「本当だわ。美しいわね」
池に模様を作り出す木の葉を見つめ、桃妃は口元を綻ばせた。
菊花殿へと戻った玲燕は、今さっき言葉を交わした桃妃のことを思い返しながら今日のことを紙にしたためた。
(まさに、佳人という言葉がよくお似合いの方ね)
少しだけ垂れた目元が可愛らしい、色白の美人だった。
以前、桃林殿で働く女官──翠蘭から聞いていたとおり、物腰が柔らかで優しそうだ。新入りの妃である玲燕にも気さくに話しかけ、接していて嫌なところは何もない。
「桃妃様もないかな……」
玲燕は小さな声で呟く。
「何が、『桃妃様もないかな』なのだ?」
ひとりきりだと思い込んでいたところで話しかけられ、玲燕は驚いた。顔を上げると、宦官姿の天佑がいる。
「天祐様! 驚きました」
「玲燕が昨晩、色々と用意してほしいと言っていただろう? どうせ今日は栄佑として一日過ごすから、持ってきた」
天佑は腕に抱えていた布の包みを、玲燕に差し出す。
「ありがとうございます。助かります」
玲燕はそれをありがたく受け取り、礼を言う。
「それで、何が『桃妃様もないかな』なのだ?」
「ああ、それは──」
玲燕は自分の考えを話し始める。
鬼火の事件を巡り、玲燕は元より妃の誰かが事件に関わっている可能性は低いと考えていた。しかし、昨日の潤王の様子を見て、もしかして恋情のもつれによる動機であればあり得るのではないかと予想したのだ。
「桃妃様が嫉妬したのではないかと思ったのです」
「嫉妬?」
「はい。本来であれば、陛下は即位することなく宋家に婿入りし、桃妃様と夫婦になられるはずでした。ところが、皇帝となったために多くの妃を娶ることになった。桃妃様としては、自分ひとりの夫になるはずだった人がそうではなくなってしまったので、面白くないのではないかと思ったのです」
「なるほど。だが、それはないと思う」
「なぜですか?」
即座に玲燕の推理を否定した天佑に、玲燕は聞き返す。
玲燕も今日の桃妃の様子を見ておそらく違うだろうと思ってはいるが、どうして天佑がそう判断したのか興味があったのだ。
「桃妃様はそういう方ではない。それに、ご実家である宋家もだ。宋家の当主であられる桃妃様のお父上は、陛下の即位を心から喜んでおられた。なにせ、自分の家で世話をしていた皇子が皇帝になったのだからな」
「それはそうですね」
鬼火は一回を除き、全て後宮の外で目撃されている。桃妃が犯人だとしても、犯行には強力な協力者──実家の後ろ盾が必要だ。しかし、桃妃に関しては実家が潤王の即位を大いに喜んでおり、それが望めない。つまり、犯行には関わっていない。
極めて単純明快で、説得力のある理論だ。玲燕もこの推理には全面的に賛成する。
ただ、なんとなく心の中でもやもやしたものが沸き起こる。
「天佑様は、随分と桃妃様のことを肩入れしていらっしゃるのですね」
「肩入れ? 事実を言っただけだ」
「そうですが、最初から桃妃様だけは違うと決めきっているかのような言い方でした」
「そうか? そういうつもりで言ったのではない」
天佑の声に、戸惑いが混じる。
「……いえ、私も申し訳ございません」
なぜこんな風にイライラしたのだろう。玲燕は自分の気持ちが掴みきれず、ぎゅっと手を握った。
「そういえば、桃妃様より天佑様は以前、錬金術を嗜んでいらしたと聞きました」
玲燕はこの空気を変えたくて、違う話題を振る。
(あら?)
その瞬間、天佑の表情が少し曇ったような気がした。
「錬金術を嗜んでいたのは、俺ではない」
「あれ、そうなのですか? 申し訳ございません。桃妃様が天佑様が嗜んでいらしたと仰っていたので。以前、お兄様が嗜んでいたと仰っていましたね。きっと、桃妃様は勘違いされたのですね」
「そうだな」
天佑はそれきり黙り込む。
「……私、てっきり栄佑様というのは一人二役をするために作った架空の方だと思っていました。天佑様には本当に、栄佑様という弟がいらしたのですね。彼は、今どこに?」
先日礼部で会った雲龍や、今日の桃妃の反応を見る限り、栄佑という人間と天佑という人間は別々に存在していることは間違いなさそうだ。だが、玲燕が知る限り、本物の栄佑を見たことはおろか、気配を感じたことすらただの一度もない。
天佑は手で頭に触れ、悩ましげな顔をする。
「……栄佑は数年前に、鬼籍に入った」
玲燕はヒュッと息を呑む。
「よけいなことを聞いて申し訳ございません」
慌てて謝罪しようとすると、天佑によってそれは止められた。
「謝らないでくれ。言わなかった俺も悪い」
天佑は困ったように笑う。その表情は、いつになく寂しげだ。
そんな天佑を見て、玲燕は心臓がぎゅっとなるのを感じた。
「ところで、俺に持ってくるように頼んだその品々は一体何に使うんだ?」
天佑は玲燕の横に置かれた布の包みを、視線でさす。
玲燕はハッとして自分の脇に置いた布の包みを見る。
「こちらは、実験に使おうと思います」
「実験?」
天佑は首を傾げる。
「はい。楽しみにしていてくださいませ」
玲燕はそう言うと、口元に弧を描いた。
◇ ◇ ◇
天佑が玲燕より、鬼火の謎が解けたので今夜来てほしいと言われたのはそれから一週間ほどしたある日のことだった。
「鈴々。玲燕は?」
姿が見当たらず鈴々に尋ねると、鈴々は「あちらにいらっしゃいます」と殿舎の奥を指さす。部屋の中を覗くと、胡服姿の玲燕が灯籠の明かりを頼りに何かをいじくっているのが見えた。
「玲燕。約束通り、来たぞ」
「ああ、栄祐様。いらっしゃい」
玲燕は顔を上げる。
「準備は整っております。こちらへどうぞ」
立ち上がった玲燕は、菊花殿の裏にある庭へと天佑を案内する。秘密通路に繋がる灯籠もある庭は、真っ暗な闇に包まれていた。
「よい風が吹いておりますね。よかった」
「ああ。少し肌寒いほどだ」
何が『よかった』なのだろうと不思議に思ったものの、天佑は相づちを打つ。
深まる秋の夜、日によっては驚くほど寒くなる。風が木々を揺らす、ざわざわとした音が聞こえてきた。
「それで、残る鬼火の謎も解けたというのは?」
「はい。それでは、お見せしますね」
玲燕が手に持っていた物に、灯籠から火を移す。それは、いつぞやに見た鬼火と同じような色をしている。
「今からこの火を、空に飛ばします」
玲燕はそう言った次の瞬間、鬼火が空高く舞い上がった。そして、空の一カ所でゆらゆらと揺れる。
「これは一体?」
天佑は呆けたように、上空を見上げる。
「原理がわかれば、極めて単純なことでした。これは、黒い凧を使っているのです」
「黒い凧?」
「はい」
玲燕は頷く。
「ゆらゆらと揺れる鬼火は、流れるように移動する鬼火と同じく水辺で見られましたが、違うこともありました」
「違うこととは?」
「ゆらゆらと揺れる鬼火の際は、いつも簡単には鬼火の方向に近づけない構造の場所で見られていたのです。ほら、天佑様が連れて行ってくれた皇城の場所もそうだったではありませんか。つまり、ゆらゆらと揺れる鬼火の下にはいつも凧の操者がいたのです。そのため、近づかれると人がやっていると気付かれてしまうため、そのような場所にしていたのです」
玲燕からそう指摘され、天佑は鬼火を見た現場のことを思い出す。確かに、どの場所も近くに橋がなく、鬼火に近づけない構造をしていた。
「相変わらず、見事な謎解きだな」
「ありがとうございます」
天佑が感嘆の声を漏らし手を叩くと、玲燕は嬉しそうにはにかむ。
「天佑様と猫に驚かされたときに解決の糸口を得ました。凧を揚げたタイミングで鬼火の火が消えてしまわないように調整するのが手間取って、時間がかかってしまいました」
「それにしても見事だ。なにせ、皇都の錬金術師は皆お手上げだと言ったのだから」
天佑は重ねて玲燕を褒め称える。
「鬼火を起こしていた方法がわかったところで、残るは犯人捜しだな」
ようやくゆらゆらと揺れる鬼火の謎が解け、天佑は胸が高鳴るのを感じた。
この娘なら、本当に鬼火の謎を全て解決してくれるのではないか。そう思わずにはいられない。
「ただ、少し不思議なことがあって……。どうして犯人は、わざわざふたつの方法で鬼火を起こしたのでしょう?」
「特に意味はないだろう」
「そうでしょうか。なら、いいのですが」
玲燕は解せないと言いたげに、呟く。
先ほどまで吹いていた風がなくなり、凧が地面に落ちると同時に鬼火もかき消えた。
◆ 第四章 真相
廊下を歩きながら、玲燕は身に覚えのない呼び出しに困惑していた。一度も交流したことがない蘭妃が、玲燕に会いたいと言っているというのだ。
「一体何の用かしら?」
「さあ? 私にはわかりません」
言付けを預かった鈴々に聞いても、首を傾げるだけだ。
蘭妃がいる香蘭殿(こうらんでん)に向かう最中、長い回廊を歩きながら理由を考える。
しかし、一切思い当たることがない。
香蘭殿の手前には、美しく手入れのされた庭園が見えた。