偽りの妃である玲燕が寝所に召し上げられることはない。しかし、今それを明かすことはできないので、玲燕は内心で苦笑しつつ無難にそう答えた。
(それにしても、一、二週間に一度か。つまり、ほぼ平等に妃を召しているということね)
鬼火騒ぎの犯人の目的は、恐らく潤王の失脚させて新たな皇帝を立てることだ。元々玲燕は後宮で寵を得ている四人の妃の関係者は犯人ではないと考えていたが、今の話を聞いてやはり違う可能性が高いと感じた。平等に寵を得ているなら、懐妊する可能性も同じ。まだ誰も懐妊していない以上、次の皇帝の母になれる可能性を秘めているのに、潤王を失脚させる理由がない。
「私はまだここに来て日が浅く蓮妃様以外のお妃様と交流がないのですが、皆様どのようなお方ですか?」
「うーん、わたくしもあまり交流はないの。以前、陛下が妃全員を招いて宴会を開いてくださったことがあったのだけど、そのときに、どちらが先に会場に入るかで梅妃様と蘭妃様が喧嘩になって大変だったの。あんな風に言い合いをする方達を見たのは初めてだったから、近づくのが怖くって」
それとなく探りを入れると、蓮妃は肩を竦める。
「梅妃様と蘭妃様が?」
「ええ。ちょうど会場に入ろうとしていた梅妃様と、あとから来た蘭妃様と鉢合わせしてしまって。梅妃様は一番最初に後宮に入宮されているから後宮での発言力は強いけれど、ご実家の身分で言うと一番上は蘭妃様だから──」
蓮妃はそこまで言うと、当時を思い出すように眉を寄せる。
「多分だけど、蘭妃様は梅妃様を怒らせて面白がっていたわ」
「面白がっていた?」
「うん。あのふたり、仲悪いもの」
蓮妃はきっぱりと断言する。
「そうなのですか?」
「ええ。険悪な雰囲気に気付いた桃妃様が仲裁しようとしたけれどお二人から逆に睨まれて、困り果てていたわ。菊妃様も、梅妃様と蘭妃様にはあまり近づかないほうがいいわよ」
「肝に銘じておきます」
玲燕は相づちを打ちながら頷く。きっと、先ほど蓮妃が言っていた『すれ違っても挨拶も口もきいてくれない人』とは梅妃か蘭妃のどちらかなのだろう。
鬼火騒ぎの犯人捜しには関係なさそうだが、後宮内での身の振り方を知る上ではとても重要な情報だ。
その日の夕方、約一週間ぶりに菊花殿に天佑がやって来た。
「変わりなく過ごしているか?」
「お陰様で。天佑様は?」
「変わらないな」
その言葉尻に『鬼火事件の犯人捜しも進展がない』という意味を感じ取る。
「……今日、蓮妃様から色々と面白い話を聞きました」
「面白い話?」
「はい。凧揚げ大会の話や、陛下の夜伽(よとぎ)の話、それに陛下主催の宴席で梅妃様と蓮妃様が喧嘩されたという話です」
「あの事件か」
天佑はその宴席でのことを思い出したのか、苦虫を噛みつぶしたかのような顔をする。
「蘭妃は気が強いきらいがあって、同じく気が強い梅妃とはウマが合わない」
「まあ、ここは後宮ですからね。多少のいがみ合いは致し方ないのでは? ただ、蓮妃様のお話では、陛下は四人の妃を平等に寝所にお召しになっているとか。それは事実ですか?」
玲燕は天佑に確認を求める。
「ああ、その通りだ。全ての妃を順番に召している」
「それならば、やはり後宮に入宮している妃の方々の関係者は鬼火事件とは関係ないのではないかと思いました。誰もが皇子を生み皇后となる可能性も持っているのに、潤王を失脚させる理由がありません。ですので、現時点で一族の娘を入宮できていない一族を中心に洗うべきかと思います」
「それもそうだな。再度洗い出してみる」
天佑は頷く。
(敢えて言うなら、蓮妃様だけど……)
潤王は蓮妃を寝所に召しても夜伽は求めていない。今日の様子を見る限り、蓮妃は実家から後宮での暮らしを尋ねられたら素直にそれを話しているだろう。恐らく、父親も蓮妃が仮初めの妃にすぎないことに気付いているはずだ。
「天佑様。蓮妃様のご実家の明家はどんな家門ですか? もちろん、事前の資料で鴻臚寺(こうろじ)卿であることは知っておりますが、人となりを知りたいです」
鴻臚寺とは主に諸外国からの使節団の対応を行っている部署で、鴻臚寺卿はそのトップだ。
「明氏の?」
天佑はすぐに玲燕の懸念していることに気付いたようで、顎に手を当てる。
「私も直接一緒に仕事をしたことはないのだが、一緒に仕事した者からは真面目で実直なお方だと聞く」
「そうですか……」
となると、娘が皇后になれない可能性が高いことを察して鬼火騒ぎを起こすとは考えにくい。やはり、犯人は後宮にいる妃達とは関係のない家門の者だろう。
だが、玲燕にはひとつ気になることがあった。
「先日天佑様にいただいた資料を見返していて気付いたのですが、過去に一度だけ宮城の内部で鬼火騒ぎが起きていますね」
「ああ、その通りだ」
天佑は頷く。
目撃されたのは鬼火騒ぎが起きたまだ初期の頃のたった一度だけだ。そして場所はここ菊花殿。天佑はそういうことも含めて、玲燕の滞在先にこの菊花殿を選んだのだろう。
この事実は、ひとつの重要な意味を持つ。
犯人は後宮に入れる立場にあるということだ。だからそこ天祐は、玲燕を後宮に潜入させた。
「妃の関係者でないとなると、宦官かしら?」
玲燕は顎に手を当て、独り言つ。
「その可能性も考えて、調べている」
「お願いします。あとひとつ、お願いがあります」
「お願い? なんだ?」
「鬼火は皇城内でも目撃情報があります。その現場が見てみたいです」
「後宮から出たいということか?」
天佑は片眉を上げる。
(やっぱり無理かしら?)
妃が後宮から出るのは、宴席への参加を特別に許された場合や保養地に向かう場合など、ごく限られている。
だめ元で言ってみたもののやはり無理だったかと思ったそのとき、「わかった。なんとかしよう」と声がした。
「できるのですか!?」
できないと思っていただけに、玲燕は驚いて聞き返す。
「そういうことをなんとかするのが、俺の役目なのだろう?」
涼やかな眼差しをまっすぐに返されて、玲燕はきょとんと天佑を見返す。
(もしかして天佑様って……、すごい負けず嫌いっ!)
鬼火騒ぎの犯人捜しに協力してほしいと要請されたときに玲燕が放った『そこをなんとかするのが天佑様の役目でしょう?』という言葉を根に持っているのは明らかだ。
「手はずが整ったら、連絡する」
そう言って立ち上がった天佑は、ふと何かを思い出したように動きを止める。
「ああ、あとこれを。忘れるところだった」
天佑が懐から何かを取り出す。差し出されたのは紺色の布袋だった。受け取ってみると、ずしりと重い。
「なんですか、これ?」
「俸禄(ぼうろく)だ」
「俸禄?」
玲燕は布袋を見た。
(偽の妃なのに、そんなものを受け取ってしまっていいのかな?)
俸禄とは、妃を含め官職に就く者達に支給される給与のことだ。
玲燕は恐る恐るその袋を開ける。中には銀貨が何枚か入っているのが見えた。
「こ、こんなに!?」
(もしかして、一年間くらい解決できないと思われて先払い!?)
玲燕はびっくりして布袋を閉じる。
「それでひと月分だ」
「ひと月!」
驚いて、思わず大きな声を上げる。これだけあれば、玲燕なら一年間は暮らせる。
「こんなに貰えません」
「俸禄は決められたものだ。それに、金はなくて困ることはあれど持っていて困ることはない。受け取っておけ」
天佑はふっと笑うと、その場をあとにした。
◆ 第三章 皇城
後宮に入りこんで早二週間。
今まで楽な故服ばかり来ていたので襦裙はなかなか着慣れない。胡服を着ようとすると、鈴々に止められてしまうのだ。
「あら、玲燕! どこに行くの?」
後ろから声を掛けられ、玲燕は振り返る。
そこには、色鮮やかな桃色の襦裙に身を包んだ女官がいた。桃色の衣装の襟元には桃の花が刺繍されており、桃林宮(とうりんきゅう)に勤めていることを表していた。
この人は桃林宮に住む桃妃(とうひ)付きの女官、翠蘭(すいらん)だ。
「内侍省に用事があって、参るところです」
「そうなんだ。ねえ、ちょうど珍しいおやつがあるから、玲燕にもひとつあげるわ」
翠蘭は手に持っていたお盆の上に乗る小箱を開けると、ひとつ玲燕に差し出す。
「茘枝(ライチ)でございますか」
「あら。なんだ、知っていたのね」
少しがっかりしたように翠蘭が口を尖らせたので、玲燕は口元を綻ばせた。
「故郷に、茘枝の木があったのです」
「茘枝の木? まあ、桃妃様とご一緒ね」
「桃妃様のご生家には茘枝の木が?」
「そうよ。これは、桃妃様のご実家から一本持ってきて、桃林宮に植えた木に実ったものなの」
「どうりで。真っ赤で、採れたての色をしております。こんな季節に珍しいですね」
玲燕は翠蘭から手渡された茘枝を見つめる。
その丸々とした実は、真っ赤に色づいていた。
茘枝は痛みが早く、もぎ取ってから一日で色が茶色く変色してしまう。このように真っ赤な茘枝は、もぎたての証拠だ。
故郷の東明にある林にも茘枝の木があり、毎年実っているのを見かけるともぎ取って食べたものだ。
ただ、玲燕の記憶では茘枝の季節は夏だ。
既に秋も深まってきたこの季節には珍しい。
「これは実りの季節が少し遅い品種なの」