食事会を終えて両親は先に帰宅し、茜音と健の二人は二人の時間をもらってから帰宅することになった。
横須賀の夜景がよく見える海沿いの公園。周囲にもそれらしい二人連れがたくさん見られる。
さっきの件でもう両親公認となってしまったわけで、焦りはしたものの、今はなんだかさっぱりしている。
「健ちゃんひどいよぉ~。昨日には分かってたんでしょう?」
「ごめん。茜音ちゃんを驚かせたいから黙ってるように言われていたんだ」
「ふ~ん。あ、そっかぁ。自宅の電話に名前登録したから分かったんだぁ」
茜音は両親がどうやって連絡を取ったのかをずっと疑問に考えていたけれど、蓋を開けてみればなんてことはない。自分の携帯電話だけではなく、自宅の親機にも名前登録をしてあっただけのことで、それに気が付いた。
「今度、片付け終わったら、さっき言っていたお家に案内するね。ちょっと今はテレビもないから。準備するのに少し時間かかるよぉ。あと、健ちゃんところのお手伝いとか行くからぁ」
「そうだね。みんな見たがってるし……。大変な騒ぎになってるみたいでさぁ……」
「う~、そんなに騒がなくてもぉ」
夏休み中なので、学校での反応がまだ分からないが、恐らく全校生徒にうわさは広まっていると考えてもいいだろう。
2学期の初日は大変なことになるのではないかと思っている。
「そういえば、茜音ちゃん」
「ほう?」
「さっき、ご両親の前であんなこと言ってたけど、本当に後悔しない?」
「うん。もう決めてた。何があってももう離れたくない……」
隣に立っている健の腕をぎゅっとつかむ茜音。
「茜音ちゃん……」
「お願い……。わたしを……、もう茜音を一人にしないで……」
彼一人にしか聞こえない小さな声。その声は震えていた。
「茜音ちゃん、僕の顔を見てくれる?」
「うん?」
小さな外灯の光の中で見る茜音の顔。頬には細い筋が残っている。それでも一生懸命に微笑んでいる顔は小さくて、施設で初めて茜音に出会ったときと同じように瞳が揺れていた。
「本当は、ご両親の前よりも茜音ちゃんに先に言いたかったんだ。僕のことを分かってくれるのはあのときから茜音ちゃん一人だけだったんだ。……これからもずっと一緒にいてくれるかな。時期が来たら、二人であったかい家族を作ろう……」
「本当に……いいのぉ……?」
「うん。それを実現するには茜音ちゃん以外に考えられないんだ」
「ありがとぅ……。大好きぃ……」
飛びついてきた茜音の細い体を両腕で抱きしめる。
「10年……、くらいしたら結果出てるかな……?」
「そうだねぇ。これまでの10年頑張ってこられたんだもん。これからは二人だもん。大丈夫だよぉ」
「約束だよ」
「うん。約束ぅ」
幼かったあの時と同じように、小指を絡ませた。楽しいことも、辛いこともあるかもしれない。でも、これからは二人で一緒に進めばいい。
そんな二人を夏の星座が静かに見下ろしていた。
【茜音・高3・夏休み課題】
「はぁ~、今回はここに行くんですかぁ?」
片岡茜音は担任から渡された書類を確認して聞き返した。
「確か、片岡は児童施設でいいんだよな? 一人だけど大丈夫か? 今回は先方の事情で昨年と施設が変わるのを言ってなかったから、断って選びなおしてもいいんだぞ?」
先生は茜音にすまなそうに聞いた。
「はいぃ。大丈夫です。分かりました。これから行って挨拶してきます」
「行き方は書類の中に書いてある。駅で向こうの人が迎えに来てくれるそうだから」
「分かりました」
茜音は教室を出た。
「どしたぁ?」
廊下に出ると、上村菜都実と近藤佳織の二人が待っていた。
「う~ん、まぁ行くところが変わったって感じかなぁ?」
「へぇ。どこどこ?」
「ん~、内緒ぉ……」
「ケチ~」
三人は夏休みのガランとした学校を出る。
彼女たちの通う私立櫻峰高校では、夏休みなどの長期休暇の課題の1つとしてフィールドワークが全員に課せられる。
この期間、主に公共の施設やボランティア活動などを生徒たちは1つ選んで参加しなければならない。
ものによって内容の難度や期間は様々で、1日で終わる物から、数日にわたるものまである。
その希望調査は休みに入る直前に渡されて提出。何に当たるかはこのように受け入れ側の日程などもあるので、先のように一人ずつ言い渡される。
当然ながら簡単な内容で日数の短い物は競争倍率も高く、自分の希望する物に当たらない確率も高い。
ただし、休み明けにはその内容をレポートにして提出しなければならない。短く内容が楽なものほど、そのトレードオフとして、規定の枚数に内容を工面するのがなかなか大変だ。
茜音は1年生の時から毎回この課題に児童福祉施設での手伝いを選んでいた。
日数もあり、また子供たちの相手となると要求されるレベルも高いため、あまり競合することもない。
派遣を受け入れる側としても、仕事内容を身をもって経験している彼女の存在は重宝されていた。
「それじゃぁ、また店でねぇ」
「ほぉい。終わったら行くねぇ」
同じように今日から活動が始まる佳織と、これから店を手伝う菜都実と別れ、駅から電車に乗る。
「まぁ……、こういうこともあるんだねぇ……」
渡された書類を封筒からもう一度出して見て思った茜音。
先生は担当する施設が変わることを気にしていたようだが、彼女には特別大きな問題があることではない。
これまで休みごとに会ってきた子達と会えなくなるのは寂しいが、新しいところとなれば、それはそれで新しい出会いがある。
しかし、今回の場所は担任はもちろん親友二人にもまだ話せない、彼女には少し別の意味を持ちそうだからだ。
最寄り駅として書類に指定された駅は、名前ではよく聞いていたけれど、降りたことはなかった。
「そっかぁ、この駅なんだぁ」
初めて降り立った駅のホームを見回す。
先日までの1年を駆け抜けた旅行では、いつも見知らぬ初めての駅に降り立っていた茜音だ。
とりあえず今日から一週間、お世話になる駅。これまでとは違い階段と列車の位置などを確かめる。
階段を上って、改札前が待ち合わせ場所だと書いてある。
学校からは茜音がこれから向かうことは連絡済みだから、受け取った書類によると、改札口に迎えが来ることになっている。
「あれぇ、健ちゃん?」
ラッシュが過ぎた昼前の時間帯、改札前は1本の列車が到着して降りる乗客の波が過ぎれば閑散とする。そこに茜音は見知った顔を見つけた。
「茜音ちゃん」
駅の改札前にいたのは同い年の松永健。
先月10年越しの約束を乗り越え無事に再会した茜音の彼氏だ。直後の茜音の両親の作戦で早々に紹介することになり、すでに片岡家では公認の仲となっている。
「健ちゃん、誰かを待ってるの?」
今日は二人が会う約束をしている日ではない。様子を見るに、電車から降りてくる誰かを待っているようだ。
「うん……。今日来るって人を待ってるんだけど……」
「へぇ、そうなんだぁ……」
「櫻峰高校の学生さんだって言うんだけど、あんまり制服とか分からないから、どんな人なのか知らないんだよなぁ」
茜音はおかしくて仕方なくなったが、それを必死に顔に出さないようにして続けた。
「櫻峰の制服ならこれだよぉ?」
茜音は自分の着ている服を指した。
「え、そうなんだ。夏休みだから普段着かと思った……」
紺をベースにしたシックなチェックのスカート、白いブラウスにスカイブルーのスカーフタイをつけ、ライトグレーのベストという茜音たちの通う櫻峰高校の女子夏制服も、健はそれに気が付いていなかったらしい。
そもそも茜音が彼の前に制服で現れることがこれまでなかったし、彼女の普段の私服の中には学校の制服よりずっと洒落たものが多いという個人的事情も手伝う。
「だってぇ、学校から直接来たんだもん」
「そっかぁ。それでも、同じような制服の人他にはいないなぁ……」
「なんで、その人のこと待ってるのぉ?」
「今日から、うちの手伝いに来てくれるっていうんだけどさ。名前も教えてくれなかったんだよな」
「ほえぇ。その人なら、ここにいるよぉ」
茜音はついに笑いをこらえられなくなって、自分を指さした。
「え? そうなの?!」
突然のカミングアウトに呆気にとられる健。
毎日のように電話で話しているけれど、茜音から事前にそんな話は聞かされていなかった。
「はい、これが学校からの書類。不慣れですが、ご指導よろしくお願いします」
茜音はあらたまった顔で彼に頭を下げた。
施設までの道中、茜音は健に事情を話した。
「だからねぇ、さっき、その書類を渡されるまで、知らなかったんだよぉ。ごめんねぇ」
「そうだったんだ」
茜音が派遣される施設の名前を聞いたとき、当然彼女はこういう展開もあり得ると思っていた。
駅から歩いて15分ほどで、目的地の珠実園に到着した。
「なんか、懐かしい雰囲気かもなぁ……」
素直な茜音の感想だ。
「僕がここに来てから外見は変わってないからね」
茜音は初めての場所だが、健はあの一件の後に連れてこられたのがこの施設で、彼にとっては家同然の場所である。
「うるさいぐらい賑やかだけど、許してやってよ」
健が門を開ける。夏休み中なので子供たちの声が中から聞こえてくる。
「あ、健兄ちゃんだ!」
後ろから男の子の声がした。
「お帰り。プール行ってたのか?」
真っ黒に日焼けした小学校低学年くらいの子供たちが5、6人走ってくる。
「うん! 兄ちゃん、この人だれ?」
彼らは茜音を指さした。
「みんなに言ってただろ? 今日から一週間みんなの手伝いをしてくれる人が来るって」
「そうだった! みんなに知らせてくる!」
彼らはわいわい騒ぎながら玄関に走っていった。
「元気だねぇ」
「ま、あの辺が一番大変かな。わんぱく盛りでさ」
彼に連れられて、事務室で挨拶を済ませる。
「よろしくお願いします」
「あなたがあの茜音ちゃんなのね。よろしくね」
健と同様に他の職員たちにしても、まさか派遣された人物があの事件のもう一人の主人公と知って驚いていた。
「……では、みんなにお願いします」
さっき戻ってきた学校のプール組を待つため、少し遅くに変更されたという昼食の席で、彼女は紹介されることになった。
「はいぃ。えと……、今日からしばらくお世話になります。片岡茜音です。よろしくお願いします」
「えぇ~~~??!!」
子供たちが一斉に声を上げる。
「健兄ちゃんが言ってた人だ」
「へぇ、めちゃ可愛いんだ」
「犯罪だぞ犯罪!」
「あのぉ……、健ちゃんどう言ってたの……?」
茜音の問いにも健は肩をすくめて苦笑するだけだ。
当然のことながら、今では一番の古株になる健の話は全員が知っている。
もちろん先日の10年越しの再会がかなったこともトップニュースで伝わった。そのうちに遊びに来ることは予想されていても、こんな形で現れるとは誰もが予想外だった。
「そうかぁ、健君の気持ち分かるなぁ」
年上の女の子たちからも声が上がる。
「でもさぁ、これはミク姉ちゃん勝ち目ないなぁ……」
「そうねぇ。健君一筋だもんねぇ。ちょっと可哀相かなぁ」
「ほえぇ?」
茜音が見回すと、1つだけ用意されていない空席があった。
「今日は学校の委員会で遅くなるとか言ってたんだ。明日来るときには会えるよ」
「う、うん……」
気にはなったが、午後の時間を過ごしてもその子は現れなかったので、茜音は引き上げることになった。
「明日から本格的にお願いします」
すっかり暗くなった中、茜音と健は門のところまで歩いてきた。
「今日はありがとう。茜音ちゃんと分かってほっとしたよ」
「うん。そだねぇ。明日からは普段着で来るねぇ」
「あんまりお洒落しない方がいいよ。汚されちゃうからさ」
「あはは。うん、分かった。もうここでいいよぉ」
門を出て最初の角のところで、茜音は立ち止まった。
「駅まで送るよ?」
「ううん、お片付けとか残ってるでしょぉ。あと、ミクちゃんによろしくねぇ」
「気にしてるの?」
「え? ううん、平気平気。それじゃまた明日ねぇ」
茜音は大きく手を振って駅の方へ走り出した。
「あ、うん。また明日……」
出遅れてしまった健は、茜音に手を振り返して呟く。
「もう……、茜音ちゃんは嘘つくとすぐに分かるんだよな……」
「兄さん!」
茜音が見えなくなったので、珠実園に戻ろうとした背中に、飛びつく者があった。
「未来ちゃん」
中学校のセーラー服を着ている彼女は振り向いた彼に笑顔を見せた。
「さっきねぇ、すれ違った兄さんと同じくらいの女の人が悩んだみたいに歩いてたんだぁ」
彼女は振り向いて言った。角を曲がっているし暗いのでもうその姿を見ることは出来ない。
「そうかぁ……」
人通りが少ない住宅街の道で、未来がすれ違ったと言えば、それは自ずと絞られる。
「茜音……」
「兄さん?」
考え込んでいるような健に未来が問いかける。
「あ、何でもないよ。ご飯が早かったから、とってあるからね」
「うん、お腹すいたぁ」
二人は珠実園の中に消えていった。
翌朝、茜音はバスケットを抱えて珠実園に出勤した。
「おはようございます」
「あー、茜音姉ちゃんだぁ」
「おはよぉ」
門をあけて中に入ると、子供たちが駆け寄ってきた。
「健兄ちゃん待ってるよ」
「あはは、そうなんだぁ」
彼らに手を引かれるように中に入る。
「こら、午前中は宿題の時間だろ?」
奥から聞き慣れた声がした。
「だって、健兄ちゃんの彼女連れてきたんだぜぇ」
「そっか宿題中なんだ。すぐ用意するね」
自分たちに出される夏休み必須課題は先日のフィールドワークの課題受け取りの日に提出する必要があったので、あの騒ぎのあとはウィンディで仕事が終わってから佳織と菜都実の三人で協力して片付けたものだ。
「健ちゃんも大変だねぇ」
「まぁねぇ。茜音ちゃんも手伝える? 小学校中学校の課題だから分かると思うよ」
「分かった」
集合テーブルで、門まで迎えに着てくれた小学校組の宿題を手伝うことにする。
「よぉし、さっさと宿題終わらさないと」
今度は調理場の方から女子組が帰ってくる。
珠実園ではいくつかのグループに分かれ、調理や掃除などの仕事を分担していると説明を受けていた。
「あれ、茜音さんじゃん。今日は早いね」
昨日の騒ぎで、茜音へのイメージはすっかり完成されている。
「おはようございます。お邪魔してます」
上級生になると、個室も与えられることになっていると聞いていたけれど、このときは集まって宿題を片付けることにしたようだ。
「あ、未来姉ちゃん」
茜音の目の前に座っていた子が顔を上げた。
「うん?」
部屋に入ってきたのは、中学生くらいの子だった。大きなブラウンの引き締まっている意志の強そうな目。栗色の髪型に少し特徴があった。後ろはかなり短くしているが、もみあげ近く、茜音で言えば三つ編みをしている付近だけは長めにのばしていた。ふんわりとした可愛さが特徴の茜音とはまた違い、きりりと引き締まった美少女という雰囲気を持った子だ。
「茜音ちゃん?」
「うん?」
健に呼ばれて茜音は立ち上がる。
「この子が昨日いなかった田中未来ちゃん」
「片岡茜音です。よろしくお願いします」
茜音が頭を下げる。
「今は中学……3年だっけ?」
「うん。そうでぇす。兄さん忘れたの?」
未来は紹介している健の腕に抱きついた。
「兄さん……?」
茜音の顔に『?』が浮かぶ。
「あぁ、別に本当のじゃなくて、ずっといるからね」
「そっか。そうだよね……」
自分は施設から引き取られたが、彼はあの事件の後はずっとここで暮らしていたのを思い出す。
「茜音ねぇちゃん元気ねぇぞ?」
「あわぁ、ごめんね」
宿題を見ていたはずの茜音だが、子供たちにつつかれてふと我に返る。
「なんか、さっきからぼーっとして。そんなに未来ねぇちゃんと会ったの嫌だった?」
「うん、そんなんじゃないよ」
挨拶の後、今日も学校の補習に行ってしまった未来の姿は消えた。それでも昼までには戻ってくると言うことだった。
その後は気を取り直して子供たちの宿題を手伝う。
そうこうしている内に、昼食を用意する時間になった。
「茜音さん、厨房をお手伝いして欲しいってリクエストが来ているけど、行けます?」
別の作業をしていた先生が後ろから声をかけてくる。
「はい、分かりました。それじゃぁ、わたしお手伝いしてくるよ。ちゃんと終わらせるんだよ」
宿題をやっている子供たちはそのままに、茜音は調理場へ入る。
「あら、茜音ちゃん手伝ってくれるの?」
「はい」
「服汚さないようにね。昔からお洒落だったもんね、茜音ちゃんは」
「ほえぇ?」
調理場にいたのは、自分よりもう少し歳上の女性だ。
だが、よく見るとどこかで見たことがあるような気がした。
茜音の服装を告げてくることでも、自分のことを知っているのだと。
「……あれ、もう忘れちゃったの? まぁしゃぁないか。10年だもんね」
その口調に茜音もようやく気づく。
「あぁー、里見お姉さん! どうしてここに?」
里見は茜音たちが最初に連れてこられ、あの騒ぎを起こした『ときわ園』で面倒を見てくれたお姉さん役だった。
あの時は、各自バラバラになってしまったので、誰がどこに行くかは知らされていなかった。
中には複数人数で移されたのもいたはずなので、彼女が健と同じ施設に来ていたとしても不思議ではなかった。
「あたしもね、本当は最初ここじゃなかったんだ。移った先もいろいろあってね。結局また移ってここに来たってわけ。もう18も過ぎちゃったから、今は近くに安い部屋を借りて、すっかり給食のおばさん」
基本的に児童福祉施設にいられるのは18歳か高校卒業までとなっているところが多い。
そのように卒園しても仕事を継続できたということは、在園当時から調理場を任されていたことが予想できた。
「そうなんですか。里見お姉さん、あのころから料理上手だったからなぁ。昨日はいませんでしたよね」
「あ、そうそう。昨日はちょっと用事あって出かけてたのよ。でも、茜音ちゃんが来たっていうのは知ってたから」
旧知の人物がいてくれたことで、他愛もないことを話しながら、昼食の用意が終わった。
「健ちゃん~、里見さんのこと黙ってたのぉ?」
様子を見に来た健をジト目で見る茜音。
「あ、そっか。紹介してなかったっけ……」
「もうぅ、いるって分かっていればもっとなんか違うこと出来たかもしれないのにぃ」
「まぁまぁ、健君にも悪気があってのことじゃないと思うけどね。ただし、罰として今日のおやつは抜きね」
里見が意味ありげに茜音と笑ったので、健は不安になる。
「今日のおやつって何?」
「せっかく作ってきてくれたのに残念ねぇ。茜音ちゃんお手製のミートパイ」
「え? マジで?」
心底悔しそうな顔をしたので、茜音も笑った。
「ほらぁ、午後って遊びに行っちゃう子もいるみたいだから、パイは人数分ないんだよぉ。クッキーはたくさんあるからあげる。どうしても食べたかったら……、う~んどうしようかなぁ」
考えている間に、いつの間にか全員が食卓に集まってくる。
「兄さん~、午後は予定あいてる??」
そこにバタバタと走り込んでくる未来。やはり腕をつかんで親しそうに聞いている。
「う、うん……。空いてるけど……」
「じゃ、ちょっと付き合ってよ!」
その場の雰囲気で押し切られたように、二人は約束してしまった。
「あうぅ……」
「茜音ちゃん……」
その様子を見ていた二人。里見は茜音の様子に納得がいった様子だ。
「あ、大丈夫だよぉ。平気平気!」
今は仕事中。茜音はそう答えることしかできなかった。
日が西に傾きかけた頃、茜音は里見と二人並んで庭のベンチに座っていた。
年少組は今日もプールに出かけたり、珠実園の庭で遊んだりしている。
もともとここは幼稚園だったそうで、園舎を改造して教室部分を個室や共同部屋にリフォームしているという。移転の時に屋外遊具はそのままにしてもらったそうだ。
健は未来との約束で二人でどこかに出かけてしまって不在だ。
「はぁ……」
「そんな気を落としちゃダメだって。健君は茜音ちゃん一筋なんだから。確かにあれじゃ誤解されても仕方ないけどさ」
「うん……、それは信じたいんだけどねぇ……」
茜音だってそう信じている。しかし、今日だけでもあれだけのものを見せられてしまっては、二人の間に何もないとは思えなかった。
「健君には言っておくよ。でもさ、普段の二人ってあんなにベタベタしてないんだけどなぁ」
里見に言われ、茜音はうつむいていた顔を上げた。
「ホントだよ。兄さんって言ってるのはいつも通りだけどさ、あんなに腕つかんだりはしない」
「へぇ……。どうしてなんだろぉ」
里見は変に忖度をするような性格ではない。昔からサバサバしてすっぱりと割れる竹のような真っ直ぐさが彼女の持ち味だったと覚えている。
彼女の言うとおりだとすると、なぜ急にあんな行動を取るようになったのかが気になる。
「多分ね、茜音ちゃんのことかなり意識してるからよ」
「そうなんですかぁ?」
「だってさ、今朝あたしが来たときに、みんな大騒ぎだったみたいだもん。今日も健ちゃんの『あの』彼女が来るってさ。未来ちゃんも年頃だしね、気になっても仕方ないかな」
そのあと、二人はしばらく話し込んでいる内に、外はだんだん暗くなってきている。
「きれいな夕焼けぇ」
年少組が帰ってこないうちに食卓の掃除を済ませる。
プールに行っていた組と、外出していた未来と健の二人が帰ってくる頃には、茜音と里見で夕食の支度もできあがっていた。
「それじゃ、お疲れさまでしたぁ。みんな、また明日ね」
みんなが食べ終え、片付けも終わったあと、茜音は玄関で振り返った。
「茜音ちゃん、そこまで送るよ」
「ひゅ~ひゅ~、健兄ちゃんいいぞぉ」
「黙れおまえらぁ」
冷やかされながら、二人は外に出る。
「はぁ、今日は星が見えるよぉ」
「すっかり暗くなっちゃってごめんね」
「ううん、平気だよぉ。菜都実のお店でやっているときはもっと遅いし……」
「そっか。それならいいんだけど」
「だって、これも夏休みの宿題だもん。ちゃんと評価してもらえるから大丈夫だよぉ」
そこで会話は途切れる。
「今日は、ごめん……。茜音ちゃんがいるのに……」
「ううん。いいのぉ。だって、今のわたしはただの研修生だもん。珠実園のみんなの生活は普通にしていてもらわないと、邪魔しちゃいけないから」
彼がいないことは寂しいが、これは学校の授業の一環だ。私用でならもう少しわがままも言えるかもしれないけれど、そうもいかない。
「あのさ、明後日の木曜日なんだけど、珠実園のお泊まり旅行なんだ。茜音ちゃんも来られる? もちろん、残る子もいるから参加できるかは自由だよ。来られなくてもちゃんと日数はカウントしてもらうから」
「そっかぁ」
泊まりのスケジュールを聞いて、しばらく考えていた茜音。
「うん、分かった。一緒に行くよ。あと、菜都実と佳織も一緒でいい?」
「了解。みんなに伝えておくよ」
すぐそこまでのはずが、いつの間にか二人は駅前に到着していた。
「送ってくれてありがとぉ。それじゃぁ、明日は午後から行っても平気? 明後日は早いと思うから、明日はあそこで泊まるよぉ」
「じゃぁ、どっか部屋を空けておくから、気をつけて帰るんだよ」
「うん、分かった。おやすみ健ちゃん。送ってくれてうれしかったよぉ」
最後に茜音は笑顔で手を振り改札の中に消えていった。
「本当に無関係の私たちが一緒でいいの、茜音?」
「うん。ちゃんと許可もらったよ。菜都実のお父さんにはあとで謝らなくちゃ……」
夏休みは菜都実の自宅でもある『ウィンディ』は目の前の海岸線もあって書き入れ時だ。
娘の菜都実はもちろん、佳織や茜音も用事がない日は仕事を入れていた。
それを突然2泊3日の空白を作ってしまったのだから。影響がないわけがない。
「夏休みはいつもどこにも連れていけないから、行ってこいって」
どうやら、行った先でのお土産を買って来ることで上村ファミリーでは落ち着いているらしい。
約束していた水曜日の夕方。茜音に菜都実と佳織を加えたいつもの三人組は2日間の宿泊の用意を持って珠実園に現れた。
「おぉ、こういう感じなんだ」
「まぁねぇ。ここは独立型だね。教会に併設とかいろいろな形があるけど。みんな最後には自立させるって目標は同じような感じかな」
二人とも茜音から施設の様子は聞いたりしているが、実際に中に入るのは初めてだった。
二人の挨拶が終わると、茜音の時と同じように人なつっこい連中が取り囲む。
もちろん、二人の名前は茜音の旅の立役者として知れているから、健が知らない茜音の探索記のエピソードはいくらでも出てくる。
「まー、この連中なら大丈夫だわぁ」
今は誰も入っていない部屋を借り、風呂上がりの菜都実は上機嫌だ。
「ずいぶんお風呂長かったじゃない。遊ばれてたの?」
「まーね。思い切り遊ばれちゃったわ」
佳織は茜音と二人で明日の用意を進めていた。
総勢二十人近く、しかも下は小学校低学年、上は高校生までが一度に動くには本当ならバスの方が都合がいい。
しかし健に言わせれば、自分で電車にも乗れないのではあとあと困るということらしく、毎年この移動は電車やバスなど公共機関を使うとのこと。
翌朝7時には出発することになっているので、準備は今の内にやっておく必要がある。
「まぁ、茜音が悩んでるって言うから、助っ人に来たけどね。明日じっくり聞かせてもらうわよ」
「うん、本当にごめんね。忙しいのに無理言って……」
「面白そうだからいいじゃん」
「考えたらこれ私の課題なのに……。健ちゃんが、二人もサポートで入ってくれたって報告に書いてくれるって」
「なるほど、昼間はここの職員なんだ」
「うん。今は学校に行っている時間だからね」
夕方5時に仕事を切り上げ、支度をしてから4年間の夜間高校に通っている。
「苦労人してるんだね。でも、茜音の彼氏だもん。しっかりしていて安心したよ」
「明日は朝早いから、早く寝ておいてね」
二人を先に寝せるために三人分の布団が用意されている部屋に案内する。
「茜音は?」
「うん、もう少し起きてる。小さい子たちがちゃんと寝ているかの見回りもあるから……」
「菜都実、先に寝よ」
佳織がウインクをして菜都実の背中を押していく。
茜音が健の帰りを待っているのは間違いないからだ。
「ただいま……。茜音ちゃん?」
普段は暗くなっているリビングに照明がついている。
「お帰りなさい。お風呂温めてあるよ」
言われるままに、部屋に荷物を置いて戻ってくると、きちんと畳まれているパジャマを手渡された。よく見ると、取れかかっていたボタンも縫いつけ直されてある。
その日、茜音が最後に一回りのチェックを終わらせて床についたのは、子供たちがみんな寝静まって珠実園の明かりが全て消えるのと同じだった。
「やっぱり朝早いから仕方ないねぇ」
夏休みとはいえ、朝の駅で各自に切符を買わせるだけでも一騒動。ようやく列車に乗り込んで出発するも、座席でぐっすり眠り込んでいる子もいる。
「考えたねぇ。テントとかどうするのかと思ったら、ちゃんと泊まるところは確保してあるんだ」
これだけの人数が泊まり込みで出かけるのだから、その荷物はさぞかし大変かとの予想とは少し外れて、年長組は少し多めに物を運んでいても、年少組は各自の着替えや現地での遊び道具を持ってきている程度だ。
そんな軽装備でフルスペックのキャンプなど、どうするのだろうと思っていたら、職員の親戚で大きな別荘を持っている人がおり、川釣りなども出来るという。
そこならば費用も浮くし、他の客に迷惑がかかるなどという心配をしなくていい。
出発してから2時間ほど、以前茜音の旅で訪れた場所も近い山の中で、一行は駅から乗ってきたバスを降りた。
「へぇ、ずいぶんと山の中だねぇ」
茜音は隣に歩いている健に話しかけた。
「うん。どうしようかなぁ……」
「どうしたの? なにか悩んでる?」
健がしきりに空を見ている。しかし、空はよく晴れた夏空だ。
「天気予報は午後に一雨来そうって言ってた。夕飯のバーベキューにかからなければいいんだけどなぁ」
「そうかぁ、川沿いでやるならねぇ」
「ま、そのときはウッドデッキがあるからそこでやらせてもらうよ。そういうときもあった」
健がそう茜音に答えたとき、後ろから来る者があった。
「兄さん! 仕事ばっかりしてないでちゃんと遊びに来てよ? 楽しみにしてたんだから」
「分かったって……」
その間に茜音は菜都実たちのいる後方に下がった。
「なるほどぉ。そーいうことか。茜音にライバル出現とはなぁ。しかもかなり手強そうじゃん?」
「うぅぅ……」
様子を見ていた二人にも、今茜音が何を迷っているのかが分かったようだ。
「でもほら、相手は中学生よ? 茜音が迷ってどうするの? 堂々としていればいいのよ」
「これで高校3年生と言わせるのもどうかと思うけどな……」
「わたし、年相応に見えないもんなぁ」
「見える見えないも、茜音は高3。そこは格の違いを見せつけてやんなさい」
そんなことを言いながら、目指す別荘に着いた。
「へぇ、なかなか凄いじゃない」
2階建ての建物自体はそれほど新しいものではない。1階はキッチンや、健の言っていたウッドデッキなどがある客間スペース。
2階が個別の部屋になっているので、各自部屋割りがされている。
「よーし、水着に着替えて川に行こうぜ」
男の子たちはすでに着替え終わり、そのまま庭の方に走っていく。
その先には沢があり、その河原が遊び場になると言う。
「危なくなったら帰って来いよ」
健の声が聞こえる。
声がした1階へ降りていくと、里見が昼食の、健が夜の用意を始めていた。
「……高校生のメンバーだって遊びたいんでしょ」
「ま、仕方ないよ。普段は結構仕事してもらってるし」
茜音は二人とは少し離れたところで、何かを見回している。
「茜音ちゃん、あとの二人は?」
「ん? みんなの見張り番に行くって。菜都実が遊びたくて仕方ないみたい」
「そっか。珠実のメンバーだけかと思ったけど、違いそうだね」
「茜音ちゃんはどうして行かないの?」
里見の問いにすぐに茜音は答えなかった。
その代わり何かを思い出すように周囲を見回している。
「どうしたの?」
茜音はパーティーが開けるような大広間の片隅に置いてある物を見つけて言った。
「多分、ここ、昔来たことがあるかも……」
「えぇ?」
意外な発言に二人とも驚いた。
「それはいつ?」
「んーと、多分幼稚園とかそんな感じだと思う……。だから健ちゃんたちと会う前だね。うちにあるのと同じだって……」
そう言いながら、茜音は置かれているグランドピアノを見た。手際よくふたを開け、鍵盤の上に指を走らせる。
「うん。ちゃんと調律されてる」
「茜音ちゃん、ピアノ弾けたんだっけねぇ。バイト先でも弾いてるってさっき菜都実さんから聞いてるよ」
「うん、お店にね、菜都実の亡くなった妹さんのピアノがあったんだよ。それを弾かせてもらってる」
茜音の生演奏はふとしたきっかけで始まって、もう常連たちの間では有名になり人気も出たため、彼女の仕事の内容が接客から演奏に変わってしまうほどだ。
「そういえばさぁ、昔、茜音ちゃんはピアノで大変なことやったんだよねぇ」
「はう?」
里見が健に話しかける。
「あー、あったあった。ほら小学校1年生のとき……」
三人が思い出したのは、もう10年以上前の、小学校1年生のことだった。