玲燕はまっすぐに桃林殿へ向かって歩き始める。目的の場所に近づくにつれて、何やら騒がしいことに気付いた。
「随分と騒がしいですね」
鈴々は喧噪の方向に目を凝らし、怪訝な顔をした。それは、ちょうど桃林殿の方角だった。
「本当ね。どうしたのかしら?」
玲燕も進行方向に目を凝らす。なぜか、胸騒ぎを感じた。
桃林殿の前には、たくさんの人々が集まっていた。女官に宦官、それに、厳つい姿の男達は武官だろうか。
「栄祐様!」
玲燕は見知った人の姿を見つけ、声をかける。
「玲燕か」
こちらを振り返った天佑の表情は、固く強ばっていた。
「何がありました?」
「桃妃付きの女官のひとりが、死んだ」
天佑は強ばった表情のまま、答える。
「桃妃様付きの女官が?」
玲燕は現場を見ようと、人混みをかき分けて前に出た。
目の前に、庭園が広がる。庭園にはたくさんの木が生えていた。桃の木のようで、ピンク色の蕾がたくさん付いている。
その木の下には、真っ青な顔をした女官達がいた。周りを取り囲む宦官や衛士達に状況を説明している。
「だから何度も言うとおり、水を飲んだら突然苦しみだしたのです。今朝のことです」
女官が涙ながらにそう言っているのが聞こえた。
(水を飲んだら苦しみだした? 毒ってこと?)
「その水は、どこの水です?」
玲燕は思わず、横から口を挟む。
「なんだ、お前は?」
衛士のひとりが怪訝な顔をして追い払おうとしてきたが、宦官姿の天佑が「このお方は菊妃様だ」と言うと黙る。
「井戸の水です。そこの」
女官が庭園の一角を指さす。そこには、彼女の言うとおり井戸があった。
「他にこの井戸の水を飲んだ方は?」
「今朝はいません」
「昨日はいた?」
「はい。昨晩は多くの者が飲んでおりました。昨日、輪軸が新しくなったので水を汲み上げるのが楽になったと皆で話しながら飲みました。私もその場にいました」
女官がこくこくと頷く。
「となると、昨晩、桃林殿の者達が寝静まったあとに何者かによって毒が混入されたということか?」
横で一緒に話を聞いていた天佑が唸る。
「昨晩、不審者は?」
天佑は衛士に問う。
「誰もおりませんでした」
桃林殿の警備を担当していた衛士は青い顔で首を左右に振る。
「闇夜に紛れたのかもしれないぞ」
「よそ見していたのではないか?」
周囲にいる人々が、好き勝手に自らの推理を言い始めた。
その横で、玲燕は腕を組む。
(深夜に紛れ、毒を井戸に混入した?)
衛士の『不審者はいなかった』という証言を信じるなら、桃林殿内部の人間が行った犯行ということになる。だが、そんなことをするだろうか。
「井戸に関して、何か気になったことはありませんか?」
「気になったこと?」
「なんでもいいのです。いつもと違うことがありませんでしたか?」
玲燕は真剣な面持ちで、女官に尋ねる。
「……輪軸が昨日交換されました」
「ええ、それはさっき聞いたわ。他には?」
玲燕は問い返す。
後宮内部の井戸の輪軸を順次交換していることは、以前より聞いている。なんら不審な点はない。
「えーっと……、昨晩は井戸に氷が浮いていて、珍しいこともあると皆で話していました」
「氷?」
玲燕はバッと体の向きを変えると井戸の中をのぞき込む。暗い井戸の奥に水面が見えるが、氷は浮いていない。
「浮いていませんが?」
「昨晩の話です。もう、溶けたのかと」
女官は困惑したように、言う。
(まだ巳一つ時なのに……。おかしいわね)
一日の気温は時間により変化する。一般的には日中の未の刻に一番気温が上がり、日が昇る直前の寅三つどきに一番下がる。夜寝る前に氷が張っていたのなら、朝は氷が広がっているはずなのだ。
今はまだ巳一つ時。氷が全て溶けるには早すぎる。
(前日の夜間の氷が、昨晩まで残っていたってこと?)
けれど、昨日の明け方はそんなに冷えていなかった。むしろ、昨晩急に冷えた印象だ。
(なら、どうして?)
そして、ハッとする。
(誰かが氷を井戸に入れた?)
その瞬間、玲燕の中でこれまでの全ての謎がひとつの筋となって繋がってゆく。
「この謎、解けたかもしれません」
「解けた?」
「はい。天佑様、至急で調べていただきたいことがあります。もし予想が当たっていたならば……潤王陛下の御前で、ご説明して差し上げましょう」
玲燕は口の端を上げ、天佑にそう言い切った。
◇ ◇ ◇
翌日、玲燕は朝議の場へと呼び出された。
朝議とは皇帝の御前で各省部の者達が報告を行う定例会議で、朝廷の有力者が一堂に会する場でもある。
玲燕は物陰からそっと朝議の様子を窺う。
一段高い位置に座る潤王の前に、ずらりと官吏や宦官達が並んでいるのが見えた。後宮内部の井戸の輪軸交換作業が全て完了したという報告もされているのが聞こえた。
定例の報告が終わる。
「昨晩、後宮で恐ろしい事件が発生した。この件で、菊妃が犯人を突き止めたので、ここで説明してもらおうと思う」
いつもなら閉会の言葉を言うはずの潤王が発した言葉に、一堂は困惑したようにどよめいた。
「菊妃、ここへ」
「はい」
潤王に呼ばれ、玲燕はすっと息を吸って深呼吸してから、前へと出る。突然の菊妃の登場に、朝議の場はざわざわと騒めく。
「静粛に」
潤王の言葉に、辺りが一瞬で水を打ったように静まりかえる。
「菊妃。事件について、真相を話してくれるか?」
「はい、もちろんです」
玲燕は緊張の面持ちで、頷いた。
「昨日の朝、後宮の内部にある桃林殿でひとつの事件が起きました。井戸に毒が混入され、それを飲んだ女官がひとり亡くなったのです」
玲燕の話を聞き、朝議の会場は再び騒めく。この事件については、知っている者もいたが、知らない者もまだ多かったからだ。
「この事件の犯人ですが、様々な状況証拠から、私は昨日桃林殿で井戸の輪軸の交換工事をした男だと判断しました。彼は工事のどさくさに紛れて、井戸の中に毒入りの氷を落としましたのです。氷にしたのは、工事した時間と第一の被害者が出る時間に差を付けるためです。毒を直接入れればすぐに効果が現れてしまい、犯人妥当違われてしまいます。しかし、氷にしておけば溶け出すまでに時間がかかりますから、数時間の時間差を生むことができます」
周囲から、「なるほど」という声とともに、「なぜ工事の男がそんなことを?」という至極真っ当な疑問の声が聞こえてきた。
「なぜこの男がこんなことをしたのか、とても不思議ですね。それについて、これからお話ししましょう」
玲燕は周囲を見回す。誰もが固唾を呑んで、玲燕の次の言葉を待っていた。
「話は少し前に戻ります。ここ最近、陛下の周りでは色々な事件が発生しましたね。第一に鬼火事件、第二に暗殺未遂事件、第三に桃林殿の女官殺害事件です。これらの事件はそれぞれ別々に見えますが、実は全てが先の鬼火事件から繋がっていたのです」
そこまで言ったとき、「待て」と声が上がった。
「何を言っている! 鬼火の犯人は劉家と高家だと、お前が言ったのではないか」
聞いていた官吏の一人が、立ち上がってそう指摘する。
「今は菊妃が話している」
潤王の牽制で、官吏はしぶしぶと顔をしかめて再び腰を下ろした。
「私は前回の鬼火の事件の際、ひとつ大きな見逃しをしました」
「犯人が間違っていたということか?」
潤王が問い返す。
「いいえ。犯人は劉様と高様で間違いありません。ただ、その二つの家門があの事件を行うことを陰で後押しした、黒幕がいたことを見逃していたのです。そしてその黒幕こそ、これらの三つの事件全てに関わった犯人になります」
「ほう。それで、その黒幕とは?」
潤王は玉座に座ったまま、少し身を乗り出して興味深げに玲燕を見つめる。
「そちらにいらっしゃる、黄連泊様です」
その瞬間、周囲に今までで一番大きなざわめきが起きた。「黄殿が?」「信じられん」という声が方々から聞こえてくる。
一方の、名指しされた黄連泊は大きく目を見開き、次いで怒りに顔を真っ赤にした。
「貴様!」
黄連泊が憤慨して声を上げる。
「信じられぬ、許しがたい侮辱だ! 私ほど忠義に固い男はこの光麗国中を探しても──」
怒りにまかせて、黄連泊が玲燕に掴みかかろうとする。
しかしその手が玲燕に届く前に、さっと目の前に陰が現れた。
「潤王陛下の妃であられる菊妃様に手を出すとは、不敬ですよ」
颯爽と現れてそう言ったのは、玲燕の近くに控えていた女官の鈴々だった。か弱い女性とは思えぬ荒技で、黄連泊の腕を捻じ上げている。
「ぐっ!」
黄連泊の口から苦しげな声が漏れた。腕を掴む鈴々の手が外れないのか、額に血管が浮かび上がり、顔は先ほどより更に赤くなっている。
「鈴々、手加減してやれ。腕が折れてしまう」
潤王の制止で鈴々の手が緩む。黄連泊は慌てたように後ろに飛び退いた。
「誰ぞか、この女官を捕らえよ! 私にこのようなことをしてただで済むと思っているのか!」
「あら、むしろ感謝していただきたいです。私が制止しなければ黄様は菊妃様を傷つけた罪でこの場で処刑になっていましたよ?」
鈴々は涼しげな表情を崩さず、黄連泊に言い返した。
(鈴々って、ただの女官じゃない……?)
玲燕は驚いた。
今の身のこなしは、ただ者ではなかった。ふと、後宮に初めて来た日に天佑が『鈴々がいるから大丈夫だと思うが』と零していたことを思い出す。
(もしかして、私の護衛も兼ねていたの?)
今更ながらに知った事実に衝撃を受ける。
一方の黄連泊は、今にも射殺しそうな目で玲燕を睨み付けていた。
「菊妃よ。続きを」
潤王に促され、玲燕はハッとする。
「はい。あの事件を解決したとき、私は光琳学士院が事件を解決できないと言っていたことに強い違和感を覚えました。知識の腑である光琳学士院の面々に、あの手法が思いつかないなどあり得るのだろうかと。けれど、『解決するつもりがなかった』と考えれば納得がいきます」
「解決するつもりがなかった?」
潤王が問い返す。
「はい。あの事件は陛下の失脚を狙ってのもの。黄家にとっては都合がよかったのです」