「なんのためにお前を幽鬼が出ると噂の菊花殿に入れたと思っている」
「幽鬼が出ると噂があるから人が近づかないからでは?」
玲燕は首を傾げる。
「それもひとつの理由ではある」
天佑は部屋に面した中庭に出ると、井戸の横にある石灯籠の前に立った。両手で石灯籠を押すと、それはゆっくりとずれた。その下にはぽっかりと空洞が開いている。
「……これは、秘密通路でございますか?」
玲燕は真っ暗な暗闇が広がる穴の入り口を見る。
万が一に備えて皇帝が住む場所にはいくつかの秘密通路があることは公然の事実だが、一体どこにあるのかは完全に伏せられている。これは、後宮の中にあるいくつかの秘密通路のひとつなのだろう。
「もしかして、菊花殿に幽鬼が出るという噂は意図的に?」
玲燕は自分の近くに戻ってきた天佑に尋ねる。
「ここで人が死んだというのは事実だ」
「……聞かなければよかった」
「怖いのか?」
天佑はにやりと笑い、意味ありげに玲燕を見返す。
「残念ながら、全く怖くありません。」
「なんだ、つまらんな」
玲燕がしれっと答えると、天佑はすんと鼻を鳴らす。
「…………」
玲燕はじとっと天佑を睨む。
天佑との付き合いはまだ短いが、ここで「怖い」などと言えばずっと揶揄われるのが目に見えている。
(本当に、なかなかいい性格しているわよね)
玲燕の視線に気付いた天佑が玲燕を見て視線が絡むと、天佑は顎をしゃくった。
「あまり時間がない。着替えてきてくれ。俺も官服に姿を変える」
「あ、そうですね。わかりました」
玲燕が慌てて立ち上がりかけたそのとき、ころころと丸い実が床に転がり落ちた。先ほど、廊下で出会った女官にお裾分けしてもらい、玲燕が懐に入れていた茘枝だ。
「あ、いけない」
「これは? 茘枝か?」
天佑は赤い実を拾い上げると不思議そうに見つめる。
「あ、はい。先ほど、いただいたのです」
「先ほど?」
「はい。桃妃様付きの女官に。桃妃様のご実家から持ってきて桃林宮に植えた木が実ったと」
「へえ、桃林宮の茘枝なのか」
天佑は手のひらで転がしていた茘枝をまじまじと眺め、その皮を器用に剥く。そして、何を思ったのか中身を口の中に放り込んだ。
「え!?」
まさか落としたものを口にするとは思っていなかった。驚く玲燕に対し、天佑は平然としている。
「本当だ。懐かしい味がする」
「……懐かしい? 天佑様は昔、茘枝をよく食べたのですか?」
「ああ、そうだな」
天佑はそれ以上話すことなく口を噤み、玲燕も突っ込んでは聞かなかった。
隣の部屋に移動して素早く衣装を替える。おずおずと戸を開けると、天佑は既に官吏──甘天佑になっていた。
「足元が悪いから気をつけろよ。鈴々、少しの間留守は頼む」
天佑は石灯籠の下に開いていた穴に先に下りながら、玲燕と鈴々に声をかける。
「はい、お任せください!」
鈴々が力強く頷くのを見届け、天佑はひらりと地下へと下りていった。
真っ暗な坑道のような、けれど坑道と呼ぶには狭すぎる人通路を案内されて行き着いた先は、倉庫のような部屋だった。
いくつも並ぶ棚には、丸められた竹簡がぎっしりと詰まっている。反対側を見ると、紙の巻物がいくつも積まれていた。
「ここは、書物庫ですか?」
「そうだ。光琳学士院(こうりんがくしいん)の持つ書庫のひとつだ」
「光琳学士院……」
光琳学士院は書物の編纂、詔勅の起草などを行う皇帝直轄の部署だ。官吏登用試験である科挙で特に優秀な成績を収めた者が配属される場所としても知られる。そして、天嶮学士であった父──秀燕が働いていた部署でもあった。
(ここでお父様が──)
玲燕は周囲を見回す。
ここは倉庫なので実際にここで働いていたわけではないだろうが、仕事でここに来ることはあったかもしれない。
置かれている竹簡や巻物はかなりの年季が入っているように見えるが、手入れが行き届いており埃などは被っていなかった。
「玲燕、行くぞ」
天佑に呼ばれ、玲燕ははっとする。
(いけない。ぼーっとしちゃった)
無意識に、ちょっとした感傷に浸って辺りを眺めてしまった。
「はい」
閉じていた書庫の扉が開かれ、玲燕は眩しさに目を眇めた。
玲燕は慣れた様子で歩く天佑のあとを追う。途中で何人かの官吏とすれ違ったが、玲燕が男装している妃であるとばれることはなかった。皇城には数多の官吏や女官がいる。その全員の顔まで、いちいち覚えていないのだろう。
光麗国では皇城内で身分を示すために官吏は腰帯をするのだが、それも天佑が貸してくれたので疑われることもなかった。
書物庫から五分ほど歩いただろうか。天佑が立ち止まる。
「わっ」
よそ見をしていた玲燕は正面から天佑の背中にぶつかり、顔を打つ。
「痛たた……」
「何をしている。ちゃんと前を見ろ」
「天佑様が突然立ち止まるからではないですか」
呆れたような眼差しを向けられてムッとした玲燕は抗議する。
「到着したから立ち止まったんだ。ここだ」
「え?」
玲燕は天佑の向こう側に目を向ける。
回廊は行き止まりになっており、一番端はちょっとした東屋のようになっていた。周囲には人工の池があり、水の中を鯉が気持ちよさそうに泳ぎ回っている。池の向こう側にはちょっとした庭園があり、高さ三メートルほどの木が植えられているのが見えた。
「あちらの庭園にはどうやったら行けますか?」
「庭園? 見ての通り、この池には橋がない。向こう側に行きたかったら、回廊の元来た道を戻ってぐるりと回らないとだな」
「あの建物はなんですか?」
玲燕は庭園のすぐ横に建つ、平屋建ての建物を指さす。池にせり出すように、大広間があるのが見える。
「あれは、昭園閣──宴会場だ。大人数の宴席が催される際に利用される」
「つまり、宴席がなければ誰も使わない?」
「その通りだ」
天佑は頷く。
玲燕は手すりに手をかけ、改めて池の向こう側を眺める。距離にして十メートルほどある。夜間に黒い服を着た人間がいたとしても、認識できないだろう。
「状況はよくわかりました。ありがとうございます」
「ああ。菊花殿に戻る前に、ひとつだけ所用を済ませてもよいか?」
「もちろんです」
「助かる。届け物しなくてはしなくてはならなくてな」
天佑はそれだけ言うと、元来た廊下を歩き始めた。
一旦、天佑は執務室がある吏部に届け物を取りに行き、またすぐに部屋を出た。
「どこに行くのですか?」
後ろをついて行きながら、玲燕は尋ねる。
「礼部だ」
「礼部」
礼部とは、光華国における祭礼、祭祀(さいし)の中心機関だ。この他に、教育や外交なども担っており、官吏になるための科挙の最初の試験の主催は礼部だ。
いくつかの渡り廊下を抜けた先には、先ほど行った礼部に似た大きな四角い建物が見えた。
天佑は慣れた調子で、入口を開く。天佑の肩越しに中を覗くと、沢山の官吏達が何やら書類とにらめっこしているのが見えた。
「雲流。書類を届けに来たぞ」
天佑がそのうちのひとり、若い男に話しかける。書類を睨んでいた官吏──李(り)雲流(うんりゅう)ははたと顔を上げた。
「これは、天佑ではないか。珍しい奴が現れたな」
雲流はにこやかな笑みを浮かべると立ち上がり、天佑から書類を受け取る。そして、その場で中身を確認した。
「今年、ここに配属される官吏の一覧か。しかと受け取った」
「ああ、頼む」
天佑は軽く片手を上げる。
「体調を崩したと聞いたときは心配したが、すっかり元気なのか?」
「ああ、心配ない」
天佑は口元に微笑を浮かべる。
(体調?)
天佑は以前、体調を崩していたのだろうか。ふたりのやりとりを聞いていると、どうやらそうなのではないかと窺えた。
そのとき、背後の入り口が開く音がした。
「これはこれは、珍しい方がいるものだ」
パタンと扉が閉まる音と共に、しわがれた声がした。
玲燕は入り口のほうを振り返る。そこには、濃い紫色の袍服に身を包んだ壮年の男性が立っていた。顎には立派な髭を蓄えている。
「甘殿自らがここにお越しになるとは。ついにこちらの意見に賛成してくれるということかな?」
天佑はその男を見て、にっこりと笑みを浮かべた。
「これは、高殿。あいにくですが、新任の官吏のリストを届けに来ただけです」
「そんな雑用を吏部侍郎であられる甘殿自らがなさるとは、よほど吏部はお暇らしい。いやいや、羨ましい限りですな」
きつい皮肉を織り交ぜ、男は天佑の隣にいた玲燕に視線を移した。
「見慣れない顔だが、若手の官吏か? 君もそんな閑職ではなく、礼部に来たらどうかね」
玲燕は目の前にいる男を、まっすぐに見返す。
年齢は五十代だろうか。髪や髭にはだいぶ白髪が混じっていた。
濃い紫色の袍服はかなりの高位であることを表わしており、腰帯には帯銙(たいか)と呼ばれる飾りがたくさん付いていた。
(礼部でかなりの高位で高氏というと──)
玲燕の知識から導き出される人物はひとり。礼部のトップ、礼部向書である高(こう)宗平(そうへい)だ。
「大変ありがたいお話ではありますが、私は甘様を尊敬しておりまして是非その下で働きたいと思っております。人事を扱う吏部では人脈こそ最大の宝。どんなに忙しくとも、足を運ぶ手間を厭うべきではありません」
きつい皮肉にひるむことなく、玲燕はにっこりと微笑む。
高宗平はぴくりと眉を動かした。
「甘様、戻りましょう」
玲燕は天佑に声をかける。
「そうだな」
ふたりは一礼し、その場をあとにした。
自分の執務室に戻った天佑は、椅子にどさりと座った。
玲燕はその様子を、静かに見つめる。
「天佑様は高様とあまり仲がよろしくないのですか?」
「仲がよくないというか……、あの嫌みは疲れるだろう。立場的に聞かぬわけにもいかぬ」
「そういうことですか」
玲燕は相づちを打つ。
礼部のトップである高宗平の品位は天佑より上だ。天佑の言うとおり、彼を無碍にするわけにはいかないだろう。
ねちねちとした嫌みは聞いているだけで精神的な体力をそぎ取るものだ。