「先日天佑様にいただいた資料を見返していて気付いたのですが、過去に一度だけ宮城の内部で鬼火騒ぎが起きていますね」
「ああ、その通りだ」
天佑は頷く。
目撃されたのは鬼火騒ぎが起きたまだ初期の頃のたった一度だけだ。そして場所はここ菊花殿。天佑はそういうことも含めて、玲燕の滞在先にこの菊花殿を選んだのだろう。
この事実は、ひとつの重要な意味を持つ。
犯人は後宮に入れる立場にあるということだ。だからそこ天祐は、玲燕を後宮に潜入させた。
「妃の関係者でないとなると、宦官かしら?」
玲燕は顎に手を当て、独り言つ。
「その可能性も考えて、調べている」
「お願いします。あとひとつ、お願いがあります」
「お願い? なんだ?」
「鬼火は皇城内でも目撃情報があります。その現場が見てみたいです」
「後宮から出たいということか?」
天佑は片眉を上げる。
(やっぱり無理かしら?)
妃が後宮から出るのは、宴席への参加を特別に許された場合や保養地に向かう場合など、ごく限られている。
だめ元で言ってみたもののやはり無理だったかと思ったそのとき、「わかった。なんとかしよう」と声がした。
「できるのですか!?」
できないと思っていただけに、玲燕は驚いて聞き返す。
「そういうことをなんとかするのが、俺の役目なのだろう?」
涼やかな眼差しをまっすぐに返されて、玲燕はきょとんと天佑を見返す。
(もしかして天佑様って……、すごい負けず嫌いっ!)
鬼火騒ぎの犯人捜しに協力してほしいと要請されたときに玲燕が放った『そこをなんとかするのが天佑様の役目でしょう?』という言葉を根に持っているのは明らかだ。
「手はずが整ったら、連絡する」
そう言って立ち上がった天佑は、ふと何かを思い出したように動きを止める。
「ああ、あとこれを。忘れるところだった」
天佑が懐から何かを取り出す。差し出されたのは紺色の布袋だった。受け取ってみると、ずしりと重い。
「なんですか、これ?」
「俸禄(ぼうろく)だ」
「俸禄?」
玲燕は布袋を見た。
(偽の妃なのに、そんなものを受け取ってしまっていいのかな?)
俸禄とは、妃を含め官職に就く者達に支給される給与のことだ。
玲燕は恐る恐るその袋を開ける。中には銀貨が何枚か入っているのが見えた。
「こ、こんなに!?」
(もしかして、一年間くらい解決できないと思われて先払い!?)
玲燕はびっくりして布袋を閉じる。
「それでひと月分だ」
「ひと月!」
驚いて、思わず大きな声を上げる。これだけあれば、玲燕なら一年間は暮らせる。
「こんなに貰えません」
「俸禄は決められたものだ。それに、金はなくて困ることはあれど持っていて困ることはない。受け取っておけ」
天佑はふっと笑うと、その場をあとにした。
◆ 第三章 皇城
後宮に入りこんで早二週間。
今まで楽な故服ばかり来ていたので襦裙はなかなか着慣れない。胡服を着ようとすると、鈴々に止められてしまうのだ。
「あら、玲燕! どこに行くの?」
後ろから声を掛けられ、玲燕は振り返る。
そこには、色鮮やかな桃色の襦裙に身を包んだ女官がいた。桃色の衣装の襟元には桃の花が刺繍されており、桃林宮(とうりんきゅう)に勤めていることを表していた。
この人は桃林宮に住む桃妃(とうひ)付きの女官、翠蘭(すいらん)だ。
「内侍省に用事があって、参るところです」
「そうなんだ。ねえ、ちょうど珍しいおやつがあるから、玲燕にもひとつあげるわ」
翠蘭は手に持っていたお盆の上に乗る小箱を開けると、ひとつ玲燕に差し出す。
「茘枝(ライチ)でございますか」
「あら。なんだ、知っていたのね」
少しがっかりしたように翠蘭が口を尖らせたので、玲燕は口元を綻ばせた。
「故郷に、茘枝の木があったのです」
「茘枝の木? まあ、桃妃様とご一緒ね」
「桃妃様のご生家には茘枝の木が?」
「そうよ。これは、桃妃様のご実家から一本持ってきて、桃林宮に植えた木に実ったものなの」
「どうりで。真っ赤で、採れたての色をしております。こんな季節に珍しいですね」
玲燕は翠蘭から手渡された茘枝を見つめる。
その丸々とした実は、真っ赤に色づいていた。
茘枝は痛みが早く、もぎ取ってから一日で色が茶色く変色してしまう。このように真っ赤な茘枝は、もぎたての証拠だ。
故郷の東明にある林にも茘枝の木があり、毎年実っているのを見かけるともぎ取って食べたものだ。
ただ、玲燕の記憶では茘枝の季節は夏だ。
既に秋も深まってきたこの季節には珍しい。
「これは実りの季節が少し遅い品種なの」
「そうなのですね。茘枝は貴重なのに、私などに渡してしまって翠蘭様が叱られませんか?」
玲燕が茘枝を食べていたのはたまたま近くの林に茘枝の木が生えていたためだ。
光華国では茘枝は一般的に高価な食材とされている。余ったものを勝手に渡してしまっては、翠蘭がお咎めを受けるのではないかと心配になった。
「あら、大丈夫よ。桃妃様はとてもお優しいのよ。こういうお菓子や果物が余ったときは、『あなたたちで食べなさい』って言って分けてくれるの。これも、沢山採れたから皆さんにお配りするよう言われて女官仲間に持って行くところ」
翠蘭は笑って片手を振ると、辺りを見回してから少しだけ玲燕に顔を寄せた。
「その点、梅園宮は大変よ」
「何かあったのですか?」
玲燕は興味を引かれて聞き返した。
「梅妃様は一番最初に後宮にいらしたでしょう? もう一年半も経つのに未だにご懐妊されないから、ご実家からせっつかれていて凄くイライラしているみたい」
「ああ、なるほど」
後宮は女の戦いの場だ。
誰が一番、皇帝の寵をを得るか、そして、誰が一番最初に皇子となる男児を産むのか。皆が常に競い合っている。
一番最初に後宮入りした分、梅妃が受けた実家の期待はさぞかし大きかったことだろう。子は授かり物としか言いようがないので、少し気の毒に思える。
「そういえば、菊妃様はどんなお方なの? 私、一度もお見かけしたことがないわ」
「え?」
翠蘭は興味津々の様子で、言葉に詰まる玲燕を見つめる。
目の前にいる玲燕その人こそ菊妃なのだが、玲燕がいつも女官にしか見えない格好で歩き回っているので完全にただの侍女だと思い込んでいるのだ。
「桃妃様も、すごく菊妃様に会いたがっているのよ。侍女達が噂話をするものだから、どんな人かと興味津々なの。錬金術がお好きなんでしょう?」
「さようですか」
玲燕は答えながら、苦笑する。
お茶をするのは構わないが、玲燕が菊妃だと知られたらさすがにびっくりされてしまうかもしれない。
暫く立ち話していると、廊下の奥から誰かが歩いてくる足音が聞こえた。翠蘭は慌てたように「あ、そろそろ行くね」と言い立ち去る。
その後ろ姿を見送っていると、背後から名を呼ばれた。
「玲燕」
振り返ると、そこには天佑が立っていた。
「あれ? 天……栄佑様、どうされたのですか?」
「どうしたもこうしたもあるか。中々戻ってこないから、どこに行ったのかと思ったぞ」
眉を寄せる天佑を見上げ、玲燕は目をぱちくりとさせる。さほど長く話し込んでいたつもりもなかったのだが、そんなに時間が経っていただろうか?
「申し訳ありません」
「もうよい。急いで準備するぞ。皇宮の現場を見たいのだろう?」
はあっと息をつくと、天佑は玲燕の隣をすり抜けて歩き出す。玲燕は慌ててその後ろを追った。
先日、玲燕は天佑に『皇宮内で鬼火が現れた現場を見たい』と願い出た。そのため、天佑がその算段を付けてくれたのだ。
菊花殿に戻ると、天佑に「これを」と手渡された。
広げてみると、それは袍服だった。
「なんですか、これは」
「見ての通り、袍服だ」
真顔で答える天佑の様子に、嫌な予感がする。
「まさか、私に男装せよと?」
「俺に丸一日以上少年だと勘違いさせたぐらいだ。官吏になりきるのもお手の物だろう」
天佑は腕を組み、玲燕を見る。
嫌な予感は的中だった。
「しかし、どこから後宮の外に出るつもりですか?」
「なんのためにお前を幽鬼が出ると噂の菊花殿に入れたと思っている」
「幽鬼が出ると噂があるから人が近づかないからでは?」
玲燕は首を傾げる。
「それもひとつの理由ではある」
天佑は部屋に面した中庭に出ると、井戸の横にある石灯籠の前に立った。両手で石灯籠を押すと、それはゆっくりとずれた。その下にはぽっかりと空洞が開いている。
「……これは、秘密通路でございますか?」
玲燕は真っ暗な暗闇が広がる穴の入り口を見る。
万が一に備えて皇帝が住む場所にはいくつかの秘密通路があることは公然の事実だが、一体どこにあるのかは完全に伏せられている。これは、後宮の中にあるいくつかの秘密通路のひとつなのだろう。
「もしかして、菊花殿に幽鬼が出るという噂は意図的に?」
玲燕は自分の近くに戻ってきた天佑に尋ねる。
「ここで人が死んだというのは事実だ」
「……聞かなければよかった」
「怖いのか?」
天佑はにやりと笑い、意味ありげに玲燕を見返す。
「残念ながら、全く怖くありません。」
「なんだ、つまらんな」
玲燕がしれっと答えると、天佑はすんと鼻を鳴らす。
「…………」