「すぐにその場で捕らえて、投獄した。刑部が取り調べを行っているが、知らぬと言うばかりで口を割らないそうだ。それで、実はその捕まった女官というのが少々厄介でな」
「厄介と申しますと?」
玲燕は首を傾げる。
「その女官が、桃妃(とうひ)付きの者だったのだ。黄殿は桃妃のご実家である宋(そう)家が事件に関わっている可能性があると主張している」
「桃妃の? 一体どなたです?」
偽りの錬金術妃として後宮で過ごす中で、さほど多くはないが、玲燕は妃達に仕える女官の何人かと知り合いになった。もしかしたら、知っている者かもしれないと思ったのだ。
「翠蘭だ」
「翠蘭が?」
玲燕は驚いて目を見開く。
翠蘭は玲燕がよくお喋りをしていた女官で、気さくで明るい女性だった。桃妃の生家から持ってきた木に生えたという茘枝を分けてくれたこともある。最後の最後まで玲燕が菊妃であるということに気付かないなど少々抜けている部分はあるものの、根は優しく善良な人だったと記憶している。
「本当ですか? 信じられません」
「事実、酒をついでいたのはその女官なんだ。それは、俺もその宴にいたから間違いないと証言する」
「わかりました。その事件、引き受けます」
玲燕は迷うことなく頷いた。
玲燕が知る限り、翠蘭はそのような小細工をして人を暗殺するような人間ではない。
それに、ひとつ引っかかることがあった。
砒霜は無味無臭で、飲み物に混ぜるなどして暗殺によく用いられる。しかし、銀食器を常に用いる皇帝を暗殺するには不向きであると言わざるを得ない。なぜなら、食器の変色ですぐに毒を混ぜたことがばれてしまうからだ。
「皇帝を暗殺しようとするには、少々稚拙な計画であるとしか言いようがありません。桃妃様のご実家であられる宗家がこのような子供じみたことを企てるでしょうか?」
「俺もそう思う。英明様も、絶対に桃妃様のご実家である栄家の仕業のはずはないと言っている」
半ば断言するようにそう言い切った天佑を、玲燕は見返した。
「前にも思ったのですが、天佑様は陛下や桃妃様とどのようなご関係なのですか?」
潤王と天佑が一緒にいる様子を見れば、ふたりがとても強い絆で結ばれていることは明らかだ。潤王と桃妃が元々の婚約者であることも知っているが、この三人の関係をしっかりと聞いたことはない。
「言われてみれば、玲燕にしっかりと話したことはなかったね。甘家は元々、桃妃様の生家である宗家に仕える一族なのだよ。なので、その縁で幼い頃から宗家には出入りすることが多かった」
「なるほど。そこに、幼い頃の陛下が預けられたため、出会ったのですね?」
「その通り。まあ、つまりは付き合いの長い臣下なのだが、ありがたいことにおふたりは俺を幼なじみのようなものだと思ってくださっている」
「幼なじみ、ですか」
それであればあの気安い雰囲気も頷ける。
そして、今回の事件はふたりを幼なじみとしてもつ天佑にとって、納得しがたい事件であることも理解できた。
「天嶮学に誓い、事件の真相を明らかにしてみせましょう」
「頼もしいな。頼むぞ」
天佑は柔らかく微笑むと、玲燕の頭にぽんと手を置いた。
◇ ◇ ◇
おおよそ三ヶ月ぶりに訪れる後宮は以前と変わらぬ見た目をしていた。
長く続く回廊、等間隔に置かれた灯籠、赤く塗られた手すりの向こうに広がる、小石の敷かれた美しい庭園……。
しかし、どことなく物寂しく感じるのは冬という季節のせいだろうか。天を見上げれば、どんよりとした雲が空を覆っていた。
「あら? 菊妃様? 菊妃様じゃない?」
回廊を歩いていると、少し幼い女性の声がした。振り返ると、そこには驚いたように目を見開く蓮妃がいた。
「これは蓮妃様。お久しぶりですね」
懐かしい人に、玲燕は表情を綻ばせる。
「やっぱり菊妃様だわ、久しぶりじゃない! 会いたかった!」
蓮妃はパッと顔を明るくして、玲燕のもとに駆け寄る。十二歳という歳頃のせいか、たった三ヶ月会っていないだけなのに少し背が伸びたように感じる。
「その……ご実家のご家族の容態はもう大丈夫なの?」
蓮妃は気遣うような目で玲燕の顔を窺う。
「え?」
「あの事件のあとに菊妃様の姿が急に見えなくなったから、私、心配してしまって。夜伽の際に陛下にお聞きしたら、『故郷にいる親の容態が芳しくなくて、故郷に戻っただけだよ』と仰っていたから」
(そんなことを言っていたのね!?)
驚いた玲燕は、必死にそれを隠す。
どうりで一度後宮を去ったはずの元・妃がこうも簡単に後宮に戻って来られたわけだ。一体どんな言い訳を使ったのだろうと不思議だった。
「おかげさまでもう大丈夫でございます。ご心配をお掛けいたしました」
玲燕は話を合わせ、にこりと微笑む。
「蓮妃様はお元気でしたか? 少し背が伸びられましたね」
「わかる? ありがとう。雪にもそう言われたの」
雪とは、蓮妃付きの女官の名前だ。蓮妃は自分の頭頂部に手を当て、はにかむ。
「わたくしは元気。でも、菊妃様がいない間に色々と事件があってね──」
蓮妃はそう言いながら涙ぐみ、袖口で顔を拭う。
「ここではなんですから、建物の中で話しませんか? 冷えてしまいます」
回廊は開放廊下になっているので、とても冷える。田舎育ちで寒さに強い玲燕はともかく、まだ体が小さい蓮妃には辛いだろう。
「ええ、そうね。ここからだと私のいる蓮佳殿が近いから、いらっしゃらない?」
「はい、お邪魔します」
「やったぁ!」
蓮妃は両手を口の前で合わせると、嬉しそうに笑った。
蓮佳殿の一室に通されると、玲燕の前には茶器と粉食の菓子が用意された。
(美味しい)
お茶を一口飲むと、滑らかな甘さが口の中に広がる。自分がそんなに舌が肥えているとは思わないが、きっとこのお茶は最高級品であると予想が付いた。
「それで、さっきの話だけどね」
蓮妃は少し身を乗り出し、口を開く。その様子に、玲燕がいない間に起きたという事件について早く話したくて堪らないのだろうと感じた。
「つい先日のことなのだけど、皇城の朱雀殿(すざくでん)で寒椿の宴が行われたの」
「はい」
玲燕は相づちを打つ。
(やっぱり、その事件についての話なのね)
寒椿の宴で潤王暗殺未遂事件。まさに、玲燕が天佑に解決を請われた事件だ。
会場になった朱雀殿は皇城にいくつかある建物のひとつで、美しい庭園に囲まれた大広間があり、大人数の会議や宴会などによく使われる場所だ。寒椿も植えられている。
「後宮にいる妃も全員招待されたから、桃妃様も参加されたのよ。だから、その日はお付きの女官達もその場にいて、お酒をついだりしていたの。その最中、桃妃様の付きの女官がついだお酒に毒が入っていたって騒ぎが起きて……」
蓮妃はそこまで言うと、両腕で自分自身を抱きしめ、ぶるりと震える。
(天佑様のおっしゃっていた通りね)
蓮妃の話は、先日天佑から聞いた話と一致する。その場にいたふたりの証言が一致しているということは、その際に起きた出来事の証言としてかなり客観的な信憑性が高いと言えた。玲燕は敢えて、天佑に事前に確認済みのことを蓮妃にも聞いてみることにした。
「桃妃様付きの女官にお酒を用意した者が毒を入れたという可能性はございませんか?」
「それが、それはあり得ないのよ」
「あり得ないというと?」
「あの日は女官がお酒を入れる酒器を持っていて、中身が少なくなくなったら各自が酒樽から足していたの。その酒樽にはお酒が入っていなかったから、毒が入れられたのは桃妃様の侍女が持っていた酒器だけってことよ」
「そのときの様子をもう少し詳しく聞いても?」
玲燕は蓮妃の話に興味を持ち、身を乗り出す。
「もちろん。酒が注がれたあと、陛下がそれを飲もうと口を近づけたの。ところが、その酒には毒が入っていると気付いた黄様がものすごい剣幕で駆け寄ってきて、陛下の杯を取り上げて池に放り投げてしまったの。皆、最初は黄様の無礼にびっくりしてしまったのだけど、黄様が『これは毒入りです』と仰って──」
これも、玲燕が天佑から事前に聞いていた話と同じだ。
翠蘭はその場で取り押さえられ、彼女が持っていたという酒器からは砒霜が検出された。
蓮妃は肩を落とし、茶の水面を見つめる。
「信じられないわ。よりによって、桃妃様の侍女がこんなことするなんて。桃妃様はこのこと、事前にご存じだったのかしら──」
蓮妃は桃妃のことを慕っていた。
桃妃が事件に関連しているはずがないと信じる一方、状況的に桃妃付きの女官が毒を盛ったとしか思えない事実に歯がゆさを感じているようだ。
「その日、蓮妃様の目から見て違和感などはありませんでしたか?」
玲燕は尋ねる。ほんの些細な違和感でも、実はそれが重大な鍵を握っていることもあるのだ。
「うーん。あの日は本当に、上を下への大騒ぎだったから──。違和感も何も、大混乱よ」
蓮妃は肩を竦める。
「あの事件のあと、桃妃様には会えなくなっちゃって。菊妃様もいらっしゃらなかったから、本当に心細かった」
蓮妃はぽつりと呟くと、鼻をすする。
「私は戻りました。いつでも会えますよ」
「そうよね」
蓮妃は目元を指先で拭うと、口元に笑みを浮かべて皿に盛られた粉食をむんずと掴む。そして、それをおもむろに口に入れた。
「ところで蓮妃様。先ほど、『色々と事件があって』と仰っていたと思うのですが、他にも何か事件が?」
玲燕は蓮妃に尋ねる。天佑から聞いた事件は、この潤王の毒殺未遂事件だけだった。
「うん、あったわ。先日、後宮内に設置されている全ての井戸の輪軸交換の工事が行われる予定だったのだけど、梅園殿の工事をしようとした技師がへまをして梅妃様がひどくお怒りになられて──。その後の工事が見合わされたの」
「輪軸の交換?」
輪軸とは、少ない力で思い物を持ち上げるために利用される道具のことで、先の力比べ大会の際に玲燕が利用したのも輪軸だ。