小笠原先輩が入院してから、わたしは毎日のようにお見舞いに行きました。

 最初の頃、小笠原先輩は「すぐに退院するから待ってくれればいいのに」と言っていました。一週間経った頃から「ちょっと長引くかも」と言い始めました。二週間経った頃には「クリスマスは無理っぽいなー」と言い出しました。その頃の小笠原先輩は元気だった頃よりかなり痩せこけていて、治療の影響で髪の抜け始めた頭を隠すためにニットの帽子をかぶっていました。「そう言えば余命宣告の半年過ぎたよ」と言われたりもしましたが、何の安心材料にもなりませんでした。

 同棲しているマンションを引き払うつもりだと言われたのは、入院から一ヵ月経った頃でした。

「え?」

 いきなり語られた話に、わたしはそれしか返せませんでした。ベッド傍の丸椅子から目を見開いて小笠原先輩を見やります。ベッドに寝そべっている小笠原先輩は、いつものようにゆるい笑みを浮かべていました。

「オヤジと相談して決めたんだ。まだしばらく入院続きそうだし、とりあえずマンションは引き払おうって。だから自分のもの払い出しておいて。俺のものはオヤジと俊樹に任せるから」
「いつまでにですか?」
「決めてない。でも早いうちがいいな。無駄にお金かかっちゃうから」

 お金のことを言われると何も言えません。三日間毎の同棲だって無駄は多かったはずです。それでも小笠原先輩のお父さんが、小笠原先輩のためにお金を出してくれていた。そのお父さんと相談して決めたなら、わたしは従うしかありません。

「……分かりました」
「ありがと。サボ太郎のことも忘れずにね。そういえばサボ太郎は元気?」
「枯れてないって意味なら元気ですけど……サボテンが元気かどうかって分かるんですか?」
「前に話したメキシコ人は見分けてたよ。仲良くなれば分かるんじゃないかな。ちゃんと話しかけてる?」

 話しかけていません。肩をすくめるわたしを見て、小笠原先輩がおおげさに首を横に振りました。

「ダメじゃん。それじゃあサボ太郎も心を開いてくれないよ」
「サボテンですよ?」
「植物だって生きてるんだし、心があってもおかしくないでしょ」

 ふざけたことを言いながら、小笠原先輩が視線を横に流しました。話の展開にふさわしくもないアンニュイな仕草が目を引きます。

「最近よく考えるんだよね。心ってなんだろうって」

 小笠原先輩が病院服の上から、自分の左胸に開いた右手を乗せました。

「俺が死んだらたぶん、まず心臓が止まるよね。そんで血液が回らなくなって脳が止まって、そこで俺の心がなくなったとする。でもさ――」

 左胸の上から右手が離れました。そして今度はニットの帽子越しに、ひとさし指で側頭部をコンコンと叩きます。

「俺のここには、ただ電気信号が流れてるだけでしょ。そんで複雑さは全然違うだろうけど、似たようなものはサボ太郎の中にだって流れてる。水吸えーとか、光合成しろーみたいなの。その電気信号を心と呼ぶなら、サボ太郎にも心があるって言えないかな」

 小笠原先輩がいきなり意味不明なことを言い出すのは、今に始まったことではありません。

 炭水化物メインのポテトサラダやマカロニサラダがサラダなら、ラーメンやパスタは実質サラダ。犬や猫は模様が違う程度でも違う名前がついているんだから、マグロもひれの位置や形ごとに名前をつけるべき。普段からそんなことを言って、笑われたり、呆れられたりしています。

 だけど小笠原先輩はそういう話を、いつもみんなを楽しませるために口にしていました。今の小笠原先輩からわたしはその意志を感じません。答えを求めている。言って欲しいことがある。真っ直ぐな瞳から、そういう想いが伝わります。

「――違うと思います」

 わたしは椅子から離れ、ベッドの左に立ちました。そしてわたしを見上げる小笠原先輩としっかり目を合わせます。

「サボ太郎に心があるかどうかは分かりません。でも持っていたとしても、小笠原先輩が持っているような心とは違うと思います。ちゃんとありますよ。電気信号じゃない心が、小笠原先輩の中に」

 右手を伸ばし、小笠原先輩の左胸に触れます。前よりもずっと薄くなっている胸板に驚き、その驚きを隠して笑います。

「わたしが好きになったのは、その小笠原先輩の心です」

 だから、安心していい。迫り来る死を前にして、今ここにある生すら不安になっているのなら、そんなことは考えなくていい。あなたは確かに生きている。わたしがそれを、保証する。

「そっか」

 小笠原先輩がはにかみました。そしてわたしの頭の後ろに手を回し、唇を重ねてきます。久しぶりに感じた小笠原先輩の唇は、薄くて、乾いていて、パラパラと砕け散る寸前の枯れ葉のようでした。