余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 その日はマンションには泊まらず、家に帰りました。

 帰ってすぐ、小笠原先輩から連絡が来て話ができました。思っていたよりは元気そうで、本人も「元気だよー」と言っていたのに、どうしても不安が拭い切れませんでした。話が終わってからわたしは船井先輩、長野先輩、安木先輩と連絡を取り、明日の昼にお見舞いに行くことを決めました。俊樹くんに予定を告げるとあちらもお父さんと一緒に病院に出向くということだったので、病院のロビーで待ち合わせをすることにしました。

 次の日、わたしたちは予定通り病院に向かいました。小笠原先輩のお父さんと俊樹くんと合流し、受付で貰った面会バッジをセーターの胸につけて病室に向かいます。小笠原先輩の入院している病室は個室でした。いくつかの大部屋を通り過ぎた後にたどりついた個室は悪い意味で特別感があって、気が滅入ってしまいます。

 みんなで病室に入ります。白いカーテンがかけられた窓に、三人ほど座れそうなブラウンのソファ。ベッド脇には大きなラックが置いてあり、その天板の上にはテレビらしきモニターが乗っています。そしてシーツで覆われたベッドに横たわっているのは間違いなく、病院服を着た小笠原先輩です。

「やっほー」

 小笠原先輩が手を振りました。船井先輩が呆れたように声をかけます。

「何がやっほーなんだよ」
「とりあえず元気なところを見せようかと」
「元気なのか?」
「うん。聞いてないの?」

 小笠原先輩がわたしを見ました。わたしは「言いましたよ」と小声で答えます。嘘ではありません。お見舞いの予定を立てた時に確かに伝えました。伝えているわたし自身が信じて切れていないとすぐにわかる、暗く落ち込んだ態度で。

「でもすぐには退院できないんでしょ?」

 長野先輩が尋ねます。船井先輩も長野先輩も、わたしが聞きたいけど聞けないことを代わりに聞いてくれている。そう思いました。

「まーね。でもこの感じだとそんな時間かかんないと思うよ」
「先生にそう言われたの?」
「勘」
「あのねえ……」
「自分の身体のことは自分が一番分かるよ。クリスマスまでには退院して、サークルのパーティにも参加するつもり。あ、それと――」

 小笠原先輩がまたわたしの方を向きました。わたしは背筋を無理やり伸ばして小笠原先輩と向き合います。

「俺がいない間、サボ太郎の世話を頼んでいい?」
「……いいですよ。そんなにやることないですけど」
「冬場は水やり二週間に一回だっけ。まー、でも、植物も声かけるとよく育つとかいうじゃん。サボ太郎を俺だと思ってたまには会いに行ってやってよ」

 無理です。わたしもサボ太郎は好きです。かわいいとも思います。でも小笠原先輩の代わりには、絶対になりません。

 退院して、一緒に会いに行けばいいじゃないですか。

 本当に大したことないなら、それが出来るはずじゃないですか。

 それとも――

「――手間じゃないですよ。サボ太郎の方が小笠原先輩よりいい子ですし」

 冗談を返します。小笠原先輩が、顔をくしゃくしゃにして笑いました。

「確かに」
 一時間ぐらい話した後、わたしたちは小笠原先輩の病室を後にしました。

 俊樹くんと小笠原先輩のお父さんも一緒に病室を出て、ロビーまで見送ってくれました。ロビーで向き合ったお父さんに「今日はありがとうございました」と頭を下げると、お父さんも「こちらこそ、ありがとう」と頭を下げ返してくれました。そしてわたしたち全員をざっと見渡して、苦しそうな表情で口を開きました。

「君たちには言っておくが」重たい声。「あの子の容態はかなり芳しくない」

 お父さんの隣で、俊樹くんが顔を伏せました。わたしや船井先輩たちも視線を床に向けます。だけど驚きはしません。察していたからです。

「正直な話、いつどうなるか分からない。覚悟だけはしておいてくれ」
「……はい」

 もう下を向いている首を、さらに下に向けて頷きます。お父さんが「では」と言い残し、病院の奥に向かって歩き出しました。俊樹くんも軽く頭を下げてからお父さんの後を追いかけます。

「……帰るか」

 船井先輩がぼそりと呟きました。わたしたちは誰からともなく歩き出し、病院の外に出ます。来た時よりも風を冷たく感じるのは、単純に昼間より気温が下がったからでしょうか。首をすくめて寒さに耐えます。

 最寄り駅まで徒歩十分。道路脇の歩道を歩きながら、船井先輩が遠い目をして空を見上げました。

「余命半年って、適当な目安みたいなもんだと思ってたよ」

 小笠原先輩が病気を明かしたのが六月。今は十一月の下旬。確かに、だいたい半年ぐらいです。

「当たることもあるってだけで、基本は適当な目安でしょ」長野先輩が答えます。「それに……まだ当たるかどうか分からないし」

 長野先輩は前を向き、船井先輩は天を仰いでいます。視線は全くかみ合っていません。そしてわたしは俯き、アスファルトに声を落とします。

「覚悟をするって、どういうことなんでしょう」

 近く道路を、車がすごい速度で駆け抜けました。

「わたしたち、余命のことは知っていたじゃないですか。でもそれだけじゃダメなんですよね。じゃあ覚悟って、何をすればいいんでしょう」

 話しながら歩いていると、自然と歩みが遅くなります。前に進むのを恐れているような雰囲気の中、安木先輩がわたしの方を向きました。

「同棲してるマンションに追加で置きたいもの、何かある?」

 いつものおかしな話の入り方。わたしは少し考えてから答えます。

「冬の備えをしたいと思ってます。冬服とか、ホットカーペットとか」
「置くの?」
「分かりません。まず小笠原先輩がどうなるか分かりませんし……」
「それ」
「それ?」
「小笠原がどうなるか分からない。だからマンションに置きたいものがあるけど置かない。そういう風に、あいつがいなくなる未来を想定して動くことが、この場合の覚悟だと思う」

 覚悟とは、いなくなる未来を想定して動くこと。つまり――

「じゃあわたしは、もう覚悟できてるってことですか?」
「できてるというか、しちゃうんじゃないかな。そういう未来を現実的なものとして捉えたら、意識しなくても勝手にそういう風に動く」

 強めの風が吹きました。わたしは目を細めますが、眼鏡をしている安木先輩は変わりません。眉一つ動かさず、淡々と言い放ちます。

「覚悟なんて、ただの結果だよ。難しいことじゃない」

 安木先輩が口を閉じました。沈黙が生まれ、さっきとは逆にみんなの歩く速度が上がります。それから駅に着くまでずっと、わたしたちの誰一人として、何かを喋ることはありませんでした。
 家に帰ると、室内用のゆったりしたワンピースを着たお母さんが、リビングの食卓でレモンティーを飲んでいました。

 ちょうど温かいものが欲しい気分だったので、わたしも自分のカップを持っていって同じものを飲むことにしました。キッチンでレモンティーを作り、お母さんの向かいの椅子に座ります。ティーパックの紅茶にレモンの輪切りを浮かべただけの簡単な飲み物に、冷え固まった身体を魔法のようにほぐされ、わたしはほうっと安堵の息をつきました。

「外は寒かった?」
「うん。そろそろコタツ出した方がいいかも」
「コタツねえ」

 お母さんが、わたしからほんの少し視線を逸らしました。

「今日はどうだったの?」

 曖昧な聞き方。話したいところだけ話していいという優しさに甘え、わたしは良かったことだけを話します。

「思ってたより元気そうだった」
「そう。なら良かった」

 お母さんが自分のレモンティーに口をつけました。良かったと言いながら、張りつめた表情は変わりません。小笠原先輩が倒れた時、同棲の日なのに帰って来たわたしから事情を聞いた時もそうでした。「大丈夫なの?」「分からない。そのうちまた連絡来ると思う」「そうじゃなくて、あんたのこと」「大丈夫だよ」「なら良かった」。今と同じ顔で、今と同じことを言っていました。

「ねえ」背中に力を入れます。「お父さんが余命宣告されたら、どうする?」

 お母さんがレモンティーを飲みながら、ちらりとわたしを見やりました。そしてカップをソーサーに置きます。陶器と陶器がぶつかる硬い音に、お母さんの声が重なりました。

「とりあえず、子どもたちのことは任せてって言うかな」
「とりあえずそれなの?」
「一番心配だと思うから」

 覚悟とは、いなくなる未来を想定して動くこと。安木先輩の言葉を思い出しながらわたしは続けます。

「じゃあ、余命宣告されたのがわたしだったらどうする?」

 お母さんが「そうねえ」と首をひねりました。そして自分でもあまり納得いってなさそうに答えます。

「泣く、かな」
「お父さんが余命宣告されても泣かないの?」
「それも泣くけど……お父さんの場合と違ってそこから先が思い浮かばないの。想像もしたくないのかも」

 想像もしたくない。ガンと、頭に強い衝撃が走りました。

「きっと、お父さんも同じだと思うよ。聞いてみたら?」
「……すごく前に聞いたことある」
「なんて言ってた?」
「そういう映画でも観たのかって言われた」
「ほら。まともに考えようとしてない」
「今の彼氏と付き合う前だから、意味が分からなかったんだと思うよ」
「意味が分からなくたって、宝くじで一億円当たったらどうするみたいな質問なら答えたんじゃない?」

 お母さんが背中を前に傾けました。目尻にしわを浮かべて笑う顔が近くなります。

「どんなに突拍子のない話だって、考えるぐらいはできる。お父さんはそれすらしたくなかった。だからお母さんと一緒なの」

 考えたくない。想像したくない。あなたがいない未来を受け入れられない。

 わたしに、そんな気持ちがあるでしょうか。

「……そうかもね」

 わたしは自分のカップに手を伸ばしました。そしてカップを唇につけて、クイと傾けます。さっきまで魔法のように温かったはずのレモンティーが、これまた魔法でもかけられたみたいに、喉を冷たく通り過ぎていきました。
 小笠原先輩が入院してから、わたしは毎日のようにお見舞いに行きました。

 最初の頃、小笠原先輩は「すぐに退院するから待ってくれればいいのに」と言っていました。一週間経った頃から「ちょっと長引くかも」と言い始めました。二週間経った頃には「クリスマスは無理っぽいなー」と言い出しました。その頃の小笠原先輩は元気だった頃よりかなり痩せこけていて、治療の影響で髪の抜け始めた頭を隠すためにニットの帽子をかぶっていました。「そう言えば余命宣告の半年過ぎたよ」と言われたりもしましたが、何の安心材料にもなりませんでした。

 同棲しているマンションを引き払うつもりだと言われたのは、入院から一ヵ月経った頃でした。

「え?」

 いきなり語られた話に、わたしはそれしか返せませんでした。ベッド傍の丸椅子から目を見開いて小笠原先輩を見やります。ベッドに寝そべっている小笠原先輩は、いつものようにゆるい笑みを浮かべていました。

「オヤジと相談して決めたんだ。まだしばらく入院続きそうだし、とりあえずマンションは引き払おうって。だから自分のもの払い出しておいて。俺のものはオヤジと俊樹に任せるから」
「いつまでにですか?」
「決めてない。でも早いうちがいいな。無駄にお金かかっちゃうから」

 お金のことを言われると何も言えません。三日間毎の同棲だって無駄は多かったはずです。それでも小笠原先輩のお父さんが、小笠原先輩のためにお金を出してくれていた。そのお父さんと相談して決めたなら、わたしは従うしかありません。

「……分かりました」
「ありがと。サボ太郎のことも忘れずにね。そういえばサボ太郎は元気?」
「枯れてないって意味なら元気ですけど……サボテンが元気かどうかって分かるんですか?」
「前に話したメキシコ人は見分けてたよ。仲良くなれば分かるんじゃないかな。ちゃんと話しかけてる?」

 話しかけていません。肩をすくめるわたしを見て、小笠原先輩がおおげさに首を横に振りました。

「ダメじゃん。それじゃあサボ太郎も心を開いてくれないよ」
「サボテンですよ?」
「植物だって生きてるんだし、心があってもおかしくないでしょ」

 ふざけたことを言いながら、小笠原先輩が視線を横に流しました。話の展開にふさわしくもないアンニュイな仕草が目を引きます。

「最近よく考えるんだよね。心ってなんだろうって」

 小笠原先輩が病院服の上から、自分の左胸に開いた右手を乗せました。

「俺が死んだらたぶん、まず心臓が止まるよね。そんで血液が回らなくなって脳が止まって、そこで俺の心がなくなったとする。でもさ――」

 左胸の上から右手が離れました。そして今度はニットの帽子越しに、ひとさし指で側頭部をコンコンと叩きます。

「俺のここには、ただ電気信号が流れてるだけでしょ。そんで複雑さは全然違うだろうけど、似たようなものはサボ太郎の中にだって流れてる。水吸えーとか、光合成しろーみたいなの。その電気信号を心と呼ぶなら、サボ太郎にも心があるって言えないかな」

 小笠原先輩がいきなり意味不明なことを言い出すのは、今に始まったことではありません。

 炭水化物メインのポテトサラダやマカロニサラダがサラダなら、ラーメンやパスタは実質サラダ。犬や猫は模様が違う程度でも違う名前がついているんだから、マグロもひれの位置や形ごとに名前をつけるべき。普段からそんなことを言って、笑われたり、呆れられたりしています。

 だけど小笠原先輩はそういう話を、いつもみんなを楽しませるために口にしていました。今の小笠原先輩からわたしはその意志を感じません。答えを求めている。言って欲しいことがある。真っ直ぐな瞳から、そういう想いが伝わります。

「――違うと思います」

 わたしは椅子から離れ、ベッドの左に立ちました。そしてわたしを見上げる小笠原先輩としっかり目を合わせます。

「サボ太郎に心があるかどうかは分かりません。でも持っていたとしても、小笠原先輩が持っているような心とは違うと思います。ちゃんとありますよ。電気信号じゃない心が、小笠原先輩の中に」

 右手を伸ばし、小笠原先輩の左胸に触れます。前よりもずっと薄くなっている胸板に驚き、その驚きを隠して笑います。

「わたしが好きになったのは、その小笠原先輩の心です」

 だから、安心していい。迫り来る死を前にして、今ここにある生すら不安になっているのなら、そんなことは考えなくていい。あなたは確かに生きている。わたしがそれを、保証する。

「そっか」

 小笠原先輩がはにかみました。そしてわたしの頭の後ろに手を回し、唇を重ねてきます。久しぶりに感じた小笠原先輩の唇は、薄くて、乾いていて、パラパラと砕け散る寸前の枯れ葉のようでした。
 お見舞いの後、わたしはマンションに向かいました。

 部屋に入り、まずは軽く掃除をします。それから引き払う時に運ぶ私物をチェックして、スマホのメモに記録して行きます。ほとんどが洋服だったので一日あれば問題なくまとめられそうなことが分かりました。その気になれば明日にでも引き払えそうです。

 あっと言う間に、やることがなくなりました。無意味にテレビをつけて、リビングのソファに寝転がります。ストーリーも登場人物も何一つ分からない、観たことのないドラマの再放送らしきものを眺めながら、ふと小笠原先輩も似たようなことをやっていたのを思い出します。

「それ、面白いですか?」

 ある日の夜、お風呂から上がったら小笠原先輩がテレビドラマを観ていたので、わたしは何気なくそう尋ねました。小笠原先輩はテレビから目を逸らさず、わたしの質問に答えます。

「面白いよ」
「どんな話なんですか?」
「サスペンスの連続ドラマみたい。今日初めて観たからよく分かんないけど」
「え?」

 わたしは素直に戸惑いました。そして思ったことをそのまま口にします。

「そんなことってあります?」
「どういうこと?」
「えっと……小笠原先輩はどうして今そのドラマを観てるんですか?」
「テレビつけたらやってたから」
「つけたらやってただけのよく分からないドラマが面白いんですか?」
「うん」
「もう一回聞きますけど、そんなことってあります?」
「あるでしょ。現に俺が今そうなってるじゃん」

 それが信じられないから聞いているのに、振り出しに戻ってしまいました。わたしがどう聞き直そうか考えている間に、小笠原先輩が話しかけてきます。

「今まで周りにそういう人いなかったんだ」
「そうですね。一話完結ならともかく、サスペンスの連ドラはさすがに」
「良かった」
「良かった?」

 小笠原先輩がニッと笑いました。そして楽しそうに声を弾ませます。

「俺がいなくなった後も、変なやつがいたなあって覚えてそうじゃん」

 ドラマが終わりました。

 過去を思い返しているうちに、終わってしまいました。面白かった面白くなかった以前に、どんな話だったかもロクに覚えていません。やはりわたしは小笠原先輩みたいにはなれないようです。

 わたしはテレビの電源を切り、ソファを離れてテレビ台に近寄りました。そしてしゃがんで腰を落とし、台の上のサボ太郎に目線の高さを合わせます。

「どうすればいいと思う?」

 返事はありません。わたしは一方的に話し続けます。

「小笠原先輩はずっと覚悟していた。わたしも覚悟はできている。じゃあもうやれることってないよね。その時を待つしかない」

 ひとさし指を伸ばします。サボ太郎の頭を撫でるイメージで、薄い楕円形の幹の先端に指を乗せます。

「でも……それでいいのかな」

 目をつむり、ひとさし指に意識を集中します。サボ太郎が棘を通してメッセージを伝えようとしている。そういうイメージを頭の中に広げ、指先の痛みから何か読み取れないか試みます。――もちろん、何も読み取れません。わたしは床に尻をつき、身体を後ろに倒してサボ太郎を見上げました。

 サボ太郎は微動だにしていません。生まれた時からここにいますとでも言いたげな堂々とした佇まいを前に、わたしの口元に苦笑いが浮かびました。

「あなたがうちに来てから、まだ二か月も経ってないんだよね」

 サボ太郎がやってきた日のことを思い返します。思えばあの時から、小笠原先輩は自分がいなくなった後のことを考えていました。いえ、あの時からどころではありません。余命宣告のことを明かし、わたしたちを巻き込んで好き勝手やりはじめた頃から、近いうちに自分がいなくなることは確定事項として動いていました。

 わたしもいずれは死にますが、そのことを考えて日々を過ごしてはいません。でも小笠原先輩は違う。安木先輩が「そういう未来を現実的なものとして捉えたら、意識しなくても勝手にそういう風に動く」と言ったように、自分の死をはっきりとした手触りで捉えていたから、急いで結婚式をしたり、同棲をしたり、逆に敢えて抱くことは避けたり、それから――

 ――誕生日には、指輪を買うよ。

 違和感が、頭の片隅に芽生えました。

 そうです。あの時は喜びが強すぎて気づきませんでしたが、冷静に考えるとおかしいです。わたしの誕生日は三月。宣告された命のリミットからはだいぶ遠い。プレゼントに理由づけが欲しいにしても、クリスマスの方が現実的なはずです。

 心臓の鼓動が早まります。わたしはふらりと立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を開きました。十二月の外気の冷たさを感じながら、夜景を眺めるわたしの姿を無人のベランダに思い描き、それを見る小笠原先輩の気持ちになりきろうと試みます。

 残された時間は、長くない。

 その長くない時間をあの子と楽しく過ごしたくて、今まで色々とやってきた。そんな中でも、自分との思い出をあの子の人生の足かせにしないため、一線は越えないようにしていた。だけど今日、越えてしまった。あの子の人生の奥深くに潜り込んでしまった。だったら――

 あの子と一緒に生きることを、まずは考えてみようか。

 ――こういう子とずっと一緒にいられたら、人生楽しいだろうなって思った。

 いつか聞いた言葉を思い出し、わたしの目にうっすらと涙の膜が張ります。わたしだって、ずっと一緒にいたい。十年後も、二十年後も、一緒に笑いあっていたい。でも――

「――無理じゃないですか」

 両手で顔を覆います。誰に向かってでもなく、呟きをこぼします。

「そんなの、絶対に、無理じゃないですか」

 絶対に無理。そう、絶対に無理です。小笠原先輩はわたし以上にそれを分かっていたでしょう。それでもわたしの誕生日を祝うと約束した。生きたいという願いを越えて、生きようという意志を抱いた。

 わたしの存在が、小笠原先輩の覚悟を揺るがしたのです。

 強い風が吹き込んできました。わたしはガラス戸を閉め、ぼうっとリビングを見渡します。テレビ台の上にちょこんと座っているサボ太郎に近づき、さっき触れていた棘にもう一度触れ、自分を鼓舞するように小声で囁きます。

「……よし」

 わたしは棘から指を離し、自分の頬をぴしゃりと叩きました。そして涙を拭って顎を上げます。状況は何も変わっていない。だけど全てが解決したような、爽やかな気分でした。
 次の日、わたしは小笠原先輩に連絡をせず、お見舞いに行くことにしました。

 今までは必ず連絡を入れていました。家に行く前に連絡を入れるようなものですから当然です。連絡しない方がおかしい。そのおかしなことをあえてやるのは、自分で思っていたよりもドキドキしました。思えば昔から、サプライズを受けるのは平気だったけれど仕掛けるのは苦手でした。

 ブラウンのニットワンピースにミドル丈のコートを合わせ、病院に向かいます。進むにつれて心拍数はどんどん上がっていき、病室のドアの前に立った時には心臓が破裂しそうな勢いでした。大きく深呼吸をしてからドアをノックします。

 コンコン。

 しばらく待ってみても、反応はありませんでした。もう一度ノックしますがやはり同じ。思い切って横開きのドアをスライドさせてみると、あっさり開いてしまいました。しかしベッドはもぬけの空で、小笠原先輩はどこにもいません。

 ベッドに歩み寄り、シーツがめくれている箇所のマットに触ります。温もりはあまり感じないので、買い物のために売店に行ったとか、ほんの少しだけどこかに出向いているパターンではないかもしれません。だとしたら、どうすればいいでしょう。わたしはベッド傍の丸椅子に座り、腕を組んで悩み始めました。

 無人のベッドを改めて観察します。よく見るとシーツが足元の方までぐちゃぐちゃになっていて、普段どういう使い方をしているのかが透けて見えます。鍵をかけないで個室を出るのも不用心です。ちゃらんぽらんで、テキトーで、入院する前と何も変わっていない。それにわたしは嬉しくなってしまいます。

 わたしは上半身をベッドに預け、小笠原先輩がいつも横になっているマットに顔をうずめました。そして存在しない小笠原先輩の気配を抱くように、両腕をマットの上に広げて伸ばします。

「うわあ!」

 甲高い叫び声が、わたしの耳に届きました。

 慌てて跳ね起きると、部屋の入口に病院服を着た小さな男の子が立っていました。くりくりしたかわいらしい目を見開き、分かりやすく怯えています。わたしは内心パニックになりながら、何が起こったのかもどうすればいいのかも全く分からず、男の子と同じような表情で固まりました。

「どしたの?」

 男の子の背後から、小笠原先輩がひょっこりと姿を現しました。そして硬直しているわたしを見やり、大して驚いた様子もなく声をかけてきます。

「来てたんだ」
「あ、はい」
「大学は?」
「冬休みですけど……」
「そっか」

 小笠原先輩がベッド脇のラックに歩み寄り、中から漫画を数冊取り出しました。そしてまだ硬直の解けていない男の子に本を渡します。

「とりあえずこれだけね。続きは読み終わったら借りに来なよ」
「……ありがとう」
「またなー」

 部屋を出て行く男の子に向かって、小笠原先輩が元気よく手を振りました。そしてドアを閉め、何事もなかったかのようにベッドに横になります。わたしは会ったら言おうと思っていた言葉を一旦全て心の奥にしまい、代わりに今一番気になることを小笠原先輩に尋ねました。

「あの子、誰ですか?」
「病院で知り合った友達。漫画の話で盛り上がって、俺が持ってる本を読みたがってたから、貸すよって言って連れて来たの」
「年齢は?」
「十歳」
「よく自分の年齢の半分以下の子とそんな仲良くなれますね」
「まー、俺も精神年齢はそんなもんだから」

 確かに、と思いました。小笠原先輩が話を続けます。

「子どもと仲良くするのは得意なんじゃないの? 先生になるんでしょ」
「教育学部の生徒がみんな先生になるわけじゃないですよ」
「じゃあ、ならないんだ」
「そういうわけじゃないですけど……」

 わたしは口ごもりました。0か1か。やるかやらないか。そういう小笠原先輩を前にして、ふにゃふにゃのわたしが顔を出します。

「不安なんですよね。わたし、先生になるのもいいかなーぐらいの気持ちで教育学部に入っちゃったので、ちゃんとした先生になれる自信がなくて」
「大丈夫でしょ。昔は頼りないところもあったけど、いい具合に神経太くなってきてるもん。俺ぐらい太くなれば小学生と漫画の貸し借りもできるようになるよ」

 小笠原先輩がわたしから顔を逸らし、さっき男の子が立っていた部屋の出入り口を見やりました。

「まあさっきの子は、本当にただ話してたらウマがあっただけじゃなくて、共通点があったから狙って仲良くなりにいったんだけど」
「共通点?」
「うん。あの子も余命短いみたい」

 部屋の空気が、急にずしりと重たくなりました。小笠原先輩が右手で首の後ろをかきます。

「あの子っていうか、あの子の親から聞いた話なんだけどさ。だから仲良くしてくれって言われた。俺、そういう理由で仲良くするのあまり好きじゃないんだけど、さすがに言えなかったわ」

 小笠原先輩はわたしの方を向いていません。だからどんな顔をしているのか分かりません。だけどたぶん、笑ってはいないと思います。

「あの子を見て、みんなが俺をどういう気持ちで見てるのか、ちょっと分かった気がした」

 何と言えば良いのでしょう。

 小笠原先輩と仲良くしている人たちが、小笠原先輩の命が残り少ないから仲良くしているのかというと、そんなことはありません。そもそもわたしや船井先輩たちのように、そうなる前から仲良くしていた人の方がずっと多いのです。それは小笠原先輩だって分かっているはずです。

 だけど、小笠原先輩の命が残り少ないことに何の意味も感じていないかというと、そんなこともありません。どうしたって意識してしまうし、意識すれば関わり方にも影響は出てしまう。少なくともわたしはそうでした。

「小笠原先輩」

 だから、今日。

 そんなわたしを変えるために、わざわざここに来たのです。

「マンション引き払うの、止めませんか」

 小笠原先輩が振り向きました。わたしはニットのワンピース越しに腿を掴み、顎を上げて声を張ります。

「わたしがこんなことを言える立場じゃないのは分かっています。でも引き払いたくないんです。また一緒に住むためにあのままにしておきたい」

 胸に手を乗せます。深く息を吸って、勢いよく吐き出します。

「わたしは、覚悟しない覚悟をします」

 覚悟するのは、簡単です。

 目の前の現実を見れば、結果として覚悟がついてくる。その程度のものでしかありません。そして現実が強大であればあるほど目を逸らすことは難しい。どうしたって視界に入って来てしまいます。

 それでも小笠原先輩はわたしのために、わたしと生きることを考えてくれました。ならば次はわたしの番です。今また現実から逃げられなくなっている小笠原先輩のために、今度はわたしが小笠原先輩と生きることを考える。

 覚悟なんて、絶対にしてやりません。

「小笠原先輩はすぐに退院します。そしてあのマンションでわたしと同棲を再開します。退院したらお鍋を作りましょう。実家に余っている鍋があるので、マンションに移しておきます」

 現実を見据えるのは難しくて偉い。現実から目を逸らすのは簡単で良くない。ずっとそう思っていました。でも、違う。少なくとも今この場において、わたしの中では違います。

「楽しみですね」

 にっこりと笑います。小笠原先輩は何を言われたのか分からなかったように、しばらくぽかんと呆けました。やがて下を向き、痩せた肩を小刻みに震わせます。

「っく、くく……あはははは!」

 小笠原先輩が、声を上げて笑い出しました。

 今度はわたしが呆ける番です。火がついたように笑う小笠原先輩を、何もできず呆然と眺めます。やがて小笠原先輩が笑いすぎて激しく咳き込んだ後、顔を上げて気持ちよさそうに呟きました。

「あー、最高」
「何かおかしかったですか?」
「何もかもおかしいでしょ」

 小笠原先輩の唇が、にやりと不敵に歪みました。

「さっきの、訂正するわ」
「さっきの?」
「もう俺より神経太いよ。先生でも何でもなれる。さすが俺の嫁さん」

 頬が熱くなりました。小笠原先輩がわたしに身体を寄せ、背中に手を回して抱きしめてきます。

「俺さ」吐息が肌に当たります。「キムチ鍋好きだから、作り方調べといて」

 小笠原先輩がわたしから離れました。そしてベッドの上でへらへら笑います。わたしも同じように、へらへらと笑い返しました。

「はい」
 新年を迎えても、小笠原先輩はまだ退院していませんでした。

 元旦は、船井先輩、長野先輩、安木先輩と初詣に行きました。訪れた神社は混んでいて、参拝の列に並んでからお参りをするまで一時間近くかかりました。「これだけ待ったんだから御利益あるだろ」。そう呟く船井先輩の言葉を信じ、わたしは奮発して財布から五百円玉をお賽銭箱に投げました。そして柏手を打って目を閉じ、ただ一つのことを願い続けます。

 小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が――

「行くよー」

 長野先輩に声をかけられ、わたしはまぶたを上げました。いつの間にか離れていたみんなに合流し、ぞろぞろと連れ立って歩きます。寒さから首をすくめてマフラーに顎を沈めるわたしの前で、船井先輩と長野先輩が神社の社務所を見ながら会話を始めました。

「ねえ、何か賭けておみくじ勝負しない?」
「いいけど、何賭けるんだよ」
「スタバ」
「分かった。安木も参加な」

 船井先輩に話を振られた安木先輩が、ちょっと不機嫌そうに眉根を寄せました。しかし反論はせず、わたしの方を向いて口を開きます。

「やる?」
「じゃあ、やります」

 流れで話に乗っかり、みんなでおみくじを引くことになりました。社務所の巫女さんに百円を払って六角柱の箱を振り、出て来た棒に書いてある番号の棚から折り畳まれた紙を取り出します。全員で集まって引いたおみくじの紙を開くと、船井先輩が顔をしかめて「げ」と呟き、その呟きをすさかず長野先輩が拾いました。

「船井、どうだった?」
「……お前は?」
「中吉。まあ良い方でしょ」

 長野先輩がおみくじをみんなに見せつけました。そして分かりやすく怯んだ船井先輩への追撃はあえてせず、安木先輩に話を振ります。

「安木はどうだった?」
「吉」

 安木先輩が縦長のおみくじを掲げました。一縷の望みを託してこちらを見つめている船井先輩の視線を感じながら、わたしはおずおずと自分のおみくじをみんなに向かって広げます。

「大吉です」
「おー、すごーい」

 長野先輩が手袋をした両手を叩き合わせ、船井先輩を見やりました。船井先輩が盛大に白い息を吐き、投げやりに自分のおみくじを掲げます。

「凶だよ」
「あちゃー、ドンマイ」
「ありえないわ。もう一回引く」
「止めとけば。去年の小笠原みたいになるよ」
「去年、何かあったんですか?」

 気になる言葉が耳に入り、わたしは口を挟みました。長野先輩がしまったという感じで目を泳がせます。そして船井先輩に視線で救いを求め、船井先輩は要請に応えて億劫そうに話し始めます。

「去年、小笠原も凶を引いたんだよ。そんでありえねーって言って、もう一回おみくじ引いて、また凶だったの」

 ――ああ、そういうことか。話を聞いて、船井先輩と長野先輩が気まずそうにしていた意味が分かりました。その二連続の凶が今に繋がっていると意識してしまったのでしょう。そしてわたしにも意識させてしまうと思った。

「まあ、でも俺は引かねえから。見てろよ」
「あ、待ってください。わたしも引きます」

 声をかけます。船井先輩がきょとんとわたしを見やりました。

「大吉だったなら別に良くない?」
「でも小笠原先輩は二連続で凶を引いちゃったんですよね。じゃあわたしも二連続で大吉を引かないと相殺できないじゃないですか」

 船井先輩が固まりました。わたしはにこりと笑ってみせます。

「思いついたことはやっておきたいんです。後悔したくないので」

 やれることはやる。小笠原先輩を見て学んだことを口にします。船井先輩が観念したように肩をすくめました。

「じゃ、行こうか」
「はい」

 二人でまた社所に行き、さっきと同じようにおみくじを引きます。折りたたまれた紙を持って長野先輩と安木先輩のところに戻ると、安木先輩が「開けてみなよ」と声をかけてきました。安木先輩なりに背中を押してくれたのかもしれません。

 ゆっくりとおみくじを開きます。大吉じゃなかったらどうしよう。凶だったらどうしよう。悪い予感で指が震え、紙を落としてしまいそうになります。

「あ」

 おみくじが完全に開き、わたしは思わず声を漏らしてしまいました。船井先輩たちがわたしの手元を覗き込みます。
 冬の乾いた空気を、船井先輩の大声がビリビリと揺らしました。

「おおおおおお!」

 大吉。わたしはほっと胸を撫でおろしました。長野先輩が「船井、うるさい」と言い捨てて、わたしの背中にポンと手を乗せます。

「やるじゃん」
「やりました」
「小笠原、退院できるといいね」
「できますよ」

 わたしは断言しました。長野先輩がグロスで光る唇を小さく歪めます。そしてわたしの背中から離した手をコートのポケットに入れて、船井先輩に声をかけました。

「船井はどうだったの?」
「これから開ける。見とけよー」

 みんなに見えるように、船井先輩がおみくじを開き始めます。縦長のおみくじが横向きに開かれ、文字が記号のようにわたしの目に飛び込んできました。わたしたち全員の視線が船井先輩の右の指近く、おみくじの頭の部分に集まります。

 船井先輩が、さっきのわたしと同じ呟きを漏らしました。

「あ」
「で、また凶だったんだ」

 ベッドの上で小笠原先輩が含み笑いを浮かべます。オチが分かっていても笑えるのでしょう。わたしも笑いながら期待通りの答えを返します。

「はい。写真撮りましたけど、見ますか?」
「見せてー」

 小笠原先輩がわたしの方に顔を寄せて来ました。わたしは凶のおみくじを二枚撮って並べた写真をスマホに映し、小笠原先輩に見せます。小笠原先輩が声を上げて笑い出し、病室がにわかに明るい雰囲気で満ちました。

「待ち人『来ず』二連発いいね。どんだけ来ないの」
「それ、わたしたちの間でも話題になったんですけど、今年は就職活動なので内定通知が来ないんじゃないかって話になりました」
「笑えねー」

 笑えないと言いながら、小笠原先輩がまた盛大な笑い声を上げました。何にせよ楽しそうで良かったです。凶を二連発で引いてくれてありがとうございますと、わたしは心の中で船井先輩に感謝の意を示します。

「さすがにもう一回は試さなかったんだ」
「はい。次は洒落にならない気がするって言ってました。小笠原先輩も去年、三回目は引かなかったんですよね?」
「だってなんか二回も凶引いちゃうと、一回いいの引いたぐらいじゃ挽回できなさそうじゃん。でもあと二回引くのはめんどくさいから止めた」

 小笠原先輩が背中をベッドに沈めました。枕に頭を乗せて、小笠原先輩が天井を見つめながらポツリと呟きをこぼします。

「神社ってさ、仏教だよね」

 意味が分かりません。とはいえ、小笠原先輩がいきなり意味不明なことを言い出すのはいつも通りです。わたしは淡々と答えます。

「そうですね」
「仏教の地獄がエグイの知ってる?」
「そうなんですか?」
「めっちゃたくさんあって、一ステージの難易度もやりすぎ。しかも簡単に地獄に送られるんだよね。蚊を潰したらアウトとか、そのレベル」
「蚊も?」
「そう。でもそれは俺も疑ってるけどね。さすがにもっと条件あるでしょ」
「死後の世界の存在は疑わないんですか?」
「それ疑ったらつまんないじゃん」

 小笠原先輩がふわあと一つ欠伸をして、うっすらと涙を目に浮かべました。

「この前、俺は死んだら天国に行くのか地獄に行くのか考えてさ」

 急に重たい話が始まりました。そんな話でも小笠原先輩は、へらへらと笑いながら語っています。

「俺、天国に行けるような良いことはしてないけど、地獄に行くほど悪いこともしてないんだよね。だから天国と地獄の中間に行くと思うの。中国。でさ『蜘蛛の糸』って話あるでしょ。天国から地獄に救いの糸を垂らすやつ。あの糸、天国から地獄に垂れてるってことは、中国も通ってるわけじゃん」

 小笠原先輩がひとさし指を天井に向けました。そして空中に見えない線を引くように、指先をつうと自分の胸に落とします。

「そうなったら俺は、中国に不満はなくても『なんか垂れて来た!』と思って糸を登っちゃうと思うんだよね。そしたらさ、あの糸、切れるでしょ。糸につかまってた人たちはみんな地獄に行っちゃうでしょ。中国にいた俺も勢い余って地獄まで行っちゃうでしょ」

 寝転がったまま首を曲げて、小笠原先輩がわたしの方を向きました。ガリガリに痩せた頬にしわが寄ります。

「たぶん俺って、そういうやつ」

 そうですね、とは言えませんでした。だけど天国にも地獄にも行かないで欲しいとも言えません。「覚悟しない覚悟」はわたしのもの。小笠原先輩に押し付けたくはありません。

「せめて、中国には居続けて下さいよ」

 小笠原先輩が悪戯っぽく唇を吊り上げました。そしてまた天井を仰ぎ、遠い目をして口を開きます。 

「ねえ、買ってきて欲しいものがあるんだけど、いい?」
「なんですか?」
「一緒に映画を観に行った漫画あるじゃん。あれの最新刊が今日発売だから、本屋まで行って買ってきてくれないかな」
「いいですよ。分かりました」

 わたしは椅子から立ち上がり、ラックの上のハンドバックを手に取りました。小笠原先輩がわたしに向かって笑います。

謝謝(シェイシェイ)

 わたしは小笠原先輩に笑い返しました。そして「行ってきます」と言い残して病室を出ます。スマホで近くの本屋を調べると、どうも本屋は駅まで戻らないとないらしく、わたしは病院の売店で温かいコーヒーを買ってから外に出ることにしました。
 病院の外に出るなり、凍えるような寒さに襲われ、わたしは首をすくめてコートの襟を立てました。

 マフラーをきつめに巻き直して歩きます。まだお正月休み中だからか街を行き交う人々は家族連れが多く、あちこちから寒さをものともしない元気な子どもの声が聞こえてきました。わたしも昔はああだったなあと思いながら、売店で買った缶コーヒーを少しずつ飲んで手と身体を温め、ゆっくりと先に進みます。

 飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨ててすぐ、駅前の本屋さんに着きました。わたしも何か本を買おうかなと考えながら、コミックス売り場に向かいます。映画になるほどの人気作の最新刊です。どうせ平積みされているに決まっている。そうタカをくくって、大した注意力も払わずに棚を見て行きます。

 しかし、見つかりません。

 コミックスのエリアを二周したところで、さすがにおかしいと思いました。既刊の並べてある棚で足を止めて、置いてある一番新しい巻を手に取ります。十七巻。初版は三か月前です。

 ――売り切れちゃったのかな。

 わたしは十七巻を持ったまま、レジに向かいました。そして空いているレジにいた若い女性店員に話しかけます。

「あの、すいません」
「どうしました?」
「これの最新刊って、どこにありますか?」

 十七巻を差し出します。店員さんが「ああ」と小さく頷きました。

「これなら発売日は来週ですよ」
「来週?」
「はい。来週の水曜日には入荷していると思います」

 店員さんがにこりと微笑みました。わたしは「そうですか」と呟き、十七巻を持ってきた売り場に向かいます。本を元あった場所に戻してスマホを取り出し、ネットで十八巻の発売日を確認。店員さんの言う通り、発売日は来週です。

 ずっと入院しているから、時間の感覚がおかしくなっているのかもしれません。わたしはLINEを開き、小笠原先輩に通話を飛ばしました。しばらく待っても出なかったので、とりあえずメッセージを残しておきます。

『発売日、まだでしたよ』

 スマホをコートのポケットにしまい、本屋をぐるりと見て回ります。気になった本をぱらぱらとめくり、文庫本を一冊買って本屋を出る頃には、病院を出てから三十分以上が経っていました。しかし小笠原先輩からの連絡はなく、送ったメッセージに既読すらついていません。

 ――寝ちゃったのかな。

 思い返すと、小笠原先輩はやたら背中をベッドにつけて億劫そうにしていました。疲れているのか、眠かったのか、何にせよあまり調子はよくなさそうです。早めに戻って引き上げた方がいいかもしれません。

 歩幅を気持ち大きくして、病院への帰り道を歩きます。途中ちらちらとスマホを覗いてみましたが、病院に着くまで送ったメッセージに既読はつきませんでした。寝ていたら起こさないで帰った方がいいのかななどと考えながら、エレベーターで病室のある階まで上がります。

 エレベーターを下りて、小笠原先輩の病室へと向かいます。薄暗い廊下を歩きながらスマホを取り出し、最後にもう一度だけメッセージに既読がついているか確認しようとしていたら、女性の看護師さんがわたしを早足で追い抜いていきました。何かあったのかなと、わたしは顔を上げて看護師さんが進む先を見やります。

 わたしは、足を止めました。

 小笠原先輩の病室のドアが、開きっぱなしになっています。さっきの看護師さんはその中に飛び込んでいきました。そしてすぐに部屋から出て来て、やはり早足でわたしの横を通り過ぎていきます。

 看護師さんの動きに合わせて、薬の匂いがふわりとわたしの鼻に届きました。背中から聞こえる足音が遠くなっていきます。小さくなる足音とは反対にわたしの心臓の鼓動は、どくん、どくんと、際限なく高まっていきます。

 わたしは走り出しました。そして小笠原先輩の病室に駆け込みます。ほんの数秒も走っていないのに、やけに呼吸が上がって頭が回らず、聞こえるものや見えるものを整理するのに時間がかかります。

 心電図の音。ベッドを取り囲む白衣の人たち。口に呼吸器をつけ、裸の胸に何かの機械を当てられて目をつむっている、ベッドの上の小笠原先輩。

「あなた――」
「何してるんですか!」

 わたしは、叫びました。

 声をかけてきた看護師さんではなく、ベッドに横たわっている小笠原先輩に向かって叫びました。小笠原先輩は何の反応も返しません。こけた頬を青白くして、まぶたを下ろし続けています。

「そんなのって……そんなのってないじゃないですか! ズルいですよ! ズルい! ズルいです!」

 ベッドに歩み寄り、感情の赴くまま言葉を走らせます。何がどうしてズルいのかは自分でも分かりません。ただこんなのはズルいという気持ちだけが、溢れて止まりませんでした。

「最後の言葉、謝謝(シェイシェイ)ですよ!?」

 看護師さんがわたしの肩を掴みました。そして何かを話しかけてきました。わたしには聞こえません。看護師さんの姿も、見えてはいません。

「もっと、あるじゃないですか! 言いたいこと、言わなきゃいけないこと、あるはずじゃないですか! わたしはありますよ! 山ほどあります! だから――」

 ピー。

 無機質な電子音が、頭に滾っていた熱を瞬時に冷やしました。小笠原先輩の胸に機械を当てているお医者さんの姿が見えるようになります。お医者さんと看護師さんが強い口調で交わしている受け答えが聞こえるようになります。何の意味もない、景色や雑音として。

 ずっと蘇生行為を続けていたお医者さんが、汗だくの顔を大きく上げました。そしてわたしの方を見て、ゆるゆると首を横に振ります。

 わたしは、思いました。

 ――嘘でしょ。