(19)
「千晶」
「でも、アキちゃんでも寂しいとか思うんだね。俺ばっかりかと思ってたから、安心したかも」
「……自分でも驚きだよ。みっともなかったね」
「そんなことない。すごく嬉しいし、それに」
言葉が途切れる。次の瞬間こめかみ部分をそっと撫でられると、その場所に千晶の唇が押し当てられた。
「可愛いよ。すごく」
吹き込まれるように告げられた言葉は、今まで向けられた中で最も甘ったるい。
ソファーに挟まれるように注がれる眼差しには、一週間前のような危険な色は宿っていなかった。
しかし何故だろう。今はそれ以上に妖しげな光が見てとれる。
千晶の瞳をかすかに覆う長い睫が妙に物憂げで、暁はソファーの背もたれへ僅かに後退した。
「えーと。今のキスはなんでしょう、千晶さん……?」
心臓がどきりと音を鳴らしたのは、急なことに驚いたためだろうか。
「んー。アキちゃんの元気が出るおまじない?」
悪びれなく微笑みながら、小さく首を傾ける。
コロコロ変わる甥の表情についていくのも一苦労で、暁も思わず「はあ」と答えるのがやっとだった。
最近はよくよく、この甥の子どもと男の顔の使い分けに翻弄されている──気がする。
「……で。いつまでその状態でいるつもりだ?」
そんな妙な空気を断ち切ったのは、やはり烏丸だった。
不服げに体を起こした千晶に秘かにほっとしつつ、暁もよいしょと体勢を整える。
「千晶。お前も少しは自重しろ。血の繋がりがなくとも、そいつはお前の叔母だろが」
「スキンシップだよ。色々と行き違いがあった後なんだから、今まで以上に密なコミュニケーションは必須でしょ?」
「スキンシップだあ? セクハラの間違いじゃねえか」
「残念。本人が嫌がってなければハラスメントは成立しないんですー。ね、アキちゃん」
うわあいやだ。ここで話を振られるか。
再び始まった二人の不穏な空気をどう収めようか。
ああでもないこうでもないと思案していると、千晶は「それに」といつもの人懐こい笑顔を浮かべた。
「俺、調べたんだ。血の繋がりのなければ、甥と叔母でも結婚できるんだって」
「……へ?」
唐突に飛び出した単語に、暁は目を丸くする。
その視界を素早く横切った手が、千晶の胸ぐらを無遠慮に引いた。
「……な・あ・に、馬鹿を言い出してんだ、ああ?」
「わーお物騒な顔。ただの事実確認だよ。今は、ね」
わざと煽りに来ているのが、流れの掴めない暁にも理解できた。
いつの間にか睨み合う二人の距離は縮まり、電流が弾ける幻まで見えてくる。
一触即発ともいえる光景だったが、心のどこかで微笑ましさを感じている自分に気づいた。
不思議とこの二人の諍いは、ハラハラする反面どこか安心してみていられるのだ。長年の付き合いがあるからか、それとも──。
「……?」
そのとき、ふと頭を過ったのは以前聞かされた甥の言葉だった。
──母さんが、逝く前に言ったんだ。俺には、血の繋がった味方がいるって。
保江が適当な言葉を息子に遺すはずはない。
しかし、保江の両親は七々扇家の養子になる前に亡くなっており、その親戚も同様だと聞いている。
他に血の繋がる者がいる?
そこまで考え、はっと息をのんだ。
母方の血でなければ……父方の?
千晶の父の話は、保江の口から語られたことはない。
当時の暁もよく親戚連中から心当たりを執拗に聞かれたが、暁にも心当たりはまるでなかった。
あの頃の保江は家業と山との往復で、恋人に会いに行く時間など殆どなかったはずだった。
しかし、今の暁には一つ心当たりがある。あの御社だ。
──ここはね、私の大好きな場所なの。
あの御社に向かって微笑む保江の横顔に、今思えばまるで恋人を見つめるような甘やかさをはらんではいなかっただろうか。
仮にそれが事実ならば。
血の繋がった千晶の味方とは、それこそ長年にわたって甥の側にいる──。
「おい、暁」
「っ、あ、はい!」
「やっぱり聞いてなかっただろ、お前」
思考の海から戻ってきた暁を待っていたのは、呆れた表情の烏丸だった。
「あの馬鹿が料理の支度するってよ。お前も早く食卓に着け」
保江が選んだ、生涯の伴侶。
その面影は、千晶と烏丸のどちらに似ていたのだろう。
「あ、うん。……ねえ、烏丸」
「あ?」
「君も今まで、人間の女の人に恋をしたことはあるの?」
無意識に漏れた質問だった。
しかしその効果は抜群で、一瞬固まった烏丸の表情は次には一気に爆発した。
怒った表情の中に、赤くなった頬を隠して。
「っ、てめ、唐突に何を言い出して……!」
「え、いや。別に深い意味があったわけじゃないんだけど」
「ちょっとちょっと。俺が離れてる隙になに面白そうな顔してんの、烏丸!」
エプロン姿の千晶も参戦しそうになると、今度は烏丸がソファーでだんまりを決める番だった。
結果として、妙な組み合わせの団らんになってしまったものだ。でも、この雑多な空気も悪くない。
寝室に佇む保江の写真立てに視線をやる。
この繋がりはまさに保江が結んでくれたものだ。
暁は心の中で感謝を告げながら、第二戦が巻き起こったらしい男二人の兄弟げんかにそっと笑みを深めた。
了
「千晶」
「でも、アキちゃんでも寂しいとか思うんだね。俺ばっかりかと思ってたから、安心したかも」
「……自分でも驚きだよ。みっともなかったね」
「そんなことない。すごく嬉しいし、それに」
言葉が途切れる。次の瞬間こめかみ部分をそっと撫でられると、その場所に千晶の唇が押し当てられた。
「可愛いよ。すごく」
吹き込まれるように告げられた言葉は、今まで向けられた中で最も甘ったるい。
ソファーに挟まれるように注がれる眼差しには、一週間前のような危険な色は宿っていなかった。
しかし何故だろう。今はそれ以上に妖しげな光が見てとれる。
千晶の瞳をかすかに覆う長い睫が妙に物憂げで、暁はソファーの背もたれへ僅かに後退した。
「えーと。今のキスはなんでしょう、千晶さん……?」
心臓がどきりと音を鳴らしたのは、急なことに驚いたためだろうか。
「んー。アキちゃんの元気が出るおまじない?」
悪びれなく微笑みながら、小さく首を傾ける。
コロコロ変わる甥の表情についていくのも一苦労で、暁も思わず「はあ」と答えるのがやっとだった。
最近はよくよく、この甥の子どもと男の顔の使い分けに翻弄されている──気がする。
「……で。いつまでその状態でいるつもりだ?」
そんな妙な空気を断ち切ったのは、やはり烏丸だった。
不服げに体を起こした千晶に秘かにほっとしつつ、暁もよいしょと体勢を整える。
「千晶。お前も少しは自重しろ。血の繋がりがなくとも、そいつはお前の叔母だろが」
「スキンシップだよ。色々と行き違いがあった後なんだから、今まで以上に密なコミュニケーションは必須でしょ?」
「スキンシップだあ? セクハラの間違いじゃねえか」
「残念。本人が嫌がってなければハラスメントは成立しないんですー。ね、アキちゃん」
うわあいやだ。ここで話を振られるか。
再び始まった二人の不穏な空気をどう収めようか。
ああでもないこうでもないと思案していると、千晶は「それに」といつもの人懐こい笑顔を浮かべた。
「俺、調べたんだ。血の繋がりのなければ、甥と叔母でも結婚できるんだって」
「……へ?」
唐突に飛び出した単語に、暁は目を丸くする。
その視界を素早く横切った手が、千晶の胸ぐらを無遠慮に引いた。
「……な・あ・に、馬鹿を言い出してんだ、ああ?」
「わーお物騒な顔。ただの事実確認だよ。今は、ね」
わざと煽りに来ているのが、流れの掴めない暁にも理解できた。
いつの間にか睨み合う二人の距離は縮まり、電流が弾ける幻まで見えてくる。
一触即発ともいえる光景だったが、心のどこかで微笑ましさを感じている自分に気づいた。
不思議とこの二人の諍いは、ハラハラする反面どこか安心してみていられるのだ。長年の付き合いがあるからか、それとも──。
「……?」
そのとき、ふと頭を過ったのは以前聞かされた甥の言葉だった。
──母さんが、逝く前に言ったんだ。俺には、血の繋がった味方がいるって。
保江が適当な言葉を息子に遺すはずはない。
しかし、保江の両親は七々扇家の養子になる前に亡くなっており、その親戚も同様だと聞いている。
他に血の繋がる者がいる?
そこまで考え、はっと息をのんだ。
母方の血でなければ……父方の?
千晶の父の話は、保江の口から語られたことはない。
当時の暁もよく親戚連中から心当たりを執拗に聞かれたが、暁にも心当たりはまるでなかった。
あの頃の保江は家業と山との往復で、恋人に会いに行く時間など殆どなかったはずだった。
しかし、今の暁には一つ心当たりがある。あの御社だ。
──ここはね、私の大好きな場所なの。
あの御社に向かって微笑む保江の横顔に、今思えばまるで恋人を見つめるような甘やかさをはらんではいなかっただろうか。
仮にそれが事実ならば。
血の繋がった千晶の味方とは、それこそ長年にわたって甥の側にいる──。
「おい、暁」
「っ、あ、はい!」
「やっぱり聞いてなかっただろ、お前」
思考の海から戻ってきた暁を待っていたのは、呆れた表情の烏丸だった。
「あの馬鹿が料理の支度するってよ。お前も早く食卓に着け」
保江が選んだ、生涯の伴侶。
その面影は、千晶と烏丸のどちらに似ていたのだろう。
「あ、うん。……ねえ、烏丸」
「あ?」
「君も今まで、人間の女の人に恋をしたことはあるの?」
無意識に漏れた質問だった。
しかしその効果は抜群で、一瞬固まった烏丸の表情は次には一気に爆発した。
怒った表情の中に、赤くなった頬を隠して。
「っ、てめ、唐突に何を言い出して……!」
「え、いや。別に深い意味があったわけじゃないんだけど」
「ちょっとちょっと。俺が離れてる隙になに面白そうな顔してんの、烏丸!」
エプロン姿の千晶も参戦しそうになると、今度は烏丸がソファーでだんまりを決める番だった。
結果として、妙な組み合わせの団らんになってしまったものだ。でも、この雑多な空気も悪くない。
寝室に佇む保江の写真立てに視線をやる。
この繋がりはまさに保江が結んでくれたものだ。
暁は心の中で感謝を告げながら、第二戦が巻き起こったらしい男二人の兄弟げんかにそっと笑みを深めた。
了