(13)

 眠っているらしい。
 長い睫が揃ったまぶたを静かに下ろし、規則的な寝息がかすかに耳に届く。
 ベッド脇の床に座り込んだ状態で、千晶の手は暁の裾を握ったままになっていた。

「綺麗な寝顔しちゃって……」

 苦笑しつつ手から裾をそっと引き抜くと、布団を肩からかけてやる。
 夏とはいえ、体を冷やして風邪をひいてはまずいだろう。どうせ眠るなら、ベッドに入ればいいのに。

「起きたか」
「烏丸」

 千晶を起こさないようにベッドから降り立つと、リビングのソファーからむくりと上体を起こした烏丸が見えた。
 いつもは嫌みなほど艶めいた黒髪が、今は無造作に乱れている。まるで寝起きのそれみたいだ──って。

「あれ。もしかして烏丸も眠ってた? この家の中で?」
「昨夜は誰かがぷっつり意識を飛ばしやがったからな。後処理で余分な体力を使いすぎた」
「う。ごめん」
「謝るくらいなら、ちったあ反省しろ。経営者だろが」

 ぴしゃりと正論を告げられ、二の次もない。

 そのあと続いた烏丸の説明によれば、川の水をもろに浴びた暁はそのまま気を失ってしまったのだという。
 千晶と烏丸で自宅に運び入れ、このベッドに運んだのだと。

「ちなみに、ベッドの占領していた赤河童は事務所のソファーに移したぞ。念のため小鬼の三匹もついている。お前の様子を見て、酷く動揺していた」
「はは……。結局、琉々くんには心配をかけちゃったね」
「琉々だけじゃねえだろ。他の全員にもだ」
「……」

 それはつまり、烏丸も、ということでいいのだろうか。
 聞いてみたい気もしたが、怒らせるような気もしたのでひとまず黙っておいた。

「さっき眠ってたときにね、夢を見たの。十年以上昔の、嵐の日の夢」

 ふと口についてしまった言葉に、烏丸の金目が小さく見開かれた。

「私が十四歳くらいのときだったかな。千晶が高熱を出したことがあってね。近くの山の御社に、お百度参りに行ったんだ」
「……」
「保江姉さん、あの御社のことをとても大切にしてた……」

 その後のことは、あまり覚えていない。

 気づけば暁は、今のように自宅の布団で横たわっていた。
 大嵐の夜に抜け出していた問題児の暁に家の者は気にかける様子すらなかったが、保江だけは泣きそうな顔をして微笑んだ。

 あの御社に願いを届けてくれたんだね。ありがとう、暁──。

「保江には、あやかしと打ち解ける力があった」

 ソファーの背もたれに背を預けたまま、烏丸が口を開く。

「暇を見つけては山に通い、社を気にかけ、集うあやかしと語らっていた。……生前の俺の父上とも、何故か交流が深かった」
「保江姉さんが、烏丸のお父さんと?」

 初耳だった。

 確かに保江は実家の土地開発事業の方針を巡っては常に自然保護の姿勢を崩さなかった。
 古株の連中には反対派も勿論いたが、決して敵と思わせない人となりと巧みな交渉術でいつの間にか周囲を懐柔していた。

 幼い暁は、保江は単純に自然破壊を防ごうとしているのだと思っていた。
 しかし、あれももしかしたら、あやかしの住み処を守るためだったのかもしれない。

「それがいつからか、保江に連れられてお前も姿を見せるようになった。保江の見よう見まねで、お前はただ手を合わせるだけだったがな」

 滔々と語られる過去の日の自分に、暁は気づかざるを得なかった。

「私のこと、知ってたの? 子どもの頃から?」
「手前の父親の墓を定期的に訪れてる奴のことだ。嫌でも記憶に残る」

 拙く淡い昔の記憶の破片が、星座を象るようにはっきりと浮かび上がってくる。

 確かにあの御社に行くときは、毎回保江が準備した花を供えていた。
 そして時折こちらを監視するように止まり木に佇む──黒い鳥の姿も。

 あの御社には、烏丸の父親が眠っていたのだ。

「その後お前は、願掛けをしに一人で現れた。一度目は千晶が高熱で伏せったとき。二度目は保江が死んだとき。嵐の中の百度参りを、どちらもあそこの馬鹿のためにな」
「それは……」

 保江の急逝を知って帰省した挙げ句、実家から閉め出された日の夜のことだ。

 心身ともにボロボロになった暁は、日が落ちるのを待って敷地内の山に入り込んだ。
 雨が降っても、風が吹いても、気にならなかった。
 黒のパンプスを御社の隣に置き、ひたすらに山道を往復する。

 御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
 乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。

 御社さま、御社さま。どうかお願いします。

 どうかちーちゃんの未来が、幸せなものでありますように──。

「俺があいつの前に姿を見せたのは、そんなお前の姿を二度も見たからだ」
「……え?」