ETERNAL PROMISE  【The Advance】




「ちょうどいいところに来た。お前もまぁ座りなさい」

「ちょっと、待ってください。お爺さんて、どういうことなんですか?」

 ようやく我に返った未来が、なんとか頭をフル回転させつつ、立ったままの翔太に落ち着きを促す。

「どういうことも何も……。この理事長は母方の爺さんだし。それで名前が違うんだ。このことを知ってるのは本当にごく僅かだけど」

「そんな……。私、本当に恥ずかしいことしてたんですね……」

 翔太に抱かれたこと、彼に淡い思いを持っていたことは事実だったし、でも、そんな彼が理事長の孫となると話が変わってくる。

 とても自分がそんな立場の男の子と交際を許してもらえるわけがない。

「ほら、田中が固まっちゃったじゃないか。ゆっくり話していこうと思ったのに」

「ご、ごめんなさい。結城君がそんな凄い人だなんて全然知らなかったから……。私がいたら迷惑だよ」

「待って田中」

 立ち上がろうとした未来の手を翔太は掴んで放さなかった。

「違う。俺は田中のことを守りたいって、家族の前で言ったんだ」

「えっ……?」

左様(さよう)。この翔太が初めてそんなことを言い出した。田中未来さんという生徒がいる。聞いてみると奨学生として申し分ない成績を修めていた。何度か授業中に拝見しても、素晴らしい生徒だ。しかし、どこかにご自分を卑下しているところも感じた」

 最近、ときどき授業中に感じた視線はそれだったのか。

「はい……。それは私が一生背負う十字架です……」

「田中に両親がいないことは、十分分かってる。でも、田中にはその責任はない。それ以上に田中は頑張っているし、そんなことを気にするのは最初から意味が無いと思ったんだ」

「で、でも……きっと、結城君に迷惑かけちゃうかもしれないんだよ」

 ここがどんな場所かなど、もう関係なかった。未来の目元から、涙がこぼれる。

「結城君が、私のことをずっと見てくれていたこと、好きだって言ってくれたこと。本当に泣いてしまうほど嬉しい。でも、私、そんなに幸せになっちゃいけないんだよ……」

「そんなことはないぞ」

 それまで二人のやり取りを見ていた理事長が口を開いた。

「誰にだって、幸せになる権利はあるのだよ。たとえ、そのことを自分で認識していなくてもだ。田中さん、翔太はこんなことを言っていても、まだ君と同じ年だ。しかも、きっと人生経験の方は翔太よりも進んでいると思う。我々も、一日も早く翔太を人前に出せるように努力します。それまで孫を待っていてもらえますかな?」

 二人とも顔が赤くなっているのが分かる。

「よろしく……、お願いします」

「翔太、ちゃんと彼女を送ってやるんだぞ」

「じゃ、田中は門のところで待っていてくれるか?」

「うん」

「ところで、二人ともまだ苗字で呼び合ってるのか?」

「えっ?」

 二人で顔を見合わせて笑う。

「考えたこともなかったな……」

「うん、どうしよう。考えておくね」


 未来が部屋を出て行くと、理事長は翔太に向き合った。

「本当にいい娘さんじゃないか。お前にはもったいない」

「ああ見えて、いろんな奴から告白は受けてるんだけど、OKした人は誰もいないんだ。だから、田中と、……未来の気持ちをゆっくり大切にしてやりたいんだ。だから、脅かさないでやってくれ」

「お前も、だいぶ大人になってきたんだなぁ」

 部屋から外を見下ろすと、正門のところで、ツインテールの少女が待っている。そこに、翔太が駆け寄って二人は駅の方に歩いていった。




 その年のクリスマス、未来と翔太はアウトレットにお互いのクリスマスプレゼントを探しに来ていた。

 二人とも高校生という身分なので、高い買い物は出来ないけれど、クリスマスのイルミネーションを楽しむにはここだと決めていたから。

「未来にあんな過去があったなんて、本当は最初信じられなかったよ」

「だって、言えなかったよ。やっぱり、いろいろあるから。翔太君にも話すか本当に迷ったし、その時は失恋覚悟だったんだから」

 あの理事長室での一件以来、二人の仲は急速に接近した。

 翔太は珠実園に遊びに行くようになったし、未来も翔太を彼氏と紹介した。同時に、翔太の家では祖父の働きかけもあって、未来を温かくもてなしてくれた。

 この頃には、未来の過去がどうと言う連中は現れなくなっていた。

 彼女は、自分の生いたちからこれまでの半生を隠すこと無く話したからだ。

 小学校高学年や中学校の頃は、周囲に対して攻撃的になってしまったこと。しかし、元来の自分の性格をいち早く見抜いて方向修正に導いてくれたのが、珠実園で兄と慕っていた男性と、櫻峰高校で圧倒的知名度を誇る片岡茜音だったことなどだ。

 結城家でも、未来の生いたちからすれば寂しさの裏返しも当然あると理解してくれた。そのことで非行や問題行動に走らなかったことを誉めた。

 そして何よりも、翔太も中学生の頃には何人かのガールフレンドがいたけれど、あれほど真剣に、自分から彼女を守りたいと言って紹介してきたのは未来が初めてだという。

 過去がどうであれ、未来に責任は無い。きちんと生きてきたことに胸を張るように諭してくれた。そして、理事長の時と同じように、翔太のことを見守って欲しいと逆に頼まれていたほどだ。



 そんな二人のことは、周囲も温かく見守るようにしたというのがこの秋から冬にかけての話。

 アウトレットの雑貨店でお互いのプレゼントを選びあって、フードコートでクレープを食べていた時だった。

『このあと13時から、アトリウム広場におきまして、今井(いまい)千尋(ちひろ)さんのインストアライブが開催されます。みなさまお集まりください』

「えっ? すごくない?」

 館内放送を聞いた二人も顔を見合わせる。

 最近、ラジオやテレビのランキングでも時々紹介されるシンガーソングライターで、この秋に発表された『あの日の青空』という曲がブレイクしている。

「見に行ってみようか」

「うん!」

 未来も最初はそんなメディアから入った一人だ。最初は何気なく気に入って聞いていたのだが、最近のテレビ放送の時に画面に表示された歌詞を読んでいたとき、突然何かが引っ掛かるような気がした……。




 未来がずっと気になっていた『あの日の青空』。

 もちろん、いろんな人に共感される楽曲や歌詞は他にもたくさんあり、応援歌のようなものに涙することもこれまでの人生数知れずだ。


 ウェブ上で歌詞を見ても、特段何か特別な文字列があるわけでない。

 内容としても特別明るい曲ではない。どちらかといえば大切な物をその時の事情で手放してしまった後悔。いつかまた巡り会いたい希望という、普遍的なテーマだ。

 最初は、未来も自分の境遇からこのようなテーマについでの感性が鋭いだけかと考えていたものの、どうもそれだけではない気がしてくる。


 いつか、ライブでも行けて生で見ることが出来たら、そのヒントが見つけられるのではないかと考えていた。

 会場の広場にはもうたくさんの人が待っていて、CDの即売なども行われていた。当日の特典として、先着で握手券も配布されているという。

「ちょっと買ってくる」

 何かに引き寄せられるように、彼女はその商品とチケットを手にしていた。

 時間になり、彼女が登場した。挨拶の後に数曲を弾き語りで聴かせてくれるのは、これも特別珍しい形ではない。

「皆さんに応援しただいているこの楽曲は、実はこれまで私の中にずっと引っ掛かっていた大切な出来事を書いたものです。歌詞の中ではまたいつか逢えるとありますけれど、それが本当に叶うかは分かりません。でも、そんな事になればいいなという気持ちで書きました。それでは最後です。あの日の青空……聞いてください」

 翔太はその時、隣で聞き入っていた未来が固まったのを感じた。

 そしてふと気付く。この声だ。

 気付いたら振り払うことが出来ない。彼女の声が未来とよく似ている。未来が本気になって練習をすれば、ほぼ聞き分けられないほどになるのではないだろうか。

 自分が歌っていなくても、ほぼ自分の声色でこの物語を聞いてしまうことで、感情移入が通常よりも強くなってしまったのだろう。

「未来、大丈夫か?」

「う、うん。ごめん……。大丈夫」

 ステージが終わり、未来は握手会の列に並んでいた。

 大体、ひと言交わして握手をしていく流れも見慣れた風景である。

「こんにちは。さっき途中で泣いてしまって。応援してます」

「ありがとうございます。あなたにも良いことがありますように」

「はい……」

 そんな会話をしながら、お互いの両手を合わせたときだった。

「っ…………?!」

 二人の視線が絡み合う。なんなのだろう。顔を合わせた瞬間に、千尋の視線が未来の瞳を通じて一気に流れ込んだ。未来の一番奥底にある、誰にも……、あの茜音ですらまだ辿り着けていない深い記憶の扉。その鍵までを一瞬で開いてしまった。

 たった数秒の握手。未来はお礼を言って必死に平静を保って翔太の元に戻る。

「未来、大丈夫?」

「う、うん……。ちょっと疲れちゃった」

「それじゃ、甘い物食べて帰ろうか。送っていくよ」

 翔太に手を引かれて会場を出て行く未来を、彼女は見つめていた。

「……あの子だ……。元気だった……」

 千尋はぎゅっと目をつぶって、その場に立ち尽くしていた。




 珠実園では、夕食後の後片付けを行っていた。

「茜音ちゃん、そろそろ駅まで送っていこうか」

 土曜日のこの後は予定もない。高校時代からの手伝いで入ってくれている茜音を送る時間になった。

「先生、門のところに誰かいるよ?」

「え? ありがとう。行ってみるよ」

 帰り支度と外出の用意をしていた二人が門に近づいた。

「なにかご用ですか?」

「えぇ? 本当に……?」

 健が声をかけて、顔を上げた人物を見て茜音の動きが止まる。

「あの……、園長先生はいらっしゃいますか?」

「はい。寒いでしょう。とにかく中へどうぞ」

 二人はそれ以上詳しい内容を聞くことはせず、彼女を応接室に通した。

「夜分遅くに、本当に申し訳ありません」

 彼女、今井千尋は深々と頭を下げた。

「どうされました。貴女ほどの有名な方が、こんな時間にこのような場所ににいらっしゃるなど?」

 園長はいつもと変わらない、落ち着いた調子で座った。

「私は……、あの子に謝罪しなければならないのです……」

「ほぉ……。うちの子どもたちと何かありましたか」

 珠実園で暮らしている子たちの入所理由は様々だ。相手が話してくるまで個々の事情を探ろうとはしない。

「もう、17年前のことです。私は取り返しもつかない罪を犯しました。許していただけるとは思っておりません。ですが、一言でも、あの子と皆さんに謝らせていただきたくて……」



「茜音ちゃん。一つお願いがある……」

 それまで黙っていた健が小声で隣に立っていた茜音に小声で呼びかける。

「はい?」

 そして茜音に耳打ちをしてその依頼を囁いた。

「うん。呼んでくるよ。少し待っていて」

 茜音は真剣に頷いてそっと応接室を抜け出した。



「……いつの時代でも、このようなことは残念ながら起きてしまうのですよ。ですが、あなたはきちんとそのことをご自分で償いに来られた。私はその勇気を褒め称えたいと思いますよ」

「園長先生……。ですが、私は皆さんに本当に迷惑をかけてしまいました。私が本来背負うべき時間を皆さんに……」

 二人の会話が応接室で続く。

 その時、部屋の扉がノックされた。

「園長先生、片岡です」

「はい、どうぞ」

 扉が開き、茜音に続いて制服に身を包んだ未来が入ってきた。

「こんばんは」

「こ、こんばんは」

 部屋に入った未来もこの展開には驚きを隠せなかった。

 風呂上がりで落ち着きを取り戻してきたところに、突然茜音がやってきて、正装……つまり制服に着替えて同行してほしいとの依頼だったからだ。

「今日は、あのインストアライブにお越しくださってありがとうございました」

「い、いえ……。なんだか、凄く失礼な事をしてしまったと後で思い出してしまったんですけど……」

 茜音が少し下がり、未来を彼女の正面に座らせる。

「未来ちゃん、こちらの今井千尋さんのお話を、少し聞いてみませんか?」

 園長に促されて、茜音が全員分のお茶を配り終えて用意が整った。

「は、はい。もちろん。でも、私なんかが聞いてもいいんでしょうか?」

「未来さんとおっしゃるんですね」

「はい。田中未来と言います」

「いいお名前ね……」

 千尋は頷いて、ゆっくりと口を開いた。




「もう、18年前のことです。私は途方に暮れてしまいました。 学校を出て、ストリートをしながら、ようやく事務所に拾ってもらえて。これからだと言うときに……。私はお腹に命を授かったのです」

「病院には……?」

「生理が止まってしまったことは気付いていましたが、その頃は体調的にも精神的にもかなり参っていた頃で……。それが原因だと、勝手に思い込んでしまったのです。気付いたときには手遅れでした……」

 彼女はハンカチを握りしめた。

「もし、早く気付いていたら、何か変わっていましたか?」

「分かりません。でも、結局オロオロして、結果的には同じだったかも知れません」

「あの……、その子のお父さんは……」

 黙っていなければと分かっていても、たまらなくなって茜音が口を開いてしまった。

「その方には子供が出来たことは伝えていませんし、今はイギリスでプロデューサーをしています。お互いに駆け出しの私たちにとって、許される恋愛ではなかったのです……」

「ありがとうございます……」

「たまたま駆け込んだのが、知り合いの病院でした。ちょうど、私もインディーズの頃の曲をリメイクしたアルバムの制作が入ったので、しばらく人前に出なくても済む。そして、私は一人、女の子を産んだんです。でも、私一人ではまだ育てられない。そんな時に聞いたのが、こちらのような施設でした。でも、理由をどのようにつけても、受け入れていただけるものではない……。暖かい春の朝でした……。私は……、こちらのあの門の前に、まだ生まれたばかりの娘を置き去りにしたのです……」

 誰もが言葉を出せなかった。彼女の涙を啜る音だけが、部屋の中に響いた。

「許していただけることは絶対に無いと分かっています。でも、忘れたことは1日もありません。もし、あの子が元気なら一目でもその姿が見たい。殴られても、怒鳴られても、嫌われてもいい。ただ……、あの子の前に手をついて謝りたかった……。時を戻せるなら、あの子を連れて帰り母子家庭だとしても育てたいと思います」

 うな垂れた千尋の前にひざまずいた人物がいた。

「未来さん……」

 未来も両目にいっぱいの涙が浮かんでいた。あの握手会と同じように、両手をあわせて握って、千尋の顔を見た。

「…………お……」

 未来は一度飲み込んだ言葉を必死に絞り出そうと頭を振った。

「…………おかあさん…………」

 次の瞬間、千尋は未来を抱いて泣き崩れた。



 途中から分かっていた。ここにいる全員が未来の生い立ちを知っている。細かいところまで、全てが一致する。これは当事者でなければ知ることのない真実だ。

「ごめんなさい! 酷いことをしてしまった……」

 未来も昼間の一瞬で分かっていた。自分の深層心理にある、一人の女性の顔。そして、心の鍵をいとも簡単に開けてしまった。実の母親であれば、それは容易いことだったのかも知れない。少なくとも、未来はこの世に生まれて、しばらくは彼女に抱かれていたのだから。

「怒ってなんかいません……。ただ……会いたかった……。抱っこされたかった……。お母さんって呼びたかった……」

「そうだよね……。こんなに立派に育てていただいて……。なんとお礼を申し上げてよいのか、本当にありがとうございました」

 二人の様子を見ていて、健と茜音は顔を見合わせてうなずいた。




 ようやく少し落ち着いて、膝上の未来の頭を撫でてやりながら、千尋が頭を上げた。

「今後、どうされますか。お家に帰られてもいいし。お二人で決めていただければと思いますが」

「今夜、この子とホテルに泊まってもいいでしょうか。明日、必ずこちらに連れて参ります」

 今の住まいは都内だというが、今日は仕事が終わった後で、こんなことも想定して近所にホテルを予約したという。

「分かりました。そうしましょう。未来ちゃん、行ってこられる?」

「はい……」

 未来は千尋の手を放そうとしない。

 仕方の無いことだと茜音も健も思った。茜音はもうこれが出来ないと分かっているし、健自身も同じだが、二人とも一つだけ理解している。

 叶うのであれば、最後に一度でもいい。肉親に抱きしめてもらえることが、この珠実園にいる子どもたちと共通の願いであることも。


 迎えを頼んだタクシーが二人を乗せて走り去ると、園長、健と茜音も大きな息をついた。

「まさか、こんな急展開……」

「でも、見つかってよかった。あとは未来ちゃんの意思だね」

「そうだね。未来ちゃんは来年で18歳だ。別の時間をこれだけ長く過ごしてきて、突然変わるというのもお互いにストレスになってしまうこともある。こういうことは、本当に神経を使うんだよ」

 それを体現するように、園長先生はその日の日誌の来客記録に、あっさりと一文を書き加えただけだった。『未来の母親、来訪』と。





 翌朝、約束どおりに二人は珠実園に現れた。

 お互いに深夜まで話し合ったのだろう。未来にとっては17年ぶりの親子水入らずの時間になったはずだ。

「園長先生、私はまだ珠実園に居られるんですか?」

 再び応接室に昨夜の全員と、未来から連絡を受けた翔太も集まり、未来が自分で口を開いた。

「もちろん、お母さんがいても、保護が必要だとなればこちらにはいられる。どちらの手続きを進めるのも、君たちの希望に添うようにはするつもりだ」

 未来は頷いた。本当なら、一緒に家に帰り、長い時間を取り戻したい気持ちもある。

 しかし、千尋はまだ経歴的には独身である。そこにいきなりこんな大きな娘がいたとなれば、変なふうに書かれた上に仕事にも影響が出ないとも限らない。

 それならば、形式上は今のままで構わないと。

「私のことは気にせずに、帰ってきてもいいとは言ったのですが、未来の方がそれを許しませんで」

「私、昨日までと違う。お母さんも翔太くんもいる。兄さんも姉さんもいる。だから、今のまま大人になる。それでいいと思った」

 未来にはもちろん母親が分かったのであるから、そこに外泊の許可が当然出ること。面会についてもいつでも出来ることを説明した。

 千尋の方からも、施設に入所していることによる費用について支払うだけでなく、今後も珠実園の運営費サポートに回ってくれることも約束してくれた。

 また、本来なら今井姓とあるべき田中未来の名前についても、今から変更することの影響を考えて、現在のままということも確認された。

「あとね、お母さんにお願いがあるんです」

「なにかしら」

「私の、婚姻届に、お母さんの名前を書いて欲しいの」

 昨夜の内に、未来には先方も了承してもらっているパートナーがいることも話してあり、翔太にも今朝一番で話をした。

「もぉ、気が早いんだから。えぇ、喜んで書かせてもらいます。翔太さん、未来のことをよろしくお願いします」

 僅か1日でどれだけの交流があったのかは分からない。しかし、この会話を見ていると、普通の親子と何ら変わらない。それだけ突っ込んだ話もあったのだろうと予想はできていた。




「一つ伺ってもよろしいですか?」

 前日の夜、千尋を最初に連れてきた二人に聞く。

「はい?」

「お二人は、私の話が終わる前に未来を連れてきてくれました。ご存じでおられたのでしょうか?」

 顔を見合わせて、苦笑する茜音。健は茜音の肩をたたいた。

「はぃ……。テレビでお見かけしたときから。未来ちゃんにはどこかに音楽の素質がある。そして、同じ声を聞いたんです。未来ちゃんの声と同じだと……。未来ちゃんには黙ってましたけどね」

「さすが、佐々木さんご夫妻のお嬢さん。分かる人にはわかってしまうものね」

 ときどき、珠実園の誰もが驚く茜音の読心術。あの歌が発表された当時から、未来が琴線に触れた以上に、茜音の耳の分析はもしかしたらという展開は常に彼女の中にあったという。

「未来、また来ます。それに、いつでも遊びに来て構わないからね」

 駅の改札で見送るとき、未来はぎゅっと千尋に抱きついた。

「うん。私、頑張るよ。お母さんも、お仕事頑張って」

 浮かんだ涙を拭い、笑顔で頷いた。

 四人で駅からの帰り道、翔太は未来の手を引っ張った。

「お母さん、見つかってよかったな」

「うん。まだまだ、私たちが親子ってなれる時間はかかると思うけど。翔太くんに心配をかける不安の一つはなくなったかな」

「いいのか? あんなこと言っちゃって?」

「えー? 婚姻届のこと? だって、茜音姉さんとか、もうそう言う話してるもん。私だって負けられない」

「えー、わたしたちぃ? そうだねぇ、でもわたしたちはいつになるかまだ見えてないんだぁ」

「どっちか早いか、姉さんのところと競争だね」

 屈託無く笑う未来に茜音は苦笑した。それは、茜音自身も健との未来を考えているが、その進路のための準備にはいろいろな問題もあり、一直線に突き進めるわけではないことも分かってきていたから。この二人が苦労していることも、未来自身も分かっているからの発言に違いないのだが。

「一応、爺さんにも、他の家族にも未来の家族が分かったってことは話してあるからさ、報告にはちゃんと行くけどいいよな?」

「うん。そうだね」

 昨夜、翔太に連絡をしたときに、やはり未来のパーソナルデータが根底から変わる事件に不安もあった。

 しかし、夜中にも関わらずそれを聞いた翔太は、嬉しい大ニュースだと歓迎してくれたし、その後に発生するであろう問題も一緒に考えてくれると約束してくれた。

 珠実園に一度戻った後、今度は翔太との外出のために飛び出していった未来。

「ねぇ健ちゃん。去年の沖縄で言ったこと覚えてる? 未来ちゃんはもう大丈夫だっていってくれたの。このこと分かってたの?」

 二人を見送った茜音が、珠実園の片付けをしながら健をつつく。

「本当に行くか分からなかったけど、そうでなきゃいけないと思ってたしね。まさか翔太くんがあんな素性とは知らなかったけど。未来ちゃんはちゃんと自分で歩き出せたから大丈夫。今年はみんなにもお世話になっちゃったからね」

 健は茜音の手を握った。

「僕たちも、遅くはないよね」

「うん。もちろん。でもぉ、今日は普段着だけど、でもいっかぁ……」

「茜音ちゃんがおめかしすると、僕も大変だから、今日はそのままで。よし、少し買い出しついでに出ようか……」

 健は壁に掛けてあったコートを取って茜音に渡した。

【茜音 短大2年 冬休み】




「それでは茜音(あかね)ちゃん、よろしくお願いします」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 職員室の中で拍手が自然に湧き上がった。

「これまで、いろんな職員の面接をやってきたけど、こんなのは初めてだったな」

 児童福祉施設、珠実園(たまみえん)の職員室では和やかな空気が流れていた。

 片岡茜音、短大の2年生の冬になっていた。就職活動への動きも本格化する夏休みを過ぎてから、彼女はそれまでの気持ちを総決算するように、整理を始めた。

 児童福祉施設に就職したい。それは茜音が進路を考え始めた頃からの基本ライン。

 幼くして交通事故で両親を亡くした彼女もこういった施設で一時期を過ごしており、その重要性の理解は人一倍進んでいる。

 高校での長期休暇で課される各種ボランティア活動においても、毎回このような施設に参加していた。

 そして、大人側の偶然ではあるが、高校3年生の夏に、茜音はある施設に派遣された。

 それがこの珠実園だった。ここには、茜音と幼い頃に一緒に過ごし、将来を誓った松永健が暮らしていた。

 そして、彼は高校の卒業を機に、この施設を運営する側になるための道を進んでいた。

 一方の茜音は、職場はどこになろうとも、こういった施設の力になれるように、幼児教育の教員資格や、心理学などの勉強を続けていた。

 その必要性は彼女自身の経験から必要な物だと感じていたから。



 誰もが信じることかできなかった10年後の再会の誓い。奇跡とも執念とも言える再会を果たし、直後のボランティア活動以来、公私共に少しずつ接近してきた茜音と健。

 前年の冬休みから、二人はお互いの将来を真剣に話し合ってきた。

 幼い頃、大きくなったら二人で手を取り合って生きていこうとの誓いは今でも有効だったし、それに向けての準備は少しずつ進めてきた。


 
「就職は、茜音先生として来て欲しい」

 その時は、恋人としてではなく、珠実園の次期園長としての健の言葉をありがたく暖めながら、一方で自分がきちんと役に立てるようになるまで、待って貰っていた。

 心理カウンセラーに加えて、ついに幼稚園教員免許も手に入れるための単位や試験も全て習得し終えた。

 これで子供たちの役に立てるようになる。

 学校に上がれば、最低限の知識はつけられる。

 問題はそれまでの期間で、幼稚園や保育園に入るまでに時間もかかるし、複雑な事情からなかなかすんなりいかないことも多い。

 茜音は自分が教員資格を持てば、施設の中で授業を行うことを健に提案してあったし、その期間の重要性を分かっていた彼も、その案を受け入れることを約束していた。

 そして、短大2年の夏に受験した無事に幼稚園教諭免許状の国家試験も合格。それ以外の資格も来春の学校卒業で手に入ることを報告に行った時、珠実園の園長先生は茜音と健を呼んだ。

 この園長先生とも長い付き合いだ。

 12年前、僅か小学2年で施設から抜け出し、駆け落ちをした健と茜音を叱りもせずにその後も応援し続けてくれた人物でもある。

「健君、茜音ちゃん。よく、ここまで頑張ってくれたね」

「はい……。それが、わたしたちのお詫びです」

 恥ずかしそうに答える茜音。あの時は若さだけで突っ走って大変なことをしたと、それを笑い事にしてくれた園長先生には二人とも感謝している。




 話に乗って一緒に抜け出した茜音だけでなく、その話を計画した健もばつが悪そうに苦笑いだ。

「ははは。あの時のメンバーもほとんどが社会に出ている。ときどき会うけれどみんな頑張っているよ。口を揃えたかのように君たち二人が気になるようでな。動きがあるときは教えてくれと言われている」

「そうでしたね」

 昨年のクリスマス、健と当時のメンバーは同窓会を開いていた。健の計画で、茜音との再会を事前報告にせず、当日のサプライズに持っていったことで、『お騒がせな二人』がまた『何かをやってくれそう』だとの期待もある。

「健君も苦労をかけたが、無事に高校も卒業したし、茜音ちゃんもそうだ。本当に二人は頑張ったと思う。そこでだ……」

 園長先生は、後ろの書棚から資料を取り出した。

「この珠実園だが、来年度から拡張移転されることが決まった」

「えっ?」

「本当ですか?」

 健は仕事上その話を聞いていたけれど、なぜがブレーキをわざとかけているかのように、なかなか進んでいなかった。

「でも、転校の手続きとか大変じゃないですか?」

 まだ本職ではないが茜音の質問は的を得ている。現在、珠実園に入所している子供たちが二十五人。一人ひとり事情が違うので、転校するとなれば学校の調整も大変だ。

「それは、心配ない。閉館してしまったホテルがあっただろう? あそこの場所を使わせてもらえることになったんだ」

「あの丘の上ですか? うちで使うにしては広すぎますよ?」

「もちろん。なので、地域の支援センターも併設して貰うことにした。それならば、補助金も増えるし運営も少し助かるからな」

「ほえぇ」

 それに伴い、入所児童の増員や、保健所、教育機関との連携もやりやすくなると。

「そこでだ。茜音ちゃんも聞いているかもしれないけれど、健君には、これから、私の後継として頑張ってもらいたいと考えているが、君はそれで構わないかな?」

「もちろんです。これまでいさせてもらった恩返しです」

「うむ。次は茜音ちゃんだ。就職の話は健君から少しずつ聞いていたけれど、これだけ珠実園が大きくなると、茜音ちゃんの負担もそれなりに重くなってしまうかもしれない。もちろん少しずつ増やしていくつもりではあるけれど、安定していてくれる先生が一人いてくれるとかなり違う。それでも来てくれるかい?」

「あの、先生……?」

「なんだい?」

「そんな大事なところに、わたしでいいんですか?」

 神妙に聞く茜音に園長先生は笑った。

「これは、君たち二人だからお願いしようとしたんだ。移転の要請はずっと市の方から来ていてね。まだスタッフが揃わないからと保留していたんだよ。茜音ちゃん、君はもう十分に先生だ。子どもたちへの接し方も信頼も十分。他の施設でも片岡茜音ちゃんは名前が挙がるほど有名なんだよ? 正直他に引き抜かれやしないかと心配でね。今日面接にしてしまった」

「えー、これ面接ですかぁ?」

 就職先の面接と言えば、履歴書を書いて、筆記試験を突破した後に、スーツ姿で緊張しながら受けると聞いていたのに。今日は普段の手伝いのついでなので、茜音も面接とは程遠い。いつも付けているエプロン姿という、本当に平服どころか仕事着のままだ。

「そう。もちろん最初はいろいろ大変かもしれないが、私もみんなも一緒だ。ときわ時代の仲間も何人か頼んである。それに、健君も一緒だが、どうする?」

「もぉ、先生も、わたしが断らないって分かって言ってますよねぇ?」

「バレちゃ仕方ない。二人とも形だけ履歴書は後で書いておいてくれるか? 市の正式な施設になると、形だけはきちんとしておかないと面倒なんでな」

「先生……、わたし一生懸命頑張ります」

「よし、決まった。最強の大型新人の獲得だ」

 職員室に戻り、春からの二人の処遇が発表されての拍手だった。

「茜音ちゃんが先生かぁ。みんな安心できるよね」

 この珠実園に初めて来てから3年目になる。これまでの実績もあり、彼女の去就は入居者ともども話題にはなっていたからだ。

「園長先生、こんな隠し玉はもうないですからね? 大事にしてあげないと」

 その日は、二人の書類を揃えたり、茜音が希望している部屋の要望などを聞いて仕事は終わりになった。