――昼四ツ頃、天英寺。
私はその言葉に心を踊らせ、早朝から屋敷の調理場できんぴらを大量に作っていた。
「こんなにたくさん、どうするんですか」
「姫さん、まかないですか?」
「うん。ちょっとね」
私は料理番をしてくれている我が家の女中に怪しまれつつ、曖昧に言葉を濁しながらも、せっせとごぼうを炒め、おにぎりを握る。
それから、大奥入りをする時に父が仕立ててくれた、一張羅。南天に椿が描かれた花浅葱色の振り袖に腕を通し、身支度を整えた。
(こんな私でも、それなりに見えるかも)
鏡の前で浮かれて頬を染める、自分の姿を確認する。
そして藪椿の油を丹念に刷り込み結った髪に、帷様にもらった珊瑚の根掛けを留め、簪を刺す。
藪椿効果か、今日の髪はいつもより艷やかで美しいような気がした。
(これなら、お美しくて、色男な帷様の隣に立っても恥ずかしくない)
そうやって鏡に映る自分を励ます。
「さて、そろそろ出ようかな」
私は風呂で包んだお重に詰めたきんぴらとおにぎり。それから伊桜里様の墓前に手向ける花束を抱え、先ずは母の仏壇の前で報告する。
(今日は帷様にお会いするの。お慕いするだけならいいよね、母様)
既に他界した母から明確な返事はない。
けれど、今までで一番前向きで明るい報告が母に出来た事は確かだ。
その事実に勇気をもらい、今度は父のいる座敷へと向かう。
「父上、よろしいでしょうか?」
私は膝を折り、襖の外から声をかける。
「入れ」
中からはいつも通りの平坦な父の声が聞こえる。
「失礼いたします」
私は深々と頭を下げてから、膝を折ったまま敷居を跨ぐ。
そしていつでも逃げ出せる位置……もとい下座に腰を落ち着け、脇に風呂敷を置いた。
「父上、今から天英寺に行って参ります」
「そうか」
父はこちらを向くこともなく、手元の書状を見ながら返事をした。
「あの、昨日は公方様の御前でありながら、分をわきまえる事なく、発言してしまい申し訳ございませんでした」
私は畳におでこをつける勢いで謝罪する。
思えば昨日の私は光晴様に踊らされたとは言え、何もかも正直に話しすぎた。
(流石にあれは無礼であったと、叱られてもしょうがない)
一晩経って、冷静になった私は反省したのである。
「頭を上げなさい」
父の声に答えるように、姿勢を正す。
「公方様はご機嫌で帰宅された。だから心配するでない」
「……はい」
父の言葉に私はホッとする。
「それよりも、これを確認しなさい」
父はそう言うと、私を手招きした。
「次の任務地の件でしょうか?」
私は父の元ににじり寄る。
「自分で確かめなさい」
父は一枚の紙切れを差し出した。
私はやたら紙触りの良い紙切れを受け取り、言われた通り即座に目を通す。
(えっ)
私は素直に驚きを隠せない。
何故ならその紙には光晴様の言葉で、帷様と私の婚姻を認めるという旨が記載されていた。しかも最後に光晴様の名と共に、服部半蔵正秋と父の署名とそれぞれの判が押されている。
「父上、これは……」
(いわゆる婚姻許可状なのでは!?)
その事に気付いた私は途端に紙を持つ手が震え出す。
「公方様のご命令だ。お前はそれに従えば良い」
父はいつもの無表情な顔で淡々と告げた。
「でも私は誰かと婚姻を結ぶ資格などない者です」
帷様に会えると、先程まで浮かれ飛んでいた気持ちが一気に萎えていく。
確かに帷様と結ばれたい。そう願う気持ちはある。
(でも願うだけであって、私は誰かと結婚なんて出来ない)
それは変えられない運命だ。
「帷様とお前は宗門人別改帳に記載のない、この国に登録されておらぬ者達だ」
父は真っ直ぐ私を見つめながら言い放つ。
「しかし、私を含むお前達を知る者からしてみれば、そんなのは些細なこと。何故ならば私にとってお前は大事な娘であり、家族だ。そして伊賀者達からすれば、お前は彼らの良き友であろう?」
普段はあまり表に出さない父の本音が明かされる。
そして、私にとってかけがえのない仲間の事を持ち出され、私は俯く事しか出来ない。
「宗門人別改帳に記載されてなくとも、お前達の事を知り、幸せを願う者がきちんとこの世にいる。そして何処に記載されていなくとも、その紙は帷様が、そしてお前がしっかりとこの国に住まうことを証明していると、そう言う事だ」
父は私に諭すように優しく語りかける。
「お前はお前の思うように生きればよい。もし何か困ったことがあれば、いつでも帰って来ればいい。ここはお前の家なのだからな」
私は堪えきれない感情と共に顔をあげる。
すると、父はそんな私に手を伸ばす。
「父上……」
私は感極まり、言葉にならない。
せめてこちらに伸ばされた父の手を握り返そうと手を伸ばす。
「とは言え、物事には順序という物があろう。先ずは婚約とし、二人の間に問題がないようであれば、来年の春先にでも祝言をあげれば良い」
そう言うと父は私の手元から、するりと天下人である光晴様の有難き証書を抜き取った。
そして奪われまいという勢いで、懐にしまい込んでしまう。
(え?)
呆気に取られた私は、行き場を失った手を彷徨わせたまま固まる。
(流石父上)
目にも止まらぬ早さだった。
思わず感心してしまう有様だ。
「これからも浮かれる事なく、精進するように」
すっかり伊賀忍の頭の顔に戻った父。
「……期待に応えられるよう頑張ります」
私はいつも通り、くノ一連い組に所属する忍び者。
ただの琴葉に成り下がり、父に頭を下げておく。
「では、行って参ります」
何事もなかったかのように立ち上がり、大事な風呂敷包みを抱え上げる。
「道中気をつけてな」
父は相変わらず書状に目を向けたまま、感情のこもらない声で私に告げる。
「はい」
私はもう一度深く頭を下げてから、座敷を後にようと廊下に出て、襖を閉める瞬間。
少しだけ気の迷いが生じ、父に声をかける。
「父上」
私は襖の隙間から、父に声をかける。
「なんだ?」
父は相変わらず、視線を私に向けてくれない。
「ありがとうございます」
「……礼を言われるような事はしていない」
父はぶっきらぼうに答えたが、僅かに頬を緩め、組んだ腕に力が入っているように見える。
「ふふっ、そうでした」
私は口元を緩め、そのまま静かに襖を閉じたのであった。
***
通常であれば鍛錬も兼ね、滅多に駕籠に乗る事のない私。しかし今日は自分史上最強だと思えるほどおめかしをしている上に、お重の入った風呂敷包みを抱えつつ、花束を持っている。
と言うわけで、本日に限り、服部家の黒漆塗りで仕上げた豪華な駕籠を利用し、天英寺に向かうことを自分に許した。
「わっしょい、わっしょい」
駕籠者達の軽快な掛け声が外から聞こえる。
まるで祭りの神輿を担ぐような元気な声に、私の心は嫌でも浮かれてしまう。
「それに、やっぱり御駕籠は楽ちんよね」
ワサワサ揺られながら、駕籠の中でにんまりする。しかし楽を知ってしまうと、次から安易に駕籠に頼りたくなってしまうのは困りもの。
「けど私はくノ一連、い組の女」
その上、父に「精進しろ」と言われたばかり。
よって己を律し、今後は自力で移動することを心がけようと揺れる駕籠の中で誓うのであった。
程なくして天英寺に辿り着く。
「ありがとう」
私は駕籠者達に礼を言い、駄賃を渡して見送る。
「どうも」
「お気をつけて」
「では」
彼らは皆、礼儀正しくお辞儀をして去って行った。その姿を目で追いながら気付く。
「あ、帰り……」
どうも私は浮かれているようである。
「でもま、帰りは軽いし」
私は手にしたお重と花束を抱え直し、墓地に向かう。
そして墓地についた私は、途端に緊張し足の進みが遅くなる。
何故なら、予め場所を聞いていた伊桜里様の墓前の前に、いつも通り黒染めの紋付袴姿の近衛と共に、帷様の姿を発見したからだ。
(勢いで来ちゃったけど、緊張する)
と言うか、今更何と話しかけるのが正解なのかわからない。
(と、とりあえず当たって砕けろ的な?)
もはや逃げも隠れもしないでござる。
そんな勢いで私はズンズン石畳の上を進む。
程なくして私は墓前に手を合わせる、帷様まであと五尺八寸といったところ。丁度畳一畳分くらいの距離まで到達してしまった。
墓前に向かい目を閉じている帷様の邪魔しないよう、足を止める。
今日の帷様は藍色に染められた紋付き袴姿だ。
そして、大きな背中に入る紋は東雲の物ではなく、柳生家のもの。その家紋を眺め、私は帷様が歩んできた道を垣間見た気がして、胸が苦しくなる。
(だって帷様が東雲家の紋所が入った羽織を着る時は、光晴様の影となった時ってことだろうし)
本来であれば堂々と東雲家の紋を身につける事が許される身分でありながら、帷様はそれを背負う事はかなわない。
(それなのに、大きな責務を背負わされ生きている人)
けれど私はそんな帷様を可哀想だとは思わない。
何故なら、抱える責務の大きさは雲泥の差であっても、私だってずっと日陰を歩いて来た者だから。
(だから私は帷様の抱える気持ちを、誰よりもわかってあげられる)
それは私にしか出来ないこと。
自然にそんな気持ちが沸いてきた瞬間、私は改めて帷様に恋をしている事を自覚した。
(やだ、恥ずかしい……)
一人恋する気持ちに浸っていると、昨日我が家で会ったばかりの、吉良様が帷様の側に行きやすいよう、無言で道を譲ってくれた。そして私の風呂敷包みまでもを預かるという優しさを見せてくれた。
「ありがとうございます」
私が小さな声で礼を言うと。
「来たか」
こちらに気付いた帷様が振り向き、私の姿を確認してぎこちなく、けれどしっかりと微笑んでくれた。そのどこか不器用さが浮かぶ笑顔に、思わず顔が熱くなる。
「お久しぶりです」
帷様の顔を直視するのが恥ずかしくなり、私は手にした花を顔の前に翳し、ひたすら隠した。
「何をしている」
訝しげな声を出す帷様。
(そりゃそうよね)
だけど何だか恥ずかしいのである。
私は帷様の顔を見ないようにして、挙動不審気味に墓前に、花をお供えする。
花立には、すでに南天の赤くて丸い実がついた枝が挿してあった。私はそこに自分の持って来た桃色の花を添える。
「その花は、あまり見ない花だな」
私に場所を譲った帷様の声が背後から飛んでくる。
「伊桜里様が好きだったお花です。麝香連理草と言う名のお花です」
まるで蝶が舞うような可憐な桃色の花。
それはまさに伊桜里様のようだと思う。
「元々は異国からの舶来物だったようです。何でもこのお花には「優しい思い出」という花言葉があるんだとか」
「花言葉?」
「はい、それぞれのお花に意味を持たせることのようです」
「それに何か意味があるのか?」
私は思わず吹き出してしまう。
「なんだ、おかしな事を言ったか?」
私は振り向き、帷様の顔を見つめる。
「実は、私も花言葉という単語を耳にした時、今の帷様と同じように、友人に同じ事をたずねたのです」
(そして、い組のみんなに、そんな事を言うなんて興醒めだと非難されたんだっけ)
私はその時の事を思い出し、笑顔になる。
「何でも異国では、お花に込められた言葉というものは、相手に気持ちを伝える手段の一つとなっているようですよ」
「ふむ、簪などを贈るようなものか」
何気なく放った帷様の言葉に私は固まる。
(それって)
私の事を想って下さっているということ?
何故なら、桃源国でも簪を女性に贈る事に意味がつけられているからだ。
それはたいてい、「あなたを一生傍で見守ります」という、かなり熱烈で愛が深い意味だ。
私は真意を探ろうと、帷様の顔を凝視する。
「なるほど優しい思い出。まさに伊桜里そのもの……と言いたい所だが、俺はわりとあいつに遊ばれていたからな」
帷様はそう呟き、少しだけ顔を綻ばせると、再び墓前に視線を戻した。
帷様の頭の中は伊桜里様との思い出で埋められてしまったようだ。
(駄目だ)
全然私の気持ちが伝わっていない。
少し拗ねる気持ちを抱きつつ、私はすぐにその気持ちを拗らせる前に手放す事にする。
何故なら今は優しい横顔を見せる帷様のように、伊桜里様の事を想う時間にあてる使い方が正しい。
私達は生きている。そして生に囚われた私達は、苦しくとも前に進むため、亡くなった人の事を常に想い過ごせやしない。
だからせめて、こうしてお墓参りをしている時だけは、普段記憶から薄れていく故人の冥福を祈り、偲ぶべきなのだ。
「本当は桜がいいかなと思ったんですけど」
私は帷様の隣に並び、伊桜里様の眠る墓に顔を向ける。
「まだ何処も咲いていないだろう」
「ええ。ですから、この花にしました」
私は墓前に向かって微笑む。
それから火打石で線香に火をつけ、墓前にあげる。
そしてそっと両手を合わせ目を瞑った。
大奥で色々あったこと。
美麗様が全てを白状したこと。
そして、私が帷様をお慕いしていること。
それから最後に光晴様が私の背中を押して下さったことを、伊桜里様にしっかりと伝える。
(どうか、安らかに眠ってくださいませ)
そして、願わくは来世では、誰よりも幸せになってほしいと切に願ったのであった。
私はその言葉に心を踊らせ、早朝から屋敷の調理場できんぴらを大量に作っていた。
「こんなにたくさん、どうするんですか」
「姫さん、まかないですか?」
「うん。ちょっとね」
私は料理番をしてくれている我が家の女中に怪しまれつつ、曖昧に言葉を濁しながらも、せっせとごぼうを炒め、おにぎりを握る。
それから、大奥入りをする時に父が仕立ててくれた、一張羅。南天に椿が描かれた花浅葱色の振り袖に腕を通し、身支度を整えた。
(こんな私でも、それなりに見えるかも)
鏡の前で浮かれて頬を染める、自分の姿を確認する。
そして藪椿の油を丹念に刷り込み結った髪に、帷様にもらった珊瑚の根掛けを留め、簪を刺す。
藪椿効果か、今日の髪はいつもより艷やかで美しいような気がした。
(これなら、お美しくて、色男な帷様の隣に立っても恥ずかしくない)
そうやって鏡に映る自分を励ます。
「さて、そろそろ出ようかな」
私は風呂で包んだお重に詰めたきんぴらとおにぎり。それから伊桜里様の墓前に手向ける花束を抱え、先ずは母の仏壇の前で報告する。
(今日は帷様にお会いするの。お慕いするだけならいいよね、母様)
既に他界した母から明確な返事はない。
けれど、今までで一番前向きで明るい報告が母に出来た事は確かだ。
その事実に勇気をもらい、今度は父のいる座敷へと向かう。
「父上、よろしいでしょうか?」
私は膝を折り、襖の外から声をかける。
「入れ」
中からはいつも通りの平坦な父の声が聞こえる。
「失礼いたします」
私は深々と頭を下げてから、膝を折ったまま敷居を跨ぐ。
そしていつでも逃げ出せる位置……もとい下座に腰を落ち着け、脇に風呂敷を置いた。
「父上、今から天英寺に行って参ります」
「そうか」
父はこちらを向くこともなく、手元の書状を見ながら返事をした。
「あの、昨日は公方様の御前でありながら、分をわきまえる事なく、発言してしまい申し訳ございませんでした」
私は畳におでこをつける勢いで謝罪する。
思えば昨日の私は光晴様に踊らされたとは言え、何もかも正直に話しすぎた。
(流石にあれは無礼であったと、叱られてもしょうがない)
一晩経って、冷静になった私は反省したのである。
「頭を上げなさい」
父の声に答えるように、姿勢を正す。
「公方様はご機嫌で帰宅された。だから心配するでない」
「……はい」
父の言葉に私はホッとする。
「それよりも、これを確認しなさい」
父はそう言うと、私を手招きした。
「次の任務地の件でしょうか?」
私は父の元ににじり寄る。
「自分で確かめなさい」
父は一枚の紙切れを差し出した。
私はやたら紙触りの良い紙切れを受け取り、言われた通り即座に目を通す。
(えっ)
私は素直に驚きを隠せない。
何故ならその紙には光晴様の言葉で、帷様と私の婚姻を認めるという旨が記載されていた。しかも最後に光晴様の名と共に、服部半蔵正秋と父の署名とそれぞれの判が押されている。
「父上、これは……」
(いわゆる婚姻許可状なのでは!?)
その事に気付いた私は途端に紙を持つ手が震え出す。
「公方様のご命令だ。お前はそれに従えば良い」
父はいつもの無表情な顔で淡々と告げた。
「でも私は誰かと婚姻を結ぶ資格などない者です」
帷様に会えると、先程まで浮かれ飛んでいた気持ちが一気に萎えていく。
確かに帷様と結ばれたい。そう願う気持ちはある。
(でも願うだけであって、私は誰かと結婚なんて出来ない)
それは変えられない運命だ。
「帷様とお前は宗門人別改帳に記載のない、この国に登録されておらぬ者達だ」
父は真っ直ぐ私を見つめながら言い放つ。
「しかし、私を含むお前達を知る者からしてみれば、そんなのは些細なこと。何故ならば私にとってお前は大事な娘であり、家族だ。そして伊賀者達からすれば、お前は彼らの良き友であろう?」
普段はあまり表に出さない父の本音が明かされる。
そして、私にとってかけがえのない仲間の事を持ち出され、私は俯く事しか出来ない。
「宗門人別改帳に記載されてなくとも、お前達の事を知り、幸せを願う者がきちんとこの世にいる。そして何処に記載されていなくとも、その紙は帷様が、そしてお前がしっかりとこの国に住まうことを証明していると、そう言う事だ」
父は私に諭すように優しく語りかける。
「お前はお前の思うように生きればよい。もし何か困ったことがあれば、いつでも帰って来ればいい。ここはお前の家なのだからな」
私は堪えきれない感情と共に顔をあげる。
すると、父はそんな私に手を伸ばす。
「父上……」
私は感極まり、言葉にならない。
せめてこちらに伸ばされた父の手を握り返そうと手を伸ばす。
「とは言え、物事には順序という物があろう。先ずは婚約とし、二人の間に問題がないようであれば、来年の春先にでも祝言をあげれば良い」
そう言うと父は私の手元から、するりと天下人である光晴様の有難き証書を抜き取った。
そして奪われまいという勢いで、懐にしまい込んでしまう。
(え?)
呆気に取られた私は、行き場を失った手を彷徨わせたまま固まる。
(流石父上)
目にも止まらぬ早さだった。
思わず感心してしまう有様だ。
「これからも浮かれる事なく、精進するように」
すっかり伊賀忍の頭の顔に戻った父。
「……期待に応えられるよう頑張ります」
私はいつも通り、くノ一連い組に所属する忍び者。
ただの琴葉に成り下がり、父に頭を下げておく。
「では、行って参ります」
何事もなかったかのように立ち上がり、大事な風呂敷包みを抱え上げる。
「道中気をつけてな」
父は相変わらず書状に目を向けたまま、感情のこもらない声で私に告げる。
「はい」
私はもう一度深く頭を下げてから、座敷を後にようと廊下に出て、襖を閉める瞬間。
少しだけ気の迷いが生じ、父に声をかける。
「父上」
私は襖の隙間から、父に声をかける。
「なんだ?」
父は相変わらず、視線を私に向けてくれない。
「ありがとうございます」
「……礼を言われるような事はしていない」
父はぶっきらぼうに答えたが、僅かに頬を緩め、組んだ腕に力が入っているように見える。
「ふふっ、そうでした」
私は口元を緩め、そのまま静かに襖を閉じたのであった。
***
通常であれば鍛錬も兼ね、滅多に駕籠に乗る事のない私。しかし今日は自分史上最強だと思えるほどおめかしをしている上に、お重の入った風呂敷包みを抱えつつ、花束を持っている。
と言うわけで、本日に限り、服部家の黒漆塗りで仕上げた豪華な駕籠を利用し、天英寺に向かうことを自分に許した。
「わっしょい、わっしょい」
駕籠者達の軽快な掛け声が外から聞こえる。
まるで祭りの神輿を担ぐような元気な声に、私の心は嫌でも浮かれてしまう。
「それに、やっぱり御駕籠は楽ちんよね」
ワサワサ揺られながら、駕籠の中でにんまりする。しかし楽を知ってしまうと、次から安易に駕籠に頼りたくなってしまうのは困りもの。
「けど私はくノ一連、い組の女」
その上、父に「精進しろ」と言われたばかり。
よって己を律し、今後は自力で移動することを心がけようと揺れる駕籠の中で誓うのであった。
程なくして天英寺に辿り着く。
「ありがとう」
私は駕籠者達に礼を言い、駄賃を渡して見送る。
「どうも」
「お気をつけて」
「では」
彼らは皆、礼儀正しくお辞儀をして去って行った。その姿を目で追いながら気付く。
「あ、帰り……」
どうも私は浮かれているようである。
「でもま、帰りは軽いし」
私は手にしたお重と花束を抱え直し、墓地に向かう。
そして墓地についた私は、途端に緊張し足の進みが遅くなる。
何故なら、予め場所を聞いていた伊桜里様の墓前の前に、いつも通り黒染めの紋付袴姿の近衛と共に、帷様の姿を発見したからだ。
(勢いで来ちゃったけど、緊張する)
と言うか、今更何と話しかけるのが正解なのかわからない。
(と、とりあえず当たって砕けろ的な?)
もはや逃げも隠れもしないでござる。
そんな勢いで私はズンズン石畳の上を進む。
程なくして私は墓前に手を合わせる、帷様まであと五尺八寸といったところ。丁度畳一畳分くらいの距離まで到達してしまった。
墓前に向かい目を閉じている帷様の邪魔しないよう、足を止める。
今日の帷様は藍色に染められた紋付き袴姿だ。
そして、大きな背中に入る紋は東雲の物ではなく、柳生家のもの。その家紋を眺め、私は帷様が歩んできた道を垣間見た気がして、胸が苦しくなる。
(だって帷様が東雲家の紋所が入った羽織を着る時は、光晴様の影となった時ってことだろうし)
本来であれば堂々と東雲家の紋を身につける事が許される身分でありながら、帷様はそれを背負う事はかなわない。
(それなのに、大きな責務を背負わされ生きている人)
けれど私はそんな帷様を可哀想だとは思わない。
何故なら、抱える責務の大きさは雲泥の差であっても、私だってずっと日陰を歩いて来た者だから。
(だから私は帷様の抱える気持ちを、誰よりもわかってあげられる)
それは私にしか出来ないこと。
自然にそんな気持ちが沸いてきた瞬間、私は改めて帷様に恋をしている事を自覚した。
(やだ、恥ずかしい……)
一人恋する気持ちに浸っていると、昨日我が家で会ったばかりの、吉良様が帷様の側に行きやすいよう、無言で道を譲ってくれた。そして私の風呂敷包みまでもを預かるという優しさを見せてくれた。
「ありがとうございます」
私が小さな声で礼を言うと。
「来たか」
こちらに気付いた帷様が振り向き、私の姿を確認してぎこちなく、けれどしっかりと微笑んでくれた。そのどこか不器用さが浮かぶ笑顔に、思わず顔が熱くなる。
「お久しぶりです」
帷様の顔を直視するのが恥ずかしくなり、私は手にした花を顔の前に翳し、ひたすら隠した。
「何をしている」
訝しげな声を出す帷様。
(そりゃそうよね)
だけど何だか恥ずかしいのである。
私は帷様の顔を見ないようにして、挙動不審気味に墓前に、花をお供えする。
花立には、すでに南天の赤くて丸い実がついた枝が挿してあった。私はそこに自分の持って来た桃色の花を添える。
「その花は、あまり見ない花だな」
私に場所を譲った帷様の声が背後から飛んでくる。
「伊桜里様が好きだったお花です。麝香連理草と言う名のお花です」
まるで蝶が舞うような可憐な桃色の花。
それはまさに伊桜里様のようだと思う。
「元々は異国からの舶来物だったようです。何でもこのお花には「優しい思い出」という花言葉があるんだとか」
「花言葉?」
「はい、それぞれのお花に意味を持たせることのようです」
「それに何か意味があるのか?」
私は思わず吹き出してしまう。
「なんだ、おかしな事を言ったか?」
私は振り向き、帷様の顔を見つめる。
「実は、私も花言葉という単語を耳にした時、今の帷様と同じように、友人に同じ事をたずねたのです」
(そして、い組のみんなに、そんな事を言うなんて興醒めだと非難されたんだっけ)
私はその時の事を思い出し、笑顔になる。
「何でも異国では、お花に込められた言葉というものは、相手に気持ちを伝える手段の一つとなっているようですよ」
「ふむ、簪などを贈るようなものか」
何気なく放った帷様の言葉に私は固まる。
(それって)
私の事を想って下さっているということ?
何故なら、桃源国でも簪を女性に贈る事に意味がつけられているからだ。
それはたいてい、「あなたを一生傍で見守ります」という、かなり熱烈で愛が深い意味だ。
私は真意を探ろうと、帷様の顔を凝視する。
「なるほど優しい思い出。まさに伊桜里そのもの……と言いたい所だが、俺はわりとあいつに遊ばれていたからな」
帷様はそう呟き、少しだけ顔を綻ばせると、再び墓前に視線を戻した。
帷様の頭の中は伊桜里様との思い出で埋められてしまったようだ。
(駄目だ)
全然私の気持ちが伝わっていない。
少し拗ねる気持ちを抱きつつ、私はすぐにその気持ちを拗らせる前に手放す事にする。
何故なら今は優しい横顔を見せる帷様のように、伊桜里様の事を想う時間にあてる使い方が正しい。
私達は生きている。そして生に囚われた私達は、苦しくとも前に進むため、亡くなった人の事を常に想い過ごせやしない。
だからせめて、こうしてお墓参りをしている時だけは、普段記憶から薄れていく故人の冥福を祈り、偲ぶべきなのだ。
「本当は桜がいいかなと思ったんですけど」
私は帷様の隣に並び、伊桜里様の眠る墓に顔を向ける。
「まだ何処も咲いていないだろう」
「ええ。ですから、この花にしました」
私は墓前に向かって微笑む。
それから火打石で線香に火をつけ、墓前にあげる。
そしてそっと両手を合わせ目を瞑った。
大奥で色々あったこと。
美麗様が全てを白状したこと。
そして、私が帷様をお慕いしていること。
それから最後に光晴様が私の背中を押して下さったことを、伊桜里様にしっかりと伝える。
(どうか、安らかに眠ってくださいませ)
そして、願わくは来世では、誰よりも幸せになってほしいと切に願ったのであった。