翔太は未来の手を引いて、駅から反対方向に歩いた。
小さな児童公園を見つけて、ベンチに座らせる。
子どもたちが遊ぶ時間は終わってしまっている。夕暮れがもうすぐ夜の闇に塗りつぶされていく。水銀灯に照らされた公園には誰もいない。
自販機で温かいミルクティーを買って、未来に握らせた。
「結城く…ん……」
「田中はコーヒー苦手だよな」
未来はハッとして顔を上げた。自分でも頬が赤くなっているのが分かる。
「どうして……」
「いつから田中のこと見ていたか、知ってんのか?」
「えっ? いつからって……」
翔太は不思議で頼りになるクラスメイトだった。同い年でありながら、そばにいて落ち着ける存在。
「もう、1年以上だよな。本当に気付かねえんだもん」
「そ、そんなに前から見ていてくれたの……?」
翔太は照れるように肯く。
「ご、ごめんね……。情けないな私……」
これまでの1年を振り返ってみる。
幼い頃から追いかけてきた男性といえば、兄と慕う松永健だけで、それ以外を見てこられなかった。
そんな自分のことを見守ってくれていた存在がいたことを知るだけで、再び涙腺が緩くなっていく。
「で、でもね……」
口に出かけたところをぐっと飲みこむ。
この先を続けるのが怖い。
「田中、吐き出しちまえ。誰にも言わないから」
「きっと、結城君も、私といられなくなっちゃうと思うよ……」
「そんなことない。約束するから」
翔太は未来の手を握り、彼女の濡れた瞳を見つめた。
「ほんと……?」
もう一度、泣き出しそうな未来に笑顔で肯いた。
「あの……ね、この間の続きになっちゃうけど。きっと、信じられないかもしれないけど、私は……、両親を知らないの……」
そこまで言って、翔太を見上げると、真剣な顔で受け止めてくれている。
「うん。前に言ってたね」
「生まれてすぐ、名前も無いまま、今の施設の前に置かれていた日が、私の誕生日……。家無き子だよ……。だから、きっと、これを知ったみんなは、離れて行っちゃうと思うから……」
想像で言っているのではない。小学校、中学校時代と、家族がいないことへの嘲笑や嫌がらせは少なからず存在した。それらから身を守るために、未来は自らを閉じ込め、周囲には「構うなオーラ」を出していた。
「そうだったか……」
翔太は未来の両手を包みこみながら肯いた。
「本当は櫻峰なんて来られるような人間じゃないんだよ」
「頑張ったんだな。よく、頑張った。誰かが、田中を変えてくれたんだな」
小さく横に首を振った。
「私ね、ずっと追いかけてた。さっきの茜音先輩……。優しくて、頭も良くて、本当に敵わなかった。先輩もご両親亡くして、本当にどん底から頑張った人だし。そんな人と同じ人を好きになっちゃったって、勝てるわけ無い。でも、茜音先輩は言ってくれた。最後に選ぶのは男性なんだよって。まだ決まっていないんだよって……」
握った缶をぎゅっと握りしめる。
「こんなこと、結城君に話したら、本当に失礼な話しだと思う。結城君の気持ちを知っていながら、他の人の話をするなんて……。だから、また……一人に戻っちゃう……」
嗚咽を必死に抑えていた未来の背中に翔太は手を置いた。
「田中、ちょっと聞いてもいいかな?」
「うん?」
「一人になっちゃうって、前にも聞いた気がするけど、田中はその男の人をもう追いかけてないのか?」
涙の筋が何本もついた顔で、未来は笑顔を作った。
「とっくに、無理だって諦めてた。だって、相手があの茜音先輩だもん。絶対に無理だって言われていた10年の初恋を実現させて。あの二人は当時に決めていたんだもん。最初から私が入ることは出来なかったんだよ」
「そうか……。安心した」
「えっ……?」
翔太の指が、未来の顔の涙をぬぐっていく。
「田中、この前も言ったとおりだ。俺は田中が好きだ。それに、俺はこの間から考えてきたんだ。誰にももう田中を傷つけさせたくないって。一生懸命に生きてきた田中を、俺は誇りに思う」
「結城君……。そんなこと、言われたら……、私……、崩れちゃうよ?」
「いいんだ。崩れたって。俺と一緒にいて欲しい」
「うん! いいよぉ……」
翔太の胸元に顔を押し当てて、未来はすすり上げ始めた。
「田中……、遅くなってごめんな……」
「ううん。でも、結城君のご両親に私のこと、どう紹介するの? きっと反対されちゃう……」
珠実園の先輩たちがいつも苦労してきたところだ。
身寄りがない自分に、好意を持ってくれる環境はなかなか見つかるものではない。
「まぁ、任せておけって」
その夜、翔太は未来を珠実園まで送った。
「田中、俺は絶対に田中を放さない。だから、もう少し待っていてくれ」
「うん。遠回りさせちゃってごめんね。ありがとう」
未来は手を振って駅に向かう翔太を見えなくなるまで見送っていた。
あの夜から数日後、放課後の教室に突然放送が入った。
『2年3組の田中未来さん、職員室まで来てください』
「えっ?」
「未来、なんかやった?」
クラスメイトと共に、頭の上に『?』が浮かぶ。
「と、とにかく行ってみる。先に帰ってて」
放課後の校内を走らないギリギリの早歩きで職員室に向かうと、担任の先生はこちらも緊張した顔で待っていた。
「な、何かあったんですか?」
「それを聞きたいのはこっちの方だ。理事長室に連れてきてくれと言われたんだぞ?」
「えっ……」
先日の一件を思い出す。
あの時は、周囲に誰もいないという状況だったけれど、公園というオープンな場所で翔太に抱かれてしまった。
事情を知らない他人からすれば、不純異性交遊と通報されてしまっても不思議ではなかったかもしれない。
どんな処罰か……。そんなことを考えながら、担任の後ろをついて行く。
普段はまず通ることのない廊下を抜けて、理事長室と書かれた扉の前に着いた。
ノックをして中に入る。もちろん初めての部屋だ。
「2年3組の田中未来さんをつれて参りました」
「あぁ、ご苦労さん。あとは大丈夫です。田中さんとこちらでお話しします」
「分かりました。失礼します」
担任が部屋を出て行き、部屋の中は二人だけになった。
「突然呼び出して申し訳なかったね。どうぞそこにかけてください」
ソファーに腰を下ろすと、その柔らかさに驚く。あまり深くかけると、後ろに姿勢を崩してしまいそうだったので、手前の方に背筋を伸ばして掛けることにした。
「先日の学園祭はご苦労さまでした。見事な演出でしたね。その指揮をとられたのが田中さんと伺った。聞けば、卒業生の方とコラボレーションをしたと聞きましたが?」
自分でお茶を持ってきて、未来と自分の前に置いた理事長はのんびりと話を始めた。
「はい。恥ずかしながら私たちだけでは前例を越える目標が達成できないと判断しました。そこで当時のことを一番よくご存知の先輩方に協力をお願いしました」
隠していても仕方ない。実際に茜音先輩たちに尽力してもらったことは間違いないのだから。
理事長は特にそこに怒ることもなく、楽しそうに肯いている。
「さすがですね。足りないところは応援をお願いするという発想は、大人になって問題解決をするという手段の中において、非常に大切なことなんですよ。しかも、お願いしたメンバーが傑作でした」
「片岡先輩を覚えてらっしゃるんですか?」
「そうそう、片岡……茜音さんでしたかな。あと上村さん、近藤さんの三人は、この櫻峰で名前が残ると思っていましたが、やはり今でも健在でしたな。特に片岡さんは当時、名前を知らない者はないというレベルまで知名度は抜群でした。一時、周囲からの視線が厳しくなったときに、あの方は当時の生徒会長の力を借りて、ご自分のプライベートを公表し、校内の意見を味方につけることに成功したのです。あんなやり方は並大抵の覚悟では出来ませんよ」
やはり間違いではなかった。茜音が当時、全校生徒から応援を受けたということ。それが今でも自分たちに伝わる伝説の根源なのだと。
「受験も、制服の着方まで、みんな一つ一つ、茜音先輩に教えてもらいました。奨学生として、恥ずかしくないようにと」
「そうでしたな。そうそう、そっちが本題でした」
ドキリとする。もしかして、奨学生としてのレベルをどこかで落としてしまっていたか。
「いや、大丈夫大丈夫。いくつか確認したいことがあってね……」
そこまで言ったとき、理事長室の扉が突然ノックと同時に開いた。
「爺さん頼むよ……。いきなりこんなことしてさぁ」
「えっ……?」
未来はポカンと入ってきた人物を見つめた。
そこに入ってきたのは、他ならぬしかめっ面をした翔太だったのだから……。
「ちょうどいいところに来た。お前もまぁ座りなさい」
「ちょっと、待ってください。お爺さんて、どういうことなんですか?」
ようやく我に返った未来が、なんとか頭をフル回転させつつ、立ったままの翔太に落ち着きを促す。
「どういうことも何も……。この理事長は母方の爺さんだし。それで名前が違うんだ。このことを知ってるのは本当にごく僅かだけど」
「そんな……。私、本当に恥ずかしいことしてたんですね……」
翔太に抱かれたこと、彼に淡い思いを持っていたことは事実だったし、でも、そんな彼が理事長の孫となると話が変わってくる。
とても自分がそんな立場の男の子と交際を許してもらえるわけがない。
「ほら、田中が固まっちゃったじゃないか。ゆっくり話していこうと思ったのに」
「ご、ごめんなさい。結城君がそんな凄い人だなんて全然知らなかったから……。私がいたら迷惑だよ」
「待って田中」
立ち上がろうとした未来の手を翔太は掴んで放さなかった。
「違う。俺は田中のことを守りたいって、家族の前で言ったんだ」
「えっ……?」
「左様。この翔太が初めてそんなことを言い出した。田中未来さんという生徒がいる。聞いてみると奨学生として申し分ない成績を修めていた。何度か授業中に拝見しても、素晴らしい生徒だ。しかし、どこかにご自分を卑下しているところも感じた」
最近、ときどき授業中に感じた視線はそれだったのか。
「はい……。それは私が一生背負う十字架です……」
「田中に両親がいないことは、十分分かってる。でも、田中にはその責任はない。それ以上に田中は頑張っているし、そんなことを気にするのは最初から意味が無いと思ったんだ」
「で、でも……きっと、結城君に迷惑かけちゃうかもしれないんだよ」
ここがどんな場所かなど、もう関係なかった。未来の目元から、涙がこぼれる。
「結城君が、私のことをずっと見てくれていたこと、好きだって言ってくれたこと。本当に泣いてしまうほど嬉しい。でも、私、そんなに幸せになっちゃいけないんだよ……」
「そんなことはないぞ」
それまで二人のやり取りを見ていた理事長が口を開いた。
「誰にだって、幸せになる権利はあるのだよ。たとえ、そのことを自分で認識していなくてもだ。田中さん、翔太はこんなことを言っていても、まだ君と同じ年だ。しかも、きっと人生経験の方は翔太よりも進んでいると思う。我々も、一日も早く翔太を人前に出せるように努力します。それまで孫を待っていてもらえますかな?」
二人とも顔が赤くなっているのが分かる。
「よろしく……、お願いします」
「翔太、ちゃんと彼女を送ってやるんだぞ」
「じゃ、田中は門のところで待っていてくれるか?」
「うん」
「ところで、二人ともまだ苗字で呼び合ってるのか?」
「えっ?」
二人で顔を見合わせて笑う。
「考えたこともなかったな……」
「うん、どうしよう。考えておくね」
未来が部屋を出て行くと、理事長は翔太に向き合った。
「本当にいい娘さんじゃないか。お前にはもったいない」
「ああ見えて、いろんな奴から告白は受けてるんだけど、OKした人は誰もいないんだ。だから、田中と、……未来の気持ちをゆっくり大切にしてやりたいんだ。だから、脅かさないでやってくれ」
「お前も、だいぶ大人になってきたんだなぁ」
部屋から外を見下ろすと、正門のところで、ツインテールの少女が待っている。そこに、翔太が駆け寄って二人は駅の方に歩いていった。
その年のクリスマス、未来と翔太はアウトレットにお互いのクリスマスプレゼントを探しに来ていた。
二人とも高校生という身分なので、高い買い物は出来ないけれど、クリスマスのイルミネーションを楽しむにはここだと決めていたから。
「未来にあんな過去があったなんて、本当は最初信じられなかったよ」
「だって、言えなかったよ。やっぱり、いろいろあるから。翔太君にも話すか本当に迷ったし、その時は失恋覚悟だったんだから」
あの理事長室での一件以来、二人の仲は急速に接近した。
翔太は珠実園に遊びに行くようになったし、未来も翔太を彼氏と紹介した。同時に、翔太の家では祖父の働きかけもあって、未来を温かくもてなしてくれた。
この頃には、未来の過去がどうと言う連中は現れなくなっていた。
彼女は、自分の生いたちからこれまでの半生を隠すこと無く話したからだ。
小学校高学年や中学校の頃は、周囲に対して攻撃的になってしまったこと。しかし、元来の自分の性格をいち早く見抜いて方向修正に導いてくれたのが、珠実園で兄と慕っていた男性と、櫻峰高校で圧倒的知名度を誇る片岡茜音だったことなどだ。
結城家でも、未来の生いたちからすれば寂しさの裏返しも当然あると理解してくれた。そのことで非行や問題行動に走らなかったことを誉めた。
そして何よりも、翔太も中学生の頃には何人かのガールフレンドがいたけれど、あれほど真剣に、自分から彼女を守りたいと言って紹介してきたのは未来が初めてだという。
過去がどうであれ、未来に責任は無い。きちんと生きてきたことに胸を張るように諭してくれた。そして、理事長の時と同じように、翔太のことを見守って欲しいと逆に頼まれていたほどだ。
そんな二人のことは、周囲も温かく見守るようにしたというのがこの秋から冬にかけての話。
アウトレットの雑貨店でお互いのプレゼントを選びあって、フードコートでクレープを食べていた時だった。
『このあと13時から、アトリウム広場におきまして、今井千尋さんのインストアライブが開催されます。みなさまお集まりください』
「えっ? すごくない?」
館内放送を聞いた二人も顔を見合わせる。
最近、ラジオやテレビのランキングでも時々紹介されるシンガーソングライターで、この秋に発表された『あの日の青空』という曲がブレイクしている。
「見に行ってみようか」
「うん!」
未来も最初はそんなメディアから入った一人だ。最初は何気なく気に入って聞いていたのだが、最近のテレビ放送の時に画面に表示された歌詞を読んでいたとき、突然何かが引っ掛かるような気がした……。
未来がずっと気になっていた『あの日の青空』。
もちろん、いろんな人に共感される楽曲や歌詞は他にもたくさんあり、応援歌のようなものに涙することもこれまでの人生数知れずだ。
ウェブ上で歌詞を見ても、特段何か特別な文字列があるわけでない。
内容としても特別明るい曲ではない。どちらかといえば大切な物をその時の事情で手放してしまった後悔。いつかまた巡り会いたい希望という、普遍的なテーマだ。
最初は、未来も自分の境遇からこのようなテーマについでの感性が鋭いだけかと考えていたものの、どうもそれだけではない気がしてくる。
いつか、ライブでも行けて生で見ることが出来たら、そのヒントが見つけられるのではないかと考えていた。
会場の広場にはもうたくさんの人が待っていて、CDの即売なども行われていた。当日の特典として、先着で握手券も配布されているという。
「ちょっと買ってくる」
何かに引き寄せられるように、彼女はその商品とチケットを手にしていた。
時間になり、彼女が登場した。挨拶の後に数曲を弾き語りで聴かせてくれるのは、これも特別珍しい形ではない。
「皆さんに応援しただいているこの楽曲は、実はこれまで私の中にずっと引っ掛かっていた大切な出来事を書いたものです。歌詞の中ではまたいつか逢えるとありますけれど、それが本当に叶うかは分かりません。でも、そんな事になればいいなという気持ちで書きました。それでは最後です。あの日の青空……聞いてください」
翔太はその時、隣で聞き入っていた未来が固まったのを感じた。
そしてふと気付く。この声だ。
気付いたら振り払うことが出来ない。彼女の声が未来とよく似ている。未来が本気になって練習をすれば、ほぼ聞き分けられないほどになるのではないだろうか。
自分が歌っていなくても、ほぼ自分の声色でこの物語を聞いてしまうことで、感情移入が通常よりも強くなってしまったのだろう。
「未来、大丈夫か?」
「う、うん。ごめん……。大丈夫」
ステージが終わり、未来は握手会の列に並んでいた。
大体、ひと言交わして握手をしていく流れも見慣れた風景である。
「こんにちは。さっき途中で泣いてしまって。応援してます」
「ありがとうございます。あなたにも良いことがありますように」
「はい……」
そんな会話をしながら、お互いの両手を合わせたときだった。
「っ…………?!」
二人の視線が絡み合う。なんなのだろう。顔を合わせた瞬間に、千尋の視線が未来の瞳を通じて一気に流れ込んだ。未来の一番奥底にある、誰にも……、あの茜音ですらまだ辿り着けていない深い記憶の扉。その鍵までを一瞬で開いてしまった。
たった数秒の握手。未来はお礼を言って必死に平静を保って翔太の元に戻る。
「未来、大丈夫?」
「う、うん……。ちょっと疲れちゃった」
「それじゃ、甘い物食べて帰ろうか。送っていくよ」
翔太に手を引かれて会場を出て行く未来を、彼女は見つめていた。
「……あの子だ……。元気だった……」
千尋はぎゅっと目をつぶって、その場に立ち尽くしていた。
珠実園では、夕食後の後片付けを行っていた。
「茜音ちゃん、そろそろ駅まで送っていこうか」
土曜日のこの後は予定もない。高校時代からの手伝いで入ってくれている茜音を送る時間になった。
「先生、門のところに誰かいるよ?」
「え? ありがとう。行ってみるよ」
帰り支度と外出の用意をしていた二人が門に近づいた。
「なにかご用ですか?」
「えぇ? 本当に……?」
健が声をかけて、顔を上げた人物を見て茜音の動きが止まる。
「あの……、園長先生はいらっしゃいますか?」
「はい。寒いでしょう。とにかく中へどうぞ」
二人はそれ以上詳しい内容を聞くことはせず、彼女を応接室に通した。
「夜分遅くに、本当に申し訳ありません」
彼女、今井千尋は深々と頭を下げた。
「どうされました。貴女ほどの有名な方が、こんな時間にこのような場所ににいらっしゃるなど?」
園長はいつもと変わらない、落ち着いた調子で座った。
「私は……、あの子に謝罪しなければならないのです……」
「ほぉ……。うちの子どもたちと何かありましたか」
珠実園で暮らしている子たちの入所理由は様々だ。相手が話してくるまで個々の事情を探ろうとはしない。
「もう、17年前のことです。私は取り返しもつかない罪を犯しました。許していただけるとは思っておりません。ですが、一言でも、あの子と皆さんに謝らせていただきたくて……」
「茜音ちゃん。一つお願いがある……」
それまで黙っていた健が小声で隣に立っていた茜音に小声で呼びかける。
「はい?」
そして茜音に耳打ちをしてその依頼を囁いた。
「うん。呼んでくるよ。少し待っていて」
茜音は真剣に頷いてそっと応接室を抜け出した。
「……いつの時代でも、このようなことは残念ながら起きてしまうのですよ。ですが、あなたはきちんとそのことをご自分で償いに来られた。私はその勇気を褒め称えたいと思いますよ」
「園長先生……。ですが、私は皆さんに本当に迷惑をかけてしまいました。私が本来背負うべき時間を皆さんに……」
二人の会話が応接室で続く。
その時、部屋の扉がノックされた。
「園長先生、片岡です」
「はい、どうぞ」
扉が開き、茜音に続いて制服に身を包んだ未来が入ってきた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
部屋に入った未来もこの展開には驚きを隠せなかった。
風呂上がりで落ち着きを取り戻してきたところに、突然茜音がやってきて、正装……つまり制服に着替えて同行してほしいとの依頼だったからだ。
「今日は、あのインストアライブにお越しくださってありがとうございました」
「い、いえ……。なんだか、凄く失礼な事をしてしまったと後で思い出してしまったんですけど……」
茜音が少し下がり、未来を彼女の正面に座らせる。
「未来ちゃん、こちらの今井千尋さんのお話を、少し聞いてみませんか?」
園長に促されて、茜音が全員分のお茶を配り終えて用意が整った。
「は、はい。もちろん。でも、私なんかが聞いてもいいんでしょうか?」
「未来さんとおっしゃるんですね」
「はい。田中未来と言います」
「いいお名前ね……」
千尋は頷いて、ゆっくりと口を開いた。
「もう、18年前のことです。私は途方に暮れてしまいました。 学校を出て、ストリートをしながら、ようやく事務所に拾ってもらえて。これからだと言うときに……。私はお腹に命を授かったのです」
「病院には……?」
「生理が止まってしまったことは気付いていましたが、その頃は体調的にも精神的にもかなり参っていた頃で……。それが原因だと、勝手に思い込んでしまったのです。気付いたときには手遅れでした……」
彼女はハンカチを握りしめた。
「もし、早く気付いていたら、何か変わっていましたか?」
「分かりません。でも、結局オロオロして、結果的には同じだったかも知れません」
「あの……、その子のお父さんは……」
黙っていなければと分かっていても、たまらなくなって茜音が口を開いてしまった。
「その方には子供が出来たことは伝えていませんし、今はイギリスでプロデューサーをしています。お互いに駆け出しの私たちにとって、許される恋愛ではなかったのです……」
「ありがとうございます……」
「たまたま駆け込んだのが、知り合いの病院でした。ちょうど、私もインディーズの頃の曲をリメイクしたアルバムの制作が入ったので、しばらく人前に出なくても済む。そして、私は一人、女の子を産んだんです。でも、私一人ではまだ育てられない。そんな時に聞いたのが、こちらのような施設でした。でも、理由をどのようにつけても、受け入れていただけるものではない……。暖かい春の朝でした……。私は……、こちらのあの門の前に、まだ生まれたばかりの娘を置き去りにしたのです……」
誰もが言葉を出せなかった。彼女の涙を啜る音だけが、部屋の中に響いた。
「許していただけることは絶対に無いと分かっています。でも、忘れたことは1日もありません。もし、あの子が元気なら一目でもその姿が見たい。殴られても、怒鳴られても、嫌われてもいい。ただ……、あの子の前に手をついて謝りたかった……。時を戻せるなら、あの子を連れて帰り母子家庭だとしても育てたいと思います」
うな垂れた千尋の前にひざまずいた人物がいた。
「未来さん……」
未来も両目にいっぱいの涙が浮かんでいた。あの握手会と同じように、両手をあわせて握って、千尋の顔を見た。
「…………お……」
未来は一度飲み込んだ言葉を必死に絞り出そうと頭を振った。
「…………おかあさん…………」
次の瞬間、千尋は未来を抱いて泣き崩れた。
途中から分かっていた。ここにいる全員が未来の生い立ちを知っている。細かいところまで、全てが一致する。これは当事者でなければ知ることのない真実だ。
「ごめんなさい! 酷いことをしてしまった……」
未来も昼間の一瞬で分かっていた。自分の深層心理にある、一人の女性の顔。そして、心の鍵をいとも簡単に開けてしまった。実の母親であれば、それは容易いことだったのかも知れない。少なくとも、未来はこの世に生まれて、しばらくは彼女に抱かれていたのだから。
「怒ってなんかいません……。ただ……会いたかった……。抱っこされたかった……。お母さんって呼びたかった……」
「そうだよね……。こんなに立派に育てていただいて……。なんとお礼を申し上げてよいのか、本当にありがとうございました」
二人の様子を見ていて、健と茜音は顔を見合わせてうなずいた。
ようやく少し落ち着いて、膝上の未来の頭を撫でてやりながら、千尋が頭を上げた。
「今後、どうされますか。お家に帰られてもいいし。お二人で決めていただければと思いますが」
「今夜、この子とホテルに泊まってもいいでしょうか。明日、必ずこちらに連れて参ります」
今の住まいは都内だというが、今日は仕事が終わった後で、こんなことも想定して近所にホテルを予約したという。
「分かりました。そうしましょう。未来ちゃん、行ってこられる?」
「はい……」
未来は千尋の手を放そうとしない。
仕方の無いことだと茜音も健も思った。茜音はもうこれが出来ないと分かっているし、健自身も同じだが、二人とも一つだけ理解している。
叶うのであれば、最後に一度でもいい。肉親に抱きしめてもらえることが、この珠実園にいる子どもたちと共通の願いであることも。
迎えを頼んだタクシーが二人を乗せて走り去ると、園長、健と茜音も大きな息をついた。
「まさか、こんな急展開……」
「でも、見つかってよかった。あとは未来ちゃんの意思だね」
「そうだね。未来ちゃんは来年で18歳だ。別の時間をこれだけ長く過ごしてきて、突然変わるというのもお互いにストレスになってしまうこともある。こういうことは、本当に神経を使うんだよ」
それを体現するように、園長先生はその日の日誌の来客記録に、あっさりと一文を書き加えただけだった。『未来の母親、来訪』と。
翌朝、約束どおりに二人は珠実園に現れた。
お互いに深夜まで話し合ったのだろう。未来にとっては17年ぶりの親子水入らずの時間になったはずだ。
「園長先生、私はまだ珠実園に居られるんですか?」
再び応接室に昨夜の全員と、未来から連絡を受けた翔太も集まり、未来が自分で口を開いた。
「もちろん、お母さんがいても、保護が必要だとなればこちらにはいられる。どちらの手続きを進めるのも、君たちの希望に添うようにはするつもりだ」
未来は頷いた。本当なら、一緒に家に帰り、長い時間を取り戻したい気持ちもある。
しかし、千尋はまだ経歴的には独身である。そこにいきなりこんな大きな娘がいたとなれば、変なふうに書かれた上に仕事にも影響が出ないとも限らない。
それならば、形式上は今のままで構わないと。
「私のことは気にせずに、帰ってきてもいいとは言ったのですが、未来の方がそれを許しませんで」
「私、昨日までと違う。お母さんも翔太くんもいる。兄さんも姉さんもいる。だから、今のまま大人になる。それでいいと思った」
未来にはもちろん母親が分かったのであるから、そこに外泊の許可が当然出ること。面会についてもいつでも出来ることを説明した。
千尋の方からも、施設に入所していることによる費用について支払うだけでなく、今後も珠実園の運営費サポートに回ってくれることも約束してくれた。
また、本来なら今井姓とあるべき田中未来の名前についても、今から変更することの影響を考えて、現在のままということも確認された。
「あとね、お母さんにお願いがあるんです」
「なにかしら」
「私の、婚姻届に、お母さんの名前を書いて欲しいの」
昨夜の内に、未来には先方も了承してもらっているパートナーがいることも話してあり、翔太にも今朝一番で話をした。
「もぉ、気が早いんだから。えぇ、喜んで書かせてもらいます。翔太さん、未来のことをよろしくお願いします」
僅か1日でどれだけの交流があったのかは分からない。しかし、この会話を見ていると、普通の親子と何ら変わらない。それだけ突っ込んだ話もあったのだろうと予想はできていた。
「一つ伺ってもよろしいですか?」
前日の夜、千尋を最初に連れてきた二人に聞く。
「はい?」
「お二人は、私の話が終わる前に未来を連れてきてくれました。ご存じでおられたのでしょうか?」
顔を見合わせて、苦笑する茜音。健は茜音の肩をたたいた。
「はぃ……。テレビでお見かけしたときから。未来ちゃんにはどこかに音楽の素質がある。そして、同じ声を聞いたんです。未来ちゃんの声と同じだと……。未来ちゃんには黙ってましたけどね」
「さすが、佐々木さんご夫妻のお嬢さん。分かる人にはわかってしまうものね」
ときどき、珠実園の誰もが驚く茜音の読心術。あの歌が発表された当時から、未来が琴線に触れた以上に、茜音の耳の分析はもしかしたらという展開は常に彼女の中にあったという。
「未来、また来ます。それに、いつでも遊びに来て構わないからね」
駅の改札で見送るとき、未来はぎゅっと千尋に抱きついた。
「うん。私、頑張るよ。お母さんも、お仕事頑張って」
浮かんだ涙を拭い、笑顔で頷いた。
四人で駅からの帰り道、翔太は未来の手を引っ張った。
「お母さん、見つかってよかったな」
「うん。まだまだ、私たちが親子ってなれる時間はかかると思うけど。翔太くんに心配をかける不安の一つはなくなったかな」
「いいのか? あんなこと言っちゃって?」
「えー? 婚姻届のこと? だって、茜音姉さんとか、もうそう言う話してるもん。私だって負けられない」
「えー、わたしたちぃ? そうだねぇ、でもわたしたちはいつになるかまだ見えてないんだぁ」
「どっちか早いか、姉さんのところと競争だね」
屈託無く笑う未来に茜音は苦笑した。それは、茜音自身も健との未来を考えているが、その進路のための準備にはいろいろな問題もあり、一直線に突き進めるわけではないことも分かってきていたから。この二人が苦労していることも、未来自身も分かっているからの発言に違いないのだが。
「一応、爺さんにも、他の家族にも未来の家族が分かったってことは話してあるからさ、報告にはちゃんと行くけどいいよな?」
「うん。そうだね」
昨夜、翔太に連絡をしたときに、やはり未来のパーソナルデータが根底から変わる事件に不安もあった。
しかし、夜中にも関わらずそれを聞いた翔太は、嬉しい大ニュースだと歓迎してくれたし、その後に発生するであろう問題も一緒に考えてくれると約束してくれた。
珠実園に一度戻った後、今度は翔太との外出のために飛び出していった未来。
「ねぇ健ちゃん。去年の沖縄で言ったこと覚えてる? 未来ちゃんはもう大丈夫だっていってくれたの。このこと分かってたの?」
二人を見送った茜音が、珠実園の片付けをしながら健をつつく。
「本当に行くか分からなかったけど、そうでなきゃいけないと思ってたしね。まさか翔太くんがあんな素性とは知らなかったけど。未来ちゃんはちゃんと自分で歩き出せたから大丈夫。今年はみんなにもお世話になっちゃったからね」
健は茜音の手を握った。
「僕たちも、遅くはないよね」
「うん。もちろん。でもぉ、今日は普段着だけど、でもいっかぁ……」
「茜音ちゃんがおめかしすると、僕も大変だから、今日はそのままで。よし、少し買い出しついでに出ようか……」
健は壁に掛けてあったコートを取って茜音に渡した。