男はナイフで胡麻餅に二カ所切れ目を入れて、目寸の三分の一を切り取った。
「では、今度は天佑様。大きい方を二等分して下さい」
「わかった」
玲燕に促された天佑は、ナイフを手に取るとそれを半分に切る。
三つに切られた胡麻餅はほぼ等分に見えるが、よく見ると微妙に大きさが違う。
「では、私はこれを頂きます」
そういうと、玲燕はその中で一番大きい胡麻餅を手に取り、口に放り込む。
そして、玲燕の行動に唖然とする男ににこりと笑いかけた。
「では、次は陛下がお取り下さい。ご自分達で三等分に切り分けたのだから、不満などないでしょう?」
それを聞いた途端、男は耐えきれぬ様子で笑いだした。
「ははっ! なるほど、これは面白い奴だ。それに、よく俺が皇帝だと気付いたな?」
「見ればわかります」
「どの辺で? わざわざ、普通の袍服を着てきたのに」
男──変装姿の潤王は自分の来ている袍服を指さす。
「まず、吏部侍郎であられる天佑様の部屋にノックもなしに入ってきたこと。すぐに高位の身分だとわかりますが、そのくせ高い身分を表わす色の袍服を着ているわけでなければ、腰に革帯もしていらっしゃらない。なのに、刀をぶら下げるというちぐはぐさ。さらに、髪に薄らと冕冠(べんかん)を被っていた後が付いている。もう、『私は皇帝です』と言っているようなものです。そして決定的なことがひとつ。天佑様にしか言っていないはずの私が錬金術師であるという事実を、あなた様は知っていました。そうでなければあのようなおかしな質問を突然したりはしないでしょう?」
淡々とした玲燕の解説に潤王は目を丸くしたが、再び声を上げて笑い出す。
「これは見事だ。さすがは天佑が連れてきただけある」
そのやりとりを眺めていた天佑は、会話が一旦途切れたタイミングを見計らっておもむろに口を開く。
「英明様。改めてご紹介いたします。こちらが錬金術師の葉(ヨウ)玲燕殿です」
英明とは、潤王の真名だ。それを呼ぶことを許されるとは、よほど天佑は皇帝の覚えめでたいのだろうと玲燕は悟った。
一方の潤王は、ふむと頷いた。
「玲燕か。玲は美しさを、燕は安らぎを意味する。よい名だ」
「お褒め頂き、ありがたき幸せにございます」
玲燕は深々と頭を下げる。
「ところで、鬼火の犯人捜しは進んでいるか?」
潤王と視線が絡む。
口元は穏やかに微笑んでいるが、じっとこちらを見つめる瞳の眼光は鋭い。玲燕の能力を見極めようとしているように見えた。
「まだです」
玲燕は首を横に振る。
「解決に向けて、何か希望はあるか?」
「できるだけ多くの、疑わしき人々の情報がほしいです。あとは──」
玲燕は口ごもる。
「なんだ? 言ってみろ」
潤王は逡巡する玲燕の迷いを断ち切るように、先を促す。
「僭越ながら申し上げます。私が謎を解明する際は、多くの人の前で推理を披露したいと思います」
「ほう? なぜだ?」
「私の錬金術は天嶮学の系統をなすもの。天嶮学がまがいものではないと知らしめるためです」
玲燕はまっすぐに潤王を見つめる。
偽りの妃である玲燕が皇帝を凝視することは本来あってはならない不敬だが、玲燕はそれをわかっていて敢えて潤王を見つめた。
潤王は驚いたように僅かに目を見張る。そして、口元をふっと綻ばせた。
「天嶮学がまがいものでないことを、か。なるほど。お前の意思はよくわかった」
よいとも悪いとも言わない返事だった。しかし、少なくとも拒否ではないと玲燕は受け取った。
「楽しかった。また今度会おう。天佑も、邪魔したな」
潤王は片手を上げ、立ち上がる。
その後ろ姿を、玲燕はしばし見つめる。完全に背中が見えなくなったところで、どっと肩から力が抜けるのを感じた。
「驚いた……。陛下は……その、なんというか。型破りな方ですね」
ただの官吏のふりをしてふらりと臣下の元を訪れたり、天佑に〝宦官の栄佑〟という偽の身分を与えたり。潤王の普段の仕事ぶりは直接目にしたことがないが、『皇帝らしくない』と反対派が多いのも頷ける。
「驚いていた割には、随分と堂々と話しているように見えたが」
天佑は笑う。
「それにしても、天佑様は随分と陛下から信頼されているのですね。後宮との秘密通路も知っているし」
「あのお方とは付き合いが長いから」
「ふうん。……そう言えば、先ほど礼部の雲流様が天佑様の体調を気遣っておられましたが、どうかされたのですか?」
玲燕が知り合ってからの天佑は健康そのものだ。連日職場に泊まり込むほどの仕事ぶりは、病気とは無縁に見える。
玲燕は不思議に思い、天佑に尋ねる。
「まあ、そうだな」
天佑はふいっと玲燕から視線を逸らす。その様子におやっと思った。
(もしかして、今も体調が万全でない?)
天佑は自分の過去を玲燕話したがない。
心配になった玲燕は「もう体調は──」と口を開きかけるが、すぐにむぐっと言葉を詰まらせた。天佑に、先ほど切った胡麻餅を口に突っ込まれたのだ。
「ほら、食べろ。先ほどの茘枝の代わりだ」
「にゃにふぉふふほうぇしゅは!」
「ん?」
天佑は首を傾げる。
玲燕は口に入れられた餅をもぐもぐと咀嚼し、お茶と共にゴクンと飲み込んだ。
「何をするのですか!」
「茘枝に負けないくらい旨いだろう?」
頬を膨らませる玲燕を見つめ、天佑はまた楽しげに笑ったのだった。
◇ ◇ ◇
パチン、と碁石を置く小気味よい音が鳴る。
碁盤を見つめる潤王は、腕を組んだ。
「囲碁はあまりたしなまないという割には、なかなかやるな」
「お褒めに授かり光栄にございます」
玲燕は表情を変えず、頭を少し下げる。その様子を見つめ、潤王はふっと表情を和らげた。
「だが、まだまだだな」
パチン、と碁石を置く音がまた響く。碁盤を見る玲燕は眉根を僅かに寄せた。
(蓮妃様から陛下は囲碁が上手いとは聞いていたけど、なまじお世辞ではないようね)
菊花殿にいた玲燕のもとに見慣れぬ宦官達が訪れたのは、つい数時間ほど前のこと。
『菊妃様。今宵、陛下の夜伽のお相手に選ばれましたこと、お喜び申し上げます。つきましては、夜伽の作法についてご説明させていただきます』
かしこまってそう告げた宦官を見つめたまま、玲燕は暫し動きを止める。
『……何かの間違いでは?』
数十秒の沈黙ののちに口を出たのは、そんな台詞だった。なぜなら、玲燕は偽りの妃であり自分が夜伽に召されることなど絶対にないと高をくくっていたから。
『お喜びのあまり驚かれるのはよくわかりますが、間違いではございません。陛下をお悦びになされるよう、精一杯お勤めなさってください』
『えっと……、内侍省の栄佑様にお目にかかることはできる?』
『栄佑殿は生憎、本日はお休みにございます』
玲燕は遠い目をする。
(今日は天佑の日なのね……)
あの人に休みなどない。栄佑が休みというなら、天佑として働いているのだろう。
『実は私、本日体調が──』
『それでは、早速準備にかかりましょう』
玲燕の仮病の言い訳を述べる間もなく、前に立つ宦官がパチンと合図の手を叩く。
『そこの女官、手伝いを』
『はい、お任せくださいませ』
なぜか鈴々まで普通に準備しようとする。
『えっ、ちょっと』
そんなこんなで、玲燕は潤王の夜伽の間に強制連行されたのだった。
「それにしても、皇帝の夜伽に召されて他の男の名を呼びながら脱走しようとする妃など、前代未聞だぞ」
「契約外案件が発生するかと思ったのです」
「それは期待を裏切って悪かった」
くくっと潤王が笑う。
「それで、今日はどうして私を? まさか、夜通し囲碁を打つために呼び出したわけではないでしょう?」
玲燕は囲碁盤を挟んで向かい合う潤王を見つめる。
「どう思う?」
潤王は質問に答えることなく、逆に玲燕に問い返してきた。
玲燕ははあっと息を吐く。
「先日、天佑様から渡された資料類を読んでいたときに知ったのですが、陛下は幼い頃、宋(そう)家にいらっしゃったのですね」
幼い皇子達が貴族の家で一定期間を過ごすのは、光麗国ではよく見られる風習だ。
「私の予想では、桃妃様をお守りするためです」
「なぜそう思う?」
「私を夜伽に呼びながら、夜伽を求めなかったからです」
玲燕は潤王をまっすぐに見返した。
「陛下の皇位継承権は、元々さほど高くありませんでした。大明で疫病が流行って皇子達が次々と亡くなる前は、陛下が皇帝になるなど誰も予想しておりませんでした。当時、陛下は宋家に婿入りすることなっていたのではないですか?」
潤王が預けられていた宋家は地方の有力貴族であり、桃妃の実家でもある。
一夫多妻制が敷かれる後宮では多くの男児が産まれるのが常だが、皇帝になれるのはひとりのみ。残りの皇子は多くの場合、国内各地の貴族の元に婿入りする。そして、婿入り先の筆頭候補になるのは幼いときに預けられた貴族であることが多い。
玲燕は、潤王もその慣例に則り、宋家に婿入りすることが決まっていたのではないかと予想したのだ。
「私は不思議だったのです。なぜ、おひとりだけご実家の身分が劣る桃妃様を妃として娶ったのだろうと。陛下は、梅妃様、蓮妃様、蘭妃様の三人は政権安定のために、桃妃様だけは私情で娶ったのではないですか?」
潤王には現在、玲燕を除けば四人の妃がいる。梅妃、蓮妃、蘭妃、桃妃だ。そのうち桃妃を除く三人はいずれも国内有数の有力貴族の娘であり、桃妃だけ出身が見劣りする。
以前、潤王は全ての妃を平等に夜伽に呼ぶと蓮妃から聞いたことがある。どうしてまだ子供としか言えないような年頃の蓮妃まで平等に夜伽に呼ぶのか。そして、偽りの妃である玲燕まで。玲燕を夜伽に呼ばなくても抗議する貴族などいないのに。
しかし、全ては桃妃を少しでも多く呼ぶためだと考えれば納得いく。