足を引っかけた女官はくすくすと笑う。そして、床に落ちたものを拾い上げた。
「どれどれ……あら。何かしら、これ?」
てっきり宝石などの宝飾品か衣が入っていると思っていたのに、散らばったのはただの木片だった。四角柱の形状をしており、それぞれに異なる模様がいれられたものがいくつもある。
「ああっ。大切な算木が!」
少女は顔を上げ、周囲に散らばった木片を見て青ざめた。
「……算木?」
女官達は目を瞬かせる。
必死に木片を集めている少女の姿を見て少し気の毒になり、いくつかを拾って少女に手渡す。
「ありがとうございます。助かりました」
少女はぺこりと頭を下げた。
「いいわ。それより、これは何?」
「これは見ての通り算木でございます。とても大切な品物でございます」
少女は得意げな顔をしてそれを見せる。
「算木……」
女官達はぽかんとした顔でその木片を見つめる。もしかして、これは特別な算木なのだろうか。
「何に使うの?」
「何って、もちろん算術です」
「高いの?」
「いえいえ。銅貨二枚あれば買えます」
「あ、そう」
銅貨二枚。つまり、庶民でも買えるような品であり、至って普通の算木だ。
なんと返せばいいかわからず、女官は「大切な宝物なのだから、気をつけなさいよ」と無難な言葉をかける。
「はい、ありがとうございます。では、私は急いでおりますので。ごきげんよう」
少女は朗らかに笑い、片手を振る。
その後ろ姿をふたりは無言で見送り、顔を見合わせると頷き合った。
「間違いなく、変人だわ」
「ええ、そうね」
銅貨二枚で買える算木が宝物の妃など、聞いたことがない。
◇ ◇ ◇
玲燕は算木の入った木箱を大切に胸に抱え、自分の殿舎である菊花殿へと戻った。
「ただいま!」
「お帰りなさいませ、玲燕様」
慌てたように立ち上がり出迎えてくれたのは、天佑が手配した玲燕付きの女官──鈴々だ。くりっとした大きな瞳が可愛らしい美少女で、少し高めの鼻梁と切れ長の瞳は周囲に知的な印象を与えている。
「随分とお時間がかかりましたね。女官のふりをして出かけるなど、本当に心配しました」
「ごめん、ごめん」
玲燕は笑って誤魔化す。
玲燕は先ほどの女官を思い出す。
(新人に手荒い洗礼をしてやった、ってところかしら?)
十中八九、玲燕が新入りの妃付きの女官だと判断して、わざとやってきたのだろう。
(鈴々に行かせなくてよかった)
玲燕は、ふうっと息を吐く。
人の悪意には慣れている。父が斬首されたあとしばらくは、世間もその噂で持ちきりだった。天嶮学士は稀代の大嘘つきだと。
故郷に戻った玲燕は周囲に後ろ指を指され、とても辛くて悲しかったのを覚えている。
それに比べれば、先ほどの女官がした嫌がらせなど痛くも痒くもない。
(どうせすぐにここを去る身だし、放っておけばいいわ)
玲燕は大切に胸に抱えていた木箱を机に置くと、蓋を上けた。
先ほど急いでかき集めたせいで、中の木片は乱雑に散らばっていた。
鈴々はひょいと首を伸ばし、中を覗く。
「どうしても自分で運ぶと仰るから何かと思えば。これは、算木でございますか」
「ええ、そうなの」
玲燕は木箱から四角柱の木をひとつ手に取る。四角柱の側面には、数字の「一」を意味する横棒が一本書いてあった。
算木とは、複雑な計算を行う際に用いる計算道具の一種だ。四角柱の形をした木には一から九までを示す図形が描かれており、これを横一列に置くことで数字を表現する。
錬金術師には必携の道具で、これは玲燕が幼い頃から使っている品だった。
「鈴々はよくこれが算木だって知っていたわね? 一般の人はあまり使わないのに」
「天佑様が執務の際に時々使っていましたので」
「天佑様が? そうなの」
玲燕は聞き返す。
「はい。色々と計算することも多いのですよ」
「ふうん」
玲燕は相づちを打ちながら、算木を見つめる。
天佑が手配してくれて玲燕付きの女官となった鈴々は、元々天佑の元で働いていたそうだ。きっと今まで、天佑の仕事する姿を色々と見てきたのだろう。
玲燕は気を取り直し、ぐちゃくちゃになった算木を数字の順に綺麗に並べてゆく。
「あら? 『二』と『七』がないですね」
鈴々が声を上げる。鈴々が言うとおり、二と七の場所だけが、ぽっかりと空間になっていた。
鈴々は床に落ちていないかと、周囲を見回す。
「どこへ行ってしまったのでしょう」
「大丈夫。どこに落ちたかは予想が付くから、あとで探しに行くわ」
玲燕はおろおろする鈴々を安心させるようににこりと笑うと、算木の入れられた木箱に蓋をする。
算木は複雑な計算をするための道具であり、錬金術師の大事な商売道具。ただの木なので特段高価なものではないが、長年使ってきたものなので愛着はある。
「初っぱなから、やってくれるじゃない」
放っておけばいいなんて思ったことを、撤回する。
あの女官達、許すまじ。
「そうそう、玲燕様。早速、天佑様からの連絡です。のちほど会いに行くと」
「え? わかったわ」
玲燕は頷く。
玲燕がここに来たのは、皇帝の妃になるためではない。あやかし事件の真相を解明するためだ。
そのための算段を相談する必要があった。
(でも、会いに行くって、どうやって?)
後宮は皇帝の妻子が住む場所。
光麗国の後宮の出入りはそこまで厳格ではなく、女官であれば出入り可能だ。
しかし、男性となると話は別だ。
皇帝以外の男性は、皇帝の護衛をする武官、宦官や医官など、ごく限られた人間しか立ち入ることができない。いくら天佑が皇帝の側近であろうと、自由な出入りなどできないはずだ。
「どうやって来るつもりか知らないけど……何時頃かしら?」
「恐らく、夕刻ではないかと」
「じゃあ、まだ時間はあるわね」
玲燕は外を見る。太陽が沈むにはあと数時間ありそうに見えた。
「さっき落とした算木、探しに行くわ」
玲燕はすっくと立ち上がる。
「お供します」
鈴々も慌てて立ち上がる。
玲燕は鈴々を連れて、先ほど女官に絡まれた場所へと向かった。
「えーっと、この辺のはずだけど……」
玲燕は周囲を見回す。
先ほどまで立ち話をしていた女官達の姿は既になく、辺りには人気がなかった。
「落としたのはこの辺りで間違いありませんか?」
鈴々も周囲を見回し、玲燕に尋ねる。
「ええ。でも、ないわね」
廊下の床面を見る限り、算木の木片はなさそうに見えた。
「ここはあまり具合がよくありません。早く探して戻りましょう」
「具合がよくない?」
どういう意味だろうかと、玲燕は首を傾げる。鈴々は真剣な顔で床を眺めていた。
(廊下にはなさそうね。ということは……)
玲燕は渡り廊下の手摺りから、下の地面を見る。廊下にないなら、地面に落ちた可能性が高いと思ったのだ。
「よく見えないわね。よいしょっと」
玲燕はひょいっと手摺りを飛び越え、地面に降りる。
「玲燕様!?」
玲燕が地面に降り立ったことに気付いた鈴々がぎょっとして声を上げる。
「探したらすぐ上がるわ」
玲燕はなんでもないことのようにそう言うと、周囲を見回す。すぐに黄土色の木片が落ちているのを見つけた。
「あった」
玲燕はそちらに近づき、算木の積み木を拾い上げる。積み木の表には『七』を示す記号が書いてあった。
「もうひとつは……」
そのとき、遠くから衣擦れの音と足音が近づいてくるのが聞こえた。
「何をしているの?」
振り返ると、艶やかな長い髪を下ろし、繊細な織り込みが見事な襦裙を身に纏った少女がいた。背後には、上品な薄黄色の上品な色合いの襦裙を纏った女官を数人従えている。
「これは蓮妃様」
鈴々が慌てたように頭を下げる。
(この子が蓮妃様?)
玲燕は鈴々に倣い頭を下げつつも、目の前の少女を窺い見た。
事前に天佑から渡されていた資料によると、蓮妃は国内有力貴族である明家の姫君だ。まだ十二歳なので本来であれば後宮に入る年齢ではないが、一族に結婚適齢期の姫がいないので後宮入りしたと書かれていた。
(確かに、若いわ)
事前に得ていた情報通り、年齢はまだ十代前半にしか見えなかった。ちょうど視界に映る豪奢な襦裙の裾には、蓮の刺繍が入っていた。
蓮妃は不思議そうな顔をして玲燕達を見下ろす。
「そっちの人も見慣れない顔ね。新入りかしら?」
「こちらのお方は昨日、後宮に参られました菊妃様でございます」
鈴々がかしこまって、玲燕を紹介する。すると、蓮妃は少し驚いたように目を見開いた。
「菊妃様? あなたが?」
蓮妃は興味津々な様子でで玲燕を見つめる。
「はじめまして、蓮妃様。お見苦しいところをお目にかけました」
「別に見苦しくはないわ。渡り廊下から地面に降りるのが見えたから、何をしているのかと思っただけ。どうしてそんなところに?」
「探し物をしておりました」
「探し物? こんなところで?」
「はい。先ほど、こちらを落としたので」
玲燕は手に持っていた算木を見せる。地面に落ちたせいで、一部が土で汚れていた。
「これは何? 積み木?」
「こちらは算木です。計算をするときに使います」
「ふうん、はじめて見たわ」
蓮妃は不思議そうな顔で算木を見つめる。
そのとき、玲燕は蓮妃の後ろに控える女官が手に持っているものに気付いた。
「凧揚げをしたのですか?」
「ええ、そうなの。でも、うまく上がらなくて」
蓮妃は背後を振り返り、玲燕の視線の先にある凧を見る。
「上がらない? 少し見てみても?」
玲燕は手摺りに手をかけると、ひょいっと廊下に登る。そして、女官から凧を受け取った。
(飾りの付けすぎだわ。それに、結ぶ位置がよくないわね)
妃の凧だからと気合いを入れてしまったのだろうか。凧には様々な飾りがぶら下がっているせいで重くなっていた。これを揚げるのは一苦労だろう。
「きちんと揚がるように直して差し上げましょうか?」
「本当? あなたにできるの?」
「はい。よく作っていたので」
「作る? 自分で?」
蓮妃は目を丸くする。