「茜音ちゃん!」
「なんだぁ! ちゃんといたんだぁ」
「やっぱ健にはもったいない!」
「勿体ぶるなよ!」
「その雰囲気、変わらないねぇ」
「なんかホッとした」
口々に声がかけられるなか、健に手を引かれてステージに上がる。
「お待たせしました。あの茜音ちゃんです」
拍手の中、茜音にマイクを渡す。
「えっと……、なんか変な登場になっちゃいましたぁ……。今日は本当にここにはアルバイトで来ていたんですけど、気が付いたらこんな会場になるって分かって。嬉しいやらビックリしていると言うか……」
「でも、その服装にしていたってことは、今日のこと知ってたんでしょ?」
あの写真は茜音だけではなく、健にも焼き増しされて持っていただけでなく、後日作られた閉園記念写真集でも配られたから、記憶に残っている者も多い。
「ううん、里見さんにすっかり遊ばれちゃいました」
全員の視線が二人に集まっていた。
「本当に、あのときのことは、ご迷惑をかけたことは、僕の責任です。探してくれたみんな、道連れにしちゃった茜音ちゃんも含めて、謝らなくちゃなりません。すみませんでした」
「二人は順調に会えたの」
その質問に、茜音が苦笑した。
「後から知ったんですけど、健ちゃんはずっと場所を知っていたそうです。でも、わたしは全然知らなくて……。本当に日本中走り回って、でも見つからなくて、もうダメだって思ったときに、健ちゃんが託してくれた手紙が、本当に奇跡みたいに受け取れて、行くことが出来ました。あの手紙が無かったら……、きっと今、わたしは生きていなかったと思います……」
会場は静まりかえっていた。思い出したに違いない。茜音が入所した当時、両親を亡くしたショックで言葉を話すことも出来なくなったこと。寂しさのあまり、外で一晩泣き続けて朝になって園庭の隅で保護されたりと、茜音は何度もその不安定さから心配されてきた。
それが、同い年の健という存在によってゆっくりと立ち直った。
だからこそ、園内の例外を作ってまで、この二人にはいつまでも一緒にいてほしかった。あれだけ大騒ぎになった駆け落ち事件について誰も怒らなかった。
「茜音ちゃん……、よかったね。頑張ったね」
「はい……」
「今は幸せになれた?」
「はい……。今は幸せです。一応ね、わたしの両親には紹介してあって、ちゃんとお付き合いもしています。まだ健ちゃんもわたしも学生なんで、落ち着いたらって思ってます」
「すごぉい!」
「健! 絶対に茜音ちゃん幸せにしろよ!」
「そうよ、こんな一途な子、二度と現れないからね」
「はい。みんなの前で誓います。必ず茜音ちゃんを幸せにします」
「健ちゃん……」
隣の健を見ると、手を握ってくれた。
「二人とも、誓いのキスは?」
「えー?」
再び顔が真っ赤になった二人だが、アルコールも入っている会場のキスコールが収まらない。
「いいよ……?」
「じゃぁ、ちょっとね」
「うん……」
目を閉じて、顔を上向きにする茜音。
「やっぱり茜音ちゃん可愛い!!」
そんな歓声の中、柔らかい感触をお互いの唇に刻み込んだ。
「それじゃーね」
「結婚式は呼んでくれよ?」
「ありがとうございましたぁ」
夕方に会はお開きとなり、それぞれが手を振りながら自分の場所に帰っていく。
「菜都実、貸切なんてありがとうね」
「可愛かったよ。茜音のキスシーンなんて見られるもんじゃないしさ」
「もぉ、みんなそればっかりぃ」
「みんな、二人には幸せになって欲しいのよ」
里見が後ろから荷物を持ってきた。
「ダメですよ、重い荷物持っちゃ」
「大丈夫。もう終わったよ」
持ってきた物を健と里見の車に分けて積み込む。「そうそう」と言って、茜音の手には渡っていなかった例のアルバムを渡してくれた。
「あの当時、茜音ちゃんが来てくれなかったら、ときわ園の閉園アルバム作ろうなんて思わなかったわよ」
「ありがとうございます。じゃぁ、次は明日の夕方にお手伝い行きますね。今夜は里見さんは?」
「今夜は彼のところに行くわ。旦那さんって言ってもいいけどね。健君も今夜は茜音ちゃんとゆっくりしたいでしょ?」
先に手を振って里見が出て行った。
「茜音、これさ、二人で食べて。いつも手伝いありがとうって、父さんから」
テイクアウトの容器に料理を詰め込んだものが3つ、袋に入っている。
「ありがとぉ。これなら買う必要なくなったねぇ」
夜の部に手伝いに入ってくれる佳織にも見送られて、ウィンディを後にした。
「ねぇ健ちゃん?」
さっきの会でみんなと話していたことを振り返りながら車を進めた。
「ん?」
ハンドルを握りながら、茜音に答える。
「健ちゃん、さっきあんなこと言ってくれたけど、本当にわたしでいいの?」
「前も聞かれたけど、茜音ちゃんはどうなの?」
左手で茜音の右手を持って、港を見下ろす公園の駐車場に車を止めた。右側に横須賀、左奥に横浜を見下ろした夜景がきれいだが、住宅地の中の公園のためあまり人が来ない。
いつも、横須賀のお店や茜音の実家から下宿の家や珠実園などに移動するときに休憩する場所になっている。
「わたしは……、健ちゃんしかいないよ。でも、こういうのってきっと重いって思われちゃうかもしれないし」
「うん?」
「きっと、同い年の人に比べたら、子供っぽいし、胸もないし……」
「気にしてるの?」
「昨日ね、里見さんに髪型も見てもらったんだけどね、健ちゃんに気に入って貰えるか分からないし、どんどん分からなくなっちゃって」
いつも左右に下げている三つ編みを後ろに持って行き、その2本をヘアゴムとリボンの付いた髪留めでまとめてやる。それだけでも、ぐっと大人っぽく変わるのだけど、これまでヘアスタイルを滅多に変えたことがないだけに、自信がもてない。
「茜音ちゃん……」
それだけ言うと、両腕で茜音は抱きしめられた。
「はぃ?」
「可愛いよ。茜音ちゃんは。誰にも渡さない」
「健ちゃん……」
顔を上げると、健も切なそうな顔をしてた。
「僕も、茜音ちゃんがどんどん可愛くなって、素敵な女の子になっちゃうから、気が気じゃなくて……。絶対に茜音ちゃんを取られたくない。でも、僕は高校卒業も1年遅い。せっかく会えたのに、また離れちゃうのかもしれないって思うとさ」
「ううん。わたし、ここにしか居られない。他には居場所がないから、放さないで……。お願い……また一人にしないでぇ……、もぉ、やだよぉ……、寂しいのはやだよぉ……」
すすり泣きを始めた茜音。震わせる肩を力を入れて抱きしめた。
「茜音ちゃん、これ、本当はまだ言っちゃいけないんだけどさ……」
自信がないことを責めている茜音。健は意を決したように、彼女の両肩を持って話し始めた。
「ふえ?」
「僕は来年の春から、珠実園の管理人の勉強に入るんだ。だから、僕はあそこにずっといる」
「健ちゃん、それって、健ちゃんが園長先生になるってこと?」
「そうなるのはまだ先だけど、将来はそうしたいみたいだよ。だから、その時に誰が必要か言って欲しいって言われたんだ」
「うん」
昨日、里見にも言われていた。最近は健が研修に多く出ていると。きっと何かが動き始めるにちがいないと。
「だから、里見さん、未来ちゃん、そして茜音ちゃんは絶対にって。園長笑ってたけどさ。あと、ときわ園の仲間も何人かね。だから、僕の将来には、茜音ちゃんがいてくれないと困るんだ」
「わたしで役に立つ?」
「茜音先生はもう合格だよ。みんな認めてる。そのままでいいんだ」
幼稚園の教員資格や、セラピストなどの資格を持てば、傷ついた子どもたちの役に立てるかもしれない。そんな思いを持って選んだ進学先。
健はその茜音を彼の設計図の一番真ん中にすでに据えていた。
「あとさ……。僕の隣にずっといてくれないかな……」
「ほんと? 本当に一緒にいてもいい?」
涙でいっぱいの目で上目遣いに見上げる。こんな女の子を目の前にして、平常心を保っている方が難しい。
「うん。茜音ちゃん、時期が来たら結婚しよう。これ、それまでのお守りと男除け」
上着のポケットから、小さな箱を取り出して、涙で濡れている左手の薬指に細いリングをはめた。
「だめだよぉ、こんなに高いものだよぉ」
「大丈夫。シルバーだから。それにお揃い。本物のエンゲージリングはもうちょっと貯めてからね」
二人の同じ指に同じリングがはまった。
「ううん。これでいい。嬉しいよぉ。うん……。はぅぅ、ごめん……。涙が……止まらない……」
一生懸命に笑顔を作ろうと頑張っても、目尻から次々に滴がこぼれた。
「もう、茜音ちゃん……」
再び、彼女の唇を奪った。さっきとは違ってしょっぱい涙の味がする。
「ほら、クリスマスだよ。もう泣かない。ね?」
「うん、泣かない……。頑張る……。サンタさん来てくれたぁ。あっ、雪だぁ」
窓の外にちらちらと白い物が舞っている。天気予報は悪くなかったので、一時的なものだろう。
車の外に出て、展望台に走っていった茜音。
眼下に見える夜景に白い影が舞い降りる。
「健ちゃん……」
こんな寒さだ。二人の他は公園に誰もいない。
「なんだい?」
「今日をね、ちょっと気が早いけど、わたしと健ちゃんの婚約の日にしようよ。絶対に忘れないよ?」
「毎年ケーキが2個になりそうだなぁ」
「うん。まだまだ未熟者ですけど、よろしくお願いします」
「こっちこそ、よろしくね」
白い天使たちが見守る中、二つの影が再び一つに溶け合った。
[付随エピソード]
【茜音 短大2年&未来 高2年 秋】
『おめでとう未来ちゃん。櫻峰の後輩ができたよぉ!』
珠実園で、生ける伝説と呼ばれている先輩から合格のお祝いを言われたっけ……。
「……だとしても……、そんな無茶なぁ~」
あれから1年半。田中未来は教室で頭を抱えていた。
別件の用事を片づけて教室に帰ってきたときに、黒板に書かれていたのは、学祭のクラス監督にされていたこと。
「田中にしかできない大役だから頼む」
「勝手に決めるの禁止~!」
未来は奨学生として、入学後も努力を続けていた。
模試でもトップクラスの成績を修めているし、誰からも認められている性格や立ち振る舞いは、中学の途中までの彼女を知っている者からすれば、同姓同名の別人に見えただろう。
そもそも、中学生の頃とは見た目も一変させていた。ショートカットだった髪型は、今では長く伸ばして両側でツインテールにしている。
目元が柔らかい表情になったことや、制服をきちんと規定通りに着こなしているなど、見た目ではアイドル顔負けという評判も高い。
決して驕ることもなく、3年生の先輩にも、1年生にも分け隔て無く丁寧に接する姿は、来春は3年生での生徒会長への推薦も十分に行けるという声もある。
そんな彼女が頭を抱えていた櫻峰高校の学校祭は9月に行われる。
3年生はそれが終わると受験勉強が本格化するのだけど、以前からその負担が懸念されていて、3年生はクラス参加は任意になっている。その分の負担を未来たち2年生が負わなければならない。
その年のテーマが、本気かおふざけからか、『物語の世界を体現してみること』ときたもので、このクラス担当にだけはなりたくないと誰もがヒヤヒヤしていたものだ。
2年生はアトラクションでも飲食提供でも、全学年で一番選択肢は多い。
さて、一番の問題はそのテーマ選びだ。
今から3年前、あるクラスで喫茶室を模擬店として出したことに起因する。
教室内の装飾だけでなく、全員の衣装を『不思議の国のアリス』イメージで統一したことから、その年の展示コンクールの大賞を取っている。
これをいかに超えるかが、毎年の実行委員は頭を悩ませていたし、毎年どこかのクラスが果敢にも挑むのだが、なかなか上手くいかない。
『へぇ、今年はアリスでやるんだぁ』
『お皿とかも、お店の備品使えば行けるっしょ……、って、なによこの危ない視線は……?』
『ふぇ?』
『よし、決定! アリス役は片岡で確定な。あとの配役は近藤と上村との三人で好きに決めてくれ。デザインも任せる』
『えーっ!?』
当時の教室でのこんなやり取りもあったという。そう、この当時、全校生徒で唯一のはまり役が存在した。
原作があまりにも有名であり、そのビジュアルも重要視される中において、このクラスにはたった一人、あの幼い風貌のエプロンドレスを着て主役を張れる生徒が一人だけいたから。
そして、彼女たちはクラス全員分の配役を決めて衣装を作ってしまった。見事な世界観の演出に、結果は誰もが納得のぶっちぎりだったという……。
「田中、何を頭抱えてるんだよ」
「だって、あの人たちを超えるのはちょっと無理だよぉ」
隣の結城翔太に言われて、未来はため息をつく。
彼は1年生の頃からのクラスメイトだ。同じクラスになって、いろいろと話しかけてくれたことから、自然に距離が近くなった。
そんな二人だから、未来がクラスの担当に決まったときも、自然にサブ担当となってはくれたのだが……。
未来は参考にと卒業アルバムに載っているその時のクラス写真を見ながらため息を抑えられずにいた。
写真の中央で、アリス役のエプロンドレスを着て座っている女生徒は、恐らくここで名前を出せば、教室の女子はみな知っているだろう。
「『あの人たち』って、田中はこの先輩たち知ってるのか?」
未来はその返事に一瞬窮した。
もちろん、この中心になった三人はよく知る人物だ。
しかし、彼女たちとの経緯を話すには、どうしても自分のプライベートを話さなければならない。
「あとで、ちょっと相談するよ」
なんとかその場を凌いだ放課後。未来は翔太を呼び出した。
「あのね、これから話すこと、内緒にできる?」
「田中……」
真剣な未来の顔に翔太はゆっくりと首を縦に振った。
「本当はね、知られたくはなかったの。私と姉さんのこと……」
「姉さん?」
「結城君も知ってるよね? この高校にある恋愛の伝説って?」
男子である翔太も知っている。この高校は時々ドラマの撮影などでも使われるほどの立地と校舎環境から、大小さまざまなストーリーが伝わっている。
最近で最大級のものは、10年越しの初恋を成就させたという先輩の話だ。
幼い頃に結んだ約束を守るために、校内での告白などを全て断り続け、難攻不落と呼ばれていた一人の女生徒。
最終的にはその約束を見事に達成して、櫻峰高校で一番のシンデレラストーリーと呼ばれている。
「カタ……なんとか先輩って言ってたよね」
「うん。片岡茜音先輩。すっごく素敵な人なの。私、負けちゃったけどね」
「そんな、なんでそんなことになって?」
「ううん。それは私が悪いの。私が勝手に先輩の相手の兄さんのこと好きになってたから。でも、兄さんは茜音さんのことをずっと見てたの。最初から相手じゃなかったんだよ」
ライバル関係になろうと思ってすぐに、未来は茜音に命を賭けさせてしまった。それなのに、あくまで自分を責めなかった茜音と、健の二人の想いの深さを知った。
「結城君、私はね、本当はこの高校に来られるような家じゃない。ううん、家すら無い。その茜音先輩も、辛い思いをたくさんして、たった一つだけ残ったのが、10年越しの初恋だったから。本当は伝説になんかなるはずじゃ無かった。私たちが一日元気でいられるためのおまじないみたいなものだったんだよ」
翔太にとって、彼女の身の上は初めて聞いた。
生まれたときから児童福祉施設で育ったこと。来年、高校を卒業すれば、施設を出て独り立ちしなければならないこと。
「だから、私の片思いも、今日でおしまいかな……」
「田中……」
俯いた未来を抱きしめる。
「心配するな」
「えっ……?」
「そんなことで、田中を嫌いになるなんてないぞ」
恐る恐る見上げると、恥ずかしそうに笑っていた。
「嫌いだなんて、好きにもなれていなかったのに?」
「言い遅れた……。田中、俺さ……」
真っ赤になる翔太の唇の動きを見て未来も笑う。
「いいの? このまま好きでもいい?」
肯いた翔太に抱かれて、未来はすすり泣いた。
「田中、俺が泣かしたみたいじゃん? それに、田中の家の問題とかは落ち着いたら必ず相談に乗る」
「うん」
「とにかく、今の俺たちに課された問題を片付けよう。その、片岡先輩は、田中がすぐに会えるのか?」
ようやく話題を元に軌道修正して、翔太は未来に問いただす。
「うん、あのアリスをやった先輩が片岡先輩たちなんだよ。だから、相談してみようと思って」
「そう来たかぁ」
「だって、これを超えるには、本家本元の力を借りないと無理だよ」
きっと、あの先輩たちなら面白がっていくらでも話に乗ってくれそうだ。
「明日の土曜日、時間空いてる?」
「大丈夫だ」
「じゃあ、明日その相談しよう。場所はまた携帯にメールするよ」
「分かった」
「ありがとうね……」
顔を赤らめて走って行く未来を翔太は見送っていた。
翌日の昼過ぎ、翔太が駅に着くと改札口で未来が待っていた。
一人で落ち着かない様子だった彼女も、翔太の姿を見ると顔をほころばせる。
「ごめんね。お休みの日なのに」
二人は海岸に向かって歩き出す。夏の気温も落ち着き、散歩するにはちょうどいい具合だ。
「今日はお昼からなんだ……」
海沿いの道にある一軒のカフェレストランの前で未来は足を止めた。
ピアノやギターの生演奏が流れていて、昼間だというのに店内は混み合っている。
翔太もいろいろなお店に入ったことがあるが、この店は初めてだった。そして店の看板を見上げたときにハッと気付く。
店の名前はウィンディ。やはり櫻峰の女子の間で聖地扱いされているスポットだ。
「こんにちは。空いてますか?」
「未来ちゃん、いらっしゃい。いつものところ空けてあるよ。お昼は済ませちゃった? じゃぁ、軽くおつまみ出しておくね」
エプロン姿の店の女性が気楽に話しかけてきた。
「普段はもっと入りやすいお店なんだよ。こういう演奏の時は雰囲気変わっちゃうんだ」
案内された席は、少し奥まったところにあるテーブル席だった。
「田中って、ここ常連?」
「常連ていうのはちょっと違うかなぁ……」
席に座って改めて周りを見回す。派手では無いが装飾は一つ一つ選ばれているようで、居心地のいい空間だ。
チェーン店ではない単独の店がこれだけ賑わっているのだから、こちらもやはり噂になるだけのことはあるのだろう。
店内の小さなステージにはピアノと楽譜台がいくつか置かれていて、ダウンライトが演奏している二人を照らしている。
音響設備もあるが、補助的に使われているだけで、静かな店内はその楽器の音を邪魔しないようにしているようだ。
「お待たせ。もうすぐ時間終わるからね」
ドリンクとポテトなどのスナックを置いて、また仕事に戻っていく。
「本当に、今日はありがとうございました。いつも最後にするお馴染み2曲をお届けしてお開きにさせていただきますね」
最後は伴奏をピアノ一本だけにして、二人とも聞いたことのある曲を弾き語りはじめた。
「聞いたことある……」
「うん、片岡先輩が一番大切にしている曲だから」
「えっ……?」
絶句して、改めてステージを見つめた。
てっきり、ステージ上のピアニストはどこかのプロ奏者でも来ているのだろうと思っていたが、よく見れば自分たちと姿や見た目の歳は変わらない。
それにも関わらず、聞こえてくる歌声はとても自分たちに真似できるようなレベルではなかった。
「なんて先輩なんだ……。あの人が……」
曲が終わって、拍手に送られてステージを降りると、店内の照明とブラインドが元に戻されて明るくなった。
「未来ちゃん、いらっしゃい」
気がつくと、横に立っていたのは、さっきピアノを弾いていた女性で、いや、女性と言うよりは、自分たちと同い年かそれ以下に見える。
「遅くなってごめんなさい」
「こっちこそ、急にごめんね。夜が使えなくなっちゃって。みんな楽しみで来てくれてたのにって、その場で始めてしまったから。あなたが未来ちゃんのことを見てくれているのね。いつもありがとう」
翔太は頭を整理するだけでいっぱいだった。
片岡茜音先輩と櫻峰高校で言えば、話のレベルでは雲の上の存在だ。
そんな彼女の実態が、こんなに可愛らしい少女の容姿だとは、実際に会ってみないと分からないだろう。
そんな翔太を置いて、未来は早速クラスの話を始めていた。
「ぜひ、力を貸して欲しいんです」
「あー、あの時のねぇ。今年はまだ何をやるか決めてないんでしょ?」
「そうなんですよぉ……」
「ねぇ、茜音、それじゃあの時にやれなかったことやってみたら?」
突然、さらに後ろから声がした。
驚く翔太に未来が上村菜都美と近藤佳織を紹介した。
あの茜音の伝説に登場していた残りの二人。こんなところであの三人が一緒に揃うとは思いもよらなかった。
「えっ? あれぇ? 準備大変だよぉ? まぁ、あの時より時間あるけどね……」
「実行委員会も毎年大変ねぇ。たまたまあの年は茜音がいたからできたようなもんでしょ?」
「あたしたちも手伝うから、やってみても面白いんじゃないかな?」
未来と翔太がぽかんとしている間に、三人はルーズリーフにアイディアを書き並べていった。
「あ、あのぉ……?」
「昔ね、うちのクラスでやったときには、作品を限定するってルールがあってね。それがなければ、やってみたいことがあってねぇ」
茜音は二人に説明した。
当時のルールで、いろいろな物語をモチーフにしても構わないが、複数のテーマを混ぜることが出来なかった。
そんな中で、クラス担当が持ってきたのが『不思議の国のアリス』だった。
それを見事に再現したのがこの三人で、今年のルールにその項目がなかったことで、当時できなかったことをやってみたいという。
「星空カフェをやってみたいなって思ってね」
一応事前に話をしておいた未来も驚いた。
すでに、茜音たち三人がある程度のコンセプトをまとめておいてくれていた。
「今度の土曜日に学活の時間があって、その時にお話ししてもらってもいいですか?」
二人が茜音たちに頼み込むと、年上とは思えないほど楽しそうに引き受けてくれた。
「あの先輩たちを味方につければ、勝てるな」
「もぉ、コンクールもそうだけど、きっと用意大変だよ。私たちだってちゃんと準備しておかないと」
翔太にそんな釘は刺しておいたものの、未来の中でもようやく最初のひと山を超えた印象が残った。
土曜日の4限目の時間は、特に教科を入れておらず、担任やその時のクラスの流れで活動をすることが出来る学活の時間。
もちろんこの高校の卒業生である茜音たち三人に今さら細かく説明する話ではない。
「先生、お久しぶりでぇす」
さすがに在校生ではなくなったので、来客用の玄関から入ることにする。
そうは言っても、僅か2年前に学校中にその名前を轟かせた茜音の存在は誰もがまだ記憶に新しい。
「2年3組が卒業生に助っ人を頼んだって聞いてたけど、おまえたちか。さすがに目の付け所が違うな」
先生たちも笑っている。やはりこの三人が加わればなにかをやってくれるという期待が今でも大きいのだろう。
3限目の終了チャイムが鳴り、未来と翔太が迎えに来てくれた。
「先輩方、ありがとうございます。女子はかなり乗り気です」
教室までの廊下を二人に先導されて歩いていく。途中ですれ違った生徒たちも、私服の三人が茜音たちだと分かると驚きの顔をしていた。
「隣の教室は許可をもらってます。着替えに使ってください」
「うん、ありがとぉ」
学活授業時間が始まり、担任からクラスの催し物についての打ち合わせ時間となることが告げられて、翔太と未来に渡された。
「今年は、本当に凄い人たちに協力をお願いできることになりました」
翔太が言い、廊下で待機していた茜音たちを未来が迎え入れる。
「えーっ!」
「まじ? 本人?」
「どこでお願いできたんだよ……」
いろんな声が飛び交う。
「はいはいはい。見てのとおり、今年は片岡先輩、上村先輩、近藤先輩の三人にお手伝いをお願いしました。ここまでお膳立てしたんだから、みんなも中途半端じゃできないよ?」
それまで企画に半信半疑だった生徒たちの熱が一気に上がったように感じられた。
「未来、先輩たちも一緒にやってくれるって事?」
「その予定です。先生の許可も取りました」
「でも衣装大変じゃない? あの先輩たちで大丈夫?」
そんな会話があちこちで始まる。
「お待たせしました」
挨拶のあとに一度下がっていた三人が再び姿を見せると、懐疑的な空気はあっという間に消え去った。
「先輩可愛い!!」
「これだけでも他のクラスは勝てねーよ」
「今でも片岡はやっぱり凄いな……」
当時、茜音たちを担任してくれていた先生の一言が全てを物語っていた。
アリスの衣装は、インターネット上で探せばいくらでも購入出来る。しかし体系や色までを着用する本人にあわせて作成するので、その雰囲気の一体感を既製品で出すのは難しく、衣装に着られてしまうコスプレ感が出てしまいやすい。
茜音と言えども、身長は平均的にあるから物語に登場する7歳の少女ではない。もちろん黒髪でもある。キャラクターのモチーフと現実の両方を上手く使いながら、原作を損なわない雰囲気を引き出すのは、この三人に敵う者はいないだろう。
「片岡先輩、私たちもその服を着られるんですか?」
「はい。そのつもりです。役どころや個人の体型で少しデザインを変えるかも知れませんけど」
茜音たちが仕掛けたのは、当時準備が間に合わなくて断念した、プラネタリウムを使って、屋外のようにイメージした中での喫茶室だった。
あの当時で最も人気があったアリスの世界観はそのままにして、教室の中という概念を打ち消したかったが、原作物語の中にそのシーンがないとの理由で断念されている。
衣装については男女ともにいくつかのパターンを用意すること。夜空の空間を作るので、暗幕やミラーボール、それ以外の装飾の準備をお願いしたいことなどが告げられた。
それぞれの役割分担や当日の配役などが驚くほど早く進んでいく。
「片岡先輩が衣装作るんですか?」
「わたし一人だと限界もあるので、何人かで集まって作ります」
「あんまり片岡たちに負担をかけるなよ? これを当時作ったとき、三人とも家庭科室に土日も入って出てこなかったんだからな」
結局、先生も含めて当時のバージョンアップとして再現されることになった。
会議の後、私服に戻った三人と未来と翔太が同じ帰り道を歩く。
「本当に、あんな大盤振る舞いして大丈夫なんですか?」
「だって、前回やってるからね。道具とかはお店の備品とか借りたりこっちで揃えるから。会場セットをやってもらえるだけで全然楽だよ」
「まぁ、未来ちゃん。このチームなんだから、それだけで終わるわけないって予想できるっしょ?」
「菜都実さん……、そうですよね。間違いなく他にもありますよねぇ」
自信たっぷりの先輩三人組に、未来は少々心配になったくらいだ。
ふたを開けてみれば、結果的に未来たちの心配は不発に終わった。
やはり、校内歴代1位を経験した主役たちを巻き込んだ効果は歴然だった。
男子に任された星空再現用のミラーボール作りと照明のセッティングは、中途半端なものは作れないと一生懸命に取り組んでくれたし、メニュー作りを担当した女子も負けられないと家庭科室を占拠して奮闘してくれた。
そこに前日の夕方、車で運ばれてきた機材を見て、翔太も未来も唖然とした。
「やっぱ、プロはすげぇよ」
「うん、頼んで良かったぁ」
衣装だけでなく、コーヒーやドリンクなどの食材、食器やサーバーなどの機材も菜都実の家から持ち込んでくれた。暗くなってしまう室内の補助照明として、お店にあるテーブルランタンを持ち込んでくれたので、未来たち生徒は登校するだけで良かった。
それに、茜音も家から電子キーボード、佳織もアコースティックギターを持ち込んでくれたので、未来たち二人がウィンディで経験した学校とはとても思えない独特の雰囲気が再現されると喜んだ。
当日は、茜音たち先輩三人組はそれぞれ厨房、ホール、演奏の持ち場に集中してくれた。
開場前に佳織が衣装替えが終わった全員を前にし呼びかけたのは、主役は2年3組のみんなで、自分たちは影の存在であること。
不安だったり、出来ないことはサポートするので、遠慮なく聞いて欲しいと語る。
最初は動きも固かったクラスメイトも、だんだん慣れて、2日目の一般公開日はキャラクターになりきって扮してくれた。
「久しぶりだったねぇ」
「やってることはいつもと変わらないんだけどな」
そこに、後夜祭から帰ってくる足音がバタバタと響いてきた。
「片岡先輩!!」
翔太がドアを開けて飛び込んでくる。
「だめだよ、みんな並んで!」
何事かと驚く三人の前に、ズラリと並び、翔太が賞状を差し出した。
「先輩方のおかげです。ありがとうございました!」
「よかったねぇ。みんなが頑張ったんだよぉ」
「そう、あたしたちは影武者だから。みんながよくやったよ」
荷物を菜都実の父が運転する車に載せて先に出てもらい、茜音たち三人と未来、翔太で駅まで歩く。
「みんな、衣装もらえて喜んでたな」
「それはそうだよ。自分専用に作ってもらえたなんて、みんな嬉しいよ」
使い終わった衣装は、回収したところで処分されてしまうだけだと伝えると、みんな口々に欲しいと言い出したので、それならばと希望者に渡していた。
「最初、田中が話を先輩のところに持っていったときには、こんな結果になるとは思っていませんでした。やっぱり、伝説になっちゃうくらいの先輩たちだったんですね。ありがとうございました」
駅まで戻ってきて、茜音と佳織は電車に、菜都実は再び歩いて家に歩いていく。
それを見送った未来は、隣の翔太の腕をつかんだ。
「どうした田中……」
未来が小さく震えている。
「田中、どうした?」
未来が目を伏せて、涙がこぼれた。
「と、とにかく、ゆっくり話せるところに行こう」
翔太は未来の腕を引いて駅とは反対の方向に歩いていった。