(6)

 呆ける千晶を残して、暁は少女を追った。
 面白そうにくるりと背を向けた女の子は、そのままスーパーを飛び出す。

「えっ」「ちょっと」「何っ?」

 幼な子と思えないスピードで駆け抜けた少女が、車道との境界線ぎりぎりで強く踏み切った。

 暁が息をのむ。
 信号の色は、赤だ。

「おい!」

 それは、誰の声だったろう。

 目の前の少女に手を伸ばす。
 ツインテールが指先に触れ、思わずそれを目一杯に掴む。
 金切り声を上げた少女の手から、プチトマトとキュウリはじけ飛んだ。

 そんなことはどうでもいい。少女の体を無理矢理に抱きかかえる。
 そのとき、暁は違和感を持った。

 少女にしてはやけに小さな肉体と、軽い体重。
 抱き上げ歩道のほうへ方向転換しようとしたとき、視界になびいたのは二つくくりの髪、ではなかった。

 根元から二つに裂けている──白い、尻尾?

「っ、あ」

 まずい。飛距離が足りない。
 傍らから向かってくるトラックが、地響きのようなクラクションを鳴らすのがわかった。

「……っ、……?」

 固く閉じていたまぶたを、そろりと開く。

 頭上に長く細い吐息が降りてくる。
 胸を強く叩く鼓動を感じながら、暁はその吐息の主を見上げた。

「……っとに。無茶するね。相変わらず」
「っ……あ」

 千晶。
 言葉にできなかった。震える唇がもつれて。

 歩道の際ぎりぎりまで引き寄せられた暁たちは、千晶の腕の中に窮屈に収められていた。
 暁の胸と腕と太ももがぎゅうぎゅうにサンドイッチになり、少々苦しい。

 背中と膝裏に甥の腕を差し込まれた格好は、俗に言うなんとか抱っこだ。
 先日橋の上でされた熱い抱擁と同じくらいに、広い胸板に隙間なく体を押しつけられている。辺りからの視線を感じる。ああ、非常によろしくない。

 しかし、今はそれを指摘する余裕など残っていなかった。
 何しろ、三途の川を目にしかけたのだ。

「あ、りがとう。すごく、すごく、助かった……」
「うん。すごく助けちゃった。我ながら頑張ったよねえ。アキちゃん、褒めて褒めて」
「え、えらいえらい?」
「へへ」

 嬉しそうに目尻を下げる様子は、さながらフリスビーを一発キャッチできた大型犬だ。
 それでも、柔らかな表情にそぐわないこめかみに光る汗粒に、暁の胸がちくりと痛んだ。

「にしても、泥棒少女を助けるために道路に飛び込むなんてね。怪我してない?」
「うん、私は……」

 いや、そうだ。
 さっきの子は。

 我に返り腕の中を確認するも、その中には何も抱かれてはいなかった。
 冷や汗が吹き出る。まさか、守れなかった?

 慌てて車道を見る。盗まれたプチトマトとキュウリは車にひかれて無残に潰されているが、少女の姿はそこにはない。
 暁は大きく吐息を漏らした。

 にゃあう。

「え」

 足元を見ると、声の主がいた。

 白とミルクティー色のぶちが入った猫だ。
 首輪がない。裏の住宅街で時折見る、野良猫会の構成員だろうか。

「え、わ、お?」

 どこか小生意気に見上げてきた闖入者は、不躾にも暁の膝と肩を階段のように優雅に渡り歩き始めた。爪がめり込む。地味に痛い。
 あえなく踏み台にされた暁は、恨みがましく猫を見上げる。
 そして、その猫が見上げる先には。

「……相手が違うだろ?」
「なう?」

 困ったような笑顔で頭を撫でる千晶に、猫はそれこそ猫なで声を上げた。

 どうやらこの甥は、人間ならず動物もたらし込む魅力があるらしい。ここまでくるともはや兵器だ、と感心する。

 その後、歩道を行き交っていた人たちが、辺りに散乱した買い物袋の中身集めを手伝ってくれた。
 やっと家に向かって歩き出すころには、件の猫は姿を消していた。

 そして件の少女も、やはり忽然と姿を消していた。



 翌日。
 暁はよろず屋の依頼が入っていたため、朝から千晶とは別行動をとっていた。

「それじゃあ暁ちゃん、しばらくはその甥っ子ちゃんと一緒に暮らすの?」
「どうやら、そうなりそうですね」

 ふわふわと嬉しそうに微笑む谷中のおばあちゃんに、暁もつられて笑う。

 谷中家の前まで来ると、バラの蔦がモチーフと思われる曲線美しい大きな門が出迎える。
 インターホンで左右に開錠されたあとは、そこらの公園の何十倍もある敷地をしばらく散歩だ。
 迎えのミニカーを出そうかと最初に問われたが、丁重にお断りした。道の傍らに咲く季節の花を眺める時間が、暁は好きなのだ。

 このおばあちゃんが住む谷中邸は、一帯で群を抜いて大きな邸宅を構えている。
 以前は三人の子どももおり賑やかさがあったらしいが、現在はおばあちゃんと使用人数人が静かに穏やかに過ごしている。

「いいわねえ。その甥っ子ちゃんもとても良い子そうだもの。きっと仲良く過ごすことができるわ」
「はは。そうだといいんですが」
「なにか心配事でもあるの?」
「……私の家は、誰かの生活を包み込むような温かさはありませんからね」

 実家を出てからというもの、自分のために、自分の生活を成り立たせるために、死に物狂いで駆け抜けてきた。

 そんな泥臭い家に転がり込んできてしまった、大切な姉の一人息子。
 果たしてあの子が育つのに、この環境は適切なのだろうか。

「その子が自ら進んで暁ちゃんの元を選んだのでしょう? だったら問題ないわ。甥っ子ちゃんの選択を、ただ信じてあげましょう」
「谷中さんにそう言ってもらえると、なんだか自信がわいてきます」
「ふふ。それはよかったわあ」

 その後、手土産を用意すると言って、谷中のおばあちゃんは自らキッチンに向かった。
 おばあちゃんは、使用人に必要以上の世話をされることを好まない。座ったまま一日を過ごすのは、まだまだ先のことよ。それがおばあちゃんの口癖だ。

「あ、クルミちゃん」

 扉付近にもぞつくかげに気づき、暁は相好を崩した。

 この邸宅には、昔からおばあちゃんに連れ添う猫がいる。
 焦げ茶とオレンジがかった茶色が彩られた三毛猫で、毛並みはいつも綺麗に整えられていた。

 恐らく繁忙期の暁よりも食費がかかっているのではないだろうか、というのが暁の推理だ。
 以前、黄金に輝くパッケージの猫缶をそれは優雅に召し上がっていたのを垣間見たことがある。美味しそう、と思ってしまったのは内緒だ。

 それにしても珍しい。クルミがおばあちゃんでなく、暁に近づいてくるなんて。

 毛嫌いされているわけではないが、懐かれているわけでもない。
 絶妙な距離感を常に感じていたクルミが、自ら近づいてくることは今まで一度もなかった。

「あなたのご主人様は今キッチンに向かわれたよ。どうかしたの」
「ああ。昨日の同種の無礼を、一言詫びようと思うてな」
「……」

 うん?