それから五か月が過ぎたころ。
 そろそろ暦の上では春も近くなっているというのに、空には雪がちらついている。
 そんな寒い日でも、明琳は水仕事に精を出していた。井戸端で、医局で使った皿やすり鉢などを洗っていく。手はかじかんで、真っ赤になっていた。
 明琳は洗う手を止めて、はぁっと自分の息を吐きかけてあたためる。一瞬のあたたかさにほっとなるものの、そのとき胸の奥からこみあげるような吐き気を覚えて思わず明琳は口に手をあてた。
 幸い吐き戻すことはなかったが、まだ胸がむかむかしている。
(あれ。そういえば……)
 ここのところずっと月のものが来ていないことに思い至る。元々、父と旅暮らしをしていたときは食生活が清貧すぎて月のものがこない月もちょくちょくあったのでいままで気にしていなかったのだが、後宮で暮らすようになってからは三食ちゃんといただいている。
(それなのに、こんなに長く月のものがこないなんて……)
 ハッとして明琳は自分のお腹に手をあてた。思い当たるものは一つしかない。
(もしかして、私のお腹の中に永翔さまとの……)
 嬉しさのあまりジンと心の中があたたかくなる。それと同時に、どうしようという気持ちもわいてきた。もしこのお腹に子供がいるなら、その子は間違いなく李国唯一の皇太子の子ということになる。
(……とにかく、あとで永翔様に相談してみよう)
 そんなことを考えていたら、明琳を呼ぶ声が聞こえてきた。
「明藍! おい、聞いてるのか!?」
「は、はいっ!?」
 声の方に目をやると、いつの間にかすぐそばに呂成が立っていた。
「昼過ぎにちょっと外朝へ荷物を取りに行ってきてくれ。医局への荷物が届いているはずなんだ」
「あ、はい。わかりました」
 明琳は頷くが、呂成はあたりを見回して他に誰もいないことを確認するかのような素振りをしたあと、明琳に顔を近づけて小声で付け加えた。
「それと、俺宛ての荷物も来ているはずなんだ。それは俺に直接渡してくれ」
「はい。了解しました」
「じゃあちょっと、その商人の名前と外見を伝えるから。いいな、必ず昼過ぎに行くんだぞ」
 そんなわけで、昼過ぎに明琳は後宮の門を抜け、外朝にある内府局へと出向くことになった。
 内府局の受付は、多くの商人でごったがえしている。その中から、呂成に言われた背格好の人物を探すと、すぐに見つけることができた。傍まで行くと、四十代と思しき小柄なその男は恭しく明琳に挨拶をした。
「医局の荷物を受け取りに来ました」
「明藍様でございますね。医局への荷物はこれにございます」
 男が渡してくれたのは、一抱えほどの大きさの木箱だった。
「あと、これは呂成様にお渡しくださいませ」
 そう言って男が懐から出してきたのは、小さな布包み。明琳はそれも受け取る。
「お代はすでにいただいております。では」
 男はぺこりと頭を下げると、すぐにその場をあとにした。人込みに紛れてあっという間に背中が見えなくなってしまう。
 明琳は木箱と布包みを大事に後宮まで持って帰るが、呂成の姿は医局の中には見当たらなかった。そのため近くにいた医官に木箱を渡す。布包みのほうは、夕方ごろに外出先からもどってきた呂成に直接手渡した。
「ああ、すまないな」
 呂成はそう一言言うと、すぐに懐に布包みをしまい込んだ。
 それからいつものように医局での仕事を終え、夜になると太医先生がお作りになられた薬湯をもって鳳凰殿へとやってきた。
 これもいつものように毒見役の女官に薬湯の毒見をしてもらい、特に問題もなくそのまま永翔の部屋を訪れる。
 永翔は既に夜着に着替えて部屋でくつろいでおり、明琳も長椅子に座る彼に寄り添うように隣へ腰掛けると、薬湯を飲む彼と他愛もない話に花を咲かせた。
 そして、明琳が彼の部屋を訪れて一時間ほどたったころのこと。
「今日は疲れたな。明琳、また寝台で肩を揉んではくれないか」
 明琳の頭を手で引き寄せて、永翔は甘い声で頼む。
「ええ。もちろん」
 明琳も微笑んで応えた。永翔は明琳の頬に優しく口づけを落とす。嬉しくて明琳も彼の首に手を回して身体を寄せた。
「あのね、永翔様。私、永翔様に伝えたいことがあるんです」
「ん? 伝えたいこと?」
 そう尋ねたところで、彼が突然咳き込みはじめた。
「げほっ! ごほっ、げほっ……」
 激しいせき込みに、明琳も慌てて彼の背をさする。
「永翔様! 大丈夫ですか!?」
「の、喉が……」
 彼は顔をゆがめて絞り出すように言った。
 そのとき、人払いしていたはずなのに女官が部屋へと飛び込んできた。血相変えた女官は、入ったところで膝をつき頭を下げると叫ぶような声で告げる。
「毒見役の女官が、たったいま倒れました! 先ほどの薬湯に毒が混ざっていた可能性がございます!」
(毒……!?)
 毒という言葉に、はじかれたように明琳は立ち上がる。
 まだ永翔は激しく咳き込んでいる。息がうまく吸えないのか、苦しそうに喉を押さえていた。
「早く太医先生を呼んできてください! 医局にもこのことを伝えて! あと、水と桶をもってきて! すぐに!」
 明琳は女官に指示を出す。女官は、すぐに立ち上がると部屋の外へと走って行った。
(薬湯に毒が混じっていた……!?)
 今日もいつもとかわらず、医局で太医先生がお作りになって、自分が運んできたのだ。
 毒見役の女官がこれを飲んだのは一時間ほど前。永翔がそれを飲んだのはその少しあと。もし毒だとしたら、かなりの遅行性だ。
 明琳はすぐに水差しのところへ走るとそれを手に取って戻ってきた。新しい湯呑みに水をなみなみと注ぐと、まだ腰を折って苦しそうに咳き込んでいる永翔の前に差し出した。
 何の毒にしろ、いますぐ大量に水を飲ませて体内の毒を中和させ、胃の中のものを吐かせるしかない。
「永翔様。お辛いかと思いますが、どうぞお水をお飲みください。お願いします」
 彼の背をさすりながら頼む明琳に、永翔は辛そうにしながらもなんとか身体を起こした。そして、明琳から受け取った湯呑みの水を飲みほしてくれる。すぐに明琳は湯呑みに再び水を注いだ。
「できるだけたくさんの水をお飲みください。永翔様!」

 こうして、永翔は一命をとりとめた。
 医局の調査により、薬湯の中に入っていた毒は冶葛(やかつ)という植物の根だったことがわかる。冶葛は南方の国に生えていると言われる葉にも根にも猛毒をもつツル性の低木だ。特徴は服毒から一時間ほどしてから効果が表れるという遅行性。そのため、毒見役も飲んですぐには症状がでなかったのだ。
 冶葛の毒は呼吸のための筋肉を弛緩させ、呼吸困難を引き起こす。明琳の素早い対応がなければ、永翔は窒息して命を失っていてもおかしくはなかった。
 幸い永翔は後遺症もなく、数日間、安静に寝ていただけですぐに回復した。
 その間に犯人探しが行われ、捕まったのは呂成と……そして明琳だった。
 明琳はすぐに独房に入れられ、毎日のようにきつい取り調べを受けることになる。
 そのとき、取調べを行う宦官から伝えられたのは、呂成が皇太子の弟を推す一派から多額の金品を受け取っていたらしいということだった。呂成はその見返りに、どこからか入手した冶葛を粉末にし、普段、太医先生が皇太子の薬湯をつくるための材料にしている薬草粉の中に紛れ込ませたのだそうだ。
 だから明琳も金銭を受け取っていたことを疑われたが、そんな事実は微塵もなかった。
 半月後。
 呂成と明琳は、李龍殿の謁見室に引きずりだされる。
 謁見室の壇上には、政務のときの正装を身に纏う永翔がいた。彼は、独房生活で薄汚れた明琳を見て辛そうに目元を歪めたが、それもほんの一瞬だけで深青色の瞳はすぐに無機質な表情に戻る。
 永翔の両側には、ずらっと大臣たちが並んでいた。
 呂成と明琳は、手を後ろにまわして縄で縛られたまま、壇上の前に跪かされる。
 その場で大臣の一人によって、呂成には斬首刑が言い渡された。
 一方、明琳についても、大臣が罪状を読み上げる。
「その者。冶葛を後宮内に持ち込み、また、冶葛の入った薬湯を殿下のところへお持ちしたことで殿下が冶葛を摂取するのに寄与した罪がある。しかし、金品を受け取った形跡もなく、殿下に毒物の症状が現れた際にすぐさま応急処置を行ったことでお命を救った功績もある。とはいえ、罪は罪として償わねばならない。よって」
 大臣がひときわ大きく声を張り上げた。
「明藍。お前を、この李龍城及び首都李安からの永久追放を言い渡す」
 明琳は顔を上げて、永翔に救いを求める視線を向けた。自分は何も知らなかったのだ。まさか呂成に頼まれたあの布包みや鳳凰殿に運んだ薬湯に冶葛が入っていたなんて夢にも思わなかった。永久追放となれば、もう二度と永翔と会うことは叶わなくなる。
 永翔と一瞬視線があったが、彼はただじっと明琳を見ただけでその瞳には何の色も映していないように思えた。無機質な深く青い瞳。そこにいるのは、明琳が深く愛した永翔ではなく、冷皇太子だった。
 永翔が、凛とした声で告げる。
「処分はただちに行う。以上だ」
 その言葉に従い、明琳は傍に立っていた兵士に荒々しい手つきで立たされた。
 そしてそのまま李龍殿の外へと連れ出され、李龍城の裏門まで連れてこられる。
 そこで縄を切られ、門の外に放り出された。自分の部屋に戻ることすら叶わず、荷物一つとってくることは許されなかった。
「ほら、行け。この都からでていけ」
 兵士に手で追い払われる。
 明琳は涙が滲みそうになるのを必死にこらえて、ぺこりと頭を下げた。
 半月も独房に入れられていたので足はふらふらだったが、なんとかその場を離れることはできた。
 まるで悪い夢を見ているようだった。いや、違う。永翔との甘い日々こそが、夢みたいなものだったのだ。分不相応の夢だったのだ。
 この李龍城で過ごした一年に満たない日々が、遠い過去のように思える。
 いっそこのまま川にでも飛び込んでしまおうかと思いかけるが、お腹の中に生きる新しい命のことだけが明琳の心をこの世につなぎとめていた。
 永翔の無機質な瞳が脳裏に浮かぶ。あれは、彼がまとう仮面だ。冷皇太子を演じるときの姿だ。それはわかっている。
 冷皇太子ではないときの、二人だけの時に見せる彼の顔が好きだった。彼の本当は優しくて朗らかで、時に少し強引で。でも、いつも明琳のことを大事に考えてくれる。そんな永翔を心から愛していた。それは、いまも変わらない。
 とぼとぼと通りを歩きながらも、双眸には涙があふれて止まらなかった。
(あなたのことを、ずっと、忘れない……)
 そっと自分のお腹に手を当てる。彼と愛し合った日々。その証が、ここいる。
 彼を大事に思うように、この子を一人で大事に育てよう。
 そう心に決めた。


 一方、明琳を追放してから数か月がたっても、永翔の心はずっとここにあらずの状態だった。執務だけはなんとかこなしていたが、執務を終えて夜に自分の部屋へ戻ってきても、薬湯を持ってきてくれる明琳の姿はもうない。
 そのことが、寂しくてたまらなかった。
 寝台に寝転がるが、やたら寝台が広く感じた。
「明琳……すまない……」
 永翔は心に覆いかぶさってくる辛い気持ちに耐えきれず、顔をゆがめる。
 明琳には皇太子殺害未遂共謀の罪が疑われていた。もちろん、永翔は明琳が自らの意思でそれに加担していたとはまったく思ってはいなかった。おそらく、うまく利用されただけなのだろう。
 しかし、重鎮たちの中にはそうは考えないものたちもいた。呂成とともに処刑すべきだという声も根強くあったなか、なんとかそれらの声を押しとどめ、追放の処分で決着させた。このまま後宮に残しておけば、再び処刑の声が大きくなることを恐れて、いち早く城の外に逃がしたともいえる。
 だが、そのために路銀すら持たせることはできなかった。
 いまはただ、どこかで生きていていほしいと願うことしかできない。そのことが永翔は悔しくてたまらなかった。何が皇太子か。愛した女性一人を守ることすらできないだなんて。
「……そういえば、あいつの部屋はまだそのままだったな」
 何か証拠が新たに見つかるかもしれないからと適当な理由をつけて、部屋をそのままにしておくよう命令してあったことを永翔は思い出す。
 いまとなってはもう、彼女の面影はその部屋くらいにしか残っていない。
 永翔は寝台から身体を起こすと、明かりを持たせた警護の宦官を一人連れて、宦官たちの寮へと出向いた。
 本来なら皇太子がこのような場所にくることはまずあえりえないことなのだが、今は夜で寮の廊下にも人の姿は他になく、咎めたり驚いたりする者もいない。
 警護の宦官から明琳が暮らしていた部屋の場所を聞き出し、そこへと赴く。
 戸を開けると、そこには明琳が暮らしていたそのときのまますべて残されていた。
 とても狭く質素な部屋だった。左手に寝台。その横に文机が置かれている。
 医局からもってきたらしい本も、そのまま文机の上に積まれたままになっていた。
 ほとんど私物のない、明琳らしい部屋だった。その文机で明琳が本を読む後ろ姿を想像し、永翔は目頭が熱くなるのをこらえるのに必死だった。
 彼女の面影の欠片でもいい。それが空虚に穴があいたようになっていた永翔の心の隙間を少し埋めてくれるような気がした。
 永翔は文机の前に座ると、愛しい彼女に触れるようにその机を撫でる。
 ふと、文机の引き出しがほんのすこし開いていることに気づいた。何か布のようなものが見える。
 開けてみると、小袋があった。中には硬いものが入っているようだ。
 小袋の中身を手のひらに出してみると、それは緑白色の石が付いたペンダントだった。
(なんだ……? どこかで見たことがあるような……)
 ペンダントを裏返すと、そこには一つの文字が彫りこまれ朱で文字が彩られていた。
 書かれていた文字は、古代文字。
 永翔の目がハッと大きく見開かれる。
 見たことがあるはずだ。同じ形で、しかし石の色と裏に刻まれた文字が違うものを四つ見たことがある。四家の跡継ぎたちが、その証として持っているものだ。
 そういえば、彼女はずっと旅暮らしをしていたと言っていた。医師だった父について、物心つく前からずっと同じ場所にとどまらず旅をしていたと。
 医師はどの町や村でも重宝されるはず。なのになぜ、そんな旅を親子は続けていたのだ。まるで、なにかから逃げるかのように。
「俺は……前皇帝と同じ過ちを犯してしまったのか……」
 そう呟くと、永翔はぎゅっとペンダントを握りしめた。そして、ペンダントを握ったまま明琳の部屋を足早にあとにする。そして李龍殿に駆け込むと、そこにいた官僚たちに命じた。
「いますぐ捜索隊を組織しろ。全国津々浦々、なんとしてもあいつを探し出すんだ!」



 それからさらに数か月の時が経ち、明琳が李龍城を追放されてから一年の月日が流れていた。
 明琳は李国の辺境にある、とある小さな町に流れ着いていた。
 そこで飲食店を営む黄夫妻の家に、ときどき店を手伝う代わりに空いていた部屋を間借りさせてもらっていた。生活費は野や山で薬草を採取して売ることで稼ぎ、かろうじて細々と生きながらえてきたのだ。
 明琳は粗末な寝台に腰かけ、おっぱいを飲み終えてうつらうつらしはじめた赤ん坊を子守唄をうたいながらゆらゆらと抱いてあやす。
 赤ん坊は、母親の胸に抱かれてとろとろと気持ちよさそうに眠りだした。
「いい子ね、賢翔」
 その愛らしい寝顔に、明琳は頬を緩ませる。
 この子は、男の子だ。
 明琳とよく似た手の形。でも目元は父親にそっくりだと明琳は密かに思って目を細める。
 この子はきっと一生父親に会うことはないだろう。だから、もう少し大きくなって物心がついたら、父は死んだと伝えるつもりだ。とてもやさしくて、素敵な人だったとも教えたい。
 そんなことを考えていた明琳の耳に、どたどたと階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた。
 どうしたんだろう? 顔をあげると同時に、バンと勢いよくドアが開かれた。
「明琳、いますぐ逃げて! なんかあんたを探してるって、沢山おしかけてきた!」
 そばかす顔で長い髪を一つにまとめた快活そうな女性が慌てた様子で言う。明琳をこの家に住まわせてくれている黄仁花だ。
「……え。どういうこと……?」
「わかんないっ。でも、ここにあんたがいるのは知ってる、あんたを出せって怖い兵士たちがすごんでくるの。いま、うちの亭主が店でそいつらの相手してるから、いまのうちにその子連れて逃げな!」
 兵士と言われて、明琳の顔がさっと青くなる。
 明琳は、皇太子殺害未遂の罪で追放された罪人だ。もしかしたら追放だけでは足らず、処刑の判断が下ったのだろうか。そのために明琳を探して、こんな首都から遠く離れた地にまで追いかけてきたのだろうか。
 きっと、そうに違いない。
 明琳は仁花に連れられて急いで階段を下りると、裏の勝手口へと周った。
 そこから出ようとドアをあけたところで、三人の兵士がその前に立ちふさがる。
「明琳だな。外に出ろ」
 兵士にすごまれ、明琳は抱きかかえていた賢翔をぎゅっと抱きしめた。
 自分は罪人だ。だとしたら、罪人が皇太子との間につくったこの子を李龍城の重鎮たちは認めるだろうか。いや、認められるとは微塵も考えられなかった。重鎮たちに知られれば即座にこの子は消されてしまうだろう。
 仁花にこの子を託そうかとも考えたが、賢翔は見るものが見ればすぐに皇太子の子だとわかる特徴をもっていた。彼の血を色濃く継いだ子だ。
 もし皇太子の子だとわかれば、仁花たちにも迷惑がかかりかねない。
「……わかりました。もう逃げることはいたしません」
 賢翔を抱きしめて、明琳は心を決める。もう逃げることはできない。この子を置いていくこともできない。それならば、死地だろうとどこだろうとこの子と一緒に向かうしかない。この子にだけは寂しい思いをさせたくなかった。
「ずっと一緒にいるからね」
 安心させるように賢翔へ優しく声をかけると、兵士に連れられて裏口から外に出た。そのまま三人の兵士に挟まれるようにして表通りへ出たとき、明琳は目を見張った。
 そこには、五十人はくだらない数の兵士が集まっていた。先頭にいる巨漢の男は、常勝無敗と噂の名高い伯泰雲将軍に違いない。彼は永翔の信頼も篤い。なぜそんな人物がこんなところにいるのだろう。永翔はそこまでして自分を完全に亡き者にしたいのだろうかと、心がさらに暗くなる。
 巨体の伯泰雲将軍が目の前に立った。その腰には大剣がぶらさげられている。
 あれで今すぐ、この場で斬られるのだろうか。明琳は賢翔を抱いたまま、恐怖のあまりぎゅっと目を閉じた。
 しかし。
 ざざざっという音が耳に響く。いつまでたっても、斬られたり捕まえられたりする気配がない。
 おそるおそる目を開くと、眼前には驚くべき光景が広がっていた。
 伯泰雲将軍をはじめ、すべての兵士たちが地面に膝をついて頭を垂れ、明琳に対して最敬礼の姿勢をとっていたのだ。
「こ、これはいったい……」
 驚く明琳に、伯泰雲将軍が最敬礼の姿勢のままはっきりとした大きな声で応えた。
「皇太子殿下のご命令で、明琳様をお探ししておりました。すぐさま李龍城にお戻りくださいとのことです」
「え……殿下が……?」
 伯泰雲将軍は顔を上げると、罪人に向けているとは思えない穏やかな顔で続けた。
「はい。草の根をかきわけてでも全国津々浦々必ず明琳様を探し出せとのご命令です。そして見つけたあかつきには、皇太子殿下にするのと同等の敬意をもって明琳様に接せよと強く言われております」
「……え?」
 訳が分からなかった。しかし、迎えに来た馬車は皇族が乗る最高級のもの。
 皇太子殿下と同等の敬意でもって接せよというのは、冗談や戯言ではないようだった。
 明琳は賢翔とともに、狐につままれたような気持ちで馬車に揺られて首都へと向かった。


 李龍城についた明琳の馬車は、城の北側にある後宮側の門の前へ到着した。明琳と賢翔はそのまま、鳳凰殿へと連れてこられる。
 永翔の自室の扉の前までやってきた。この扉の向こうに彼がいるのだろうか。彼と会えることが嬉しくもあり、怖くもあった。賢翔のことをどう伝えよう。勝手に産んだことを彼は怒るだろうか。いや、怒られるくらいならまだいい。賢翔の存在を認めてもらえるかどうかすらわからないのだ。扉の前に立つと、いろいろな思いが頭の中を駆け巡って、次の一歩が踏み出せないでいた。
 しかし扉の前で迷っている間に、扉の方が勝手に開く。
「……明琳!」
 自ら扉をあけて出迎えてくれたのは、永翔だった。彼の姿を目にとめた瞬間、すべての不安は消し飛んでいた。抱いている賢翔ごと永翔の腕に抱きしめられる。
「良く戻ってきてくれた。無事でよかった……ほんとうに、無事で……」
 彼の声は震えていた。
「永翔様……私は、戻ってきてもよかったのでしょうか」
 おそるおそる尋ねると、永翔からは思いのほか優しい言葉が返ってきた。
「もちろんだ。大変な思いをさせてすまなかった。あれからお前を手放したことを、後悔しなかった日なんて一日もなかった。また……俺の元にいてくれるか? 明琳」
 申し訳なさそうな彼の言葉に、明琳は微笑んで応える。その頬にあたたかな涙が一筋流れ落ちた。
「もちろんです、永翔様」
 そこに、賢翔のきゃっきゃっという笑い声が重なった。賢翔の瞳は深く青い海のような色をしている。永翔の瞳の色とそっくり同じ。まさしく、皇族の血を継いだ証だった。
「この子は賢翔と名付けました。その……申し訳ありません。勝手に産んでしまって……」
 永翔は明琳から我が子を受け取り、その胸に抱いた。
「いや、俺に言える状況じゃなかったのはわかっている。俺の方こそ、一人で産ませてしまってすまなかった。そうか……お前が俺の子か」
 永翔が笑いかけると、賢翔もきゃっきゃっと嬉しそうにしている。その二人の姿をみて、明琳は再び涙がこぼれそうになってそっと指で目元を拭った。
「明琳。お前を呼び寄せたのはまた宦官をやらせるためじゃないんだ。さあ、こっちへ来てくれ」
 彼に連れられて部屋に入ると、部屋の中央に衣桁にかけられた白銀の襦裙が置かれていた。最上級の絹をふんだんに使い、金糸と銀糸で見事な刺繍が施された最高級の襦裙。国宝といっても差し支えないほどの出来栄えの代物だ。
「これは……?」
 尋ねる明琳に、永翔は胸を張る。
「お前のために用意したものだ」
「え、でも……」
 明琳は戸惑う。白や白銀の衣は結婚式などで正式な妻が着るものと決まっている。それはこの後宮でも同じだった。だから妃嬪たちは色とりどりの襦裙を身にまとってはいるものの、白だけは絶対に避けているのだ。
 永翔は明琳の手をとると、その甲にそっと口づけを落とす。
「お前を正妃として迎えたい。ダメか?」
「で、でも、私のような貴族ですらない身分の低いものがそんな……」
 嬉しさと戸惑いをない交ぜにして慌てる明琳だったが、永翔は抱いていた賢翔を明琳に渡すと、部屋の奥から銀盆の上にのったペンダントを持ってきた。緑白色の石のついたペンダント。明琳が父から譲り受けたものだ。ペンダントを渡され、明琳が手に取ると緑白色の石が輝きだす。それを確認して、永翔は満足げに目を細めた。
「やはりな。お前は父から何も聞いていないのか? 裏に書かれた古代文字の『朴』の意味も?」
「い、いえ、なにも……」
「この石はお前の手元にあるときしか輝かない。正しくは家門の正統な血族が身に着けたときしか反応しないようになっているんだ。だからこれがお前の身分を証明してくれるだろう。さあ、まずはお披露目の準備だ」
 そのあと明琳は女官たちに肌をととのえられ、髪をすかれ、あの白銀色の襦裙を着させてもらった。賢翔は、同じ色の布でくるまれている。お揃いなのが嬉しい。
 すっかり支度を整えた明琳たちをみて、永翔は嬉しそうに相好を崩す。
 そんな表情豊かな永翔の姿に、お付きの女官や警護に当たっていた宦官たちも皆驚いていた。いままで冷皇太子の姿しかみていなかったのだから、当然かもしれない。
 でも、明琳は知っている。これが本来の彼の素の姿なのだ。
 正装に着替えた永翔が明琳に手を差し出す。
「さあ、いこう。俺の明琳」
「はい」
 明琳も微笑み返した。
 鳳凰殿の彼の自室から出て少し歩いたところにある別の扉の前で永翔は足を止めた。扉の前に控えていた女官が扉をあけると、そこは鳳凰殿で最も広いという大広間だった。
 大広間にはいま、後宮にいるすべての妃嬪と女官、それからほとんどの宦官たちが集められていた。
 永翔に手を引かれて、白銀の襦裙姿の明琳はともに歩く。
 二人の姿を見た妃嬪たちからどよめきがおこった。皇太子と親しげに歩いてくる、あの女は誰だと悲鳴にも似た声もあがった。
 一段高くなった壇上にあがると、永翔は集まった妃嬪たちを見渡す。それだけで広間はシンと静まり返る。
「いまからみなに伝えたいことがある」
 永翔のよく通る声が広間に響いた。全員の注目が明琳と賢翔に集まっていた。
 そこに宦官の一人が銀盆にのったペンダントを持ってくる。永翔がそのペンダントを手に取って皆に見えるようにかかげた。
 下位の妃嬪たちはそれがなにかわからなかったようだが、『四家』を代表する四夫人たちは違った。はっと息を飲む空気が伝わってくる。
 永翔がそのペンダントを明琳の首にかけると、緑白色だった石がまるで生気をとりもどしたかのように輝きだした。それを目の当たりにした者たちは驚きの声をあげた。
「この石が示すように、彼女は『朴家』の正統な血筋だ。ここに五家筆頭である『朴家』の復活を宣言する。それと同時に、彼女、明琳を私の正妃と定め、子の賢翔を私の正統な嫡男と認める」
 永翔の言葉に、みなが一堂に最敬礼で頭を下げた。四夫人までもが、明琳とその子・賢翔に対して最大の敬意をもって低頭した。
 いきなりこんな大舞台で、はるか上位だと思っていた妃嬪たちにまで頭を下げられてどうしていいかわからない明琳の肩を、永翔は優しく抱いてくれる。それだけで、明琳の心はすとんと落ち着くのだった。
(そうだ。これからは彼と一緒に、どんなことも乗り越えていけばいいんだ。ずっと彼のそばにいられるんだから)
 そう思うと、じんわりと嬉しさがこみ上げてくる。
「明琳。お前を心から愛してる」
 耳元でささやかれるように呟やかれた甘い言葉に、明琳の顔は耳まで赤くなる。
「私も……あ、あ、愛してます。で、でもっ! もう、二度と離したら嫌ですからね。永翔様!」
 早口でそう答える明琳を、永翔は微笑ましそうに見つめて笑った。
「ああ。約束する。もう、二度とお前を離したりはしない」
 冷皇太子とよばれる彼の普段とはまるで違うその様子に、妃嬪たちも宦官たちもぽかんと口を開けて見守るのが精いっぱいだった。
 冷後宮とよばれたこの場所にも、ようやく春が訪れたようだ。