「春馬ー」

私は、前を向いたまま、名前を呼ぶと、当たり前みたいに、自分の座っている椅子を後ろの机ギリギリまで寄せた。

「真理亜、今日も手櫛だけ?」

「うん、めんどくさくて」

「ったく……恋愛する気あんのかよ、いっつも愚痴ってるくせに」

窓際の一番後ろの席から、春馬の大きな両手が、私の髪の毛目掛けて伸びてくる。

「あー、橋本先生カッコいいな。後ろ姿、見てるだけでドキドキする……」

繰り返しになるが、私の提言する『恋愛のススメ』とは、ドキドキするモノであって、ドキドキする理由がないのなら、それは恋愛ではない。

よって、後ろの春馬もコレに準ずる。

「それ何回も聞いたけど。なぁ、大体さー、恋愛するのにいちいち、ドキドキしなきゃいけないワケ?」

少しだけ、春馬が、私の方を確認するように右耳の方へと顔を寄せた。その両手は、私の髪をうなじから、掻き上げるようにして、左右に動かしながら、今日の髪型のイメージを思案してるようだ。

「そりゃそうでしょ」

春馬に触れられても、耳元に話す吐息が、かかっても、私は、全然ドキドキしない。

ドキドキするどころか、春馬に髪に触れられていると、何だか安心して眠ってしまいそうだ。

「あー……。ほんと、くせっ毛だよな、真理亜の髪は……」

一度、髪から指先を離して、春馬が、私の髪の毛をじっと眺めた。

「よし、決めた」

私の胸まである黒髪を、再度両手でふわりと掴み上げてから、春馬が、私の頭皮に長い指を挿し入れる。僅かに一掴みずつ取りながら、少しずつ、丁寧に私の髪を編み込んでいく。

「たまには自分でセットしてこいよ。後ろからみてて、気になるっつーの」

「上手に出来ないんだもん。……でも切りたくないし」

私の髪の毛は、毛先だけくるんと勝手に巻いて、ふわふわと纏まらない。小さな頃から悩みのタネだ。そんなやっかいな髪を、いつも魔法みたいに変えてくれるのが、幼なじみの春馬だった。

「素直な真っ直ぐストレートが良かったのにな」

「そう?俺は、捻くれてるけど、癖のある真理亜の髪好きだけどな」

春馬は、最後に左右のバランスを見ながら、髪をゆるく引っ張りながら、全体を整えていく。

「俺、真理亜の髪に恋してんの」

「え?」

コイツは、今、何て言ったんだ?恋?髪の毛に?

「どゆこと?」

目を細めた私の顔は、春馬には見えない。私からも後ろの春馬の顔は見えないけれど、多分口角を上げている。そんな気がした。

髪の毛に恋してもドキドキなんてしないでしょうが。ま、春馬の場合は、あながち間違っていないかもしれないけれど。

「ちゃんと愛情かけて丁寧に手入れして、整えてやれば、素直に纏まるし、綺麗に変わる。ちょっと位、クセあって手強い方が、俺は、好きだね」

「美容師馬鹿だね」

「最高の褒め言葉だな」

今度こそ、春馬が、私の顔を覗き込んでニッと笑った。