キメ顔で難解な言語をかたる小妖精の駅員にとりあえずもう一度礼を言い、案内板の閲覧を諦めて駅を後にする。
そしてそのシェリーの目に飛び込んできた光景は、湯気が立ち込め白い花が咲き誇っているかのように平瀬を湯華が彩る川が町を二分するように流れ、そしてそれに沿うように木造建築物が整然と立ち並ぶ町であった。
それが、岩妖精達が発見し、そして本能と煩悩と趣味と好奇心の赴くまま全力全開で創り上げてしまい、そして小妖精に管理を委託した、今となってはストラスアイラ王国内で有数の湯治場へと発展した町――リトルミルである。
それは、実はグレンカダムから出たことのないシェリーにとってとても新鮮であり、心洗われる光景でもあった。
そんな感じで年相応に目をキラキラさせて感嘆の吐息と共に街並みを見回し、それを目にした現地の小妖精や観光客をホッコリさせ、だがすぐに宿の場所確認と町の構造、道の把握のために商業ギルドから貰った地図を真顔で広げるシェリー。
その年相応らしからぬ変貌ぶりに、ホッコリしていた皆が今度はギョッとし二度見する。
そんな周囲の目を気にする筈のないシェリーは、キャリーバッグから徐に肩掛け鞄を取り出して襷掛けにすると、更に二つ折りになっている用箋挟を取り出して開き、流れるようにキャリーバッグを閉めつつ地図を適当な大きさに畳んでからそれに挟むと、同じくそれに挿してある鉛筆を抜き取って地図にメモし始めた。
肩掛け鞄を襷掛けにするとショルダーストラップで胸部装甲が強調される描写があるのだが、シェリーはバッグを正面に下げているためそうはならない。掏摸予防にもその方が安全と理解しているから。
貴重品を無防備に後ろへぶら下げて歩くなど言語道断。何処へ行こうとはしゃいでいようと、警戒心は常に持っておくべきだと常々シェリーは思っている。
町の状況やら宿までの道程にどんな店があるのかを地図へと色々書き込むその様は、まるで取材に来た雑誌記者のようであり、
「え? なにこの丸いの。温泉饅頭? うわ甘! うんま! え? 温泉の蒸気を利用して蒸してるんだ。燃料要らないなんて、なんて環境に優しいの」
だがその先々の店舗で取り扱っている飲食物を口にして、その都度感激し、
「この薄い丸いのなに? 煎餅? 粳米? を蒸して潰して作るの? 出来立て? うわ、熱いけどパリパリで美味しい! なにこれなにこの味付け? ちょっとしょっぱいけど塩だけじゃないわよね。醤油? へー、おもしろーい。色々応用が効きそうな調味料ね」
そしてそれに使われている調味料や材料、製法をざっと訊いて感嘆し、
「え? この玉子ってほぼ生なんだけど。食べてお腹壊さない? 採れたて新鮮だから平気? ホントに? ……ちょっと、おいひいんだけどなにこれなにこれ!? 玉子ってこんなに濃厚で美味しかったの知らなかったよ。いつも加熱調理してカチカチでしか食べてなかったから。あれ、この汁なに? これ垂らしてから食べるの? 早く言ってよぉー、もう食べちゃったじゃない……え? オマケでくれるの? ありがと〜。ふわああああああああ! おいひすぎるぅ〜〜〜〜」
更に見聞きしたこともないものを口にして感動していた。
そんな服が弾けるんじゃないかとばかりな過剰とも言えるリアクションの所為なのか、それとも容姿補正のおかげなのか、はたまた食レポが異常に上手だからなのか、あるいは記者のようにメモしつつそんなコトをしている効果なのか、シェリーが立ち寄って去った後で遠巻きに寄ろうか迷っていたらしき観光客が大挙して詰め掛けるという珍事が起き、そして売上が相当伸びたらしいが、それはどうでも良いだろう。
必要なのは、今現在シェリーがリトルミルにしかないであろうグルメを堪能し、そして地図にそのご当地グルメの詳細をびっしり書き込んで、非常に満足しているということだ。
だがそんなことばかりをしていられないのも事実であり、実は宿に荷物を置いたらその足でベン・ネヴィス教会へ行って、夕方まで行われているという〝齢の儀〟の最後の方に滑り込めれば良いかな〜とかのーんびり考えていたりする。
そんな風にのんびりと食べ歩きしつつ、先々でお勧め品を訊いて誘蛾灯に誘われるなにかのようにフラフラと其処彼処に立ち寄るシェリー。その食欲は全開だ。
それもその筈。着いて行こうとする皆を振り切るように始発で来ちゃったため、まだ昼前だというのに滅茶苦茶空腹なのである。
更にいうなら、実はシェリーは何故か若干成長が遅く、そして未だ成長期であるため、結構な量を食べるのだ。
ちなみに今までダイエットなるものをしたことなど、一度たりとも無い。どうやら太り難い体質であるようだ。太り易い体質の怨嗟の声が聞こえてきそうである。
そしていつまでもそんなことをしていられないのもやっぱり事実であり、その考えにやっと至ったシェリーは、今更ながら予約した宿「カネキラウコロ」を探そうと行動に移す。
手始めに、現在シェリーがもりもり食べているゴマ串団子を販売しているお店の、多分おばちゃんに訊いてみた。
何故に多分かというと、相手が小妖精だから。小妖精は、草原妖精以上に年齢不詳なのである。
「あー、カネキラウコロだばあっこのでっけぇどごだぁ。いぐんだばなんぼが歩がねばねったいにこえぐなるばって。車っこさ乗ればこえぐねぐ行げら」
……はい、なにを言っているのか判りません。
笑顔のまま動きを止め、どうしてくれようかと思案するシェリー。ぶっちゃけ理解出来るまで訊き続けるか、取り敢えず指を差している方向へ行ってみるかの二択であるが。
そんなことを考えていると、
「かっちゃ。ダメだべ観光客さ訛ってへったってなもわがねべしゃ。見れほらなんとへばいんだがわがねぐなってら」
後ろからそんな声がする。
振り向くと、其処には紺色のスーツを着た、若干粗野な雰囲気の男が溜息混じりに頭を掻きながら其処にいた。
彼が着ているスーツの襟元には、商業の象徴ともいうべき二匹の蛇が巻きつく杖の紋章が刺繍されているため、彼は商業ギルドの職員であり、そして結構な要職に就いているか特務隊員であるのだろうとシェリーは考える。
あるいは巡検使としてギルドからこの地の治安維持のために遣わされたか。
何にせよその紋章は信頼出来る人物の証でもある。
彼はシェリーを気遣うような視線を送り、だが抱えている紙袋からなにやら中に葉物野菜らしきものが入っている饅頭のようなものを取り出し頬張りながら、おばちゃんにやっぱり理解不明な言葉で話し掛けた。
「すったらごどへらいだって、わこれしかへらいね。んがわがるんだばへってけれ」
そしてまたしても理解不能な言葉を高速で捲し立てる。笑顔のまま固まるシェリーは、本気でどうして良いのか判らない。
それを尻目に、その饅頭のようなものをモゴモゴしている男はシェリーを一瞥して小首を傾げ、懐から写真を取り出して一人で納得したように頷いた。
「えーと、間違っていたら申し訳ないが、キミはシェリー・アップルジャックかい?」
串団子屋のおばちゃんに「ほれこれやっからへでってやれ」と言われてゴマ串団子五本入りを渡されている男が、正面からシェリーを見詰めて何故か納得げに頷き、だが「いや要らねでば。わ甘もんかねがら」と言いながらそれをおばちゃんに返そうと無駄な努力をする。
そんな漫才のようなやりとりを、どんな表情をして良いのか判らず、取り敢えず凍りついた笑顔のまま見守るシェリーであった。
「いきなり名前を訊いて済まなかったな。実はリトルミルの年寄りは訛りが酷いから助けてやれって、サブマスターから頼まれてな。写真を頼りに捜してたんだ。会えて良かったよ」
そう言い、男はニカっと笑う。その口には鋭い歯が並び、そして表皮は若干しっとりしている。そして所々薄く鱗が浮いていることから、彼は魚人族で、鱗がはっきりしているところを見ると、きっと鹹水の、であろう。
「デリックさんが? なんか其処までして貰うと悪いなー。恩がどんどん積み重なっていっちゃう。というかね、なんでデリックさんが私の写真持ってるの? そっちが方が不思議でびっくりよ」
「いやそんなこと俺に言われてもな。渡されたのがこの写真なんだが、髪の長さがちょい違うがお前さんだろ?」
そう言い、差し出された写真には、風に靡く美しい白金色の髪と、光の加減で色が変わる翠瞳の女性が、微笑みを浮かべている姿が写っていた。
それに、その写真に、シェリーは見覚えがあった。なにしろ、幼少期に自分が撮ったものであったから。
「て、お母さんの写真じゃない! 確かに瓜二つって自覚はあるけど! というかなんでデリックさんがお母さんの写真持ってるのよ!? そっちの方で驚くわよ!」
「そんなの俺に訊かれてもな。でもサブマスターが言うには、これは商業のお守りみたいなもんで、役員の連中は全員持っているらしいぞ。会計課のエヴラール課長は執務室に拡大印刷したこの写真を神棚に祀っているらしいし。あと汚したら懲戒処分で失くしたら殺すって笑顔で脅された」
「お母さん……勝手に神格化されてるよ……。それと失くしても、私ネガ持ってるから幾らでも現像出来るわよ。それにしても、一体何処から手に入れたのよその写真」
生前から嘘か本当かとんでも逸話が多い母親であったが、逝去してなおそれを増やすとは。そんなことを考え、なんとなーく、頭の頭痛が痛くなるシェリーであった。
ちなみにどんな逸話があるのかというと、トミントール公国のノッカンドオ高地に作られた高山鉄道設計に深く関わっているとか、岩妖精の前王に求婚されて断り失脚させたとか、帝国がリンクウッドの森のとある村を焼き討ちして延焼した森林火災を瞬く間に鎮火させたとか、列車事故に遭い瀕死になりながらも乗客全てを救った――などなど。
一人の人物が抱えられる逸話の量を遥かに超えているし、そもそもそれらが事実だったとしても、それを可能にするとかどんな万能超人なんだろうか。
いくら色々非常識な母親であったとしても、尾鰭が付くにも限度というものがあるだろう。
よって、そんな逸話など、シェリーは一切信じていない。例え共に帰って来た変態から土産話で色々聞かされていたとしても、自分の母親がそんな非常識を仕出かすなどという事実は、あってはならないのだ。
だからその逸話は、色々なことに尾鰭がついているのだろう。
そうに違いない。
……多分、きっと、なんとなく……。
「それで? 初対面の女子に声を掛けてナンパして来いってデリックさんに言われたんだ。へー、ふーん」
うん、そういう反応になるだろうなぁ。彼はそう考えて溜息を吐き、だがそれはきっと正しいんだろうとも考え、無駄に愛想を振り撒くよりはずっとマシだとシェリーの評価を引き上げ――
「ナンパなんて生まれてこの方一度たりともしたことなんてねーよ。ユーインの旦那じゃあるまいし。あとナンパなんかじゃなくて案内な。さっきも言ったが、此処の連中は標準語なんて覚える気が全然ないから訛りが酷ぇんだよ。それと、警戒しなくてもなんもしねぇよ。それこそユーインの旦那じゃあるまいし」
「……ユーインさんって、そういうキャラだったんだ……。ふーん」
そして自分の上司の為人をさり気なく暴露して評価を駄々下がりさせる。
「そういうキャラというか、なんというか軽いんだよあの人。〝自称〟妹と暮らしているクセにその辺のねーちゃんにすーぐ声掛けるし」
「ふーん。で、そのお零れに貴方も?」
「……生まれてこの方そんなの考えたことすらねーよ。悪かったな恋人いない歴が年齢で」
「悪いことじゃないわよ。そんなの気にするのは男だけだし、女はそういうのなんて気にしないわ。もし気にするのがいたとしても、それは大したことのないヤツよ」
「へぇ、そういうもんかい」
「そういうものよ。私だってそんなの居たことなんてないわ」
そりゃそうだろう。シェリーのそんな発言に、当り前のようにそう考える。なにしろ母親が急逝した九歳の頃から家業の切り盛り一辺倒で、年相応の生活の一切を送れていないのだ。そうならない方がおかしい。
そしてそれは、商業ギルド内では周知の事実で、更にその父親がロクデナシというのも、同じく周知の事実であったりする。
などと、さも当然のように個人情報を把握しているのだが、シェリー自身もそれを隠しているわけでもなく、むしろ大真っ平に言ってくれた方が色々便利だとすら思っていた。同情してくれて商取引が有利に進むから。
「ところで、貴方の所属は判ったけれど、まだ名前を聞いていないわ。初対面ならちゃんと名乗りなさいよ。そんなことをしていると女子にモテないわよ」
「おお、そうだったな済まん。俺はデメトリオだ。見ての通りの魚人族で、きっと気になるだろうから先に言っておくが赤鯛の魚人だ。あと、女子にモテたいと思ったことなんざ一度たりともないが面と向かって言われると地味に傷付くからやめてくれ」
「あら、そうなの。口ぶりからチャラそうなユーインさんの部下っぽかったから、モテるモテないとかクッソ下らないことが気になると勝手に思っていたわ。偏見だったわねごめんなさい」
「容赦ねぇな嬢ちゃん。なんか嫌な想い出でもあるのかい?」
「……貴方も商業ギルド員なら判るでしょう。ウチのロクデナシ親父の素行とか」
「あー……」
商業ギルドに所属しているデメトリオには、心当たりがありまくる情報であった。
「そんなことより、デメトリオさんて赤鯛の魚人なの? 珍しいわね。確か赤鯛の魚人って過去に乱獲されて……」
「『さん』はいらねぇ。デメトリオで良い。あとそれはただの噂だからな。魚と魚人は種として全然違うから、俺等は食用には適さねぇよ。そのネタは少数な俺ら赤鯛の魚人の一部が広く認知させるために、やめときゃ良いのにそう言って盛大に滑った黒歴史なんだよ。おかげでこちとら良い迷惑だ」
「魚人族にもそんな莫迦がいるんだね……」
「莫迦は種族を超えるんだよ」
「うわ~、名言」
「『迷う』方のだけどな」
苦笑してそう答え、デメトリオは紙袋から先程も食べていた饅頭のようなものを取り出して頬張る。それはちょっと――いや、相当美味しそうだ。
「私のことは『嬢ちゃん』じゃなくてシェリーって呼んでね。呼び捨てで良いわよ。そもそも貴方の方が年上だろうし。それと、それってなに? ちょっと美味しそうなんだけど」
「ん~……嬢ちゃんを『シェリー』て呼び捨てにすると上司に殺されそうだから勘弁して欲しいんだが。とりあえず『シェリーの嬢ちゃん』で勘弁してくれ」
「……なんなの貴方の上司達って。私をなんだと思っているのかしら」
「いや知らんよ。俺が聞きたいくらいだし。それとこれは高菜饅頭っていってな、饅頭の中に葉物野菜を調味料で漬け込んで熟成させたものが入っているんだよ。俺は甘いものが苦手だからな。食べてみるかい?」
そう言いながら、齧った饅頭の断面をシェリーに見せるデメトリオ。そしてそれを見たシェリーは、一切の躊躇もなく齧り付いた。
「え? て! おまなにやってんだ! それって間接……」
その想定外の行動に一瞬凍り付き、だがすぐに慌てふためきそんなことを言う。そしてその顔が、見る間に真っ赤になって行く。
「うん、これも美味しいわね。ねぇ何処に売ってた……なんで真っ赤になってるの?」
「………………年頃の娘が男が齧ったものに口を付けちゃいけません」
「なんで説教が始まるのよ。そんなの気にしなくても良いでしょ。実際にチューしたわけでも生殖行動したわけでもないのに」
「ぶっちゃけ過ぎだよ! こちとら女子に免疫ねぇんだから勘弁してくれ!」
「え? あー、ごめんなさい。チャラい上司に風俗店とかいっぱい連れて行かれてるとか思っちゃってた」
「そんなところに行こうと思ったことすらねぇよ! くっそー、全部あの女っ誑しなクソ上司が悪いんだ!」
「なんか本当にごめんなさい。デメトリオも苦労しているのね」
「良いよもう。俺が勘違いするような行動をとってくれなければ問題な――」
「ちゃんと養ってくれるなら、私は誰でも構わないわよ。愛情なんて後から生えてくるだろうし」
「ヤメロ!」
瞬間的にシェリーとのお付き合いとか、結婚とか新婚生活とかを夢想してこの上ない幸福感に浸り、だがそれに伴い付随するであろう最強で最恐で最凶な元冒険者パーティ〝無銘〟の面々に思い至り、命の危険が危ないと判断して滅多なことは出来ないとその思考を消し去るデメトリオ。命懸けの恋愛や結婚生活などご免だ。
そんな実のない会話をしつつ、デメトリオの案内で宿「カネキラウコロ」を目指すシェリー。もちろんその過程でご当地グルメに舌鼓を打つのを忘れない。
もっともデメトリオにしてみれば、さっさと宿まで送ってお役御免になりたいと思っているのだが、そんなことを許すシェリーではなかった。
キャリーバッグをゴロゴロ引きながら年相応にはしゃぎ、そんな重い物を引くのも大変だろうとそれを預かるデメトリオの空いた腕に自分の腕を絡ませてあっちこっち引き回す。
そんなことをしているシェリー自身は無自覚なのだが、やられているデメトリオは堪ったものではない。なにしろ年齢が恋人いない歴なのだ。
ちなみにデメトリオは、見た目の印象に合わず純粋でお堅く面倒見が良く、実は結構評価が高い。デリックがシェリーの案内役に選んだ所以である。
――なのだが、そんなシェリーの無自覚攻撃に純粋さとお堅さでコーティングしてある理性が崩壊の危機に陥り掛け、自分に「これはただの案内」と言い聞かせて堪える始末。
更に無理矢理だが腕を組まれているためか、たまーに柔らかななにかの感触が伝わって来てしまい、崩壊の危機に拍車を掛け、挙句自分を見上げる屈託のない笑顔が素敵過ぎて、何度も「もうどうでも良いかな」とか理性と思考を放棄しそうになる己と格闘する羽目になっていた。
だがそれも、宿に着くまで。
そう考え直して己を奮い立たせて、大袈裟だがデメトリオにとって永遠ともいうべき時間の経過と共にやっと宿「カネキラウコロ」に到着した。
「それじゃあ、俺はこれで――」
そう言い残して立ち去ろうとするデメトリオの耳に、
「あんだシェリー・アップルジャックだが? あんいやまんずいぐ来てけだなぁ。なんぼ待ってらってなも来ねったいになんとしたべがど思ってらったっきゃ。ほらこっちゃけ。荷物っこ持ってぐはんで上がってけれ」
シキリ紋様が刺繍されたアットゥシと呼ばれる民族衣装に身を包んだ宿の女将らしき小妖精の女がシェリーを出迎え、早口に訛りという呪文を唱える。
振り返れば、その女将を前にして張り付けた笑顔のまま凍り付いているシェリーがいた。
「女将、んが観光客どもなんぼでもへってらべ。なしにわがらねのおべででそったごとばりへるやった? 見れほらなんとしていがわがねぐなってら」
「あんいやまんずおめだばわがるやったが。さもね、訛ってへればおもへがらへってらやった。なんぼがへばちゃんとへるったいに」
そして始まる呪文の応酬。当然シェリーは蚊帳の外で、どうして良いのか判らず曖昧な笑顔を浮かべているだけである。
「あらあらごめんなさいね。最初にこれやっておかないと、小妖精族の話し言葉がどんなものか判らない人達が多いから」
コロコロ笑いながら、身長が1メートル前後の女将がシェリーを見上げてそんなことを言う。そのシェリーはというと、やっぱり曖昧な笑顔継続中であった。
「まったく……真面目で実直で正直者なクセに、他所から来た人らにわざと訛って話し掛ける悪癖があるんだからよ。んじゃあなシェリーの嬢ちゃん。あとは一人でも大じょ――」
言い残し、立ち去ろうとするデメトリオの上着の裾を掴まえ、
「ごめんなさいデメトリオ。もうちょっと付き合って」
言葉が通じないのが相当心細いのか、結局そのまま付き合う羽目になった。
可愛いから良いがな!
何かが吹っ切れたのか、そう考えるデメトリオ。諦めた、もしくは開き直った、あるいはヤケクソになった、ともいう。
そんなこんなで済崩し的にベン・ネヴィス教会前まで一緒に行き、そしてそれほど時間が掛かるものでもない儀式であるためデメトリオは外で時間を潰しつつ待つことになった。
しかし――
いくら待てども、シェリーが戻ることはなかった。
彼女より後に教会を訪れた者達が立ち去った後も、そして――その教会の明かりが消え始めても、シェリーは戻らない。
不審に思い、意を決して閉門間際に教会へ踏み込み、そして傍にいる修道女にシェリーのことを尋ねたのだが――
「そのような方は、いらしていません」
取り付く島もない返答が返って来るばかりであった。
「いやそんなわけはないだろう! もう何時間も前に教会に入ったんだ」
「それならば、既に帰られたのではないでしょうか。申し訳ありませんが、時間となりましたのでお引き取り下さ――」
「待てよ! 教会からの帰り道はこの橋だけだ! 擦れ違ったり気付かなかったりする筈はないだろうが! もういい、勝手に捜させて貰――」
埒が明かないと判断したデメトリオは、修道女を押し退け奥へと踏み込もうとする。だがそんな彼を、既に奥で待機していたと思しき神殿兵が行く手を阻む。
実は荒事の多い部署にいるためそれなりに腕に覚えのあるデメトリオだが、完全武装でおまけに数の多い神殿兵に敵うわけはなく、あえなく教会の外へと叩き出されてしまった。
「……一体、なにが起こっていやがるんだ……?」
殴られ、だが鱗により大したダメージのないデメトリオは、閉ざされた扉を忌々し気に睨んでそう独白する。
そして――本来であれば遅くまで明かりが灯されているベン・ネヴィス教会が、その夜は夕暮れと共に暗がりへと沈んで行った。
そしてそのシェリーの目に飛び込んできた光景は、湯気が立ち込め白い花が咲き誇っているかのように平瀬を湯華が彩る川が町を二分するように流れ、そしてそれに沿うように木造建築物が整然と立ち並ぶ町であった。
それが、岩妖精達が発見し、そして本能と煩悩と趣味と好奇心の赴くまま全力全開で創り上げてしまい、そして小妖精に管理を委託した、今となってはストラスアイラ王国内で有数の湯治場へと発展した町――リトルミルである。
それは、実はグレンカダムから出たことのないシェリーにとってとても新鮮であり、心洗われる光景でもあった。
そんな感じで年相応に目をキラキラさせて感嘆の吐息と共に街並みを見回し、それを目にした現地の小妖精や観光客をホッコリさせ、だがすぐに宿の場所確認と町の構造、道の把握のために商業ギルドから貰った地図を真顔で広げるシェリー。
その年相応らしからぬ変貌ぶりに、ホッコリしていた皆が今度はギョッとし二度見する。
そんな周囲の目を気にする筈のないシェリーは、キャリーバッグから徐に肩掛け鞄を取り出して襷掛けにすると、更に二つ折りになっている用箋挟を取り出して開き、流れるようにキャリーバッグを閉めつつ地図を適当な大きさに畳んでからそれに挟むと、同じくそれに挿してある鉛筆を抜き取って地図にメモし始めた。
肩掛け鞄を襷掛けにするとショルダーストラップで胸部装甲が強調される描写があるのだが、シェリーはバッグを正面に下げているためそうはならない。掏摸予防にもその方が安全と理解しているから。
貴重品を無防備に後ろへぶら下げて歩くなど言語道断。何処へ行こうとはしゃいでいようと、警戒心は常に持っておくべきだと常々シェリーは思っている。
町の状況やら宿までの道程にどんな店があるのかを地図へと色々書き込むその様は、まるで取材に来た雑誌記者のようであり、
「え? なにこの丸いの。温泉饅頭? うわ甘! うんま! え? 温泉の蒸気を利用して蒸してるんだ。燃料要らないなんて、なんて環境に優しいの」
だがその先々の店舗で取り扱っている飲食物を口にして、その都度感激し、
「この薄い丸いのなに? 煎餅? 粳米? を蒸して潰して作るの? 出来立て? うわ、熱いけどパリパリで美味しい! なにこれなにこの味付け? ちょっとしょっぱいけど塩だけじゃないわよね。醤油? へー、おもしろーい。色々応用が効きそうな調味料ね」
そしてそれに使われている調味料や材料、製法をざっと訊いて感嘆し、
「え? この玉子ってほぼ生なんだけど。食べてお腹壊さない? 採れたて新鮮だから平気? ホントに? ……ちょっと、おいひいんだけどなにこれなにこれ!? 玉子ってこんなに濃厚で美味しかったの知らなかったよ。いつも加熱調理してカチカチでしか食べてなかったから。あれ、この汁なに? これ垂らしてから食べるの? 早く言ってよぉー、もう食べちゃったじゃない……え? オマケでくれるの? ありがと〜。ふわああああああああ! おいひすぎるぅ〜〜〜〜」
更に見聞きしたこともないものを口にして感動していた。
そんな服が弾けるんじゃないかとばかりな過剰とも言えるリアクションの所為なのか、それとも容姿補正のおかげなのか、はたまた食レポが異常に上手だからなのか、あるいは記者のようにメモしつつそんなコトをしている効果なのか、シェリーが立ち寄って去った後で遠巻きに寄ろうか迷っていたらしき観光客が大挙して詰め掛けるという珍事が起き、そして売上が相当伸びたらしいが、それはどうでも良いだろう。
必要なのは、今現在シェリーがリトルミルにしかないであろうグルメを堪能し、そして地図にそのご当地グルメの詳細をびっしり書き込んで、非常に満足しているということだ。
だがそんなことばかりをしていられないのも事実であり、実は宿に荷物を置いたらその足でベン・ネヴィス教会へ行って、夕方まで行われているという〝齢の儀〟の最後の方に滑り込めれば良いかな〜とかのーんびり考えていたりする。
そんな風にのんびりと食べ歩きしつつ、先々でお勧め品を訊いて誘蛾灯に誘われるなにかのようにフラフラと其処彼処に立ち寄るシェリー。その食欲は全開だ。
それもその筈。着いて行こうとする皆を振り切るように始発で来ちゃったため、まだ昼前だというのに滅茶苦茶空腹なのである。
更にいうなら、実はシェリーは何故か若干成長が遅く、そして未だ成長期であるため、結構な量を食べるのだ。
ちなみに今までダイエットなるものをしたことなど、一度たりとも無い。どうやら太り難い体質であるようだ。太り易い体質の怨嗟の声が聞こえてきそうである。
そしていつまでもそんなことをしていられないのもやっぱり事実であり、その考えにやっと至ったシェリーは、今更ながら予約した宿「カネキラウコロ」を探そうと行動に移す。
手始めに、現在シェリーがもりもり食べているゴマ串団子を販売しているお店の、多分おばちゃんに訊いてみた。
何故に多分かというと、相手が小妖精だから。小妖精は、草原妖精以上に年齢不詳なのである。
「あー、カネキラウコロだばあっこのでっけぇどごだぁ。いぐんだばなんぼが歩がねばねったいにこえぐなるばって。車っこさ乗ればこえぐねぐ行げら」
……はい、なにを言っているのか判りません。
笑顔のまま動きを止め、どうしてくれようかと思案するシェリー。ぶっちゃけ理解出来るまで訊き続けるか、取り敢えず指を差している方向へ行ってみるかの二択であるが。
そんなことを考えていると、
「かっちゃ。ダメだべ観光客さ訛ってへったってなもわがねべしゃ。見れほらなんとへばいんだがわがねぐなってら」
後ろからそんな声がする。
振り向くと、其処には紺色のスーツを着た、若干粗野な雰囲気の男が溜息混じりに頭を掻きながら其処にいた。
彼が着ているスーツの襟元には、商業の象徴ともいうべき二匹の蛇が巻きつく杖の紋章が刺繍されているため、彼は商業ギルドの職員であり、そして結構な要職に就いているか特務隊員であるのだろうとシェリーは考える。
あるいは巡検使としてギルドからこの地の治安維持のために遣わされたか。
何にせよその紋章は信頼出来る人物の証でもある。
彼はシェリーを気遣うような視線を送り、だが抱えている紙袋からなにやら中に葉物野菜らしきものが入っている饅頭のようなものを取り出し頬張りながら、おばちゃんにやっぱり理解不明な言葉で話し掛けた。
「すったらごどへらいだって、わこれしかへらいね。んがわがるんだばへってけれ」
そしてまたしても理解不能な言葉を高速で捲し立てる。笑顔のまま固まるシェリーは、本気でどうして良いのか判らない。
それを尻目に、その饅頭のようなものをモゴモゴしている男はシェリーを一瞥して小首を傾げ、懐から写真を取り出して一人で納得したように頷いた。
「えーと、間違っていたら申し訳ないが、キミはシェリー・アップルジャックかい?」
串団子屋のおばちゃんに「ほれこれやっからへでってやれ」と言われてゴマ串団子五本入りを渡されている男が、正面からシェリーを見詰めて何故か納得げに頷き、だが「いや要らねでば。わ甘もんかねがら」と言いながらそれをおばちゃんに返そうと無駄な努力をする。
そんな漫才のようなやりとりを、どんな表情をして良いのか判らず、取り敢えず凍りついた笑顔のまま見守るシェリーであった。
「いきなり名前を訊いて済まなかったな。実はリトルミルの年寄りは訛りが酷いから助けてやれって、サブマスターから頼まれてな。写真を頼りに捜してたんだ。会えて良かったよ」
そう言い、男はニカっと笑う。その口には鋭い歯が並び、そして表皮は若干しっとりしている。そして所々薄く鱗が浮いていることから、彼は魚人族で、鱗がはっきりしているところを見ると、きっと鹹水の、であろう。
「デリックさんが? なんか其処までして貰うと悪いなー。恩がどんどん積み重なっていっちゃう。というかね、なんでデリックさんが私の写真持ってるの? そっちが方が不思議でびっくりよ」
「いやそんなこと俺に言われてもな。渡されたのがこの写真なんだが、髪の長さがちょい違うがお前さんだろ?」
そう言い、差し出された写真には、風に靡く美しい白金色の髪と、光の加減で色が変わる翠瞳の女性が、微笑みを浮かべている姿が写っていた。
それに、その写真に、シェリーは見覚えがあった。なにしろ、幼少期に自分が撮ったものであったから。
「て、お母さんの写真じゃない! 確かに瓜二つって自覚はあるけど! というかなんでデリックさんがお母さんの写真持ってるのよ!? そっちの方で驚くわよ!」
「そんなの俺に訊かれてもな。でもサブマスターが言うには、これは商業のお守りみたいなもんで、役員の連中は全員持っているらしいぞ。会計課のエヴラール課長は執務室に拡大印刷したこの写真を神棚に祀っているらしいし。あと汚したら懲戒処分で失くしたら殺すって笑顔で脅された」
「お母さん……勝手に神格化されてるよ……。それと失くしても、私ネガ持ってるから幾らでも現像出来るわよ。それにしても、一体何処から手に入れたのよその写真」
生前から嘘か本当かとんでも逸話が多い母親であったが、逝去してなおそれを増やすとは。そんなことを考え、なんとなーく、頭の頭痛が痛くなるシェリーであった。
ちなみにどんな逸話があるのかというと、トミントール公国のノッカンドオ高地に作られた高山鉄道設計に深く関わっているとか、岩妖精の前王に求婚されて断り失脚させたとか、帝国がリンクウッドの森のとある村を焼き討ちして延焼した森林火災を瞬く間に鎮火させたとか、列車事故に遭い瀕死になりながらも乗客全てを救った――などなど。
一人の人物が抱えられる逸話の量を遥かに超えているし、そもそもそれらが事実だったとしても、それを可能にするとかどんな万能超人なんだろうか。
いくら色々非常識な母親であったとしても、尾鰭が付くにも限度というものがあるだろう。
よって、そんな逸話など、シェリーは一切信じていない。例え共に帰って来た変態から土産話で色々聞かされていたとしても、自分の母親がそんな非常識を仕出かすなどという事実は、あってはならないのだ。
だからその逸話は、色々なことに尾鰭がついているのだろう。
そうに違いない。
……多分、きっと、なんとなく……。
「それで? 初対面の女子に声を掛けてナンパして来いってデリックさんに言われたんだ。へー、ふーん」
うん、そういう反応になるだろうなぁ。彼はそう考えて溜息を吐き、だがそれはきっと正しいんだろうとも考え、無駄に愛想を振り撒くよりはずっとマシだとシェリーの評価を引き上げ――
「ナンパなんて生まれてこの方一度たりともしたことなんてねーよ。ユーインの旦那じゃあるまいし。あとナンパなんかじゃなくて案内な。さっきも言ったが、此処の連中は標準語なんて覚える気が全然ないから訛りが酷ぇんだよ。それと、警戒しなくてもなんもしねぇよ。それこそユーインの旦那じゃあるまいし」
「……ユーインさんって、そういうキャラだったんだ……。ふーん」
そして自分の上司の為人をさり気なく暴露して評価を駄々下がりさせる。
「そういうキャラというか、なんというか軽いんだよあの人。〝自称〟妹と暮らしているクセにその辺のねーちゃんにすーぐ声掛けるし」
「ふーん。で、そのお零れに貴方も?」
「……生まれてこの方そんなの考えたことすらねーよ。悪かったな恋人いない歴が年齢で」
「悪いことじゃないわよ。そんなの気にするのは男だけだし、女はそういうのなんて気にしないわ。もし気にするのがいたとしても、それは大したことのないヤツよ」
「へぇ、そういうもんかい」
「そういうものよ。私だってそんなの居たことなんてないわ」
そりゃそうだろう。シェリーのそんな発言に、当り前のようにそう考える。なにしろ母親が急逝した九歳の頃から家業の切り盛り一辺倒で、年相応の生活の一切を送れていないのだ。そうならない方がおかしい。
そしてそれは、商業ギルド内では周知の事実で、更にその父親がロクデナシというのも、同じく周知の事実であったりする。
などと、さも当然のように個人情報を把握しているのだが、シェリー自身もそれを隠しているわけでもなく、むしろ大真っ平に言ってくれた方が色々便利だとすら思っていた。同情してくれて商取引が有利に進むから。
「ところで、貴方の所属は判ったけれど、まだ名前を聞いていないわ。初対面ならちゃんと名乗りなさいよ。そんなことをしていると女子にモテないわよ」
「おお、そうだったな済まん。俺はデメトリオだ。見ての通りの魚人族で、きっと気になるだろうから先に言っておくが赤鯛の魚人だ。あと、女子にモテたいと思ったことなんざ一度たりともないが面と向かって言われると地味に傷付くからやめてくれ」
「あら、そうなの。口ぶりからチャラそうなユーインさんの部下っぽかったから、モテるモテないとかクッソ下らないことが気になると勝手に思っていたわ。偏見だったわねごめんなさい」
「容赦ねぇな嬢ちゃん。なんか嫌な想い出でもあるのかい?」
「……貴方も商業ギルド員なら判るでしょう。ウチのロクデナシ親父の素行とか」
「あー……」
商業ギルドに所属しているデメトリオには、心当たりがありまくる情報であった。
「そんなことより、デメトリオさんて赤鯛の魚人なの? 珍しいわね。確か赤鯛の魚人って過去に乱獲されて……」
「『さん』はいらねぇ。デメトリオで良い。あとそれはただの噂だからな。魚と魚人は種として全然違うから、俺等は食用には適さねぇよ。そのネタは少数な俺ら赤鯛の魚人の一部が広く認知させるために、やめときゃ良いのにそう言って盛大に滑った黒歴史なんだよ。おかげでこちとら良い迷惑だ」
「魚人族にもそんな莫迦がいるんだね……」
「莫迦は種族を超えるんだよ」
「うわ~、名言」
「『迷う』方のだけどな」
苦笑してそう答え、デメトリオは紙袋から先程も食べていた饅頭のようなものを取り出して頬張る。それはちょっと――いや、相当美味しそうだ。
「私のことは『嬢ちゃん』じゃなくてシェリーって呼んでね。呼び捨てで良いわよ。そもそも貴方の方が年上だろうし。それと、それってなに? ちょっと美味しそうなんだけど」
「ん~……嬢ちゃんを『シェリー』て呼び捨てにすると上司に殺されそうだから勘弁して欲しいんだが。とりあえず『シェリーの嬢ちゃん』で勘弁してくれ」
「……なんなの貴方の上司達って。私をなんだと思っているのかしら」
「いや知らんよ。俺が聞きたいくらいだし。それとこれは高菜饅頭っていってな、饅頭の中に葉物野菜を調味料で漬け込んで熟成させたものが入っているんだよ。俺は甘いものが苦手だからな。食べてみるかい?」
そう言いながら、齧った饅頭の断面をシェリーに見せるデメトリオ。そしてそれを見たシェリーは、一切の躊躇もなく齧り付いた。
「え? て! おまなにやってんだ! それって間接……」
その想定外の行動に一瞬凍り付き、だがすぐに慌てふためきそんなことを言う。そしてその顔が、見る間に真っ赤になって行く。
「うん、これも美味しいわね。ねぇ何処に売ってた……なんで真っ赤になってるの?」
「………………年頃の娘が男が齧ったものに口を付けちゃいけません」
「なんで説教が始まるのよ。そんなの気にしなくても良いでしょ。実際にチューしたわけでも生殖行動したわけでもないのに」
「ぶっちゃけ過ぎだよ! こちとら女子に免疫ねぇんだから勘弁してくれ!」
「え? あー、ごめんなさい。チャラい上司に風俗店とかいっぱい連れて行かれてるとか思っちゃってた」
「そんなところに行こうと思ったことすらねぇよ! くっそー、全部あの女っ誑しなクソ上司が悪いんだ!」
「なんか本当にごめんなさい。デメトリオも苦労しているのね」
「良いよもう。俺が勘違いするような行動をとってくれなければ問題な――」
「ちゃんと養ってくれるなら、私は誰でも構わないわよ。愛情なんて後から生えてくるだろうし」
「ヤメロ!」
瞬間的にシェリーとのお付き合いとか、結婚とか新婚生活とかを夢想してこの上ない幸福感に浸り、だがそれに伴い付随するであろう最強で最恐で最凶な元冒険者パーティ〝無銘〟の面々に思い至り、命の危険が危ないと判断して滅多なことは出来ないとその思考を消し去るデメトリオ。命懸けの恋愛や結婚生活などご免だ。
そんな実のない会話をしつつ、デメトリオの案内で宿「カネキラウコロ」を目指すシェリー。もちろんその過程でご当地グルメに舌鼓を打つのを忘れない。
もっともデメトリオにしてみれば、さっさと宿まで送ってお役御免になりたいと思っているのだが、そんなことを許すシェリーではなかった。
キャリーバッグをゴロゴロ引きながら年相応にはしゃぎ、そんな重い物を引くのも大変だろうとそれを預かるデメトリオの空いた腕に自分の腕を絡ませてあっちこっち引き回す。
そんなことをしているシェリー自身は無自覚なのだが、やられているデメトリオは堪ったものではない。なにしろ年齢が恋人いない歴なのだ。
ちなみにデメトリオは、見た目の印象に合わず純粋でお堅く面倒見が良く、実は結構評価が高い。デリックがシェリーの案内役に選んだ所以である。
――なのだが、そんなシェリーの無自覚攻撃に純粋さとお堅さでコーティングしてある理性が崩壊の危機に陥り掛け、自分に「これはただの案内」と言い聞かせて堪える始末。
更に無理矢理だが腕を組まれているためか、たまーに柔らかななにかの感触が伝わって来てしまい、崩壊の危機に拍車を掛け、挙句自分を見上げる屈託のない笑顔が素敵過ぎて、何度も「もうどうでも良いかな」とか理性と思考を放棄しそうになる己と格闘する羽目になっていた。
だがそれも、宿に着くまで。
そう考え直して己を奮い立たせて、大袈裟だがデメトリオにとって永遠ともいうべき時間の経過と共にやっと宿「カネキラウコロ」に到着した。
「それじゃあ、俺はこれで――」
そう言い残して立ち去ろうとするデメトリオの耳に、
「あんだシェリー・アップルジャックだが? あんいやまんずいぐ来てけだなぁ。なんぼ待ってらってなも来ねったいになんとしたべがど思ってらったっきゃ。ほらこっちゃけ。荷物っこ持ってぐはんで上がってけれ」
シキリ紋様が刺繍されたアットゥシと呼ばれる民族衣装に身を包んだ宿の女将らしき小妖精の女がシェリーを出迎え、早口に訛りという呪文を唱える。
振り返れば、その女将を前にして張り付けた笑顔のまま凍り付いているシェリーがいた。
「女将、んが観光客どもなんぼでもへってらべ。なしにわがらねのおべででそったごとばりへるやった? 見れほらなんとしていがわがねぐなってら」
「あんいやまんずおめだばわがるやったが。さもね、訛ってへればおもへがらへってらやった。なんぼがへばちゃんとへるったいに」
そして始まる呪文の応酬。当然シェリーは蚊帳の外で、どうして良いのか判らず曖昧な笑顔を浮かべているだけである。
「あらあらごめんなさいね。最初にこれやっておかないと、小妖精族の話し言葉がどんなものか判らない人達が多いから」
コロコロ笑いながら、身長が1メートル前後の女将がシェリーを見上げてそんなことを言う。そのシェリーはというと、やっぱり曖昧な笑顔継続中であった。
「まったく……真面目で実直で正直者なクセに、他所から来た人らにわざと訛って話し掛ける悪癖があるんだからよ。んじゃあなシェリーの嬢ちゃん。あとは一人でも大じょ――」
言い残し、立ち去ろうとするデメトリオの上着の裾を掴まえ、
「ごめんなさいデメトリオ。もうちょっと付き合って」
言葉が通じないのが相当心細いのか、結局そのまま付き合う羽目になった。
可愛いから良いがな!
何かが吹っ切れたのか、そう考えるデメトリオ。諦めた、もしくは開き直った、あるいはヤケクソになった、ともいう。
そんなこんなで済崩し的にベン・ネヴィス教会前まで一緒に行き、そしてそれほど時間が掛かるものでもない儀式であるためデメトリオは外で時間を潰しつつ待つことになった。
しかし――
いくら待てども、シェリーが戻ることはなかった。
彼女より後に教会を訪れた者達が立ち去った後も、そして――その教会の明かりが消え始めても、シェリーは戻らない。
不審に思い、意を決して閉門間際に教会へ踏み込み、そして傍にいる修道女にシェリーのことを尋ねたのだが――
「そのような方は、いらしていません」
取り付く島もない返答が返って来るばかりであった。
「いやそんなわけはないだろう! もう何時間も前に教会に入ったんだ」
「それならば、既に帰られたのではないでしょうか。申し訳ありませんが、時間となりましたのでお引き取り下さ――」
「待てよ! 教会からの帰り道はこの橋だけだ! 擦れ違ったり気付かなかったりする筈はないだろうが! もういい、勝手に捜させて貰――」
埒が明かないと判断したデメトリオは、修道女を押し退け奥へと踏み込もうとする。だがそんな彼を、既に奥で待機していたと思しき神殿兵が行く手を阻む。
実は荒事の多い部署にいるためそれなりに腕に覚えのあるデメトリオだが、完全武装でおまけに数の多い神殿兵に敵うわけはなく、あえなく教会の外へと叩き出されてしまった。
「……一体、なにが起こっていやがるんだ……?」
殴られ、だが鱗により大したダメージのないデメトリオは、閉ざされた扉を忌々し気に睨んでそう独白する。
そして――本来であれば遅くまで明かりが灯されているベン・ネヴィス教会が、その夜は夕暮れと共に暗がりへと沈んで行った。