(14)

 思いがけない言葉に、鼓動が大きく胸を打つ。

「興味が沸いた。二度も百度参りで祈りをこめられる『ちーちゃん』とやらが、一体どんな奴なのか。母を亡くしたあいつは相当に荒んだ目をしていたな。保江とともに幾度か社を訪れていたあの餓鬼だとは、にわかに信じがたかった。でもまさか、」

 暁の瞳から、堪えきれなくなった滴が一筋こぼれた。

「こんな長い付き合いになるとは、俺自身思ってもみなかったが」
「っ、烏丸……」

 あの時の暁は自身の不甲斐なさに打ちのめされていた。
 大切な人の大切な子ども一人、この手で守ることも出来ない。気休めの百度参りしか出来ない自分が、嫌で嫌で仕方なかったのに。

 まさかあの時の願いが、誰かに届いていたなんて。

「ありがとう」

 次々溢れてくる涙を拭いながら、暁は震える唇を必死で動かす。

「ありがとう、ありがとう。ずっと千晶の側にいて、見守ってくれて。ありがとう、烏丸……っ」
「っ……おい。いいからさっさと泣き止め。目玉が溶ける」
「だって、私何も知らなくて、何も、できなかった」
「……この馬鹿」

 一度決壊したように涙が止まらない暁を、烏丸がぐいっと引き寄せた。
 大きな手のひらに肩を包み込まれ、目の前の漆黒の着物に顔を押しつけられる。

「お前も、とんだお人好しだな」
「え……?」
「俺はもともと人間は好かん。ここに移り住んだときは、お前のことも当然警戒していた」

 そう言うと、烏丸の瞳はベッドにもたれる甥の姿を映し出す。

「どんなに大人ぶっても、あいつはまだ餓鬼だ。大人の目論見に巻き込まれ悪戯に心を砕かれる姿を見るのは、毎度のこととはいえ気分のいいもんじゃねえ。あいつがお前には妙に懐いていたから、余計にな」

 心配、してくれていたのか。千晶のために。

「だが、杞憂だったな」

 烏丸の長く白い指が暁の目尻に残る泣き痕をそっと拭う。
 その手つきは普段の尊大さが嘘のように優しかった。

「お前は何も変わらねえ。嵐の中、あの馬鹿のために走り回っていた時と同じだ」

 純粋で、実直で、傷つきやすくて。

「綺麗なまま、だ」
「……っ」

 紡がれたその言葉が、暁の胸にじわじわとしみ込んでいく。
 それが次第に熱を帯び、暁の頬に浮かび上がった。そしてふと、あることに気づく。

 烏丸の暁に対する口調が──いつのまにか千晶に対するそれと、同じになっていたことに。

「あのな。わかりやすく照れてんじゃねえよ」
「で、でも。だって今のは……」
「いいから喋んな。しばらく黙っとけ」

 有無を言わさぬ様子で、再びその胸に閉じ込められる。

 おしろいのような不思議な香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。
 ああ、これが烏丸の香りなんだな、と暁は思う。

 あれだけ溢れ出ていた涙はすっかり乾き、胸の鼓動だけが規則的に鼓膜を揺らす。
 それは暁の鼓動のようにも、烏丸の鼓動のようにも聞こえた。

「──アキちゃん?」

 突如部屋に響いた声色に、二人はもの凄いスピードで後ずさる。

 すぐさま生まれた適正距離を前に、胸には落胆よりも安堵のほうが濃く広がった。

「アキちゃん……? あれ?」
「千晶。こっちにいるよ」

 寝ぼけ眼を擦る千晶が、ゆらりとこちらを向く。

 徐々に覚醒してきたことを現すように、もともと大きな垂れ目がまん丸に見開かれた。
 その反応に一瞬逃げ出したくなる。
 千晶と真正面から顔を合わせるのは、数日前に家を出て行ったとき以来だ。

「えっと。おはよう、ちあ」
「アキちゃん……!」

 掛けられていた布団を勢いよく剥ぐ。
 まるで飛びつくような勢いで、千晶はリビングにいた暁にきつく抱きついた。

 固く広い胸板をぎゅうっと押しつけられ、思わず噎せ込んでしまう。

「千晶、ちょ、苦し……」
「ごめん。本当にごめんなさい。アキちゃん……っ」

 首筋に埋められた千晶の顔の温もりが、ふわりとくすぐったい。
 細く長い深呼吸が聞こえたかと思ったら、ゆっくり千晶の顔が持ち上げられた。

 その顔に浮かぶ臆病な色に、暁は思わず目を瞬かせる。

「アキちゃんにあんな酷いことを言って……して、本当にごめん。アキちゃんは俺のことをちゃんと考えてくれてたのに、俺は自分の感情ばっかで……めちゃくちゃ自分勝手だった」
「千晶……」
「信頼を踏みにじったってわかってる。でも俺、本当は気づいてたんだ。本当は血の繋がりなんてなくてもいい。アキちゃんといられれば、それでいいんだって」

 血の繋がり。
 その言葉が出たときに心臓が大きく跳ねたが、続く言葉にその衝撃がじわりと熱に変わっていく。

「昨日の罰として、何度殴られてもいい。寝る場所が別になっても、食事番全部任されても、俺、ちゃんとさぼらない。それでも」

 やっぱり俺、アキちゃんと一緒にいたいよ。