ずっと手にしたいと願っていた伊桜里(いおり)様が残した書簡(しょかん)

 そこには「先立つ不孝(ふこう)をお許し下さい」という謝罪から始まる、一人の女性の葛藤(かっとう)する心、そして懺悔(ざんげ)の想いが切々と(しる)されていた。

 まず最初に書かれていたのは美麗(みれい)様にされたこと。

 お引きずりになった着物の(すそ)を踏まれるといった些細(ささい)なものから、物が良く盗まれるという事も。それから美麗様によって、ある事ない事を周囲に吹き込まれるので、自らその(うそ)を否定するため、大奥内を御火乃番(おひのばん)達と巡回(じゅんかい)して回るようになったとも(しる)されていた。

 つまり、伊桜里様は美麗様が撒き散らす嘘から、自らの評判を守るために、大奥内を出歩いていたという事のようだ。

 そして。

 (やっぱり鼻緒(はなお)の件を伊桜里様は知っていたんだ)

 それにより、流産する事となった伊桜里様は心を無くしたと書かれていた。

 そして美麗様が証言した通り、光晴様をうまく言いくるめ、美麗様を抱くように仕向けた事もしっかりと伊桜里様の綺麗な文字で記されていた。

 しかも、美麗様に子が出来ぬよう、避妊薬として有名な朔日丸(ついたちがん)を溶いたお茶を飲ませたという自白までも。

 (でも、あれって眉唾(まゆつば)ものって話だけど……)

 朔日丸は一の日に一回服用するだけで、避妊効果があるとされている薬だ。しかし成分も明らかにされていない上に、確実ではない事から、効果のほどは首を傾げる者が多いのが現状だ。

 (それでも、そんな詐欺まがいの薬に頼ってしまうほど、美麗様に妊娠して欲しくなかったって事か)

 その気持ちがあるならば、更に光晴(みつはる)様と子作りを頑張れば良かったのだ。

 (でもそう思えるのは、私に子が出来た経験がないからかも)

 きっと一度は宿った命を失ったことは、あの伊桜里様を鬼にしてしまうほど、残酷な出来事なのだろう。

 そしてそれから伊桜里様は心から慕う光晴様を復讐の道具に使ったこと。それを後悔し始め、自分は汚れた心の持ち主だと精神が病んでいったようだ。

 (そして自らで終わりにする事を考えはじめた)

 自死の思いに囚われた伊桜里様は、着々と準備を始める。

 美麗様の部屋で見つかった、小刀の装飾品はどうやら伊桜里様が仕組んだ物だったようだ。

 『美麗様を疑う者が現れた時、その者が気付くよう仕込んで欲しい』

 伊桜里様は美麗様付きの(つぼね)を買収し、頼んでいた。

 (確か帷様と美麗様の長局(ながつぼね)に呼び出された時)

 あの時、美麗様が怪我をしたと大騒ぎをしていたのは美麗様付きの局だったはずだ。

 (なるほど、あの人は内心美麗様の事を裏切っていたんだ)

 もしかしたら局は、鼻緒の件やお夏さんを自分の手先として言いように扱っていることを知っていたのかも知れない。

 (私だって知ってたら、美麗様を簡単に裏切る)

 私は美麗様のしたことを再度思い出し、憤慨(ふんがい)する気持ちで引き続き書簡をじっくり読み進める。

 『私が犯した罪を償うには、これしかないと思います。

 私がこの世を去る事で、美麗様の悪事が明るみになる。そして自分と同じような目に合う者が出ないことを切に願います。

 大奥は私が私でいる事が難しい、とても苦しい場所でした。けれど、それ以上に光晴様に出会えた事は幸せです。

 こんなに弱く、醜い心を持つ私をお慕いして下さってありがとうございます。あちらでお会い出来たら、同じ過ちを犯さないと、約束します。

 それからどうかこんな私の為に涙など流さないで下さいませ。そして私の分まで生きて下さい。この国には光晴様のお力がまだまだ必要ですから』

 遺書とも取れる文面を読み終えたあと、私は何とも言えない気持ちになる。それは伊桜里様に対する、納得出来ない怒りと悲しみ。それから切なさも混じる複雑なものだ。

 伊桜里様が勝手に命を絶った事は許されるものではない。しかし、そこまで彼女を追い詰めたのは間違いなく大奥という特殊な環境だ。

 (結局、伊桜里様も美麗様も、帷様に愛されたかっただけなのかな……)

 私はそんな感想を抱く。そして広げた書簡を丁寧に折りたたみ、漆塗(うるしぬ)りの小箱にそっと戻す。

 (これは没収(ぼっしゅう)しないと)

 私は漆塗りの小箱をしっかりと膝の上に乗せる。それからいつの間にか目の前に置かれていたらしい、湯気が立つお茶に手をのばす。

「あら、泣かへんの?」

 書簡を返す気がない事を(とが)めるでもなく、貴宮(たかのみや)様が私に質問を投げかけた。

 私は伸ばした手を戻し、無礼を承知でため息をつく。

「何で御台様(みだいさま)がこれをお持ちなのですか?」

 私は最後の仕上げとばかり、残された真相を知るために、貴宮様に鋭い視線を向けた。

「わたくしは伊桜里が病んでいく所をずっと見とった。なんにもせんと。ずっと傍観(ぼうかん)してました」

 貴宮様の可憐な声から残酷な告白が飛び出す。

「ですから、一つくらい、よろしことしよう思て」
「よろしこと、ですか?」
「そうどす。この遺書が公表されたら、伊桜里の本性も(おおやけ)のものとなる。それを阻止するため、わたくしは隠しとりました」

 貴宮様は「褒めて」と言いたげな、得意げな表情だ。

「一体、どうやって手に入れたのですか?」

 私は呆れる気持ちを押し殺し尋ねる。

「簡単どす。夏目(なつめ)から預かりました」

 (夏目……)

 私は記憶を手繰り寄せる。
 夏目様とは、伊桜里様付きの部屋方であった(つぼね)のことだ。確か彼女に帷様が使いを送ったところ「書簡は落としたのかも知れない」とそんな風に言っていたはずだ。

「夏目様は、書簡を紛失された。そう証言しているとうかがっておりますが」

 思い出した事を即座に貴宮様に確認する。

「そら口裏合わせをしたんどす。夏目もわたくしとおんなじ。伊桜里の心が鬼に喰われていくのを、阻止できなかった仲間どすから」
「つまり夏目様は後ろめたい気持ちがあるから、御台様に預けたと」
「たぶんそうとちがう?」

 貴宮様は可愛らしく首を傾げる。

「そもそも貴宮様は一連の騒動をご存知だったのですか?」
「ここは娯楽に飢えた大奥や。人の噂はお茶()けに丁度よろしどすよ?」

 (お茶請け……)

 私は人と比べた時、感情のズレを感じる事がある。そしてそれは、私を取り巻く環境のせいだと思っている。けれど目の前のいちまさんは私以上に相当ズレた感覚をお持ちのようだ。

 (大奥という場所は、気付かぬうちに歪んだ人間が出来上がってしまうのだろうか?)

 それとも元から?
 思わずそんな失礼な疑問が頭を(かす)めた。

「わたくしは、生まれつき体が弱い。やからこちらに嫁に出されたの」

 突然明かされる脈略のない告白に、私は何と返すのが正解かわからず口を噤む。

「もしわたくしが殿さまの子を身籠ったと致す。すると朝廷と公儀、両方の血ぃ引いた子が誕生してまう。それって、えらい厄介でめんどいと思うやろ?」

 貴宮様は明るい声でとても重い話題を口にする。勿論私は言葉を返せない。

 この国は公儀と朝廷。この二大勢力が微妙な関係を築く上で成り立っている。
 そして現状、桃源国(とうげんこく)を統治する実質的な力は公儀側である東雲(しののめ)家が握っていると言っても過言ではない。

 (それは間違いない事実なんだけど)

 東雲家当主に与えられた「征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)」という地位は朝廷から授かったもの。つまり征夷大将軍は、朝廷の家臣という位置づけだという事になる。そしてその地位こそが、この国を東雲家が支配する事についての正当性に繋がるわけで。

 (朝廷との関係を切るわけにはいかない)

 つまり、公儀側は朝廷と安定した関係を築きながらも、実質的な力関係で朝廷を上回らなければならない。

 (だから、公儀側は公家(くげ)の血を引く貴宮様との子を望んではいない)

 何故なら、二大勢力の血を引く子が誕生すれば、その子を理由に朝廷が(まつりごと)に口を出しかねないからだ。そうなれば、この国の力関係が変わるかも知れない。もしその事が原因で乱世の世が訪れると言うのであれば、私も貴宮様と光晴様との間に子は望まない。

 非情にもそう思ってしまう。

「本心では、殿さまの大切な人がおらんようになったら、お飾りの妻であるわたくしも少しは救われる。そないなふうに思うとったけど、そうではおまへんのね」

 貴宮様は寂しげな笑みを浮かべながら、膝の上で両手を重ねる。

「殿さまは、余計わたくしから遠くなってしもたわ」

 横を向きどこか遠くを見つめる貴宮様。
 貴宮様が抱えているであろう葛藤や苦悩は、私の想像を遥かに超えるものだろう。

 様々な想いが交差し、私はその横顔をただ見つめる事しかできない。

「わたくしは、伊桜里を救いたかった。でもほんまは心の何処かで伊桜里を羨んでいたのかも知れへん。そやし救わなかった」

 貴宮様はまるで懺悔するように呟いた。

「好いた人と結ばれて幸せになって。そのお相手も伊桜里を大事にして。そないな光景を見せられたら、誰だって」

 ゆったりと一呼吸おいて貴宮様は続ける。

「どなたかを愛し、愛せたら、きっと幸せな人生やったはずと、ついそう思ってしまう。けれど皇女として産まれたわたくしには、そのような幸せを望む事など許されへんの」

 感情を押し殺したような表情で、可憐に微笑む貴宮様。

 (望む事など許されない……)

 私はその言葉を発した貴宮様のお気持ちが痛いほど理解できた。

 (だって私も同じだから)

 お互いこの世に産み出された瞬間から、重い運命を背負って生きている。そして貴宮様も私と同じように、この世に諦めと孤独を抱え、それでも生きているのだ。

「結局、わたくしは伊桜里を見捨ててしまったのかもしれへんなぁ」
「見捨てた……」

 またもや貴宮様の発した一言が私の胸に深く突き刺さる。何故なら私は伊桜里様のことを亡くなるまで忘れていた、薄情者だからだ。

「せやけど、わたくしにはどうする事も出来なかった。ここで一生を終えなければならぬのだから、敵はつくりとうない」

 貴宮様は言い訳をする子供のような口調で呟く。

「あぁ嫌だ。暇なものだから、つい話し込んでしまったわ」

 貴宮様は出されたお茶に手を伸ばす。そしてゆっくりとした動作でお茶で口を(うるお)すと、私をまっすぐ見つめた。

「伊桜里の書簡を、殿さまにお返しして頂ける?」
「どうして私に頼むのですか?」

 私は貴宮様の真意を探るように質問する。

「あんたは殿様の御庭番(おにわばん)なのやろ?」

 ずばり問われ、返答するつもりのない私は貴宮様の顔を見つめる。

「先程御台(みだい)様は公にならぬよう、書簡を隠していたと仰っていました。それなのに何故、今更この書簡の存在を公にしようとなさるのですか?」

 私は質問を返す。

「どなたかが、真実を暴き、美麗を懲らしめたからどす」

 貴宮様は少し間を置いてそう答えた。

「つまり、美麗様がお縄となった。よってこの書簡をもう誰も奪いに来ないからですか?」

 今度は私が投げかけた質問に対し、貴宮様が明言を避けるよう、ニコリと微笑む。

 (つまり、貴宮様は伊桜里様の書簡の番人をしていらしたと言う訳か)

 どうやら、それがどこを探しても見つからなかった、書簡の行方についての真相らしい。

 確かに長局に比べ、公方様が立ち入る事が多い御殿は警備が厳しい。それに、たとえお飾りだとしても、正妻である貴宮様には迂闊に近づく事は出来ない。だから貴宮様は大奥で最も安心安全に書簡を守る事が出来る。

 (たぶん貴宮様にとって書簡を守る事って)

 伊桜里様への懺悔(ざんげ)の気持ちがさせた事なのだろう。

 私は貴宮様の行動に納得し、膝に乗せた書簡の箱を強く掴む。

「あんたがそないしたいんやったら、今わたくしが話した事を殿さまにお伝えしてもええわ」

 付け足すようにそっけなく言った貴宮様の眼差しはどこか、懇願するようだ。その眼差しの意味を私はしばし考える。

 (たぶん、言えってこと?)

 貴宮様は帷様との間に子を望めない事をもうとっくに、受け入れている。

 (だってそうするしかないから)

 そして、ここから一生出られないことも納得されている。ただ、せめて帷様にだけには、自分の覚悟を理解して欲しいのかも知れない。

 たとえ子が望めなくとも精神的な繋がりがあれば夫婦にはなれる。それはここ大奥でも、きっと変わらない。

 私はいつでも話題の中心にいる、帷様の顔を思い浮かべる。そして、帷様に貴宮様の想いを伝えた時の事を想像してみた。

 (きっと「うまい」と同じような口調で「そうか」と一言だけ呟く)

 それできっと、他人事みたいな顔をするだろう。

 (うん、多分そう)

 帷様はいつだって、肝心な事は私に明かさない。
 だから本心をとても測りにくい人なのだ。

「伝わるかどうかは別として。でも貴宮様のお気持ちをしっかりと伝える努力はしてみます」

 私は遠慮がちに告げつつ、責任重大だと襟を正す気持ちになる。

 (最後のお勤めがそれか。頑張らないと)

 願わぬ運命を背負わされた同士である貴宮様。そんな彼女の力に少しでもなりたいと、私は珍しく熱くなる。

「お勤め、ご苦労様であらしゃいました。外でのご活躍、お祈り申し上げます」

 いちまさんみたいな愛らしい顔で貴宮様がニコリと微笑む。けれど、そのくるりとした大きな瞳はどこか寂しげで、私の胸はチクリと痛む。

 (私もあぁいう瞳をしているのかな)

 私は貴宮様をこの場に残して行く事に、少しだけ切ない感情を抱くのであった。