偽りの錬金術妃は後宮の闇を解く

 判然としないものを抱えながらも、また一枚ページを捲る。そして、次に玲燕が目を留めたのは光琳学士院の構成員について書かれたページだった。『甘天佑』という名が、しっかりと書かれている。

(天佑様、昔は光琳学士院にいたの?)

 以前、噂話に天佑は状元だったと聞いたことがある。
 状元とは、官吏になる試験を首席で合格した者に与えられる称号だ。そして、状元は知識の腑である光琳学士院に配属されることが多いという話も聞いたことがある。

「てっきり、最初から吏部にいたのだと思い込んでた」

 天佑の職歴を詳しく聞き出したことはないので意外に思う。
 そのときだ。「甘殿」という大きな声が聞こえて、玲燕はびくりと肩を揺らした。

「お久しぶりです。李老子」

 呼びかけに応える声も聞こえてきた。天佑の声だ。

(外から聞こえる?)

 玲燕は書庫の扉を少しだけずらし、そっと外を覗く。そこからは、老人と向かい合って立ち話をしている天佑の後ろ姿が見えた。角度的に老人の顔は斜め正面から見えたが、玲燕は知らない人物だった。

「ちょうど用があったからちょうどよかった。甘、一体どういうつもりだ?」

 老人が天佑に尋ねる。
 その口調は高圧的で、天佑を下に見ていることが透けて見えた。一方の、天佑の態度は極めて冷静で落ち着いていた。

「どういうつもりか、とは?」
「あの、菊妃のことだ。錬金術が得意だとか抜かし陛下の興味を引き、力比べ大会では傍若無人な振る舞いをしたとか。なんでも、甘家ゆかりの娘らしいな」

(私の話をしている?)

 菊妃と聞こえてきて、玲燕は耳をそばだてる。

「はい。ふと話の流れで彼女のことを陛下にお話ししたところ、女人で錬金術を嗜むのは珍しいと陛下がひどく気に入られまして。今は、とても寵愛しております」

 天佑はあたかも事実であるかのように、そう答える。すると、老人はわかりやすく顔をしかめた。

「噂では、自分は天嶮学を学んだと公言したとか」

 探りを入れるように老人は天佑を見つめる。

「我らが天嶮学によりどんな目に遭ったのか忘れたのか? 私がなんとかしなければ、光琳学士院の存続危機だった。甘家ゆかりの娘ならば、余計なことをしないように進言すべきだ」
「進言しようにも、会う機会もありません」
「弟がいるだろう!」

 老人が声を荒立てる。

「とにかく、余計なことをするなと伝えろ」

 老人が人差し指を突きつけて天佑に命令するように告げると、「お言葉ですが、李老子」と天佑が答える。

「生憎、李老子は私に命令できる立場にはありません」
「なんだとっ」
「私は既に吏部の人間ですので。書庫にて捜し物がありますので、失礼します」

 天佑は頭を下げると、くるりと向きを変えてこちらを見る。

(えっ。こっちに来る)

 玲燕は咄嗟に隠れようと書庫の奥へと向かう。あわあわしている間に、がらりと入り口の戸が開き、また閉められた。

「……こんにちは」
 気まずさを感じ、玲燕はおずおずと挨拶をする。すると、玲燕がここにいると思っていなかったのか天佑は目を見開く。

「玲燕。いたのか」
「たまたまです。菊花殿から今さっきここに来ました」
「その様子だと、先ほどの会話が聞こえたようだな」

(うっ、ばれてる)

 玲燕は目を泳がせる。

「聞こうと思って隠れていたわけではなく、たまたまここにいたら聞こえてきたのです」
「なるほど」

 天佑は頷く。

「先ほど菊花殿に行ったら、鈴々が『玲燕様はとっくのとうにそちらに向かいました』と言っていた」
「……申し訳ございません。ここは光琳学士院の古い書物もたくさんあるので、つい興味がわいてしまいまして」

 玲燕がある程度の時間ここにいたことを、天佑はお見通しのようだ。玲燕が肩を竦めると、天佑はやれやれとでも言いたげに息を吐いた。

「それで、何か面白いものはあったか?」
「先ほど、からくり人形の設計図が載った書物がございました。あれ一冊でも、ものすごい価値のあるものです」

 玲燕は胸の前で手を握り、興奮気味に力説する。すると天佑は目をぱちくりとさせ、くくっと笑った。

「そうか。気に入ったなら、好きに読むといい」
「え? よいのですか?」
「ああ。人に見られないように、こっそりと持ち出せよ」

 その瞬間、玲燕はぱあっと表情を明るくする。

「ありがとうございます!」

 こんなお宝の数々が読み放題だなんて、どんなご褒美だろうか。いつもはさっさと事件を解決して家に帰ろうとばかり思っているのに、今日ばかりはこのままここにいてもいいかもしれないと思ってしまう。

「ところで、今日は見たいものがあってわざわざこちらに来たのだろう?」
「あ、はい。そうです」

 天佑に聞かれ、玲燕は頷く。

「では、案内する」

 天佑は少しだけ戸をずらし、外の様子を窺う。近くに人がいないかを確認しているのだ。

「よし、行こう」

 手招きされ、玲燕は天佑のあとを追う。

「天佑様。先ほどのご老人は一体どなたですか?」
「あれは、光琳学士院の李老子だ」
「李老子……。もしかして、錬金術師の李空様ですか」
「ああ、そうだ」

 天佑は頷く。

(あれが、李空様……)

 以前、鬼火事件の真相を追っている際に天佑から名前を聞いたことがある。
 李空は現在の光琳学士院で最も権威ある錬金術師であり、鬼火事件は錬金術では解明できないと言い切った人物だ。

(光琳学士院で務めることができるほどの錬金術師が集まりながら、なぜあの鬼火事件が解明できなかったのかしら)

 当時のことを思い返し、玲燕は改めて疑問を覚える。

 元々、鬼火は劉家と懇意にしている錬金術師が劉家からの相談を受けて考えついた手法が使われている。そしてその方法に気付いた別の錬金術師が真似をして、事件を複雑化した。

 光琳学士院は光麗国の知識の腑。当然、務めている錬金術師達も最高レベルの者達が集まっている。いくら事件が複雑化していたとはいえ、誰もあの方法に気付かないなんて──。

 強い違和感を覚えて考え込んでいると、「着いたぞ」と天佑の声がした。
 ハッとして顔を上げると、鍵のかかった木製の戸が目の前にあった。天佑は懐から鍵を取り出すと、それを開ける。
 部屋の中にはいくつかの棚があり、その棚には整然と物が並べられていた。

「件の事件の証拠品はこれだ」

 天佑は棚の一画を指さす。そこには、潤王暗殺未遂事件の日に使われていた証拠品酒器や銀製の杯などが置かれていた。
 まず目に入ったのは、黒ずんだ銀杯だった。液体を満たした部分だけが黒く変色しており、砒霜を混入したときの特徴的な症状だ。

「酒器は陶器製なのですね」
「ああ。黄殿が奪い取って投げ捨てた際に一部が欠けてしまっているが、中に僅かに残っていた酒からは毒が検出された」
「なるほど」

 玲燕は頷く。

「酒が盛られたのは黄様と陛下のふたりでしたね。毒入りの酒が注がれた、もうひとつの銀杯はどれですか」
「目の前にあるではないか」

 天佑は玲燕の前に置かれた銀杯を指さす。玲燕はそれを見て、首を横に振った。

「いいえ、違うと思います。これとは別に、もうひとつあると思うのですが」
「いや。これしかない」
「これしか?」

 玲燕は眉根を寄せる。
 天佑の指さした銀杯は、美しい輝きを保っていた。けれど、もしも砒霜を入れた酒を満たしたなら、銀は錆びるはずなのだ。

「それは、すぐに黄殿が気付いて銀杯を叩き落としたせいで、中の酒が全て零れてしまったせいではないか?」
「中の酒が全て零れてしまったせい……」

 そうだろうか。玲燕は少し考え、首を横に振る。
 たとえ零れたにしても、全ての酒が銀杯から綺麗に拭い去られるわけではない。必ず、どこかに錆が出るはずだ。

「やはり、違うと思います」
「すり替えられたということか?」

 天佑は腕を組む。

「ここは普段、ごく限られた関係者しか入れない」
「そうですか……」

 玲燕は入り口にかかっていた鍵を見る。鉄製のしっかりした物で、そう簡単には壊れそうにない。

(その、ごく限られた関係者がすり替えたってこと?)

 一体誰が、なんのために?
 謎を解くはずが新たな謎に直面し、玲燕は戸惑う。

「ここの鍵を借りた者を調べていただいてもいいでしょうか?」
「もちろんだ。すぐに作成する」

 天佑は頷く。
 玲燕はもう一度、ふたつの酒杯を見た。
 何か重大な事実を見逃しているような気がしてならなかった。

 倉庫を出ると、天佑に「そろそろ午後の茶菓が届く時間だが、執務室に寄っていくか?」と聞かれた。

「茶菓? 是非!」

 後宮で出される茶菓も美味しいが、皇城で高位官吏達に出される茶菓もとても美味しいのだ。
 目を輝かせる玲燕を見て、天佑は頬を緩める。

「玲燕は、最初に比べて表情豊かになったな」
「……そうですか?」
「全く笑わなかった」
「…………」

 そうだろうか。そうだったかもしれない。
 天佑に出会ったあの頃は、頼れる人もなく、信じているものを周りからまがい物だと言われ、お金もなく、色々な物に諦めの気持ちを持っていたから。

「笑顔が出るようになってよかったよ」
「……それはどうも」

 気に掛けてくれていたのだろうか。
 胸がむずがゆいような、不思議な感覚がする。

「あ、そういえば」

 なんだか気恥ずかしく感じ、玲燕は話題を変える。

「天佑様は光琳学士院にいらしたのですね。先ほど、書庫で昔の人事配置表を見ました。どんな研究を?」

 玲燕は天佑の横顔を窺う。

(あれ?)

 一瞬強ばったように見えたのは気のせいだろうか。

「忘れた」
「忘れた? 全部?」
「体調を崩してから、記憶が曖昧なんだ」
「体調を……」

 確か以前一緒に礼部を訪れた際、天佑は旧友である李雲流から体調を気遣われていた。彼がシンパ下のと同じ体調不良だろうか?

「それは……、今は大丈夫ですか?」
「ああ。だが、毎日が忙しすぎる」
「それはそうでしょうね……」

 ひとつの役職であっても目が回る忙しさのはずなのに、ひとり二役しているのだから忙しいのは当たり前だ。

「では、しっかりと休憩しないと。茶菓を食べましょう!」
「そうだな」

 ぐっと胸元で力こぶを作った玲燕を見て、天佑が笑う。
 その表情が少し寂しげに陰ったことには、とうとう気がつかなかった。