「あなたは甘天佑ではなく、甘栄祐様ですね。本当の甘天佑様はもう亡くなっているのでしょう?」
玲燕は射貫くように、天佑を見つめる。
天佑の形のよい唇が、弧を描いた。
「なぜ、そう思った?」
「思い返せばこれまでに、たくさんの諷示がありました」
本当にたくさんの諷示があった。
兄が天嶮学を習っているいう天佑に対し、兄の存在が確認できないこと。
逆に幼少期から天佑を知る桃妃は、彼こそが天嶮学を習っていたということ。
甘栄祐が消えたのと同時に、甘天佑も全く別の部所に異動していたこと。
その前後に体調を崩し、以前の記憶が曖昧だということ……。
「三年前のある日、光琳学士院にいた甘天佑様は過去の資料を眺めていてとある事件に疑問を覚えました。菊妃が自害した事件です。彼は光琳学士院が導き出した公式の見解に強い違和感を覚え、独自に調査しようとした。そして、そのことを李空様達に気付かれた」
天佑は何も言わなかった。玲燕はそれをいいことに、話を続ける。
「菊妃様は自害ではありません。殺されたのです。──それも、とても親しい相手に」
「それは誰だ?」
天佑が問う。
「私の予想では、李空様です。当時、菊妃様はなんらかのきっかけで菊花殿と後宮の外をつなぐ秘密の経路があることを偶然知った。そして実際に後宮の外に出てしまい、光琳学士院に勤めていた李空様と知り合い男女の仲になった」
玲燕は話しながら、手をぎゅっと握り目を伏せる。
「ただの女官だと思っていた恋人が菊妃だったと知ったとき、李空様はたいそう驚かれたはずです。そして、すぐにその関係を清算しようとした。だが、菊妃は納得しなかった。だから、殺すことにしたのです。妃との姦通は重罪です。もしこのことが誰かに知られれば、処刑となることは免れませんから」
菊妃は死に際に、『愛していると言ったのに、どうして──』と呟いたという。
最初にそれを聞いたとき、玲燕は彼女が『愛していると言ったのに、どうしてわたくしを夜伽に呼んでくださらないのか』と言おうとしていたのだと思っていた。
けれど菊妃は、『愛していると言ったのに、どうしてわたくしを殺すの?』と言いたかったのだ。
そして、菊妃の事件が墨で塗りつぶされていたのは李空の仕業だろう。余計な証拠が記載されていると、自身の破滅が近づくから。
もちろん今の話は玲燕の想像の部分もあるが、これまで集めた情報から判断するに、かなり確度は高いと考えている。
「一方、甘栄祐様は兄である天佑様の死を知ったとき、大きな衝撃を受けた。そして、親しかった潤王に相談し、その死を隠してひとり二役をこなして犯人の暴き出して敵を討とうと決意した。そんな栄祐様が、兄の死についてなんらかの鍵を握っていると睨んでいたのが光琳学士院だったのです」
玲燕は伏せていた目線を上げ、天佑を見つめる。
「あなたは兄である甘天佑の無念を打とうと決意していた。だから、鬼火事件に際して潤王から錬金術師を捜してくるように依頼されて私と会ったとき、私を利用できると判断した」
玲燕は天佑に出会った日のことを思い返す。
『果たしたい目的があるならば、使える手段は全て使え。それが賢い者のやり方だ』
これは天佑が玲燕に言った言葉だ。だが同時に、彼は自分自身にそう言っていたのだ。
李空は既に先日の鬼火の事件に絡み、解決できる事件を解決できないと虚偽の証言をした罪に問われている。この事件まで明るみに出れば、処刑は免れないだろう。
「さすがは天嶮学士の娘だ。見事だな」
天佑は観念したように、笑う。
「俺を軽蔑したか?」
「いいえ」
玲燕は首を横に振る。
「結局、私達は似たもの同士なのでしょう」
玲燕が孤独の中で父の無念を晴らそうと誓ったのと同様に、天佑も孤独の中で兄の復讐を誓ったのだ。
「あなたに出会えたことを、心から感謝しておりますよ」
この言葉に、偽りはない。天佑に会わなければ、今頃玲燕は家賃が払えぬまま家を追い出され、とうに死んでいたかもしれない。
玲燕の言葉に、天佑の目元がふっと和らいだような気がした。
「甘様。そろそろ、陛下のところに行かなければならない時間では?」
部屋の外にいた鈴々が、トントンと扉をノックして時間を知らせる。
「ああ、ありがとう。下がっていていいよ」
天佑は扉の向こうに向かって礼を言う。扉の向こうで、人が遠ざかる気配がした。
「鈴々は天佑様が栄祐様だと知っていたのですね」
「鈴々は元々、特別な防護術の訓練を積んだ潤王付きの女官だ。……兄の婚約者だった」
「ああ、それで……」
鈴々はいつも、天佑のことを〝天佑〟とは呼ばず〝甘様〟と呼んでいた。きっと、弟とはいえ彼女の中で他の男を愛した男の名で呼ぶことは憚られたのだろう。
「さあ、行こうか」
すっくと立ち上がった、天佑改め栄祐がこちらに手を差し出す。
玲燕が手を重ねると、力強く引かれた。
◇ ◇ ◇
栄祐に連れられて潤王のところに行くと、彼はちょうど執務の最中だった。玲燕に気付き筆を止めると、柔らかな笑みを浮かべる。
「菊妃よ、今回も見事であった」
「ありがたきお言葉にございます」
玲燕は深々と、頭を下げる。
「褒美に、何がほしい?」
「褒美?」
「ああ。望むものを言ってみろ」
潤王が玲燕を見つめる。
(望むもの……)
褒美をもらえるとは思っていなかったので、何も考えていなかった。
けれど、玲燕の頭に浮かんだことはたったひとつだけだった。
(何を望んでもいいのかしら?)
答えに迷って視線をさまよわせると、同席にいる栄祐と目が合った。天佑は、何も言わずに少し頷いて見せた。きっと、望むものを言っていいのだと後押ししてくれているのだろう。
「本当に、なんでもよろしいでしょうか?」
「まずは言ってみろ。それから考える」
「そうですか。それでは──」
玲燕は潤王を見上げると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
◆ エピローグ
久しぶりに戻った甘家の屋敷は、以前と変わらず人気がなかった。
大きな屋敷には、大抵の場合先祖を祭った祖堂がある。
玲燕は梅の枝を一本そこに供えると、手を合わせた。
「ここに天佑様が?」
「ああ、そうだな。両親とともに眠っている」
じっと祭壇を見つめていた栄祐は、「茶でも飲もう」と玲燕を誘う。
中庭に面した縁側に、玲燕は栄祐と並んで腰掛けた。
「それにしても、まさか褒美に女官になることを望むとはな。これでは、英明様にとっての褒美だ。錬金術師として勤務する女官は、光麗国で初だ」
「名前を偽り宦官と官吏を兼務する人間も、世界広しといえど天佑様おひとりでは?」
玲燕はいたずらっ子のような目で、栄祐を見上げる。
「そうかもしれないな」
栄祐は参ったと言いたげに、楽しげに肩を揺らした。
玲燕は潤王から尋ねられた褒美に、光琳学士院に錬金術師として勤めることを望んだ。今はまだ手続き中だけが、近い将来に朝廷に仕える錬金術師となる予定だ。
そして、天佑は今も〝甘天佑〟と〝甘栄祐〟の一人二役をこなしている。今更本来の栄祐には戻れないし、潤王からも一人二役しているほうが何かと勝手がいいと言われたようだ。
「いつか、天嶮学士になりとうございます。なれるかどうかはわかりませんが、目指してみようかと」
玲燕は、幼い日に見た父を思い出す。父の開く私塾に紛れ込んでは門下生と肩を並べ、父のような錬金術師になりたいと夢見た。
それを聞いた栄祐は、口元を優しく綻ばせた。
「それもいいかもしれないな。──今はまだ」
「え?」
ざっと強い風が吹き、玲燕は髪の毛を抑える。風のせいで栄祐が最後になんと言ったのか、よく聞き取れなかった。
「今、なんと?」
「頑張れよ、と言った」
「はい。ありがとうございます」
玲燕は微笑む。このようなチャンスをくれた栄祐には、心から感謝している。
「その日が来るのを、いつかお見せします。……栄佑様」
栄祐は驚いたように目を見開く。
「……この姿のときに、その名を呼ばれるのは久しぶりだな。楽しみにしている」
「私でよろしければ、ふたりきりのときはそうお呼びしますよ。名は親からの最初の贈り物です」
栄祐はこれから先の人生、宦官姿以外では甘天佑として生きてゆく。誰かひとりくらい、彼の本当の姿のときにその名を呼ぶ者がいてもいい気がした。
栄祐は嬉しそうに破顔すると、玲燕のほうへと手を伸ばす。
「あとで渡そうと思っていたのだが」
何かが髪に付けられたような感覚がした。
玲燕は耳の上の辺りを触れる。
「これは、簪ですか?」
「俺からの祝いだ」
「ありがとうございます」
「……意味は知らないのだな」
「なんの意味ですか?」
玲燕はきょとんとして、聞き返す。
「なんでもない。似合っている」
こちらを見つめる栄祐が、優しく微笑む。
その瞬間、なぜか胸が大きく跳ねた気がした。
玲燕は咄嗟に栄祐から目を逸らす。妙にどぎまぎしてしまうのは、男性から簪など贈られたことが一度もないからだろうか。
(綺麗……)
代わりに視界に映った梅の花は、満開だった。