「うん、時間が無いからごめんね……」
部屋の中は資料が散乱している。
「お母さんが心配してたよ。急にこんなことになってって」
「佳織が週明けには結果を持ってきてくれるはずだから、それまでにこっちも見つけたいの。それまでは頑張る」
昨日の夜、今の茜音の両親である片岡の夫妻が資料を持ってきてくれた。
佳織に電話をしたあと、彼女は家に電話をして、母親に当時の新聞のコピーを頼んだのだ。
当然そんな古い新聞は紙媒体で残っていないから、マイクロフィルムの縮小版かデシタルデータでの保管になっているので素人では扱えない。しかし、図書館の司書として働く彼女なら可能だと思い出した。
娘の頼みとはいえ、生々しい記事を渡すことに迷いもあった。それでも、真剣な茜音の口調に負けて、探し出すことを約束した。
仕事になればさすがはプロだ。僅か一日で茜音の元には膨大な新聞記事が届いた。
この中から、茜音の名前が出ている物を拾う。
その作業を昨日の夜から健にも手分けをしてお願いしていた。
蛍光ペンでマーキングをしながら、当時、茜音が事故の数少ない生存者として、何度も紙面に名前が出ていることに健も気付いていた。
そして、その日の夕方には二人の結論も揃いつつあった。
よほどのことが無い限り、「佐々木茜音が無事に救出された」ことは、仮に親戚であればその時から知っていたことではないかと。
それならば、なぜ当時に申し出をせず、今この時期になってという理由を推測するしかない。
そして、ついにその答えの一部を茜音は練習室の奥に束ねられていた大学ノートのなかから見つけてしまった。
「先生、よろしくお願いします」
教室の扉を開けて入ってきた女性を見て、佐々木秀一郎は何かを感じた。
「初めまして。深谷成実さんとおっしゃいましたか?」
申込書には確か19歳と書いてあったが、まだ高校生の少女と言っても通用してしまいそう。
でも、ダークブラウンの瞳は強い意志を感じさせながらも柔和な視線で自分を見ていた。
「はい。教師になるためにはピアノを弾ける必要がありまして……」
「なるほど」
成実に聞いてみると、ピアノは好きではあったけれど、特段に習ったりすることはなかったそうだ。
しかし、一度簡単な楽譜を見せて弾いてもらったとき、秀一郎はそれが単なる直感で無かったことを確信する。
誰かに習っていなかったことで、逆に変な癖がついていない。基本通りに一生懸命に弾いている姿は、逆に微笑ましいくらいだ。
「深谷さんは練習で絶対に伸びる」
「ありがとうございます。でも、うちは貧乏なのでピアノもありませんし、アルバイトもあるので、ずっと練習と言うわけにもいかなくて……」
このピアノレッスンだって、彼女の懐具合からしたら決して安くはないはずだ。
この街には昔から有名な音大があり、付属校は小学校からある。そのため、付属小学校に入るために幼稚園の時期に転居し、レッスンを受けてお受験に臨むという流れすらあった。
音楽家の佐々木家にとって、そんな要望もあって開いている教室は、コンクールなどには参加していなくても、教え方が上手だと人気で、子供から大人まで幅広い年代のレッスンを引き受けている。
個人レッスンともなると、なかなか時間をとることも大変だ。
「そうか……。家は遠くないですよね?」
「はい、歩いて15分と言うところでしょうか」
最初のレッスン時間が終わって、二人は秀一郎が練習で使っている庭の小屋に入った。
「このお部屋は?」
「もともと僕の部屋になる予定がレッスン室になってしまったので、こちらに作ってもらったんです。さすがに姉のグランドピアノをプレハブってわけにいかないしね。僕はバイオリンだから、防音さえしてあればどこでも大丈夫だし。ただ、アップライトピアノにはなってしまいますが」
確か、成実が教室の空きを聞いたとき、本課の学生かどうかを聞かれた。ピアニストである姉のクラスはいっぱいだけど、基本レッスンならばまだ空きがあると言うことで受けてもらえた。
「だから、僕は夕方以降は空いているんです。どうせ使わないから、こちらで好きなときに練習してください」
「で、でも……」
防音された部屋でピアノを弾けるという環境を借りるだけでも費用はかかってしまう。成実にそこまでの余裕はなかった。
「自主練ですから、レッスン費用はいただきません」
「えっ……?」
思わず顔を上げた成実に秀一郎はニコリとして頷いた。
「その代わり、僕がここで練習していてもいいですか?」
「も、もちろんです!」
こんな二人の出会いが単なる偶然でなかったと気づくまで、それほど時間はかからなかった。
自主練習と言いながら、「ひとりごと」という名目で秀一郎のアドバイスは入ったし、逆に彼の練習を聞いて感想を述べるなど、レッスン時間とは別の時間を深めていった。
ある日、秀一郎は自主練を終えた成実に自分の所属する楽団の演奏会のチケットを渡した。
「この日が千秋楽です。予定がよろしければ観に来ていただけると嬉しいです」
「え……、こんな券を私が頂いていいんですか?」
「いつも頑張っているご褒美です。たまには力を抜いて音楽に癒されてもいいと思いますよ」
成実も知っているこの公演のチケットは毎年プラチナチケットでB席ですらなかなか手に入らない。
当日、成実がそのチケットを手に会場に赴くと、指定されていた席はS席の中央という信じられない場所で、成実には夢のような時間だった。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
ステージ衣装ではなく、普段着に戻した秀一郎は、楽器を手にしているということ以外、どこにでもいる普通の青年だった。
「いえ。本当に今日はありがとうございます。なんだか途中で涙が出てきちゃって。秀一郎さん、素敵でした」
恥ずかしそうな彼女の顔を見ると、目元のメイクを直しているのが分かった。
「まだまだ。目指すはコンサートマスターですよ」
「凄いです。それに比べたら、私なんて全然……」
落ち込んでしまった成実に何があったのか尋ねる。
「せっかく、あんなに教えていただいたのに、教員採用試験には落ちてしまいました。ただ、演奏は満点だったそうです。秀一郎さんのおかげです」
そのため、今から遅くはなってしまうが職探しに入らなければならないとのこと。
「きっと、レッスンの時間もお金も割けなくなってしまいます。だから……」
「成実さん」
俯いた成実を抱きしめる。思っていたよりもずっと華奢な体だった。
「それなら、うちの楽団に来ませんか? ピアニストが先日引退してしまって、今日の演奏会でもほかから借りてきた状態です」
「そ、そんな……。私は……。お姉さんがいらっしゃいますよ?」
あの眩しい光のステージ。一度は憧れたこともある。でも、自分はそんな英才教育を受けたこともないし、娘を演奏家に出来るような家庭の余裕もない。
「僕がついています。姉はソロが好きですからね、成実さんはセッションがお上手なのでこちらの方が向いていますよ」
成実は気付いていない。この僅か数ヶ月で、教員などというレベルはとうに通り越し、すでに師範を取れるくらいまでその実力は十分に上がってきている。自分の姉とすら対等に渡り合えるであろう。
この才能をこのまま消してしまうなど、勿体ない。
それなら、就職が決まるまでかもしれないという条件で、秀一郎は成実を楽団の練習に連れて行った。
みんなの前で一曲を弾き終えると、全員がスタンディングオーベーションで答えた。
「佐々木さん、どこでこんな逸材を?」
これまでコンクールにも出ていない無名の成実。
噂はあった。佐々木秀一郎に弟子がいるのではないかと。それがピアニストの卵だったとは。
全員が確信する。まだ荒削りな部分はあるけれど、絶対に伸びると。
「いかがでしょう。深谷さんを当楽団のピアニストとしてお迎えするのは?」
「異議なし!」
全員の声が練習室に響いた。
その実力は嘘をつかない。秀一郎や楽団のメンバーの耳に狂いはなかった。
十分な練習時間と環境を与えられた成実の腕はこれまでにも増して上達していった。
2年後の定期コンサートでは、ピアノのメインも務め、コンクールでもトップレベルのピアニストとしての賞も総なめに獲るほどに成長した。
「成実さん……」
「えぇ……。でも、まわりは許してくれませんよ。私はお仕事の間だけでも秀一郎さんと一緒にいられるだけで十分幸せです」
成実だって自分の気持ちくらい、彼に言われなくても分かっていた。
仕事の時間以外にも、ずっと二人でいたい。
しかし、そこには二人だけでは解決できないハードルがいくつもあった。
佐々木家は昔からの音楽一家だから、秀一郎の伴侶についてもそれに相応しいと思われる人選をしてくるだろう。そうなれば、近所に住んでいた一生徒との結婚など許してもらえるわけがない。
一方の深谷家でも、成実がこのまま音楽家として食べていけるのか。今からでも会社に就職させて、自分たちの家に相応しい相手を選んだ方がいいのではないかという声が大きかった。
「でも、僕は成実さんを諦めたくありません」
「私だって、秀一郎さんと一緒にいたいです。ずっと一緒に……」
そこで、二人は楽団のメンバーを集めて画策をした。
楽団を通じて、海外に修行に出るという口実を作り上げた。
それは両家にも内緒にされており、発表されたのは出発の三日前だった。
「……飛び出してきちゃいました」
「うちも。怒鳴られて楽器だけ持って出てきたよ……」
空港で無事に落ち合えた二人は笑った。もう、きっと家には帰ることはない。
戻るところがない二人は、音楽の都であるウィーンに渡り猛特訓に明け暮れた。平日は朝から晩まで練習に費やし、休日は二人でオペラやコンサートを観て過ごす。
もともと素質のあった二人だ。こちらの楽団でも頭角をあらわすまで長い時間はかからなかった。
その名前が徐々に日本でも紹介されはじめたのは、二人がそれぞれの家を飛び出してから5年の月日が流れていた。
「楽団の方から、戻って来いって話なんだけど……」
「仕方ないでしょう。ここまで勉強させてもらったんですもの。これからは恩返ししていかなくちゃなりません」
しかし、二人はその用意をしている中で、不穏な情報をつかんだ。
佐々木家が成実に絶縁を突きつけるということ。彼らにしてみれば、跡取り息子の人生を狂わせた邪魔な女というわけだろう。手切れ金を払って今後一切近づくなと言うことだ。
「お別れなんかしたくないです。帰る場所もありません」
「当たり前だ。成実と離れてたまるか!」
普段から一緒のベッドで休む二人。そして、この日、愛し合う二人はひとつの願いをかけて何度も身体を重ねた。
『わたしたちの愛の結晶が天から降りてきますように……』
1ヶ月後、帰国直前の成実は一通の手紙を書き残し、ウィーンを後にした。
帰国する空港を当初の予定から変更し、そのまま姿をくらませた二人。
「まったく、二人ともよくやるよ。いいとも。ここなら誰も来ることはないからね。好きなだけ過ごしていてくれ」
楽団でも世話になっており、二人を極秘に出迎えた小峰は自身の別荘に二人を連れて行った。ここならば二人の練習にも、成実の身の安全にもちょうどいい。
国内での復帰公演を準備する秀一郎のもとに、電話が入った。成実からだった。
「秀一郎さん、今度のお休みの日、病院に一緒に来てくれませんか?」
成実と訪れたのは、町の産婦人科。
「お二人は、このあとどうされますか?」
診察を終え結果を告げた医師は、まだ二人とも未婚だと知って今後に向けての面談があった。
父親としてこの子を認知するか、その結果によって、お腹の子をどうするのかといった内容だ。
「私一人でも産みます。産ませてください」
「結婚します。この子は間違いなく僕の子です」
二人の答えがあまりにも即答だったので、医師は目を白黒させ、事情を聞くと大きな声で笑った。
「なるほど。お二人とも強攻策ですな。でも、そういう時はご両家からの援助が受けられないことも多い。お二人はお子さんを守っていけますかな?」
「はい」
二人は手を重ねて肯いた。
しかし、初孫が生まれると知っても、二人の周囲は厳しかった。秀一郎の籍は佐々木家から外されていた。
成実の家からも、飛び出した子に縁はないとも言われた。
「これでいいんだ。これならもう誰も関係がなくなる。成実とこの子を守っていけばいいんだ」
小峰の厚意で出産が落ち着くまで別荘を借りることにし、生まれてくる子のために住民票なども移した。
秀一郎はそこから新幹線で仕事に出かけ、成実はそのときを静かに待っていた。
こうして9月10日の夕方。誕生を待ち望んだ両親の腕に抱き抱えられたのが二人の長女、佐々木茜音だった。
「茜音ちゃん……」
静かに日記のページを閉じる。
大きなため息をついて、よろよろと立ち上がった。
「ごめんね。ちょっと一人になってもいい? 危ないことはしないと約束するから」
「うん。分かった」
こんなとき、健は彼女が自分から話すまで深く追及はしない。茜音がどこに行くかは大抵決まっていて、家の一番奥にある防音の練習室だから、落ち着くまでそっと見守ることにしている。
「……ごめんね、パパもママも……」
幼稚園の敬老の日に、誰もいないことをからかわれたことがある。
茜音のおじいちゃんとおばあちゃんは遠くにいるとママは言っていた。きっと自分に伝えることも辛かったに違いない。
これなら、あの事故があって、自分が無事だと報道されても誰も名乗り出ない理由もわかる。
そうなのだ、わたしは……。