偽りの錬金術妃は後宮の闇を解く

 声をかけられた梅妃はちらりと玲燕を見たが、何も言わずにすぐに視線を前に向け、目の前を通り過ぎる。横にいる女官が小馬鹿にしたようにくすっと笑った。

 玲燕は彼女たちの後ろ姿を見送る。

(相手にする価値もない、ということね)

 梅妃の先ほどの態度から、玲燕は彼女が自分を言葉を交わすに足らない相手だと思っているのを感じ取った。

(嫌な感じ……)

 ここ最近忘れていたが、役人達に報酬を踏み倒されて見下された日のことを思い出し、胸の内に苦いものが広がる。

「寒っ」

寒さにぶるりと身を震わせる。
 雪は先ほどより勢いを増して降り続いている。

「最近は暖かくなってきていたのになあ」

 季節外れの雪は、まだまだ止みそうにない。
 明日の朝には、一面が銀世界になるだろう。


 
 菊花殿に戻ると、門の前には宦官姿の天佑が立っていた。

「栄佑様。このように冷える中、こんなところでどうされました?」
「随分と遅かったではないか」

 天佑は玲燕の質問に答える代わりに不機嫌そうに眉を寄せ、玲燕の手を取る。その瞬間、先ほどよりももっと深く、眉間に皺を寄せた。

「手が冷たい。冷え切っているではないか。早く中に入れ」

 ぎゅっと手を握られたまま、半ば無理矢理に部屋の中へと放り込まれた。
 鈴々が火鉢を用意しておいてくれたようで、室内はとても暖かかった。

(暖かい)

 すっかりと冷え切った体に、この暖かさはありがたい。玲燕は火鉢に手をかざし、指先を温めた。パチパチと炭が燃える音が微かに聞こえる。

「今日はとても冷えますね」
「そうだな。雪が舞うほど冷え込むのは珍しい」

天佑も外に立っていたので体が冷えていたのだろう。玲燕と同じように、火鉢に手をかざす。

「それで、一体どこで誰と、何をしていた?」
「回廊でたまたま蓮妃様にお会いして、殿舎にご招待いただきました」
「蓮妃様に?」
「はい。久しぶりに会ったので、色々と話したいことがあると」
「……そうか。それで、何の話を?」
「主には、天佑様のおっしゃていたあの事件の話をされておりました」
「何か気になる情報は得られたか?」
「現段階では、犯人は翠蘭であるとされても致し方ないということがわかりました」
「それでは玲燕を呼んだ意味がないではないか」

 天佑は呆れたように、玲燕を見る。

「状況証拠が揃いすぎています。酒器には毒が入っており、酒樽には毒がない。そして、その酒器を持っていたのは翠蘭であることは多くの人が目撃している。この事実に相違はありませんか?」
「ない。その通りだ」
「では、犯人は翠蘭とするのが自然です」

 天佑は数秒押し黙り、玲燕を見つめる。

「……玲燕は翠蘭が犯人だと思っているのか?」
「感情論を話しているのではありません。私は事実を述べているのです。翠蘭がこんなことをするはずがないと私も思いますが、この状況では誰がどう見ても犯人は翠蘭です」

 玲燕は口を噤み、あたりに静謐が訪れる。時折、火鉢からパチッという炭が弾ける音がした。

 窺い見た天佑の顔に失望のような色を感じ、玲燕は咄嗟に目を逸らした。まるで『天嶮学などこの程度のものか』と言われているような錯覚を覚える。

 視線の先では、火鉢の炭が赤く燃えていた。

 今の状況では翠蘭以外の犯人が思い浮かばない。ただ、一介の女官である翠蘭が潤王の暗殺を企むことなど考えにくいので、裏で糸を引いていた誰かがいると考えるのが自然だ。そして、その『誰か』とは翠蘭の主である桃妃と疑われるのも自然な流れだった。

(間違ってはいないはずよ)

 けれど、何かが引っかかる。

 ──我らは錬金術を用いて物事の真理を見極め、あらゆる世の不可解を解明し、また、世の不便を解決するのだ。

 天嶮学士であった父が生前によく門下生達に説いていた言葉を思い出す。

(何か見逃していることがないかしら?)

 玲燕はもう一度考える。けれど、どんなに考えても何も思いつかなかった。

「桃妃様は絶対に糸を引いていない。それは、間違いない」

 火鉢を挟んで向かいに座る天佑が、苦しげに呟く。

「なぜですか? 物事に『絶対』などありません。どうしてそう言い切れるのですか」

 何も答えずに眉を寄せる天佑を見て、玲燕は苛立ちを感じた。

(まただわ)

 以前にも、天佑が桃妃を庇ったとき、この苛立ちを感じた。

「天佑様。きちんと話していただかないと、犯人を捜すこともできません。どうして桃妃様は絶対に糸を引いていないと言い切れるのです?」

 知らず知らずのうちに、口調がきつくなる。天佑は苦しげに口元を歪めた。

「それは言えない。ただ、桃妃様は背後で糸を引いたりはしない。それは確かなのだ」
「それでは話になりません」

 玲燕は首を振る。

「雪がひどいので、今日はもうお帰りください。明日の昼頃、私が訪ねます」
「……そうだな」

 はあっとため息をついた天佑は、立ち上がると出口へと向かう。ぴしゃりと音を立てて、入り口の戸が閉じられた。

 足音が遠ざかり、部屋の中に静謐が訪れる。
 シーンと静まりかえった部屋が妙に物寂しく感じるのは、この寒さのせいだろうか。


    ◇ ◇ ◇

 
 翌日は、昨日とは打って変わって快晴だった。朝には薄らと積もっていた雪も、昼前に溶けて消えた。
 玲燕は袍服に身を包むと久しぶりに秘密通路を使って後宮を抜け出した。

「よいしょっと」

 所々しか明かりが入ってこない仄暗い通路を抜けると、古い書物と炭の匂いが鼻孔をくすぐる。光琳学士院の書庫は、相変わらず古い書物であふれかえっていた。

「本当に、たくさん」

 玲燕はあたりを見回す。
 父を亡くしたあと貧しい暮らしをしていた玲燕にとって、書物はとても高価なものだ。数え切れない書物で溢れるこの書庫は、宝物殿のようにすら感じた。

(少しだけ……)

 たまたま目に入った書物を手に取ってみると、有名な思想家の教本の写しだった。玲燕も名前だけは知っているが、中身をしっかりと読んだことがない。
 その横も手に取ってみる。それは、かつて後宮に住んでいた公主や皇子達のために作られたからくり人形の設計図だった。

(これ、すごいわ!)

 この一冊だけでも、どれだけの価値があるだろう。興奮で気持ちが高揚する。

 玲燕は顔を紅潮させたまま、奥の書棚を見る。

「あそこの、年号が入っているのは何かしら?」

 書物庫の一番奥には、年号が入った書物がずらりと並んでいた。一番新しいものは二年前、古いものは四十年ほど前の年号が入っている。玲燕はそのうちの一冊を手に取ると、ぱらぱらと捲る。

「これは、官吏の配置表かしら?」

 役所の名称と共に、役職や人物名が記載されている。書物の表紙を見ると、四年ほど前の年号が書かれていた。

(古いものを、保管しているのね)

 昨年と今年のものがないのは、書庫ではなく普段使う執務室に置いてあるためだろう。

(そうだ)

 玲燕は、吏部を見てみる。

「あれ?」

 吏部侍郎には、玲燕の知らない人の名前が書いてあった。

(天佑様、このときはまだ吏部侍郎じゃなかったのね)

 侍郎に昇格する前だったのだろう思いもっと下の位を視線で追うが、見当たらない。

(どこかしら)

 他の部署にも目を通していたそのとき、玲燕はとある名前に目を止める。

「甘栄佑?」

 そこには、天佑が宦官に扮する際の名である『甘栄佑』の名があった。所属は皇帝に仕え詔勅(しょうちょく)の作成や記録、伝達を行う中書省という部署だ。

(彼は元々、宦官ではなかった?)

 しかし、宦官とは男性器をなくした男性のみがなれる職であり、既に官吏の試験に受かって働いている者があとからなるとは考えにくい。

(となると、同姓同名?)

 そんな偶然があるのだろうか。
 判然としないものを抱えながらも、また一枚ページを捲る。そして、次に玲燕が目を留めたのは光琳学士院の構成員について書かれたページだった。『甘天佑』という名が、しっかりと書かれている。

(天佑様、昔は光琳学士院にいたの?)

 以前、噂話に天佑は状元だったと聞いたことがある。
 状元とは、官吏になる試験を首席で合格した者に与えられる称号だ。そして、状元は知識の腑である光琳学士院に配属されることが多いという話も聞いたことがある。

「てっきり、最初から吏部にいたのだと思い込んでた」

 天佑の職歴を詳しく聞き出したことはないので意外に思う。
 そのときだ。「甘殿」という大きな声が聞こえて、玲燕はびくりと肩を揺らした。

「お久しぶりです。李老子」

 呼びかけに応える声も聞こえてきた。天佑の声だ。

(外から聞こえる?)

 玲燕は書庫の扉を少しだけずらし、そっと外を覗く。そこからは、老人と向かい合って立ち話をしている天佑の後ろ姿が見えた。角度的に老人の顔は斜め正面から見えたが、玲燕は知らない人物だった。

「ちょうど用があったからちょうどよかった。甘、一体どういうつもりだ?」

 老人が天佑に尋ねる。
 その口調は高圧的で、天佑を下に見ていることが透けて見えた。一方の、天佑の態度は極めて冷静で落ち着いていた。

「どういうつもりか、とは?」
「あの、菊妃のことだ。錬金術が得意だとか抜かし陛下の興味を引き、力比べ大会では傍若無人な振る舞いをしたとか。なんでも、甘家ゆかりの娘らしいな」

(私の話をしている?)

 菊妃と聞こえてきて、玲燕は耳をそばだてる。

「はい。ふと話の流れで彼女のことを陛下にお話ししたところ、女人で錬金術を嗜むのは珍しいと陛下がひどく気に入られまして。今は、とても寵愛しております」

 天佑はあたかも事実であるかのように、そう答える。すると、老人はわかりやすく顔をしかめた。

「噂では、自分は天嶮学を学んだと公言したとか」

 探りを入れるように老人は天佑を見つめる。

「我らが天嶮学によりどんな目に遭ったのか忘れたのか? 私がなんとかしなければ、光琳学士院の存続危機だった。甘家ゆかりの娘ならば、余計なことをしないように進言すべきだ」
「進言しようにも、会う機会もありません」
「弟がいるだろう!」

 老人が声を荒立てる。