「これで百五十斤でしょうか。では、この重りを私が三尺持ち上げて十秒数えて見せます。計測係、今の位置を記録してください」
玲燕は計測係に測量を促す。バケツは地面に置かれているので、記録は〝ゼロ〟だ。
「それでは持ち上げます」
玲燕はそう言うと、紐を持ち上げるのではなく、滑車のひとつに付いた持ち手を下に引いた。ゆっくりと動き始めた歯車が回り、バケツに付けられた紐は上に引かれる。
ゆっくりと、しかし確実に、バケツは持ち上がった。
「輪軸か。考えたな」
天佑は呟く。玲燕が持ち込んだこの装置は、井戸の水くみなどで使われる手法だ。直径の違う歯車を組み合わせることによって、小さな力で大きな力を生み出すことができる。
「持ち上がりました。もう三尺は上がったでしょう?」
玲燕は横にいる計測係に問いかける。
「は、はいっ」
「では数えましょう。一、二、三……」
あまりの予想外の行動に唖然とする一同を尻目に、玲燕はゆっくりと十数える。
「……十。百五十斤を持ち上げました」
玲燕がすまし顔で言ったその瞬間、大きな声がした。
──異議あり!
声の主は、玲燕がいなければ優勝だったはずの大男、黄家に仕える浩宇だった。
「力自慢の勝負にこのような小道具を使うとは、武の道に反する。俺は認めん」
怒りで顔を赤くした浩宇は興奮気味に叫ぶ。
「その通りです。甘殿もこんないんちきを使うとは、落ちぶれられたものだ」
続いてそう抗議したのは、黄家と同立一位だった高家の当主──高宗平だった。
「あなた達が認めるかどうかは、関係がありません」
玲燕がふたりに対してきっぱりと言い切る。
「なんだとっ」
「お前、誰に向かって口をきいている!」
それぞれが怒り、辺りに緊迫した空気が流れた。周囲で見物していた者達も、これはどうしたものかと騒めく。
「陛下。このような正義の道を踏み外すような真似は断じて許すべきではございません。甘殿もどういうおつもりだ!」
高宗平は潤王の元に歩み寄ると、顔を赤くして玲燕の行った行為は不正だと訴える。そして、横にいる天佑を睨み付けた。
潤王は高宗平と浩宇を見下ろし、ふむと頷いた。
「確かに、その者が用いた方法は正攻法とは言い難いな。しかし、あいにく〝道具を認めない〟とは書いていなかった」
「しかしっ」
潤王は片手を上げ、更に言い募ろうとした高宗平を制する。
「ところで高よ。今しがた、『正義の道を踏み外すような真似は断じて許すべきではない』と申したな。では、そなたは『正義の道』を踏み外したことがないと?」
「は?」
高宗平は潤王の返しが予想外だったようで、怪訝な顔をした。
「もちろんでございます」
高宗平は頷く。
「なるほど。……最近、皇城や外郭城では不思議な火の玉が現れ、天帝の怒りであると人々が恐れている。おぬしはそれを解決すべく、大規模な祈祷を行うべきだと主張していた。ところで、私や妃達が暮らす宮城ではその鬼火は目撃されない。なぜだと思う?」
「それは、偶然でございましょう」
高宗平は、なぜ今そんなことを、と言いたげに眉を寄せる。
「偶然ね。本当に? 天帝が怒っているのであれば、私がいる宮城にこそ鬼火があらわれそうなものだが?」
「…………」
何も答えない高宗平から目を反らすと、潤王は玲燕へと視線を移した。
「菊妃よ。そなたはなぜだと思う?」
潤王の呼びかけに周囲からどよめきが起きる。「あれが菊妃なのか?」「女官かと思った」という声がそこかしこから聞こえてきた。
「はい。それは、鬼火を起こす人間が宮城に立ち入ることができないからでございます」
辺りがさざめく。
「あれは人の仕業なのか」
「天帝の怒りではないのか」
どよめく周囲の人々を、潤王は片手を上げて制する。
「では菊妃よ。説明してくれるか?」
「はい。まずはこれをご覧下さい。まだ日がある故、見にくいかもしれませんが──」
玲燕は懐からあらかじめ用意していた棒を取り出す。鬼火が見られた場所で見つかった棒と同じ細工をしたものだ。玲燕は、それに火をを付ける。
「なんと、鬼火だ!」
観覧席にいた誰かが叫ぶ。
ぼわっと音を立てて燃えたそれは、緑色の光を放っていた。
周囲の人々が「どういうことだ」と騒ぎ出す。
「こちらは、ごく簡単な自然の原理を利用したものです。皇帝陛下を陥れようとしていた人間が、鬼火による騒ぎ、即ち天帝の怒りであると見せかけて、陛下の地盤にひびを入れようとしたのです」
「なんと恐ろしい。一体誰がそのようなことをしたのかはわかっているのか?」
高宗平が険しい顔つきで、玲燕を問い詰める。
「反皇帝派の代表格であられます、劉(りゅう)様です。陛下が退けば、劉様の孫であらせられる皇子が皇位を継承されますから」
「劉殿が! 信じられない。なんということだ」
高宗平は両腕を大きく広げ、大げさなほどに失望を露わにする。
玲燕はその様子をじっと見守ると、おもむろに目を閉じ深呼吸する。
そして、まっすぐに目の前の人を見据えた。
「話はまだここで終わりではございません」
「何? どういうことだ?」
高宗平が怪訝な顔をする。
「犯人はもう一人います。……それは高様、あなた様です」
「なっ!」
高宗平は大きく目を見開いた。
「あなた様は頻繁に摩訶不思議な色をした火の玉を出没させることにより、あたかも鬼火であるかのように見せかけた。本当の鬼火であれば大規模な祈祷を行うことになるのは自然の流れ。そして、もしも祈祷後にあやかし騒ぎが幾分か収まれば、あなた様は名声を得て、より一層の権力を得ることになります」
「なんと無礼な! なんの証拠があってそのようなことを!」
怒りに唇を震わせる高宗平は玲燕に飛びかかろうとする。右手が振り上げられるのを見て、玲燕はぎゅっと目を閉じた。
(……あれ?)
来ると思っていた衝撃が来ないので、玲燕は恐る恐る目を開ける。
目の前には、天佑が立っていた。高宗平との間に、玲燕を守るように立ち塞がり、まっすぐに高宗平を見据えている。
「菊妃様に手を挙げられるとは、言語道断です」
「ちっ!」
高宗平は手を引き、一歩下がる。天佑は高宗平を見つめた。
「証拠ならあります。ここ二ヶ月ほど、高家と郭家は頻繁に交流されていますね?」
「郭家と我が家は親戚関係にある。何もおかしくはないだろう。それとも、吏部は官吏の人事だけでなく、親戚付き合いにまで口出しされるおつもりか」
高宗平は不機嫌さを露わにする。
「ええ、仰るとおり、郭家と高家は親戚関係にあって親しくしていても不思議はありません。ただ、郭家の親しくしている錬金術師が奇妙な物を作っていることがわかりましてね。これです」
天佑の合図にあわせ、鈴々が天佑に何かを手渡す。
その瞬間、高宗平の顔がさっと青ざめた。
「これが何かは、高殿はよくご存じでしょう?」
「なんだあれは? 黒い凧か?」
答えられない高宗平の代わりに、周囲が騒めく。
「高様もご存じの通り、州刺史であられる郭家は凧揚げの技術に長けており、直近の凧揚げ大会で優勝したほどの腕前です。鬼火は、先ほど菊妃が見せた炎を黒い凧で上空に飛ばしたものだったのです。そして、一度だけ後宮内で目撃された鬼火は郭家ゆかりの宦官がおこなったこと。拘束した郭家の錬金術師は、高家から依頼されたと自白しております」
高宗平の目がより一層見開き、握りしめていた手がだらりと下がる。その様子を高い位置から見つめていた潤王が片手を上げた。
「菊妃、さすがは天嶮学を学んだだけあるな。見事な推理だ」
潤王は玲燕にねぎらいの言葉をかけ、横で呆然とする高宗平に視線を移す。
「あの者を捕らえよ」
その言葉を合図に、周囲にいた武官が一斉に高宗平を取り囲んだ。
◇ ◇ ◇
元々殆どなかった荷物はあっという間に詰め終わった。
忘れ物はないかと、玲燕はがらんとした部屋の中を順番に確認してゆく。
「本当に戻るのか?」
「ええ。動物達が心配ですし」
「きっちり世話を頼んであるから、心配することないのに」
「でも、ずっと任せっきりというわけにはいきません」
「玲燕には大明にいてほしいのだが」
「また何かあればご相談にお越し下さい。あの地をすぐに動く気もありません」
家に戻るという玲燕の意思が固いことを見て取ると、天佑は残念そうに眉尻を下げた。
「そういう意味ではないのだがな」
「はい?」
「……いや、なんでもない。英明様と鈴々も寂しくなると悲しんでいた」
天佑は懐から鮮やかな織物でできた小袋を取り出すと、それを玲燕に手渡す。
玲燕はそれを受け取ると、その場で開けた。中からは金貨がバラバラと落ちる。今回の件の報酬だ。
「こんなにたくさん頂いてよろしいのですか? 棒禄もいただいていたのに」
「もちろんだ。英明様もとても助かったと言っていた。見事な推理だった」
「お役に立てて光栄です。最後、鬼火の犯行は別の家門がそれぞれ別に行っていると気づけてよかったです」
玲燕は微笑む。
鬼火の事件は、先に劉家が行ったものだった。さらに、その騒ぎを利用しようと画策した高家が模倣犯として暗躍し始めたので、事件を複雑にしていたのだ。
(少しは、天嶮学の汚名を晴らせたかしら?)
潤王が臣下達の前で玲燕を労ったときの周囲の反応は、皆一様に驚きに包まれていた。十年以上も前に禁じられたはずの天嶮学の名が現皇帝の口から出て、さらにはその素晴らしさを認めたのだから。
玲燕は手元の金貨を見つめる。実際の重さ以上に、それは重く感じられた。
唯一の心残りは、力試しの大会で優勝できなかったことだ。ひと悶着あったものの、最終的な潤王の判断は『道具の使用は認められない』というものだった。
「これは、私塾を作るときの資金にいたします」
玲燕は天佑に深々と頭を下げると、それを自分の懐へとしまう。
「東明には学ぶ場所が少ないか?」
「そうですね。官学はある程度の階級の家のものしか通えませんから、一般の子供が通う場所はほとんどありません」
「そうか……。自宅まで送ろう」
「片道二日かかります。送りの車を用意していただけただけで十分です」
「なに、遠慮するな」