少年が案内されたところは、南向きの窓から暖かな陽射しが差し込む広間だった。
そこには、恐らく十に満たないであろう年齢の子供たちが沢山おり、思い思いに遊んでいる。
しかもそれら遊び一つとっても、絶妙に考えて遊ぶように促す玩具だったり、置いてある本もちょっとした専門書を判り易く、そして退屈しない程度に詳細に説明されているものばかりだ。
見ようによっては此処は孤児院などではなく、幼少期から専門的知識と教養を育むための学習院だと説明されても納得がいく。
少年はそう思い、それを成している此処の経営者へ畏敬の念を抱いた。
――最初のうちは。
例えば、魚屋さんごっこをしているヒト種と土妖精と鬼人族の女の子たち。
「今日はダルウィニーで漁れた新鮮な魚が目玉だよ!」
「待って、ダルウィニーは遠いから新鮮な魚なんて有り得ないでしょ。それが目玉になるなんておかしいよ」
「そんなことはないよ! 朝イチで水揚げされた魚を〝冷却箱〟で急速冷蔵して列車輸送すれば新鮮なまなだ! 多少コストは嵩むけど味は折り紙付きだ!」
「なるほどそれなら新鮮なままだね。でも味が良いのはもっともだけど、それがコストと釣り合いが取れるかな?」
「そこは大量仕入れで――」
「それでも仕入値が――」
例えば、食堂ごっこをしているアルビノで純白の髪と赤い瞳なヒト種の女の子とその他の子供たち。
「今日の日替わりメニューはなにかしら?」
「アクアパッツァだよ」
「え、それがランチなの? それだと原価率が高くならない?」
「ダメかな? 目玉になるかなーって思ったんだけど」
「んー、ダメではないけど、でも注文する人は少ないかな? そもそも時間が掛かっちゃうからランチ向きじゃないよ」
「あ、そうか。じゃあ短時間で出来る小さめのステーキをメインにした軽めのコースとか、単品で煮込み料理とかを作っておいて提供したり、短時間で出来るパスタとかにすれば良いかな? パスタは乾麺を使うんじゃなくて生を用意して置けば更に時間短縮になるし」
「それも良いわね。時間のない人は単品を注文するでしょうし、ちょっと贅沢をしたい人はランチコースがお勧めね」
「あとはランチの原価率だけど、ちょっと高め設定にしてまず味を知って貰えば、夜の部の宣伝にもなるよね!」
「それ良いわね! 宣伝も兼ねれば原価率問題も――」
「集客のためのランチメニューも――」
例えば、宿屋さんごっこをしている岩妖精の子供たち。
「宿泊客を増やすには、まず清潔な寝具と清掃が行き届いた部屋が必要だと思うんだ」
「そうだね、それが大前提だね。あと以外に行き届いていないのが防音設備かな」
「そっかぁ。大人だけが泊まるんじゃなくて、中には子連れでって場合もあるね」
「そうそう。特に乳飲み子を連れた夫婦は壁が薄かったら周りに迷惑が掛かるんじゃあないかって思うよね」
「防音に優れた部屋にするとして、でもそうなると宿泊料もそれなりになっちゃうよ? 一人旅だったり宿にお金をあまり掛けたくない人って多いから、集客問題が出て来るよ」
「そこは部屋を二種類用意しよう。防音に優れた部屋を幾つか用意して、あとはある程度で良いと思うよ。勿論清潔な寝具と清掃は行き届かせて。それからウォーター・クローゼットがあるなしの部屋も用意して、勿論ありな部屋にはアメニティ・グッズを完備して」
「そうだ、防音の部屋を可能な限り予約制にしない? そうすれば客室に無駄がなくなると思う」
「それ良いね! あとはレストランだけど、何処かと提携して店子として入って貰えば――」
「複数入って貰って客が店を選べるようにすれば企業競争が発生してより良いものが――」
――などなど。中には「優しい初級魔法」と書かれた絵本を真剣に熟読している幼児すらいる。
ちなみに先程の会話は、どう見ても五歳くらいにしか見えない子供たちのものだ。
それ以外にも様々な種族の子供たちがいて、それぞれ大人でもしないような起業だったり経営だったり、果ては各国の経済だったり物価情報に対して効果的な商売についてなどの議論をしたりしている。
(なんだこの賢いのに頭がおかしい空間は?)
その一種異様な光景に少年は絶句し、そしてその傍にいるエセルはそれを見透かしたのか、何故かとても良い顔で満足げに頷いている。
「ここはね、あたしのおっ――えーと名義上の配偶者になっちゃうひ――ヤツのお婆様が経営している孤児院なのよ」
何故か誇らしげに、胸を張ってそう言うエセル。どうして二回も言い直したのかがちょっと気になったが、それは突っ込まないでおこうと考える少年だった。なんだか大火傷をしそうだし。
そんなことより、胸を張ったことでそこが強調されて無意識に目が行ってしまう。さっきの某草原妖精とは大違いである。
「ふ……少年のクセにおっぱい比べをするなんて、なかなか将来有望じゃないか。そういう性に貪欲な姿勢は、嫌いじゃない」
瞬間的にエセルとリーを見比べてそんなことを考える少年の視線を目敏く察知したリーは、後ろから抱き付いて自分の胸を後頭部に押し付ける。
その感触も悪くはなかったが、此処でされるがままになっていると、なにか大切なものを無くしそうだと即座に判断した少年は、取り敢えず少年らしく暴れて脱出しようとした。
「おやおや、遠慮しなくてもいいんだぞ。さっきみたいに私のおっぱいに顔を埋めて微睡んでも」
淀みなく流れるように変態行為をしながら、そんなことを声を潜めずに平気で言っちゃうリー。勿論それはそこにいる子供たちに丸聞こえだ。
よって少年とリーは全員の視線を恣にしてしまうのだが、大半の子供たちは数秒だけ目を向けただけで、すぐに「いつものコト」と言わんばかりに議論に戻る。
そんな助けが一切ない空間で、少年が僅かに絶望していると、
「いやらしい! 離れなさいよこの変態!」
子供たちを見守りながら角の机に着いている少女が徐に立ち上がり、読んでいた本を小脇に抱えて詰め寄って来る。
そんなことを言われた少年は、心底心外とばかりにゲンナリするが、
「来たばかりの人に変態行為をするの止めなさいよ! 何回言ったら判るの!?」
その持っている本――やたらと分厚いハードカバーで、タイトルが「十二属性魔法書」とあるそれの角でリーの頭を叩く。そして手が緩んだところで少年の手を取り自分の後ろへ引き寄せ、鼻息も荒くリーの前に立ち塞がる。
そして少年は、てっきり自分が罵倒されたと思っていたため、それが違うと判明して胸を撫で下ろした。
「ふふ、イイねぇディア」
叩かれた箇所を撫で、口角を吊り上げて笑いながら、リーは二人を半眼で見る。
その視線は怒りや憎しみ、嫉妬などという攻撃性のものではなく、むしろ恍惚や愉悦といったものだった。
「もっと罵って叩いてくれないか? 久しくそれを味わっていないんだ」
などととんでもないことを言っちゃう。その少女――ディアの鳥肌が止まらない。
「リーの変態! 近付かないで!」
そしてディアは、本を両手で振り被って言うのだが、
「ふふふ、そう、私は変態なのだ。ほらほらもっと罵って叩かないとお前も抱き締めちゃう――」
「いい加減になさいリー」
その声と共に、リーの頭頂で「ゴッ!」とちょっとヤバ目な音がした。
「その性癖は否定しないけど、子供たちを巻き込むのは良くないわよ。あと、早くそういう趣味のパートナーを見付けなさい」
頭を押さえて蹲るリーの後ろから、赤毛混じりな金髪の長い髪を後ろで縛った、背が高く細身な女が広間に入って来る。
そして蹲り、だが「これもなかなかイイ」とか頭がおかしなことを言っているリーを、その青灰色の瞳が宿る双眸で呆れたように一瞥してからディアの背後にいる少年へと目を向けた。
「キミは……ああ、そうか。またエセルちゃんが拾って来ちゃったんだね」
頭をボリボリ掻いて、呆れたようにエセルをジロリと睨む。そして見られているエセルは、全力で素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。
「ああ、ああ、責めてるわけじゃないんだよ。そういう子供を放っておけないって気持ちは判るからね。それに、『持っている』ヤツが『持っていない』ヤツに施すっていうのは、言ってしまえばウチらの不文律みたいなモンだからね」
言いつつ、彼女は聖職者のメダリオンを豊かな胸の谷間から取り出して見せる。
それを目の当たりにした少年は、メダリオンにも豊かな胸にも目を奪われることはなく、強いて言うなら「収納にもなって便利だな」程度にしか感じなかった。別に胸の大きさなどどーでも良いし。
「ふふ、レミー様の巨乳を目の当たりにして眉ひとつ動かさないとは……。やはり少年は貧乳好――」
何故か勝ち誇って満足しているリーを華麗にスルーする少年。いちいち相手にしていたら痛くもない腹を探られそうだし。
「この人はレミー。あたしの義理のお祖母さん。こう見えても聖職者なんだよ」
そして同じくリーをスルーし、少年へレミーを紹介するエセル。だがそうされたところで、
「ふふ、発言をスルーされて放置される感覚……それもまた新鮮でイイ! 放置プレイも捨て難い!」
などと宣いながら自身を抱き締めて頰を上気させ、足をモジモジさせているリー。彼女はもう、駄目かも知れない。
「ばあさんって言うんじゃないよ。これでもまだまだ若いって思ってんだ。ま、あのバカ孫よりも体力と力が有るのは否定しないけどね。で、この子はなんていうんだい? 名前が判らないと不便で仕方ないよ」
そしてその背が高い細身の女――レミーもリーの言葉を聞かなかったことにしてエセルへ目を向け、ばあさん呼ばわりは不本意だとばかりに口を曲げてむふぅと鼻息を吐く。
だがそれでも満更でもなさそうに見えるのは、きっとそれはエセルの実力と人柄の為せる技であろう。
そのエセルはというと、言われて首を傾げて思案し、そして手を打ち合わせてから眩しいくらいの笑顔を浮かべてから、
「そういえば聞いてなかった。いや失敗失敗」
全く悪びれる素振りを見せずにそんなことを言いつつ「あはは」と笑う。
「まったく、この娘は……。まぁ今更だしそれは良いだろう。で? お前はなんていうんだ?」
そんなエセルの頭をペチンと叩き、レミーは少年の傍に蹲み込んで訊く。
少年はその質問に対して、一切躊躇することなく答えた。
――八〇六号――と。
その名前ですらない呼称を聞き、レミーはおろかその広間で討論をしながら聞き耳を立てていた子供たちですら、言葉を失った。
それはそうだろう。少年は思う。生まれた子に名を与えるのは、人として「普通」であるから。
だが少年には、その本来与えられて然る可き名がない。それがあまりに異常で有り得ないことであるために、そこにいる聡い子供たちは声を失ったのだ。
そして絶句するレミーや子供たちは、その少年になんと声を掛ければ良いのかが判らない。名を付けられない者など、いままで見たことも聞いたことも、ましてや接したことすらないのだから。
「ふぅん、そうなんだ。でもなんで八〇六号なの? その数字に理由はあるの?」
その皆が声を失い、押し黙る沈黙を破り、何事もなかったようにエセルが少年を見ながら素朴な疑問を口にする。
空気など、一切読んでいない。
勘違いしないで欲しいのだが、エセルは空気が読めないのではなく読まないのである。読んだところで、良いことなどなにも無いばかりか悪いことしか起きないから。
「八月生まれで、その年で六番目に生まれた。だから八〇六号」
皆が憐んだ目を向ける中、少年はその呼称が当然であるとばかりに淡々と、エセルの質問に答えた。自分が生まれ、人として与えるべき「当たり前」を貰えなかったとしても、それでも自分は自分だから。
「うーわー、そのまんまなのねぇ。同じ呼称にしても、もうちょっと独創的なモノって無かったのかしらねぇ」
そして更にそんなダメ出しをするエセル。それにはレミーも若干慌てた。
「じゃああたしが名前をあげよう。今日からキミは『セシル』だ」
「……『セシル』?」
「そう、セシル」
「『六番目』だから?」
「へぇ、キミはそっちがお好み? あたしはウェールズの『六番目』の方が良いな」
最初は警戒していた少年だが、敵意が一切なく、且つ明け透けに互いにしか判らないようなことを平然と言って来るエセルに、それを隠すのがバカらしくなったようだ。
それに、どうせ他人に言ったとしても妄言としか受け取って貰えないから。
そんな二人にしか判らない会話を、その場にいる約一名を除く全てが、どう声を掛けて良いのか判らず沈黙していた。
「ふふ、セシル……良い名だ。セシルが大人になって私と……」
床に転がってそんな妄言を呟きつつ恍惚と仰け反るリーは――リーだけが、変た――平常運転だった。
そこには、恐らく十に満たないであろう年齢の子供たちが沢山おり、思い思いに遊んでいる。
しかもそれら遊び一つとっても、絶妙に考えて遊ぶように促す玩具だったり、置いてある本もちょっとした専門書を判り易く、そして退屈しない程度に詳細に説明されているものばかりだ。
見ようによっては此処は孤児院などではなく、幼少期から専門的知識と教養を育むための学習院だと説明されても納得がいく。
少年はそう思い、それを成している此処の経営者へ畏敬の念を抱いた。
――最初のうちは。
例えば、魚屋さんごっこをしているヒト種と土妖精と鬼人族の女の子たち。
「今日はダルウィニーで漁れた新鮮な魚が目玉だよ!」
「待って、ダルウィニーは遠いから新鮮な魚なんて有り得ないでしょ。それが目玉になるなんておかしいよ」
「そんなことはないよ! 朝イチで水揚げされた魚を〝冷却箱〟で急速冷蔵して列車輸送すれば新鮮なまなだ! 多少コストは嵩むけど味は折り紙付きだ!」
「なるほどそれなら新鮮なままだね。でも味が良いのはもっともだけど、それがコストと釣り合いが取れるかな?」
「そこは大量仕入れで――」
「それでも仕入値が――」
例えば、食堂ごっこをしているアルビノで純白の髪と赤い瞳なヒト種の女の子とその他の子供たち。
「今日の日替わりメニューはなにかしら?」
「アクアパッツァだよ」
「え、それがランチなの? それだと原価率が高くならない?」
「ダメかな? 目玉になるかなーって思ったんだけど」
「んー、ダメではないけど、でも注文する人は少ないかな? そもそも時間が掛かっちゃうからランチ向きじゃないよ」
「あ、そうか。じゃあ短時間で出来る小さめのステーキをメインにした軽めのコースとか、単品で煮込み料理とかを作っておいて提供したり、短時間で出来るパスタとかにすれば良いかな? パスタは乾麺を使うんじゃなくて生を用意して置けば更に時間短縮になるし」
「それも良いわね。時間のない人は単品を注文するでしょうし、ちょっと贅沢をしたい人はランチコースがお勧めね」
「あとはランチの原価率だけど、ちょっと高め設定にしてまず味を知って貰えば、夜の部の宣伝にもなるよね!」
「それ良いわね! 宣伝も兼ねれば原価率問題も――」
「集客のためのランチメニューも――」
例えば、宿屋さんごっこをしている岩妖精の子供たち。
「宿泊客を増やすには、まず清潔な寝具と清掃が行き届いた部屋が必要だと思うんだ」
「そうだね、それが大前提だね。あと以外に行き届いていないのが防音設備かな」
「そっかぁ。大人だけが泊まるんじゃなくて、中には子連れでって場合もあるね」
「そうそう。特に乳飲み子を連れた夫婦は壁が薄かったら周りに迷惑が掛かるんじゃあないかって思うよね」
「防音に優れた部屋にするとして、でもそうなると宿泊料もそれなりになっちゃうよ? 一人旅だったり宿にお金をあまり掛けたくない人って多いから、集客問題が出て来るよ」
「そこは部屋を二種類用意しよう。防音に優れた部屋を幾つか用意して、あとはある程度で良いと思うよ。勿論清潔な寝具と清掃は行き届かせて。それからウォーター・クローゼットがあるなしの部屋も用意して、勿論ありな部屋にはアメニティ・グッズを完備して」
「そうだ、防音の部屋を可能な限り予約制にしない? そうすれば客室に無駄がなくなると思う」
「それ良いね! あとはレストランだけど、何処かと提携して店子として入って貰えば――」
「複数入って貰って客が店を選べるようにすれば企業競争が発生してより良いものが――」
――などなど。中には「優しい初級魔法」と書かれた絵本を真剣に熟読している幼児すらいる。
ちなみに先程の会話は、どう見ても五歳くらいにしか見えない子供たちのものだ。
それ以外にも様々な種族の子供たちがいて、それぞれ大人でもしないような起業だったり経営だったり、果ては各国の経済だったり物価情報に対して効果的な商売についてなどの議論をしたりしている。
(なんだこの賢いのに頭がおかしい空間は?)
その一種異様な光景に少年は絶句し、そしてその傍にいるエセルはそれを見透かしたのか、何故かとても良い顔で満足げに頷いている。
「ここはね、あたしのおっ――えーと名義上の配偶者になっちゃうひ――ヤツのお婆様が経営している孤児院なのよ」
何故か誇らしげに、胸を張ってそう言うエセル。どうして二回も言い直したのかがちょっと気になったが、それは突っ込まないでおこうと考える少年だった。なんだか大火傷をしそうだし。
そんなことより、胸を張ったことでそこが強調されて無意識に目が行ってしまう。さっきの某草原妖精とは大違いである。
「ふ……少年のクセにおっぱい比べをするなんて、なかなか将来有望じゃないか。そういう性に貪欲な姿勢は、嫌いじゃない」
瞬間的にエセルとリーを見比べてそんなことを考える少年の視線を目敏く察知したリーは、後ろから抱き付いて自分の胸を後頭部に押し付ける。
その感触も悪くはなかったが、此処でされるがままになっていると、なにか大切なものを無くしそうだと即座に判断した少年は、取り敢えず少年らしく暴れて脱出しようとした。
「おやおや、遠慮しなくてもいいんだぞ。さっきみたいに私のおっぱいに顔を埋めて微睡んでも」
淀みなく流れるように変態行為をしながら、そんなことを声を潜めずに平気で言っちゃうリー。勿論それはそこにいる子供たちに丸聞こえだ。
よって少年とリーは全員の視線を恣にしてしまうのだが、大半の子供たちは数秒だけ目を向けただけで、すぐに「いつものコト」と言わんばかりに議論に戻る。
そんな助けが一切ない空間で、少年が僅かに絶望していると、
「いやらしい! 離れなさいよこの変態!」
子供たちを見守りながら角の机に着いている少女が徐に立ち上がり、読んでいた本を小脇に抱えて詰め寄って来る。
そんなことを言われた少年は、心底心外とばかりにゲンナリするが、
「来たばかりの人に変態行為をするの止めなさいよ! 何回言ったら判るの!?」
その持っている本――やたらと分厚いハードカバーで、タイトルが「十二属性魔法書」とあるそれの角でリーの頭を叩く。そして手が緩んだところで少年の手を取り自分の後ろへ引き寄せ、鼻息も荒くリーの前に立ち塞がる。
そして少年は、てっきり自分が罵倒されたと思っていたため、それが違うと判明して胸を撫で下ろした。
「ふふ、イイねぇディア」
叩かれた箇所を撫で、口角を吊り上げて笑いながら、リーは二人を半眼で見る。
その視線は怒りや憎しみ、嫉妬などという攻撃性のものではなく、むしろ恍惚や愉悦といったものだった。
「もっと罵って叩いてくれないか? 久しくそれを味わっていないんだ」
などととんでもないことを言っちゃう。その少女――ディアの鳥肌が止まらない。
「リーの変態! 近付かないで!」
そしてディアは、本を両手で振り被って言うのだが、
「ふふふ、そう、私は変態なのだ。ほらほらもっと罵って叩かないとお前も抱き締めちゃう――」
「いい加減になさいリー」
その声と共に、リーの頭頂で「ゴッ!」とちょっとヤバ目な音がした。
「その性癖は否定しないけど、子供たちを巻き込むのは良くないわよ。あと、早くそういう趣味のパートナーを見付けなさい」
頭を押さえて蹲るリーの後ろから、赤毛混じりな金髪の長い髪を後ろで縛った、背が高く細身な女が広間に入って来る。
そして蹲り、だが「これもなかなかイイ」とか頭がおかしなことを言っているリーを、その青灰色の瞳が宿る双眸で呆れたように一瞥してからディアの背後にいる少年へと目を向けた。
「キミは……ああ、そうか。またエセルちゃんが拾って来ちゃったんだね」
頭をボリボリ掻いて、呆れたようにエセルをジロリと睨む。そして見られているエセルは、全力で素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。
「ああ、ああ、責めてるわけじゃないんだよ。そういう子供を放っておけないって気持ちは判るからね。それに、『持っている』ヤツが『持っていない』ヤツに施すっていうのは、言ってしまえばウチらの不文律みたいなモンだからね」
言いつつ、彼女は聖職者のメダリオンを豊かな胸の谷間から取り出して見せる。
それを目の当たりにした少年は、メダリオンにも豊かな胸にも目を奪われることはなく、強いて言うなら「収納にもなって便利だな」程度にしか感じなかった。別に胸の大きさなどどーでも良いし。
「ふふ、レミー様の巨乳を目の当たりにして眉ひとつ動かさないとは……。やはり少年は貧乳好――」
何故か勝ち誇って満足しているリーを華麗にスルーする少年。いちいち相手にしていたら痛くもない腹を探られそうだし。
「この人はレミー。あたしの義理のお祖母さん。こう見えても聖職者なんだよ」
そして同じくリーをスルーし、少年へレミーを紹介するエセル。だがそうされたところで、
「ふふ、発言をスルーされて放置される感覚……それもまた新鮮でイイ! 放置プレイも捨て難い!」
などと宣いながら自身を抱き締めて頰を上気させ、足をモジモジさせているリー。彼女はもう、駄目かも知れない。
「ばあさんって言うんじゃないよ。これでもまだまだ若いって思ってんだ。ま、あのバカ孫よりも体力と力が有るのは否定しないけどね。で、この子はなんていうんだい? 名前が判らないと不便で仕方ないよ」
そしてその背が高い細身の女――レミーもリーの言葉を聞かなかったことにしてエセルへ目を向け、ばあさん呼ばわりは不本意だとばかりに口を曲げてむふぅと鼻息を吐く。
だがそれでも満更でもなさそうに見えるのは、きっとそれはエセルの実力と人柄の為せる技であろう。
そのエセルはというと、言われて首を傾げて思案し、そして手を打ち合わせてから眩しいくらいの笑顔を浮かべてから、
「そういえば聞いてなかった。いや失敗失敗」
全く悪びれる素振りを見せずにそんなことを言いつつ「あはは」と笑う。
「まったく、この娘は……。まぁ今更だしそれは良いだろう。で? お前はなんていうんだ?」
そんなエセルの頭をペチンと叩き、レミーは少年の傍に蹲み込んで訊く。
少年はその質問に対して、一切躊躇することなく答えた。
――八〇六号――と。
その名前ですらない呼称を聞き、レミーはおろかその広間で討論をしながら聞き耳を立てていた子供たちですら、言葉を失った。
それはそうだろう。少年は思う。生まれた子に名を与えるのは、人として「普通」であるから。
だが少年には、その本来与えられて然る可き名がない。それがあまりに異常で有り得ないことであるために、そこにいる聡い子供たちは声を失ったのだ。
そして絶句するレミーや子供たちは、その少年になんと声を掛ければ良いのかが判らない。名を付けられない者など、いままで見たことも聞いたことも、ましてや接したことすらないのだから。
「ふぅん、そうなんだ。でもなんで八〇六号なの? その数字に理由はあるの?」
その皆が声を失い、押し黙る沈黙を破り、何事もなかったようにエセルが少年を見ながら素朴な疑問を口にする。
空気など、一切読んでいない。
勘違いしないで欲しいのだが、エセルは空気が読めないのではなく読まないのである。読んだところで、良いことなどなにも無いばかりか悪いことしか起きないから。
「八月生まれで、その年で六番目に生まれた。だから八〇六号」
皆が憐んだ目を向ける中、少年はその呼称が当然であるとばかりに淡々と、エセルの質問に答えた。自分が生まれ、人として与えるべき「当たり前」を貰えなかったとしても、それでも自分は自分だから。
「うーわー、そのまんまなのねぇ。同じ呼称にしても、もうちょっと独創的なモノって無かったのかしらねぇ」
そして更にそんなダメ出しをするエセル。それにはレミーも若干慌てた。
「じゃああたしが名前をあげよう。今日からキミは『セシル』だ」
「……『セシル』?」
「そう、セシル」
「『六番目』だから?」
「へぇ、キミはそっちがお好み? あたしはウェールズの『六番目』の方が良いな」
最初は警戒していた少年だが、敵意が一切なく、且つ明け透けに互いにしか判らないようなことを平然と言って来るエセルに、それを隠すのがバカらしくなったようだ。
それに、どうせ他人に言ったとしても妄言としか受け取って貰えないから。
そんな二人にしか判らない会話を、その場にいる約一名を除く全てが、どう声を掛けて良いのか判らず沈黙していた。
「ふふ、セシル……良い名だ。セシルが大人になって私と……」
床に転がってそんな妄言を呟きつつ恍惚と仰け反るリーは――リーだけが、変た――平常運転だった。