写真の中央で、アリス役のエプロンドレスを着て座っている女生徒は、恐らくここで名前を出せば、教室の女子はみな知っているだろう。
「『あの人たち』って、田中はこの先輩たち知ってるのか?」
未来はその返事に一瞬窮した。
もちろん、この中心になった三人はよく知る人物だ。
しかし、彼女たちとの経緯を話すには、どうしても自分のプライベートを話さなければならない。
「あとで、ちょっと相談するよ」
なんとかその場を凌いだ放課後。未来は翔太を呼び出した。
「あのね、これから話すこと、内緒にできる?」
「田中……」
真剣な未来の顔に翔太はゆっくりと首を縦に振った。
「本当はね、知られたくはなかったの。私と姉さんのこと……」
「姉さん?」
「結城君も知ってるよね? この高校にある恋愛の伝説って?」
男子である翔太も知っている。この高校は時々ドラマの撮影などでも使われるほどの立地と校舎環境から、大小さまざまなストーリーが伝わっている。
最近で最大級のものは、10年越しの初恋を成就させたという先輩の話だ。
幼い頃に結んだ約束を守るために、校内での告白などを全て断り続け、難攻不落と呼ばれていた一人の女生徒。
最終的にはその約束を見事に達成して、櫻峰高校で一番のシンデレラストーリーと呼ばれている。
「カタ……なんとか先輩って言ってたよね」
「うん。片岡茜音先輩。すっごく素敵な人なの。私、負けちゃったけどね」
「そんな、なんでそんなことになって?」
「ううん。それは私が悪いの。私が勝手に先輩の相手の兄さんのこと好きになってたから。でも、兄さんは茜音さんのことをずっと見てたの。最初から相手じゃなかったんだよ」
ライバル関係になろうと思ってすぐに、未来は茜音に命を賭けさせてしまった。それなのに、あくまで自分を責めなかった茜音と、健の二人の想いの深さを知った。
「結城君、私はね、本当はこの高校に来られるような家じゃない。ううん、家すら無い。その茜音先輩も、辛い思いをたくさんして、たった一つだけ残ったのが、10年越しの初恋だったから。本当は伝説になんかなるはずじゃ無かった。私たちが一日元気でいられるためのおまじないみたいなものだったんだよ」
翔太にとって、彼女の身の上は初めて聞いた。
生まれたときから児童福祉施設で育ったこと。来年、高校を卒業すれば、施設を出て独り立ちしなければならないこと。
「だから、私の片思いも、今日でおしまいかな……」
「田中……」
俯いた未来を抱きしめる。
「心配するな」
「えっ……?」
「そんなことで、田中を嫌いになるなんてないぞ」
恐る恐る見上げると、恥ずかしそうに笑っていた。
「嫌いだなんて、好きにもなれていなかったのに?」
「言い遅れた……。田中、俺さ……」
真っ赤になる翔太の唇の動きを見て未来も笑う。
「いいの? このまま好きでもいい?」
肯いた翔太に抱かれて、未来はすすり泣いた。
「田中、俺が泣かしたみたいじゃん? それに、田中の家の問題とかは落ち着いたら必ず相談に乗る」
「うん」
「とにかく、今の俺たちに課された問題を片付けよう。その、片岡先輩は、田中がすぐに会えるのか?」
ようやく話題を元に軌道修正して、翔太は未来に問いただす。
「うん、あのアリスをやった先輩が片岡先輩たちなんだよ。だから、相談してみようと思って」
「そう来たかぁ」
「だって、これを超えるには、本家本元の力を借りないと無理だよ」
きっと、あの先輩たちなら面白がっていくらでも話に乗ってくれそうだ。
「明日の土曜日、時間空いてる?」
「大丈夫だ」
「じゃあ、明日その相談しよう。場所はまた携帯にメールするよ」
「分かった」
「ありがとうね……」
顔を赤らめて走って行く未来を翔太は見送っていた。
翌日の昼過ぎ、翔太が駅に着くと改札口で未来が待っていた。
一人で落ち着かない様子だった彼女も、翔太の姿を見ると顔をほころばせる。
「ごめんね。お休みの日なのに」
二人は海岸に向かって歩き出す。夏の気温も落ち着き、散歩するにはちょうどいい具合だ。
「今日はお昼からなんだ……」
海沿いの道にある一軒のカフェレストランの前で未来は足を止めた。
ピアノやギターの生演奏が流れていて、昼間だというのに店内は混み合っている。
翔太もいろいろなお店に入ったことがあるが、この店は初めてだった。そして店の看板を見上げたときにハッと気付く。
店の名前はウィンディ。やはり櫻峰の女子の間で聖地扱いされているスポットだ。
「こんにちは。空いてますか?」
「未来ちゃん、いらっしゃい。いつものところ空けてあるよ。お昼は済ませちゃった? じゃぁ、軽くおつまみ出しておくね」
エプロン姿の店の女性が気楽に話しかけてきた。
「普段はもっと入りやすいお店なんだよ。こういう演奏の時は雰囲気変わっちゃうんだ」
案内された席は、少し奥まったところにあるテーブル席だった。
「田中って、ここ常連?」
「常連ていうのはちょっと違うかなぁ……」
席に座って改めて周りを見回す。派手では無いが装飾は一つ一つ選ばれているようで、居心地のいい空間だ。
チェーン店ではない単独の店がこれだけ賑わっているのだから、こちらもやはり噂になるだけのことはあるのだろう。
店内の小さなステージにはピアノと楽譜台がいくつか置かれていて、ダウンライトが演奏している二人を照らしている。
音響設備もあるが、補助的に使われているだけで、静かな店内はその楽器の音を邪魔しないようにしているようだ。
「お待たせ。もうすぐ時間終わるからね」
ドリンクとポテトなどのスナックを置いて、また仕事に戻っていく。
「本当に、今日はありがとうございました。いつも最後にするお馴染み2曲をお届けしてお開きにさせていただきますね」
最後は伴奏をピアノ一本だけにして、二人とも聞いたことのある曲を弾き語りはじめた。
「聞いたことある……」
「うん、片岡先輩が一番大切にしている曲だから」
「えっ……?」
絶句して、改めてステージを見つめた。
てっきり、ステージ上のピアニストはどこかのプロ奏者でも来ているのだろうと思っていたが、よく見れば自分たちと姿や見た目の歳は変わらない。
それにも関わらず、聞こえてくる歌声はとても自分たちに真似できるようなレベルではなかった。
「なんて先輩なんだ……。あの人が……」
曲が終わって、拍手に送られてステージを降りると、店内の照明とブラインドが元に戻されて明るくなった。
「未来ちゃん、いらっしゃい」
気がつくと、横に立っていたのは、さっきピアノを弾いていた女性で、いや、女性と言うよりは、自分たちと同い年かそれ以下に見える。
「遅くなってごめんなさい」
「こっちこそ、急にごめんね。夜が使えなくなっちゃって。みんな楽しみで来てくれてたのにって、その場で始めてしまったから。あなたが未来ちゃんのことを見てくれているのね。いつもありがとう」
翔太は頭を整理するだけでいっぱいだった。
片岡茜音先輩と櫻峰高校で言えば、話のレベルでは雲の上の存在だ。
そんな彼女の実態が、こんなに可愛らしい少女の容姿だとは、実際に会ってみないと分からないだろう。
そんな翔太を置いて、未来は早速クラスの話を始めていた。
「ぜひ、力を貸して欲しいんです」
「あー、あの時のねぇ。今年はまだ何をやるか決めてないんでしょ?」
「そうなんですよぉ……」
「ねぇ、茜音、それじゃあの時にやれなかったことやってみたら?」
突然、さらに後ろから声がした。
驚く翔太に未来が上村菜都美と近藤佳織を紹介した。
あの茜音の伝説に登場していた残りの二人。こんなところであの三人が一緒に揃うとは思いもよらなかった。
「えっ? あれぇ? 準備大変だよぉ? まぁ、あの時より時間あるけどね……」
「実行委員会も毎年大変ねぇ。たまたまあの年は茜音がいたからできたようなもんでしょ?」
「あたしたちも手伝うから、やってみても面白いんじゃないかな?」
未来と翔太がぽかんとしている間に、三人はルーズリーフにアイディアを書き並べていった。
「あ、あのぉ……?」
「昔ね、うちのクラスでやったときには、作品を限定するってルールがあってね。それがなければ、やってみたいことがあってねぇ」
茜音は二人に説明した。
当時のルールで、いろいろな物語をモチーフにしても構わないが、複数のテーマを混ぜることが出来なかった。
そんな中で、クラス担当が持ってきたのが『不思議の国のアリス』だった。
それを見事に再現したのがこの三人で、今年のルールにその項目がなかったことで、当時できなかったことをやってみたいという。
「星空カフェをやってみたいなって思ってね」
一応事前に話をしておいた未来も驚いた。
すでに、茜音たち三人がある程度のコンセプトをまとめておいてくれていた。
「今度の土曜日に学活の時間があって、その時にお話ししてもらってもいいですか?」
二人が茜音たちに頼み込むと、年上とは思えないほど楽しそうに引き受けてくれた。
「あの先輩たちを味方につければ、勝てるな」
「もぉ、コンクールもそうだけど、きっと用意大変だよ。私たちだってちゃんと準備しておかないと」
翔太にそんな釘は刺しておいたものの、未来の中でもようやく最初のひと山を超えた印象が残った。
土曜日の4限目の時間は、特に教科を入れておらず、担任やその時のクラスの流れで活動をすることが出来る学活の時間。
もちろんこの高校の卒業生である茜音たち三人に今さら細かく説明する話ではない。
「先生、お久しぶりでぇす」
さすがに在校生ではなくなったので、来客用の玄関から入ることにする。
そうは言っても、僅か2年前に学校中にその名前を轟かせた茜音の存在は誰もがまだ記憶に新しい。
「2年3組が卒業生に助っ人を頼んだって聞いてたけど、おまえたちか。さすがに目の付け所が違うな」
先生たちも笑っている。やはりこの三人が加わればなにかをやってくれるという期待が今でも大きいのだろう。
3限目の終了チャイムが鳴り、未来と翔太が迎えに来てくれた。
「先輩方、ありがとうございます。女子はかなり乗り気です」
教室までの廊下を二人に先導されて歩いていく。途中ですれ違った生徒たちも、私服の三人が茜音たちだと分かると驚きの顔をしていた。
「隣の教室は許可をもらってます。着替えに使ってください」
「うん、ありがとぉ」
学活授業時間が始まり、担任からクラスの催し物についての打ち合わせ時間となることが告げられて、翔太と未来に渡された。
「今年は、本当に凄い人たちに協力をお願いできることになりました」
翔太が言い、廊下で待機していた茜音たちを未来が迎え入れる。
「えーっ!」
「まじ? 本人?」
「どこでお願いできたんだよ……」
いろんな声が飛び交う。
「はいはいはい。見てのとおり、今年は片岡先輩、上村先輩、近藤先輩の三人にお手伝いをお願いしました。ここまでお膳立てしたんだから、みんなも中途半端じゃできないよ?」
それまで企画に半信半疑だった生徒たちの熱が一気に上がったように感じられた。
「未来、先輩たちも一緒にやってくれるって事?」
「その予定です。先生の許可も取りました」
「でも衣装大変じゃない? あの先輩たちで大丈夫?」
そんな会話があちこちで始まる。
「お待たせしました」
挨拶のあとに一度下がっていた三人が再び姿を見せると、懐疑的な空気はあっという間に消え去った。
「先輩可愛い!!」
「これだけでも他のクラスは勝てねーよ」
「今でも片岡はやっぱり凄いな……」
当時、茜音たちを担任してくれていた先生の一言が全てを物語っていた。
アリスの衣装は、インターネット上で探せばいくらでも購入出来る。しかし体系や色までを着用する本人にあわせて作成するので、その雰囲気の一体感を既製品で出すのは難しく、衣装に着られてしまうコスプレ感が出てしまいやすい。
茜音と言えども、身長は平均的にあるから物語に登場する7歳の少女ではない。もちろん黒髪でもある。キャラクターのモチーフと現実の両方を上手く使いながら、原作を損なわない雰囲気を引き出すのは、この三人に敵う者はいないだろう。
「片岡先輩、私たちもその服を着られるんですか?」
「はい。そのつもりです。役どころや個人の体型で少しデザインを変えるかも知れませんけど」
茜音たちが仕掛けたのは、当時準備が間に合わなくて断念した、プラネタリウムを使って、屋外のようにイメージした中での喫茶室だった。
あの当時で最も人気があったアリスの世界観はそのままにして、教室の中という概念を打ち消したかったが、原作物語の中にそのシーンがないとの理由で断念されている。
衣装については男女ともにいくつかのパターンを用意すること。夜空の空間を作るので、暗幕やミラーボール、それ以外の装飾の準備をお願いしたいことなどが告げられた。
それぞれの役割分担や当日の配役などが驚くほど早く進んでいく。
「片岡先輩が衣装作るんですか?」
「わたし一人だと限界もあるので、何人かで集まって作ります」
「あんまり片岡たちに負担をかけるなよ? これを当時作ったとき、三人とも家庭科室に土日も入って出てこなかったんだからな」
結局、先生も含めて当時のバージョンアップとして再現されることになった。
会議の後、私服に戻った三人と未来と翔太が同じ帰り道を歩く。
「本当に、あんな大盤振る舞いして大丈夫なんですか?」
「だって、前回やってるからね。道具とかはお店の備品とか借りたりこっちで揃えるから。会場セットをやってもらえるだけで全然楽だよ」
「まぁ、未来ちゃん。このチームなんだから、それだけで終わるわけないって予想できるっしょ?」
「菜都実さん……、そうですよね。間違いなく他にもありますよねぇ」
自信たっぷりの先輩三人組に、未来は少々心配になったくらいだ。
ふたを開けてみれば、結果的に未来たちの心配は不発に終わった。
やはり、校内歴代1位を経験した主役たちを巻き込んだ効果は歴然だった。
男子に任された星空再現用のミラーボール作りと照明のセッティングは、中途半端なものは作れないと一生懸命に取り組んでくれたし、メニュー作りを担当した女子も負けられないと家庭科室を占拠して奮闘してくれた。
そこに前日の夕方、車で運ばれてきた機材を見て、翔太も未来も唖然とした。
「やっぱ、プロはすげぇよ」
「うん、頼んで良かったぁ」
衣装だけでなく、コーヒーやドリンクなどの食材、食器やサーバーなどの機材も菜都実の家から持ち込んでくれた。暗くなってしまう室内の補助照明として、お店にあるテーブルランタンを持ち込んでくれたので、未来たち生徒は登校するだけで良かった。
それに、茜音も家から電子キーボード、佳織もアコースティックギターを持ち込んでくれたので、未来たち二人がウィンディで経験した学校とはとても思えない独特の雰囲気が再現されると喜んだ。
当日は、茜音たち先輩三人組はそれぞれ厨房、ホール、演奏の持ち場に集中してくれた。
開場前に佳織が衣装替えが終わった全員を前にし呼びかけたのは、主役は2年3組のみんなで、自分たちは影の存在であること。
不安だったり、出来ないことはサポートするので、遠慮なく聞いて欲しいと語る。
最初は動きも固かったクラスメイトも、だんだん慣れて、2日目の一般公開日はキャラクターになりきって扮してくれた。
「久しぶりだったねぇ」
「やってることはいつもと変わらないんだけどな」
そこに、後夜祭から帰ってくる足音がバタバタと響いてきた。
「片岡先輩!!」
翔太がドアを開けて飛び込んでくる。
「だめだよ、みんな並んで!」
何事かと驚く三人の前に、ズラリと並び、翔太が賞状を差し出した。
「先輩方のおかげです。ありがとうございました!」
「よかったねぇ。みんなが頑張ったんだよぉ」
「そう、あたしたちは影武者だから。みんながよくやったよ」
荷物を菜都実の父が運転する車に載せて先に出てもらい、茜音たち三人と未来、翔太で駅まで歩く。
「みんな、衣装もらえて喜んでたな」
「それはそうだよ。自分専用に作ってもらえたなんて、みんな嬉しいよ」
使い終わった衣装は、回収したところで処分されてしまうだけだと伝えると、みんな口々に欲しいと言い出したので、それならばと希望者に渡していた。
「最初、田中が話を先輩のところに持っていったときには、こんな結果になるとは思っていませんでした。やっぱり、伝説になっちゃうくらいの先輩たちだったんですね。ありがとうございました」
駅まで戻ってきて、茜音と佳織は電車に、菜都実は再び歩いて家に歩いていく。
それを見送った未来は、隣の翔太の腕をつかんだ。
「どうした田中……」
未来が小さく震えている。
「田中、どうした?」
未来が目を伏せて、涙がこぼれた。
「と、とにかく、ゆっくり話せるところに行こう」
翔太は未来の腕を引いて駅とは反対の方向に歩いていった。
翔太は未来の手を引いて、駅から反対方向に歩いた。
小さな児童公園を見つけて、ベンチに座らせる。
子どもたちが遊ぶ時間は終わってしまっている。夕暮れがもうすぐ夜の闇に塗りつぶされていく。水銀灯に照らされた公園には誰もいない。
自販機で温かいミルクティーを買って、未来に握らせた。
「結城く…ん……」
「田中はコーヒー苦手だよな」
未来はハッとして顔を上げた。自分でも頬が赤くなっているのが分かる。
「どうして……」
「いつから田中のこと見ていたか、知ってんのか?」
「えっ? いつからって……」
翔太は不思議で頼りになるクラスメイトだった。同い年でありながら、そばにいて落ち着ける存在。
「もう、1年以上だよな。本当に気付かねえんだもん」
「そ、そんなに前から見ていてくれたの……?」
翔太は照れるように肯く。
「ご、ごめんね……。情けないな私……」
これまでの1年を振り返ってみる。
幼い頃から追いかけてきた男性といえば、兄と慕う松永健だけで、それ以外を見てこられなかった。
そんな自分のことを見守ってくれていた存在がいたことを知るだけで、再び涙腺が緩くなっていく。
「で、でもね……」
口に出かけたところをぐっと飲みこむ。
この先を続けるのが怖い。
「田中、吐き出しちまえ。誰にも言わないから」
「きっと、結城君も、私といられなくなっちゃうと思うよ……」
「そんなことない。約束するから」
翔太は未来の手を握り、彼女の濡れた瞳を見つめた。
「ほんと……?」
もう一度、泣き出しそうな未来に笑顔で肯いた。
「あの……ね、この間の続きになっちゃうけど。きっと、信じられないかもしれないけど、私は……、両親を知らないの……」
そこまで言って、翔太を見上げると、真剣な顔で受け止めてくれている。
「うん。前に言ってたね」
「生まれてすぐ、名前も無いまま、今の施設の前に置かれていた日が、私の誕生日……。家無き子だよ……。だから、きっと、これを知ったみんなは、離れて行っちゃうと思うから……」
想像で言っているのではない。小学校、中学校時代と、家族がいないことへの嘲笑や嫌がらせは少なからず存在した。それらから身を守るために、未来は自らを閉じ込め、周囲には「構うなオーラ」を出していた。
「そうだったか……」
翔太は未来の両手を包みこみながら肯いた。
「本当は櫻峰なんて来られるような人間じゃないんだよ」
「頑張ったんだな。よく、頑張った。誰かが、田中を変えてくれたんだな」
小さく横に首を振った。
「私ね、ずっと追いかけてた。さっきの茜音先輩……。優しくて、頭も良くて、本当に敵わなかった。先輩もご両親亡くして、本当にどん底から頑張った人だし。そんな人と同じ人を好きになっちゃったって、勝てるわけ無い。でも、茜音先輩は言ってくれた。最後に選ぶのは男性なんだよって。まだ決まっていないんだよって……」
握った缶をぎゅっと握りしめる。
「こんなこと、結城君に話したら、本当に失礼な話しだと思う。結城君の気持ちを知っていながら、他の人の話をするなんて……。だから、また……一人に戻っちゃう……」
嗚咽を必死に抑えていた未来の背中に翔太は手を置いた。
「田中、ちょっと聞いてもいいかな?」
「うん?」
「一人になっちゃうって、前にも聞いた気がするけど、田中はその男の人をもう追いかけてないのか?」
涙の筋が何本もついた顔で、未来は笑顔を作った。
「とっくに、無理だって諦めてた。だって、相手があの茜音先輩だもん。絶対に無理だって言われていた10年の初恋を実現させて。あの二人は当時に決めていたんだもん。最初から私が入ることは出来なかったんだよ」
「そうか……。安心した」
「えっ……?」
翔太の指が、未来の顔の涙をぬぐっていく。
「田中、この前も言ったとおりだ。俺は田中が好きだ。それに、俺はこの間から考えてきたんだ。誰にももう田中を傷つけさせたくないって。一生懸命に生きてきた田中を、俺は誇りに思う」
「結城君……。そんなこと、言われたら……、私……、崩れちゃうよ?」
「いいんだ。崩れたって。俺と一緒にいて欲しい」
「うん! いいよぉ……」
翔太の胸元に顔を押し当てて、未来はすすり上げ始めた。
「田中……、遅くなってごめんな……」
「ううん。でも、結城君のご両親に私のこと、どう紹介するの? きっと反対されちゃう……」
珠実園の先輩たちがいつも苦労してきたところだ。
身寄りがない自分に、好意を持ってくれる環境はなかなか見つかるものではない。
「まぁ、任せておけって」
その夜、翔太は未来を珠実園まで送った。
「田中、俺は絶対に田中を放さない。だから、もう少し待っていてくれ」
「うん。遠回りさせちゃってごめんね。ありがとう」
未来は手を振って駅に向かう翔太を見えなくなるまで見送っていた。
あの夜から数日後、放課後の教室に突然放送が入った。
『2年3組の田中未来さん、職員室まで来てください』
「えっ?」
「未来、なんかやった?」
クラスメイトと共に、頭の上に『?』が浮かぶ。
「と、とにかく行ってみる。先に帰ってて」
放課後の校内を走らないギリギリの早歩きで職員室に向かうと、担任の先生はこちらも緊張した顔で待っていた。
「な、何かあったんですか?」
「それを聞きたいのはこっちの方だ。理事長室に連れてきてくれと言われたんだぞ?」
「えっ……」
先日の一件を思い出す。
あの時は、周囲に誰もいないという状況だったけれど、公園というオープンな場所で翔太に抱かれてしまった。
事情を知らない他人からすれば、不純異性交遊と通報されてしまっても不思議ではなかったかもしれない。
どんな処罰か……。そんなことを考えながら、担任の後ろをついて行く。
普段はまず通ることのない廊下を抜けて、理事長室と書かれた扉の前に着いた。
ノックをして中に入る。もちろん初めての部屋だ。
「2年3組の田中未来さんをつれて参りました」
「あぁ、ご苦労さん。あとは大丈夫です。田中さんとこちらでお話しします」
「分かりました。失礼します」
担任が部屋を出て行き、部屋の中は二人だけになった。
「突然呼び出して申し訳なかったね。どうぞそこにかけてください」
ソファーに腰を下ろすと、その柔らかさに驚く。あまり深くかけると、後ろに姿勢を崩してしまいそうだったので、手前の方に背筋を伸ばして掛けることにした。
「先日の学園祭はご苦労さまでした。見事な演出でしたね。その指揮をとられたのが田中さんと伺った。聞けば、卒業生の方とコラボレーションをしたと聞きましたが?」
自分でお茶を持ってきて、未来と自分の前に置いた理事長はのんびりと話を始めた。
「はい。恥ずかしながら私たちだけでは前例を越える目標が達成できないと判断しました。そこで当時のことを一番よくご存知の先輩方に協力をお願いしました」
隠していても仕方ない。実際に茜音先輩たちに尽力してもらったことは間違いないのだから。
理事長は特にそこに怒ることもなく、楽しそうに肯いている。
「さすがですね。足りないところは応援をお願いするという発想は、大人になって問題解決をするという手段の中において、非常に大切なことなんですよ。しかも、お願いしたメンバーが傑作でした」
「片岡先輩を覚えてらっしゃるんですか?」
「そうそう、片岡……茜音さんでしたかな。あと上村さん、近藤さんの三人は、この櫻峰で名前が残ると思っていましたが、やはり今でも健在でしたな。特に片岡さんは当時、名前を知らない者はないというレベルまで知名度は抜群でした。一時、周囲からの視線が厳しくなったときに、あの方は当時の生徒会長の力を借りて、ご自分のプライベートを公表し、校内の意見を味方につけることに成功したのです。あんなやり方は並大抵の覚悟では出来ませんよ」
やはり間違いではなかった。茜音が当時、全校生徒から応援を受けたということ。それが今でも自分たちに伝わる伝説の根源なのだと。
「受験も、制服の着方まで、みんな一つ一つ、茜音先輩に教えてもらいました。奨学生として、恥ずかしくないようにと」
「そうでしたな。そうそう、そっちが本題でした」
ドキリとする。もしかして、奨学生としてのレベルをどこかで落としてしまっていたか。
「いや、大丈夫大丈夫。いくつか確認したいことがあってね……」
そこまで言ったとき、理事長室の扉が突然ノックと同時に開いた。
「爺さん頼むよ……。いきなりこんなことしてさぁ」
「えっ……?」
未来はポカンと入ってきた人物を見つめた。
そこに入ってきたのは、他ならぬしかめっ面をした翔太だったのだから……。
「ちょうどいいところに来た。お前もまぁ座りなさい」
「ちょっと、待ってください。お爺さんて、どういうことなんですか?」
ようやく我に返った未来が、なんとか頭をフル回転させつつ、立ったままの翔太に落ち着きを促す。
「どういうことも何も……。この理事長は母方の爺さんだし。それで名前が違うんだ。このことを知ってるのは本当にごく僅かだけど」
「そんな……。私、本当に恥ずかしいことしてたんですね……」
翔太に抱かれたこと、彼に淡い思いを持っていたことは事実だったし、でも、そんな彼が理事長の孫となると話が変わってくる。
とても自分がそんな立場の男の子と交際を許してもらえるわけがない。
「ほら、田中が固まっちゃったじゃないか。ゆっくり話していこうと思ったのに」
「ご、ごめんなさい。結城君がそんな凄い人だなんて全然知らなかったから……。私がいたら迷惑だよ」
「待って田中」
立ち上がろうとした未来の手を翔太は掴んで放さなかった。
「違う。俺は田中のことを守りたいって、家族の前で言ったんだ」
「えっ……?」
「左様。この翔太が初めてそんなことを言い出した。田中未来さんという生徒がいる。聞いてみると奨学生として申し分ない成績を修めていた。何度か授業中に拝見しても、素晴らしい生徒だ。しかし、どこかにご自分を卑下しているところも感じた」
最近、ときどき授業中に感じた視線はそれだったのか。
「はい……。それは私が一生背負う十字架です……」
「田中に両親がいないことは、十分分かってる。でも、田中にはその責任はない。それ以上に田中は頑張っているし、そんなことを気にするのは最初から意味が無いと思ったんだ」
「で、でも……きっと、結城君に迷惑かけちゃうかもしれないんだよ」
ここがどんな場所かなど、もう関係なかった。未来の目元から、涙がこぼれる。
「結城君が、私のことをずっと見てくれていたこと、好きだって言ってくれたこと。本当に泣いてしまうほど嬉しい。でも、私、そんなに幸せになっちゃいけないんだよ……」
「そんなことはないぞ」
それまで二人のやり取りを見ていた理事長が口を開いた。
「誰にだって、幸せになる権利はあるのだよ。たとえ、そのことを自分で認識していなくてもだ。田中さん、翔太はこんなことを言っていても、まだ君と同じ年だ。しかも、きっと人生経験の方は翔太よりも進んでいると思う。我々も、一日も早く翔太を人前に出せるように努力します。それまで孫を待っていてもらえますかな?」
二人とも顔が赤くなっているのが分かる。
「よろしく……、お願いします」
「翔太、ちゃんと彼女を送ってやるんだぞ」
「じゃ、田中は門のところで待っていてくれるか?」
「うん」
「ところで、二人ともまだ苗字で呼び合ってるのか?」
「えっ?」
二人で顔を見合わせて笑う。
「考えたこともなかったな……」
「うん、どうしよう。考えておくね」
未来が部屋を出て行くと、理事長は翔太に向き合った。
「本当にいい娘さんじゃないか。お前にはもったいない」
「ああ見えて、いろんな奴から告白は受けてるんだけど、OKした人は誰もいないんだ。だから、田中と、……未来の気持ちをゆっくり大切にしてやりたいんだ。だから、脅かさないでやってくれ」
「お前も、だいぶ大人になってきたんだなぁ」
部屋から外を見下ろすと、正門のところで、ツインテールの少女が待っている。そこに、翔太が駆け寄って二人は駅の方に歩いていった。
その年のクリスマス、未来と翔太はアウトレットにお互いのクリスマスプレゼントを探しに来ていた。
二人とも高校生という身分なので、高い買い物は出来ないけれど、クリスマスのイルミネーションを楽しむにはここだと決めていたから。
「未来にあんな過去があったなんて、本当は最初信じられなかったよ」
「だって、言えなかったよ。やっぱり、いろいろあるから。翔太君にも話すか本当に迷ったし、その時は失恋覚悟だったんだから」
あの理事長室での一件以来、二人の仲は急速に接近した。
翔太は珠実園に遊びに行くようになったし、未来も翔太を彼氏と紹介した。同時に、翔太の家では祖父の働きかけもあって、未来を温かくもてなしてくれた。
この頃には、未来の過去がどうと言う連中は現れなくなっていた。
彼女は、自分の生いたちからこれまでの半生を隠すこと無く話したからだ。
小学校高学年や中学校の頃は、周囲に対して攻撃的になってしまったこと。しかし、元来の自分の性格をいち早く見抜いて方向修正に導いてくれたのが、珠実園で兄と慕っていた男性と、櫻峰高校で圧倒的知名度を誇る片岡茜音だったことなどだ。
結城家でも、未来の生いたちからすれば寂しさの裏返しも当然あると理解してくれた。そのことで非行や問題行動に走らなかったことを誉めた。
そして何よりも、翔太も中学生の頃には何人かのガールフレンドがいたけれど、あれほど真剣に、自分から彼女を守りたいと言って紹介してきたのは未来が初めてだという。
過去がどうであれ、未来に責任は無い。きちんと生きてきたことに胸を張るように諭してくれた。そして、理事長の時と同じように、翔太のことを見守って欲しいと逆に頼まれていたほどだ。
そんな二人のことは、周囲も温かく見守るようにしたというのがこの秋から冬にかけての話。
アウトレットの雑貨店でお互いのプレゼントを選びあって、フードコートでクレープを食べていた時だった。
『このあと13時から、アトリウム広場におきまして、今井千尋さんのインストアライブが開催されます。みなさまお集まりください』
「えっ? すごくない?」
館内放送を聞いた二人も顔を見合わせる。
最近、ラジオやテレビのランキングでも時々紹介されるシンガーソングライターで、この秋に発表された『あの日の青空』という曲がブレイクしている。
「見に行ってみようか」
「うん!」
未来も最初はそんなメディアから入った一人だ。最初は何気なく気に入って聞いていたのだが、最近のテレビ放送の時に画面に表示された歌詞を読んでいたとき、突然何かが引っ掛かるような気がした……。