(17)
夕暮れ時のスーパーは、やはりいつも盛況だ。
夕飯の買い出しを済ませ、自宅兼事務所までの道を歩いて行く。
緩い上り坂になっている道の先にある間黒新橋の中央で、暁はふと歩みを止めた。
「すっかり桜は緑色、だなあ」
キジムナーの琉々が、仮住まい先の間黒川からペンダントの住み処へと戻っていって、一週間が経った。
橋の向こうに続く間黒川を、挟むように植わっている桜の木。
真夏になれば当然の光景の変化に、今年は何故だかしみじみと浸る。
桜の花が、河面につきそうになるまで溢れていた春、暁の生活は一変した。
自分の手が届く範囲のことを必死にこなして生きてきた。そんな暁にとって、拓けた世界はあまりに未知で不可思議なものだったが──。
「おい。何を突っ立っている?」
「突っ立ってるんじゃなくて、物思いに耽ってるんだよ」
「は。お前に何を耽る思いがあるって?」
小馬鹿にしてくる烏丸をしれっと無視して、暁は両手の買い物袋を抱え直した。
最近は外回りが多かったこともあり、冷蔵庫にろくな食材が残っていなかったのだ。
三人分の食料はずっしり重い。こんな量を買い込むようになったのも、この春からだ。
そう考えると不快でしかないはずの重量感も心地よく思えてしまう。
人間変わるものだな、と暁は思った。
「歩くのが遅え」
「え」
両手にあったはずの買い物袋がひとつ、ひょいと持ち上げられる。
軽くなった手の方を振り返り、暁は目を大きく見開いた。
「こっちは暑いんだよ。とろとろ歩いてねえで、さっさと行くぞ」
「あ、りがとう。ええっと……烏丸、だよね?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、だって」
今隣に佇む男は、声や顔立ちこそ見知った烏丸だ。
しかし、その纏いは高貴さ溢れる黒い着物ではなく、黒いシャツにチノパンといった人間の服装だった。
いつもは耳元に伸びているはずの長髪も、今は一般的な長さにまで短くなっている。
「烏丸って……人の姿にもなれたんだ」
「初対面の時も、人間のガキの姿になってただろうが」
「あ、そういえばそうだった」
しかし、烏丸が人間に変化したのも、言ってみればその時だけだ。
姿形を変化させる力といい、川の流れを操作する力といい、烏丸の持つ力は一体なんなのだろう。
聞いてみようかと口を開いた瞬間、川の向こうから夏の薫りをのせた風が来る。
「アキちゃん?」
帰宅時の喧噪の中ではっきりと届いた声に、二人は揃って視線を移した。
……かと思ったが、それよりも早く声の主が暁の背後をとった。
首元に腕を巻きつけ、後ろから密着するように抱き寄せる。
「ただいま、アキちゃん。夕飯の買い出し?」
「千晶」
振り向きながら名を呼ぶと、それすら嬉しそうに微笑む甥と目が合った。
「あのねえ、人前で抱きつくなって、何度も言ってるでしょ」
「ふふ。だってアキちゃん、抱き心地がいいんだもん……あ。逃げた」
後頭部に頬ずりされる気配を察し、私はいち早く屈んで状態を脱した。
最近の千晶は、過度なスキンシップが目立つようになった気がする。
もともと狭かったパーソナルスペースが、先日のプチ家出騒動以降さらに狭まった。というより、殆どゼロ距離だ。
改めて向き合うと、少し着崩された制服シャツのボタンが涼しげに開いている。
襟元に滲む汗粒と相まって、こちらを見つめる大きな瞳がきらきらと眩しかった。
この甥っ子のイケメンレベルは、どこまで上昇を続けるつもりだろうか。
「お疲れさま。今日はソフトボール部の練習試合の助っ人だったっけ。結果はどうだった?」
「もちろん試合は勝ってきたよ。あ、買い物袋、俺持つよ」
「あ、うん。ありがと」
左手の買い物袋も持ち上げられた。一人で買い物に来たつもりが手ぶらになってしまい、なんとなく手持ち無沙汰になってしまう。
「それにしても、烏丸の人間の姿ってかなり久々だねえ。人間に化けるのは好かんって、前に言ってなかったっけ?」
「あ、そうなの?」
「必要があれば化ける。あやかしの姿ままじゃ、買い物袋だけが家まで浮遊することになるだろが」
「あ、それは困る」
一応合いの手を挟みながら、自宅兼事務所まで再び歩き始める。
それでも男二人の間に流れる不穏な空気は、解消されないままだった。
琉々の事件が落ち着いて以降、この二人の関係性がどこかおかしい。
もともと腹を割って本音で語る仲ではあったようだが、最近は特に何かにつけ言葉にトゲがある。
まるで子ども同士の喧嘩みたいだ。
「ただいまー」
「アキラ!」「アキラが来タ!」「おかえリ!」
自宅の中へ入ると、ダイニングテーブルの上で三匹の小鬼がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
しかし次の瞬間、アキラの後ろに連なる男二人を見てさっと顔色を変えた。
「ひゃっ! 千晶様、ダ!」「烏丸様、も、帰っタ!」「恐れ多イ、多イ!」
家鳴たちの慌てふためきように、暁はこっそり苦笑をこぼす。
この家に住み着いて以降、この二人に対してはずっとこの調子なのだ。
「あのね家鳴くんたち。そこまで畏まらなくても、この二人は君たちを取って食いはしないよ?」
「だメ! 恐れ多イ!」「千晶様、力強イ! 巫様!」「烏丸様も、力強い。テング!」
「……」
キャーキャー騒ぎながら身を寄せ合う小鬼たちを眺めながら、今耳にした言葉を脳内で繰り返す。
ええっと、ちょっと待て。
今、この子らはなんて言った?
夕暮れ時のスーパーは、やはりいつも盛況だ。
夕飯の買い出しを済ませ、自宅兼事務所までの道を歩いて行く。
緩い上り坂になっている道の先にある間黒新橋の中央で、暁はふと歩みを止めた。
「すっかり桜は緑色、だなあ」
キジムナーの琉々が、仮住まい先の間黒川からペンダントの住み処へと戻っていって、一週間が経った。
橋の向こうに続く間黒川を、挟むように植わっている桜の木。
真夏になれば当然の光景の変化に、今年は何故だかしみじみと浸る。
桜の花が、河面につきそうになるまで溢れていた春、暁の生活は一変した。
自分の手が届く範囲のことを必死にこなして生きてきた。そんな暁にとって、拓けた世界はあまりに未知で不可思議なものだったが──。
「おい。何を突っ立っている?」
「突っ立ってるんじゃなくて、物思いに耽ってるんだよ」
「は。お前に何を耽る思いがあるって?」
小馬鹿にしてくる烏丸をしれっと無視して、暁は両手の買い物袋を抱え直した。
最近は外回りが多かったこともあり、冷蔵庫にろくな食材が残っていなかったのだ。
三人分の食料はずっしり重い。こんな量を買い込むようになったのも、この春からだ。
そう考えると不快でしかないはずの重量感も心地よく思えてしまう。
人間変わるものだな、と暁は思った。
「歩くのが遅え」
「え」
両手にあったはずの買い物袋がひとつ、ひょいと持ち上げられる。
軽くなった手の方を振り返り、暁は目を大きく見開いた。
「こっちは暑いんだよ。とろとろ歩いてねえで、さっさと行くぞ」
「あ、りがとう。ええっと……烏丸、だよね?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、だって」
今隣に佇む男は、声や顔立ちこそ見知った烏丸だ。
しかし、その纏いは高貴さ溢れる黒い着物ではなく、黒いシャツにチノパンといった人間の服装だった。
いつもは耳元に伸びているはずの長髪も、今は一般的な長さにまで短くなっている。
「烏丸って……人の姿にもなれたんだ」
「初対面の時も、人間のガキの姿になってただろうが」
「あ、そういえばそうだった」
しかし、烏丸が人間に変化したのも、言ってみればその時だけだ。
姿形を変化させる力といい、川の流れを操作する力といい、烏丸の持つ力は一体なんなのだろう。
聞いてみようかと口を開いた瞬間、川の向こうから夏の薫りをのせた風が来る。
「アキちゃん?」
帰宅時の喧噪の中ではっきりと届いた声に、二人は揃って視線を移した。
……かと思ったが、それよりも早く声の主が暁の背後をとった。
首元に腕を巻きつけ、後ろから密着するように抱き寄せる。
「ただいま、アキちゃん。夕飯の買い出し?」
「千晶」
振り向きながら名を呼ぶと、それすら嬉しそうに微笑む甥と目が合った。
「あのねえ、人前で抱きつくなって、何度も言ってるでしょ」
「ふふ。だってアキちゃん、抱き心地がいいんだもん……あ。逃げた」
後頭部に頬ずりされる気配を察し、私はいち早く屈んで状態を脱した。
最近の千晶は、過度なスキンシップが目立つようになった気がする。
もともと狭かったパーソナルスペースが、先日のプチ家出騒動以降さらに狭まった。というより、殆どゼロ距離だ。
改めて向き合うと、少し着崩された制服シャツのボタンが涼しげに開いている。
襟元に滲む汗粒と相まって、こちらを見つめる大きな瞳がきらきらと眩しかった。
この甥っ子のイケメンレベルは、どこまで上昇を続けるつもりだろうか。
「お疲れさま。今日はソフトボール部の練習試合の助っ人だったっけ。結果はどうだった?」
「もちろん試合は勝ってきたよ。あ、買い物袋、俺持つよ」
「あ、うん。ありがと」
左手の買い物袋も持ち上げられた。一人で買い物に来たつもりが手ぶらになってしまい、なんとなく手持ち無沙汰になってしまう。
「それにしても、烏丸の人間の姿ってかなり久々だねえ。人間に化けるのは好かんって、前に言ってなかったっけ?」
「あ、そうなの?」
「必要があれば化ける。あやかしの姿ままじゃ、買い物袋だけが家まで浮遊することになるだろが」
「あ、それは困る」
一応合いの手を挟みながら、自宅兼事務所まで再び歩き始める。
それでも男二人の間に流れる不穏な空気は、解消されないままだった。
琉々の事件が落ち着いて以降、この二人の関係性がどこかおかしい。
もともと腹を割って本音で語る仲ではあったようだが、最近は特に何かにつけ言葉にトゲがある。
まるで子ども同士の喧嘩みたいだ。
「ただいまー」
「アキラ!」「アキラが来タ!」「おかえリ!」
自宅の中へ入ると、ダイニングテーブルの上で三匹の小鬼がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
しかし次の瞬間、アキラの後ろに連なる男二人を見てさっと顔色を変えた。
「ひゃっ! 千晶様、ダ!」「烏丸様、も、帰っタ!」「恐れ多イ、多イ!」
家鳴たちの慌てふためきように、暁はこっそり苦笑をこぼす。
この家に住み着いて以降、この二人に対してはずっとこの調子なのだ。
「あのね家鳴くんたち。そこまで畏まらなくても、この二人は君たちを取って食いはしないよ?」
「だメ! 恐れ多イ!」「千晶様、力強イ! 巫様!」「烏丸様も、力強い。テング!」
「……」
キャーキャー騒ぎながら身を寄せ合う小鬼たちを眺めながら、今耳にした言葉を脳内で繰り返す。
ええっと、ちょっと待て。
今、この子らはなんて言った?