偽りの錬金術妃は後宮の闇を解く

 事件解決のために天佑に請われてここに来た。それなのに、解決の糸口するつかめない。
 今、この場で最も疑わしき人間を述べよと言われたら、玲燕は『翠蘭』と答える。だが、彼女の人となりを知っているだけに『それは間違っている』と自分の中で葛藤があった。

(きっと何かを見逃している。何を──)

 目をしっかり開けて、それを見つけ出さなければ。
 そうしなければ、自分がここにいる意味がない。


   ◇ ◇ ◇


 玲燕は正面に座る男をそっと窺い見る。
 碁盤を見つめる伏せた目は相変わらず鋭さがあり、数カ月前となんら変わらないように見えた。少なくとも、つい最近殺されそうになったことに対して怯えている様子はない。

 パチッと碁を置く音がする。潤王が顔を上げた。

「何か、俺に聞きたげだな?」

 玲燕はこちらを見つめる潤王を見返した。

「ばれましたか?」
「当たり前だ。熱い視線を送ってくる割に、恋情の気配が全くない」
「陛下に恋情はありませんので」
「ひどいな。仮初めでも、夫だというのに」

 潤王が玲燕の腕をぐいっと引く。その弾みに袖が碁盤に振れ、碁石が木製の床に落ちる音が部屋に響いた。

 鼻先が付きそうな距離から、口元に笑みを浮かべた潤王が玲燕を見つめる。玲燕は目をしっかりと開けたまま、彼を見返した。

「この距離になったら目を閉じろ」
「嫌です。何をされるかわかりませんので」

 きっぱりと言い切ると潤王は目を見開き、玲燕の腕を放してけらけらと笑いだす。

「多くの女が俺の寵を望んでいるというのに」
「私は望んでいません」
「まあ、そうだろうな」

 潤王はなおも笑い続ける。足元には落ちた碁石が散らばりっていた。

「それよりも陛下。今、負けそうになったから対局をなかったことにしましたね?」
「何のことだ?」

 器用に片眉を上げる潤王を見つめ、玲燕は肩を竦める。
 こんな負けず嫌い、最近どこかでも見たような。

「話を戻しますが、陛下の仰るとおり、聞きたいことがあります。お聞きしても?」
「質問によるな」

 潤王は尊大な態度で腕を組む。

「では、答えられない質問にはお答えしなくて結構です」

 玲燕は頷く。

「今回の毒物混入の事件に関してです。事件の際、陛下はお酒を飲もうとして何か変化を感じましたか?」
「いや、感じなかった。匂いも見た目も普通の酒だったな」
「口を付けようとしたところ、黄連泊様がそれを阻止された?」
「ああ、そうだ」
「酒を注いだのは、桃妃様付きの女官──翠蘭様で間違いありませんか?」
「名前までは知らぬ。ただ、女官が黄に突き飛ばされた際に桃妃が慌てた様子を見せて『翠蘭!』と叫ぶのを聞いた」
「なるほど。よくわかりました」

 玲燕は相づちを打つ。

 当時の状況はもう数え切れないほど聞いたが、目新しい情報はなさそうだ。

「では、次の質問をさせてください。桃妃様は最近どんなご様子ですか?」
「桃妃? 知らんな」

 潤王は興味なさげに首を振る。
 その態度に、玲燕はピンときた。

(嘘をついているわ)

 桃妃は潤王暗殺事件の重要な容疑者のひとりだ。何をしているか、逐一潤王のところに報告が入るはず。それなのに知らないなど、あり得ない。

「以前、宴会で体調を崩されたと聞きました。もう体調は大丈夫でしょうか」
「何も聞かないから、大丈夫なのだろう」

 潤王は素っ気なく答える。

(教えるつもりはないということね)

 これ以上、この話題について聞いても潤王は答えるつもりがなさそうに見える。
 けれど、その態度は返って玲燕の興味を引いた。

(……もしかして、ご懐妊?)

 色々と考えて、その可能性が一番高いように感じる。
 以前宴席で食事を運ばれて体調を崩したのは、食べ物の匂いによる悪阻なのではないだろうか。

 天佑が桃妃の様子を教えてくれないことも、桃妃は犯人ではないということも、彼女が妊娠しているとすれば説明が付く。

 未来の皇帝を身籠もっているかもしれないということは、ある程度の時期になるまで極秘事項だ。
 そして、子供を身籠もった桃妃が潤王を暗殺しようとするわけがないことも至極当然だった。ここで潤王が亡くなれば、子供が即位する前に別の皇族が即位することは火を見るよりも明らかだ。

(となると、犯人はやっぱり翠蘭ではない……)

 あの事件を改めて振り返ると奇妙な点ばかりが目に付く。

 どうして銀杯を使っているとわかっているのに毒に砒霜を使ったのか?
 どうやって犯人は翠蘭の持っていた酒器にだけ毒を混入したのか?
 そして、どうして潤王が使っていた酒杯を入れ替えたのか?

(……もしかして、最初から潤王を殺す気などなかったのでは?)

 ふと、そんなことを思った。
 そう考えると、見え方が一八〇度変わってくる。

 犯人は潤王を最初から殺す気などなく、混入がばれることを見越して毒を混ぜた。そして犯人として疑われたのは桃妃とその女官だ。

(逃妃に罪をかぶせて、妃の座から引きずり下ろしたかった?)

 だとすれば、怪しき人物が変わってくる。
 懐妊している可能性がある桃妃がいなくなって得する人間の筆頭は、梅妃、蘭妃、蓮妃の三人だ。そして、翠蘭の酒器にだけ毒を混入できたのはたった一人だけ……。

(もしかして、犯人は──)

 黙り込んでいると、「聞きたいことはそれだけか?」と潤王の声がして玲燕はハッとした。
 気付けば、潤王がこちらをじっと眺めている。

「いえ! では、あとふたつほど」
「ふたつ? 質問攻めだな」

 潤王はハッと笑う。
 迷ったももの、玲燕は今さっき思いついた推理を潤王に話すのはやめることにした。全てが想像なので、証拠固めが必要だ。

「昔の事件について、ご存じだったら教えてほしいのです」
「昔というと?」
「菊花殿で起きた菊妃の自害についてです」

 潤王の眉がぴくりと動く。

「なぜそれを聞く?」
「偶然、光琳学士院の書庫で資料を見つけて読んだのです」
「父親の名を見つけたというところか?」
「はい」

 玲燕は頷く。

「なら、書いてある通りだ。ある晩、後宮内の菊花殿で妃のひとりが胸をひと突きされて死んでいた。当初は他殺かと疑われて大騒ぎになったが、結論は自殺だった。当時の天嶮学士であった男は大きな過ちを犯したとして、ときの皇帝の逆鱗に触れた」
「……そうですか」

 玲燕はそれだけ言うと、黙り込む。
 もしかしたら潤王の口から何か新事実を聞けるかもしれないと期待していただけに、落胆が大きい。

「先ほど、光琳学士院の書物庫で偶然資料を見たと言ったか?」

 塞ぎ込む玲燕に、潤王が逆に尋ねてきた。

「はい、そうです」
「偶然、ね」

 潤王は意味ありげに笑いを漏らす。

「ひとつだけいいことを教えてやろう。天佑の死んだ兄弟はかつて、光琳学士院に依頼されたとある案件に疑問を覚えて、調べ直していた。その最中の、非業の死だ」
「とある事件?」
「菊妃の自害についてだ」

 玲燕は眉根を寄せる。天佑の死んだ兄弟とは、弟の甘栄祐のことだろう。彼がなぜ、光琳学士院に依頼されていた過去の案件を調べ直したりしたのだろうか。

「……甘栄祐様は、なぜお亡くなりになったのですか?」

 彼については、疑問だらけだ。元々中書尚にいたのに、ある日突然宦官になって内侍省にいくなど、通常では考えられない。

「事故ということになっているな」
「なっている?」

 玲燕は眉根を寄せる。今の言い方では、潤王はそうだとは思っていないと言っているように聞こえた。

「亡くなったのはいつですか?」
「俺が即位する直前だ」

(あれ?)

 聞いた瞬間、違和感を覚えた。

 潤王が即位する直前に、栄祐は亡くなった。しかし、先日見た記録では、栄祐が内侍省に入ったのは潤王の即位したあとだ。

(宦官の栄祐様は、最初から天佑様だった?)

 つまり、三年前のある日、甘栄祐は止むにやまれぬ事情で宦官になった。しかし、内侍省に入省する前に息絶え、代わりに天佑が一人二役をすることになった。

(意味がわからないわ)

 時期的に考えて、死因は宦官になるために男性器を切り落としたことによる感染症だろうか。

 考え込む玲燕を見つめ、潤王は意味ありげに笑う。

「十分に諷示(ふうじ)してやった。天嶮学の汚名を晴らすことを目指すならば、あとは自分で考えろ」

 潤王はすっくと立ち上がる。

「今宵も楽しかった。次に会うときは、事件を解決したときだといいな」

 ひらひらと手を振って背を向けた潤王を、玲燕は呆然と見送る。

「十分に諷示してやった?」

 一体どういうことだろう。
 しんと静まりかえった部屋でひとり、考える。

 はっきりとわかったことはひとつだけ。潤王はこの期に及んで、玲燕の技量を試そうとしているということだ。

(本当に、わからないことだらけ)

 玲燕はため息を吐き、後宮に戻ろうと立ち上がる。
 殿舎の戸を開けると、冷たい風が体を打つ。

「寒っ!」

 潤王の居室は常に快適な状態に整えられているので、こんなに冷え込んでいるとは気づかなかった。

 白い息を吐き、階段の下へ視線を移す。
 階段の下に人影があった。その背格好に見覚えがあり、玲燕は目を凝らした。

「天佑様?」

 そう言ってから、ハッとして口元を押さえる。
 幞頭を被って袍服を来た姿は、甘栄祐として宦官のふりをしているときの格好だ。

「こんな寒い中、どうされたのですか?」
「そろそろ、玲燕が戻る頃だと思ったから」

 椅子に腰を掛けて空を眺めていた天佑は、玲燕が来たことに気付くと柔らかく微笑んで立ち上がる。

「今宵は冷えますね」
「そうだな。寒の戻りで、明日の朝は井戸が薄く凍っているかもしれない」
「本当に」
「寒いからか、今日は星がよく見えた」

 天祐は夜空を見上げる。

「待ちながら、星を見ていたのですか?」
「ああ」

 玲燕も夜空を見上げた。

「天球には千五百六十五の星がございますから」
「千五百六十五? そんなにか」

 感嘆したように、天佑は目を細める。

「天文図があれば、どこにどの星座があるかわかるのですが」

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