座面がふかふかしていたからきっと高級車なのだろうと予想が付いたが、それでも整っていない道を走れば振動がひどい。お尻は痛いし、未だに地面が揺れているかのような錯覚に陥りそうになる。
玲燕は倒れ込むように寝台に横になった。何もしていないのに、ひどく疲れた。
(少しだけ……)
玲燕はそっと瞼を閉じる。
意識は急激に闇に呑まれていった。
◇ ◇ ◇
なんだかとても、寝心地がいい。まるで真綿で体を包み込まれたかのような心地よさに、玲燕はうとうととまどろむ。
そのとき、カタンと小さな音がして、はっと意識が浮上した。
「おや、起こしちゃったかね」
声がした方向──背後を向くと、見知らぬ老婆がいた。
半分近くが白くなった髪を後ろでひとつに纏め団子状にしている。よく見ると、老婆の前の箪笥が開かれており、中には沢山の衣類が収められていた。
「誰?」
「私はお坊ちゃんのお世話係りをしている者ですよ」
「お世話係……」
「お坊ちゃんは〝婆や〟と呼ぶので、お好きな呼び方でどうぞ。学士様」
その老婆は顔に深い皺を寄せて、笑う。
玲燕は、即座にこの老婆が天佑の言っていた〝婆や〟なのだろうな予想した。
穏やかな雰囲気と、少しだけ曲がり始めた腰、深い皺の刻まれたその顔つきが、どことなく育ての親である容を彷彿とさせる。
懐かしさを感じ、玲燕は自然と口元を綻ばせた。
すると、じーっとこちらを見つめていた明明は僅かに目を見開き、箪笥の中を見た。そして、今しまったばかりであろう衣類をおもむろに取り出し始めた。
「おやまあ。年頃のお嬢さんにこんな衣服を用意するなんて」
「え?」
「お坊ちゃんにはきつく言っておきます」
老婆はにこりと目を細め、立ち上がると全く歳を感じさせない足取りで部屋を出て行った。
◇ ◇ ◇
その二〇分後、玲燕は夕餉の場で困惑していた。
「本当に申し訳なかった。てっきり少年だとばかり」
床に頭がつきそうな勢いで謝ってくるのは天佑だ。
「いえ、私がわざと男性と取られるような態度を取ったのです。見知らぬ男が訪ねてきた際は必ずそうしているので」
玲燕はなんでもないように答えた。
顔を上げた天佑はその意図をすぐに理解したようで、何か言いたげな表情で口元を引き結んだ。玲燕はそれに気が付いたが、知らんふりをして話を変える。
「それよりも食事にいたしませんか?」
玲燕は先ほどから気になっていた目の前の食台を見る。
そこには見事な御馳走が用意されていた。白い米に、卵の入ったスープ、青菜の炒め物に搾菜、豚肉の煮物まである。その煮物からはまだ仄かに白い湯気が上っていた。
家賃を払うにも難渋していた玲燕は、毎日の食事も粗食で済ませていた。こんなごちそうを目にするのは、父が生きていた頃以来だ。
「せっかく用意してもらった温かい食事が冷めてしまいます」
「ああ、そうだね」
天佑は慌てた様子で箸を手に持つ。そして、手を合わせると食事を口に運び始めた。玲燕もそれに倣って食事を食べ始める。少し薄味のそれは、どこか懐かしい味がした。
「ところで、もう一度、例の鬼火騒ぎのことを教えてもらえますか?」
「ああ、もちろん。ここ数ヶ月のことなのだが──」
天佑は頭の中で起こった出来事を整理するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
始まりは、だんだんと春の心地よい風が吹き始めた頃だった。
日増しに長くなる昼間と過ごしやすい陽気に、外郭城──皇城の周囲に広がる町に住む人々も夜の行動時間が増す。
そんなある日の晩、ひとりの男がほろ酔い気分で機嫌よく川辺を歩いているとふと川の方向から物音がした。怪訝に思って近づこうとしたとき、突如川の向こうに火の玉が現れた。そしてその火の玉は川辺に沿うように空を浮き、横切ったのだという。
「春先に川辺で? それは蛍ではないでしょうか」
玲燕は真っ先に思いついた原因を告げる。
川辺で見られる光と言えば、蛍が定石だ。ほろ酔いということは、その光を見たのは酔っ払いということだ。つまり、蛍の光を火の玉だと勘違いしたのではなかろうか。
「当初は皆、酔っ払いの痴れ言(しれごと)だと笑い話で終わらせていたのだよ。玲燕の言うとおり、蛍ではないかと疑う者も多かった。しかし、その日以降も度々火の玉が目撃されるようになって、刑部にも情報が入ってきてね。ここまで目撃情報が多いと、単純に蛍を見間違えているとも思えない」
「場所は?」
「水辺が多いね。その火の玉を見た者の話では、この世の炎とは思えないような気味の悪い見た目をしていて、真っすぐに目の前を横切って行ったと」
「この世の炎とは思えないような気味の悪い見た目? どういうことですか?」
玲燕は箸を止めて聞き返した。
その話を聞いただけでは、一体どんな炎なのか見当もつかない。
「奇妙な色をしている」
「奇妙な色?」
「オレンジや緑、それに黄色だと」
「天佑様はそれをご覧になりましたか?」
「一度だけ。緑色の摩訶不思議な光がゆらゆらと宙に浮いていた」
「緑色……。ゆらゆらと……」
玲燕は箸を箸置きに置くと腕を組む。炎が緑色など、確かに摩訶不思議だ。
「最近になって、朝廷の陰陽師が騒ぎ出してね。これは天の怒りの表れだと。我々としては一刻も早く事件を解決してこの騒動を終わらせたい」
なるほどな、と玲燕は思った。
『一刻も早く事件を解決してこの騒動を終わらせたい』
つまり、天佑はその不思議な光を端(はな)から鬼火であるなどとは思っていないのだろう。彼が恐れているのは天の怒りではなく、反皇帝派が活発になることだ。
そう指摘すると、天佑は穏やかに口の端を上げた。
「わたしの見立て通り、玲燕はなかなか頭の回転が速い。ここまで連れて来た甲斐があったよ」
「それはどうも」
「玲燕の予想通り、端からあやかしの仕業などとは思っていない。私は主の勅命を受けてこの件の解決に当たっている」
「……勅命?」
ドクンと胸が跳ねた。
勅命ということは、皇帝自らの指示ということだ。つまり、天佑の主は皇帝だ。
かつて、父──秀燕はときの皇帝の命で事件解決に当たり、失敗して処刑された。幼い頃に見た恐ろしい記憶がよみがえる。
「悪いけどこの件、降りるわ」
「何?」
天佑の眉間に皺が寄る。
「気が変わった。前金は返す。立て替えてもらった費用も、少しずつ返す」
玲燕がそう言って立ち上がる。
皇帝の命で事件解決など、冗談じゃない。皇帝は玲燕が最も忌み嫌う人物だ。
「待て」
天佑が呼び止める声がした。
「途中で投げ出すとは何ごとだ。──それとも、天嶮学は所詮まやかしだから解決できないか」
嘲笑の色を乗せた言い方に、玲燕は怒りでカッとなる。
「まやかしではない! まやかしというならば、陰陽師のほうがよっぽどまやかしだ!」
「では、それをお前が証明して見せたらどうだ?」
天佑は表情を変えぬまま、玲燕を見返す。
「なんですって……?」
「会った当初から思っていたが、その怒り様から判断するに、玲燕は天嶮学士のなんらかの関係者だろう? 弟子ではないと言っていたが、本当は弟子なのではないか? まやかしでないなら、お前がそれを証明して見せろ。それができないなら、そう言われても仕方がないだろう」
玲燕は唇を噛む。
天佑の言うことは極めて的を射ている。
天嶮学がまやかしではない口で主張するだけでは、それを証明することはできない。
「最後の天嶮学士は皇帝の命で処刑された。私が天嶮学士ゆかりの者だったとして、その恨みで皇帝に害をなす可能性があるとは思わないの?」
「既に代替わりしている今の皇帝に害をなして、なんの役に立つ?」
天佑はふっと口元に笑みを浮かべる。その表情からは、玲燕がそんな愚かなことをするはずがないという確信が窺えた。
「どうだ? この機会を、利用してみては?」
「……利用?」
「果たしたい目的があるならば、使える手段は全て使え。それが賢い者のやり方だ」
天佑は玲燕を見つめる。
(お父様の無念を、晴らせる?)
先ほどまでは絶対にこの件からは手を引こうと決めていたのに、気持ちが揺らぐ。
「今お前が降りれば、天嶮学は永遠にまやかしのままだ」
玲燕はぎゅっと手を握る。
「……やる。やるわ! やればいいんでしょっ! 私が必ず、そのおかしな鬼火の謎を解いてやるわ!」
「そうこなくては。期待している」
天佑はにこりと笑う。
(この人、わざと煽ったわね……!)
その整った笑みを見て、玲燕はこの男が思った以上に頭の回転の速い策士であることを感じた。じとっと睨む玲燕に絶対に気付いているはずなのに、天佑は涼しい顔をしている。
(絶対にさっさと解決して東明に帰るわ!)
玲燕は決意を新たにする。
「私もその鬼火を見られますか?」
「日によって場所が違うからなんとも言えないが、日が暮れた後に水辺に現れることが多い」
「では、現れる可能性の高い水辺に連れて行ってください」
「わかった」
天佑は頷く。
話を終えると、玲燕は小鉢に盛られた豚肉を箸で切って口に含む。何時間も煮込んで作ったであろうそれは、口の中でとろりと溶けて消えた。少しだけ冷えてしまっているが、それでも十分に美味しい。
「美味しい!」
「それはよかった」
天佑はにこりと微笑む。
(この人、不思議な人ね)
玲燕を見つめて目を細める様子は、とても優しそうな好青年にしか見えない。けれど、先ほどまでのやりとりを見るに、かなりの策士であることは想像が付く。
「どうした?」
じっと顔を見つめてしまったので、不審に思われてしまったようだ。天佑は不思議そうに小首を傾げて玲燕を見返す。
「いえ、なんでもございません」
玲燕は目を伏せると、黙々と食事をとる。
小鉢に盛られた小魚を口にして、ふと手を止める。
(これ、懐かしい……)
遙か昔、これと同じものがよく食卓に並んだ記憶がよみがえる。大明に流れる川──巌路(がんじ)川で採れた小魚の煮付けだ。
(水辺で鬼火か……)
一般的に鬼火は墓地で見られることが多い。
色々とこれが原因ではないかという推測は立つが、やはり実際に見てみないことには断定が難しい。