偽りの錬金術妃は後宮の闇を解く


 天佑は頷く。

「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」

 天佑は玲燕の近くに置いてあった椅子に座ると、「お茶を用意してくれるか」と婆やに声をかける。婆や「ちょっと待ってね」と言うと、厨房のほうへと消えた。
 その後ろ姿を見届けてから、天佑は玲燕を見つめる。

「玲燕を皇城の内部に連れて行く手はずが整った」

 玲燕は凧を操っていた手を止める。制御を失った凧が地面に落ちてくるのを、天佑は空中で拾った。

(思ったよりも早いわね。さすがは若くして要職に就いているだけあるわ)

 鬼火事件の容疑者として疑わしき面々に実際に会ってみたいと申し出たが、こんなに早く実現できるとは。人事を取り仕切る部署の要職にいるので、融通もしやすいのだろう。

「訪問は一週間後の予定だ。それまでに、これを暗記しておいてほしい」

 天佑は腕に抱えていた包みを開くと、玲燕に分厚い書物を差し出した。一般庶民はほとんど目にすることがない貴重な上質紙に書かれたもので、端を麻紐で結んである。ざっと目寸で見た限りでも数センチの分厚さがあった。

「これはなに?」
「後宮の勢力図だ。現在、皇上であられる潤王には四人の妃がおられる。黄家の娘である梅妃、明家の娘である蓮妃、連家の娘である蘭妃、最後に宗家の娘である桃妃だ」
「妃の方々の関係者がやった可能性は低いのでは?」

 玲燕は天佑を見返す。
 鬼火の目的は、恐らく潤王の失脚だ。既に妃として後宮で寵を得ている娘のいる貴族がやる理由はない気がしたのだ。

「先入観を持って物事を見ると、真理を見誤る」

 玲燕は天佑の言葉に、眉根を寄せる。
 これと同じ言葉を、よく父の秀燕も言っていた。先入観があると見えるべきものが見えなくなり、物事の真理を見誤ると。

「……それもそうね。わかった。見ておくわ」
「ああ。それに、妃のところには何かと情報が集まる。接触する機会があるならば、よき関係を築いたほうがよいだろう」

 玲燕は手渡された書物に視線を落とす。
 真っ黒の表紙を一枚捲ると、天佑の言うとおり後宮について書かれているようだった。。
 女性が男性に比べて噂好きだという意見には、玲燕も同意する。東明でも、井戸の前にはいつ行っても人の噂をネタに世間話に盛り上がる女性がいた。

(きっと、今頃は私のことを話のネタに盛り上がっているわね)

 玲燕は息を吐く。
 突然皇都から役人がやって来て、一年分の家賃の倍以上の金額を払った上に玲燕を皇都に連れて行ってしまったのだから。あの片田舎では、十年に一度あるかないかの大ニュースだ。さぞや噂話も盛り上がるだろう。

「わかりました。読んでおきます」
「ああ、頼んだ」

 天佑はにこりと微笑む。

「それと、玲燕の殿舎が決まった。偽りの妃故、なるべく目立たないほうがいいと思い外れの殿舎にした。菊花殿だ」
「菊花殿? 偽りの妃?」

 玲燕は眉間に深い皺を寄せる。
 何を言っているのかと訝しげに天佑を見返すと、天佑は笑みを深める。

「潤王の五人目の妃だ。妃であれば宮城に常にいても違和感ないからな」
「なるほど。妃ですか」

 そこまで相づちを打ち、玲燕ははたと動きを止める。
 今、とんでもないことが聞こえた気が。

「今、なんと?」
「玲燕には後宮に入ってもらう」

 呆然とする玲燕に追い打ちをかけるように、天佑が言う。

「なんで! 謎を解くのに妃になる必要はないはずです」
「必要はないが、なったほうが勝手がいい。既に、手配済みだ。安心しろ、全てが解決したら出してやる」

 玲燕は唖然として天佑を見返す。
 皇帝の妃を迎え入れるなど、すぐにできるわけがない。一体どんな裏技を使ったのか。

「あり得ないんだけどっ!」

 玲燕の叫び声が屋敷に響き渡った。




◆ 第二章 偽りの錬金術妃


 光麗国の王都、大明にある巨大な城郭──麗安城。
 皇帝の住む宮城、政が行われる皇城、そして人々が暮らす外郭城からなるここは、一辺の長さが数十キロにも及ぶ巨大な城だ。
 そして宮城の一角にある後宮で、女官達が世間話に花を咲かせていた。

「今度のお妃様はどんなお方なの? 随分と急に話が降って湧いたわよね」
「それが、ほとんど情報がないのよ。なんでも、甘天佑様ゆかりの姫君だとか?」
「甘天佑様の?」

 女官は驚いて声を上げる。

 ここに勤めている女官で、甘天佑の名を知らぬ者はいない。
 光麗国史上最も若くして官僚になるための試験を突破した秀才で、現皇帝である潤王の覚えもめでたい。さらにその見目は非常に整っており、少し切れ長の瞳にすっきりとした高い鼻梁、薄い唇、キリッとした眉が黄金比に並んでいる。
 時折妃達を楽しませるために催される宴席に呼ばれる演劇の芸人ですら、彼の前では霞むほどだ。

「親戚ってこと? じゃあ、すごい美人なのかしら。だって、弟の栄佑(えいゆう)様もすごく素敵じゃない?」
「さあ? でも、きっと変わり者だわ。殿舎が幽客殿らしいもの」
「幽客殿!?」

 それを聞いた女官は驚きの声を上げる。

「ええ。それも、自分で希望したらしいわよ」

 説明する女官は、声を潜める。

 幽客殿とは、この後宮でも最も外れに位置する殿舎──菊花殿の別名だ。

 後宮は今も昔も、どろどろとした愛憎劇に事欠かない。
 今から十五年ほど前、ときの皇帝の寵を失ったと知ったひとりの妃が自害した。それだけであればよくある話なのだが、そのあとからその妃が住んでいた殿舎──菊花殿からおかしな物音が聞こえるようになった。
 後宮の人々はこの世に未練が残って成仏できなかったその妃が幽鬼となって殿舎にとどまり皇帝の訪問を待っているに違いないと噂し、いつしか菊花殿は幽客殿と呼ばれるようになった。

 後宮の一番外れにある上に、何年も誰も住んでいなかったので手入れも行き届いていない。挙げ句の果てに、幽鬼がいる。
 嫌がることはあっても希望するものなどまずいないような殿舎だ。

「……それはたしかに、変わり者だわ」

 女官は眉を寄せて頷く。

「ただでさえ鬼火騒ぎが頻繁に発生しているのに、よりによって幽客殿なんて……。ねえ」

 自分の殿舎によそ者の女が入内し、更には皇帝陛下の寵があったら……。幽客殿の幽鬼が怒り、もっとひどい災いが起きるかもしれない

 そのとき、回廊の向こうに人影が現れる。

「あら、噂をすれば」

 女官のひとりが、もうひとりの女官へと耳うちする。

「見慣れない子がいるわ。きっと、新しいお妃様付きの子だわ」

 回廊の向こうから、髪の毛をひとつに纏めた可愛らしい少女が歩いてくるのが見えた。手には平べったい木箱を持っている。

「ちょっと。何を運んでいるの?」

 女官のひとりが、近づいてきた少女へと声をかける。少女は立ち止まり、こちらを見た。

「引っ越しの荷物を運んでいます」
「へえ」

 女官は相づちを打つ。引っ越しということは、予想通りこの少女は新しい妃付きの女官だ。
 女官は少女が大事そうに持つ木製の箱をちらりと見る。

「その中には何が?」
「宝物です」
「宝物? 菊妃様の?」
「……まあ、そうですね」

 少女は口ごもりながらも、頷く。

 女官達の目がキラリと光る。
 新しい妃付きの女官が大事そうに抱えて運ぶ、宝物。きっと中身は宝石か衣だろうが、一体いかほどのものなのか。

「それでは、ごきげんよう」

 少女が先に進もうと歩き始めたそのタイミングを狙い、女官のひとりがさっと足を差し出した。
 少女はそれに躓き、勢いよく前に倒れる。

 ガッシャーンと大きな音が廊下に響く。少女の持っていた小箱が落ち、箱の中身が周囲に散らばった。

「痛ったー」

 うつ伏せに転んだ少女は上半身を起こし、床に打ち付けた肘をさする。

「あらあ。大丈夫? 突然転んで、どうされたのかしら?」

 足を引っかけた女官はくすくすと笑う。そして、床に落ちたものを拾い上げた。

「どれどれ……あら。何かしら、これ?」

 てっきり宝石などの宝飾品か衣が入っていると思っていたのに、散らばったのはただの木片だった。四角柱の形状をしており、それぞれに異なる模様がいれられたものがいくつもある。

「ああっ。大切な算木が!」

 少女は顔を上げ、周囲に散らばった木片を見て青ざめた。

「……算木?」

 女官達は目を瞬かせる。
 必死に木片を集めている少女の姿を見て少し気の毒になり、いくつかを拾って少女に手渡す。

「ありがとうございます。助かりました」

 少女はぺこりと頭を下げた。

「いいわ。それより、これは何?」
「これは見ての通り算木でございます。とても大切な品物でございます」

 少女は得意げな顔をしてそれを見せる。

「算木……」

 女官達はぽかんとした顔でその木片を見つめる。もしかして、これは特別な算木なのだろうか。

「何に使うの?」
「何って、もちろん算術です」
「高いの?」
「いえいえ。銅貨二枚あれば買えます」
「あ、そう」

 銅貨二枚。つまり、庶民でも買えるような品であり、至って普通の算木だ。

 なんと返せばいいかわからず、女官は「大切な宝物なのだから、気をつけなさいよ」と無難な言葉をかける。

「はい、ありがとうございます。では、私は急いでおりますので。ごきげんよう」

 少女は朗らかに笑い、片手を振る。
 その後ろ姿をふたりは無言で見送り、顔を見合わせると頷き合った。

「間違いなく、変人だわ」
「ええ、そうね」

 銅貨二枚で買える算木が宝物の妃など、聞いたことがない。


   ◇ ◇ ◇


 玲燕は算木の入った木箱を大切に胸に抱え、自分の殿舎である菊花殿へと戻った。

「ただいま!」
「お帰りなさいませ、玲燕様」

 慌てたように立ち上がり出迎えてくれたのは、天佑が手配した玲燕付きの女官──鈴々だ。くりっとした大きな瞳が可愛らしい美少女で、少し高めの鼻梁と切れ長の瞳は周囲に知的な印象を与えている。

「随分とお時間がかかりましたね。女官のふりをして出かけるなど、本当に心配しました」
「ごめん、ごめん」

 玲燕は笑って誤魔化す。
 玲燕は先ほどの女官を思い出す。