「もちろん。酒が注がれたあと、陛下がそれを飲もうと口を近づけたの。ところが、その酒には毒が入っていると気付いた黄様がものすごい剣幕で駆け寄ってきて、陛下の杯を取り上げて池に放り投げてしまったの。皆、最初は黄様の無礼にびっくりしてしまったのだけど、黄様が『これは毒入りです』と仰って──」
これも、玲燕が天佑から事前に聞いていた話と同じだ。
翠蘭はその場で取り押さえられ、彼女が持っていたという酒器からは砒霜が検出された。
蓮妃は肩を落とし、茶の水面を見つめる。
「信じられないわ。よりによって、桃妃様の侍女がこんなことするなんて。桃妃様はこのこと、事前にご存じだったのかしら──」
蓮妃は桃妃のことを慕っていた。
桃妃が事件に関連しているはずがないと信じる一方、状況的に桃妃付きの女官が毒を盛ったとしか思えない事実に歯がゆさを感じているようだ。
「その日、蓮妃様の目から見て違和感などはありませんでしたか?」
玲燕は尋ねる。ほんの些細な違和感でも、実はそれが重大な鍵を握っていることもあるのだ。
「うーん。あの日は本当に、上を下への大騒ぎだったから──。違和感も何も、大混乱よ」
蓮妃は肩を竦める。
「あの事件のあと、桃妃様には会えなくなっちゃって。菊妃様もいらっしゃらなかったから、本当に心細かった」
蓮妃はぽつりと呟くと、鼻をすする。
「私は戻りました。いつでも会えますよ」
「そうよね」
蓮妃は目元を指先で拭うと、口元に笑みを浮かべて皿に盛られた粉食をむんずと掴む。そして、それをおもむろに口に入れた。
「ところで蓮妃様。先ほど、『色々と事件があって』と仰っていたと思うのですが、他にも何か事件が?」
玲燕は蓮妃に尋ねる。天佑から聞いた事件は、この潤王の毒殺未遂事件だけだった。
「うん、あったわ。先日、後宮内に設置されている全ての井戸の輪軸交換の工事が行われる予定だったのだけど、梅園殿の工事をしようとした技師がへまをして梅妃様がひどくお怒りになられて──。その後の工事が見合わされたの」
「輪軸の交換?」
輪軸とは、少ない力で思い物を持ち上げるために利用される道具のことで、先の力比べ大会の際に玲燕が利用したのも輪軸だ。
「交換作業中に梅園殿に生えている植物の枝を折ってしまったようで。梅妃様がお怒りになり、『このような者が後宮の中を出入りすることを許すわけにはいかない』って大騒ぎよ。結局、代わり職人を手配し直すまで、その後の全ての交換作業が中止になったの」
「そんなことがあったのですか」
玲燕は、この後宮に初めて来た日のことを思い出す。
回廊で算木をなくして回廊の下まで探しに下りた玲燕に対し、鈴々は『偶然出会ったのが梅妃様でなくてよかった』と言っていた。もし草木を傷つけようものなら、激怒すると。
「工事の方は災難でしたね」
「引き連れられていくところをうちの侍女が目撃したのだけど、『最初から折れていた』と叫んでいたらしいわ」
蓮妃はふうっと息を吐く。
(まあ、罪を逃れるためにはそう言うしかないわよね)
鈴々は、以前後宮の草木を傷つけた女官は梅妃の怒りに触れて鞭打ちされたと言っていた。きっとその職人も、それ相応の罰を受けたのだろう。
(たかが草木くらい。踏みつけられても、より強くなってまた伸びてくるわよ)
そう思ってしまうのは、玲燕が元々後宮とは縁遠い生活をしていたからだろうか。
「それで、輪軸は交換できたのですか?」
「ええ。梅妃様のご実家であられる黄家が手配し直したの。香蘭殿以外はそれで交換してもらったわ」
「香蘭殿は交換しなかったのですか?」
「ええ。蘭妃様が『わたくしは元の工事人でよい』と仰ったみたいで」
「……なるほど」
以前会った蘭妃のあの様子からするに、蘭妃は梅妃に世話になることが許せないのだろう。玲燕は苦笑いする。
「あとは──」
蓮妃が口を開く。
「まだあるのですか?」
玲燕は驚いた。
潤王暗殺事件に輪軸の交換事件。このふたつでも既にお腹いっぱいなのに、まだ何かあるとは。
たった三ヶ月なのに、随分とたくさん事件があったものだ。
「桃妃様が宴席中に体調を崩されたの」
「桃妃様が?」
玲燕は聞き返す。
桃妃は潤王の想い人であり、今回の潤王暗殺事件の重要な容疑者のひとりだ。その桃妃が体調を崩していたと聞き、玲燕は興味を持った。
「以前、陛下の計らいでちょっとした宴席が行われたの。寒椿の宴よりももっと前、後宮の中で行われた宴よ。だけど、そのときに桃妃様が急に体調を崩されてしまって」
「何かの病ですか?」
「わからないわ。桃林殿の女官にうちの侍女が聞いたのだけど、季節の風邪を引いてしまたようだと。ただ、陛下の主宰する宴席で急にだったから、みんな驚いてしまって」
「へえ……」
蓮妃の今の言い方からすると、宴席が始まったときは元気だったのに宴席中に急に体調を崩してしまったのだろう。
風邪で体調が悪くなるのは仕方ないことだが、陛下が主宰する場であれば多少の体調不良は我慢して最後まで参加するはずだ。それを途中で退出するなど、よっぽど切羽詰まっていのたのだろう。
(毒かしら?)
すぐにそんな想像が頭をよぎる。
「その日、桃妃様以外に体調を崩された方は?」
「いないわ。桃妃様だけよ。食事が運ばれてきたらすぐに、悪心を訴えて」
「食事が始まる前に体調を崩されたのですか?」
「そうよ」
蓮妃が頷く。
(なら、毒ではない?)
今の蓮妃の話が正確ならば、桃妃は食事に口を付ける前に体調を崩している。ならば、毒を盛られたというのは間違っている。
「本当にたくさんの事件が起きたのですね」
「ええ。お陰で、女官達も毎日の噂話は尽きなかったようよ」
大げさに肩を竦める蓮妃を見つめ、玲燕は苦笑する。
その現場は見ていないが、大いに盛り上がる女官達の様子は想像が付いた。
「……菊妃様、お話を聞いてくれてありがとう」
「いえ。私などでよければ、いつでもお聞きしますよ」
玲燕は菊妃に、にこりと笑いかけた。
菊花殿に戻る最中も、玲燕は歩きながらじっと思考に耽っていた。
(とても難しい事件だわ……)
はっきり言って、状況証拠が揃いすぎている。これでは翠蘭の犯行以外に疑う余地がない。しかし、動機がなんなのかがはっきりしないし、桃妃が後ろで糸を引いたというのもどうにも納得いかない。
そのとき、視界の端に白いものが舞い落ちるの見えた。
(雪? どうりで冷えるはずだわ)
ひとつ、またひとつと庭園の地面へと雪が舞い落ちる。
回廊からは、ちょうど庭園のひとつが見えた。手入れされた木々が美しく配置されている。
ぼんやりと景色を眺めていると「あらまあ、珍しい人がいること」と声がした。
玲燕はハッとして、声のほうを見る。そこには何人かの女性がいた。中央にいる一際華やかな襦裙に身を包んだ女性は、貂皮(てんひ)を羽織っている。貂皮は防寒用の毛皮の中でも特に高価で、高位貴族の女性が好んで使うものだ。
高髻に結われた髪にはいくつもの簪が付いており、唇には鮮やかな紅が塗られていた。
(梅妃様だわ)
梅妃の両側には、数人の侍女がいた。そのうちのふたりに見覚えがあり、玲燕はおやっと思う。玲燕を見つめ、意地悪そうに口の端を上げている。
(この人って確か……)
算木を落とした際に足を引っかけてきた女官だ。いつか文句を言ってやろうと思っていたので間違いない。
「梅妃様が通るのです。道を空けなさい」
女官のひとりが不愉快そうに顔をしかめる。先ほどと同じ声だった。
玲燕ははっとして、慌てて回廊の端に寄ると頭を下げた。
「梅妃様。ご無沙汰しておりました」
同じ妃という立場でも、先に入宮して実家の後ろ盾もある梅妃は玲燕より立場が強い。
蓮佳殿と梅園殿は場所が近い。梅妃は後宮内のどこかに出かけて、戻ってきたところなのだろう。
声をかけられた梅妃はちらりと玲燕を見たが、何も言わずにすぐに視線を前に向け、目の前を通り過ぎる。横にいる女官が小馬鹿にしたようにくすっと笑った。
玲燕は彼女たちの後ろ姿を見送る。
(相手にする価値もない、ということね)
梅妃の先ほどの態度から、玲燕は彼女が自分を言葉を交わすに足らない相手だと思っているのを感じ取った。
(嫌な感じ……)
ここ最近忘れていたが、役人達に報酬を踏み倒されて見下された日のことを思い出し、胸の内に苦いものが広がる。
「寒っ」
寒さにぶるりと身を震わせる。
雪は先ほどより勢いを増して降り続いている。
「最近は暖かくなってきていたのになあ」
季節外れの雪は、まだまだ止みそうにない。
明日の朝には、一面が銀世界になるだろう。
菊花殿に戻ると、門の前には宦官姿の天佑が立っていた。
「栄佑様。このように冷える中、こんなところでどうされました?」
「随分と遅かったではないか」
天佑は玲燕の質問に答える代わりに不機嫌そうに眉を寄せ、玲燕の手を取る。その瞬間、先ほどよりももっと深く、眉間に皺を寄せた。
「手が冷たい。冷え切っているではないか。早く中に入れ」
ぎゅっと手を握られたまま、半ば無理矢理に部屋の中へと放り込まれた。
鈴々が火鉢を用意しておいてくれたようで、室内はとても暖かかった。
(暖かい)
すっかりと冷え切った体に、この暖かさはありがたい。玲燕は火鉢に手をかざし、指先を温めた。パチパチと炭が燃える音が微かに聞こえる。
「今日はとても冷えますね」
「そうだな。雪が舞うほど冷え込むのは珍しい」
天佑も外に立っていたので体が冷えていたのだろう。玲燕と同じように、火鉢に手をかざす。
「それで、一体どこで誰と、何をしていた?」
「回廊でたまたま蓮妃様にお会いして、殿舎にご招待いただきました」
「蓮妃様に?」
「はい。久しぶりに会ったので、色々と話したいことがあると」
「……そうか。それで、何の話を?」
「主には、天佑様のおっしゃていたあの事件の話をされておりました」
「何か気になる情報は得られたか?」
「現段階では、犯人は翠蘭であるとされても致し方ないということがわかりました」
「それでは玲燕を呼んだ意味がないではないか」
天佑は呆れたように、玲燕を見る。