あやかし憑き男子高生の身元引受人になりました

(5)

 明らかに第三者の声に、はっと息をのんだ。

 次の瞬間、暁の周りに次々と小さな生き物の頭が飛び出してくる。
 隣にいた千晶が庇うように前に立ったが、暁はつま先立ちでその者たちを観察した。

 その頭上には、やはりつるりと光るお皿がある。

「また、人間か」
「人間だな」
「んん? でもこの人間、いつもの者では」
河太郎(かわたろう)どの! 皆さま!」

 慌てた様子で投じられた名前に、囲っていた河童たちは一斉に声の主へ振り返った。

「琉々坊?」
「琉々坊だ」
「戻ってきた?」

 ああ、どうやらここが琉々が最初に目覚めた川べりで間違いないようだ。

 もちろん探し求めていた琉々の真の住み処とは違うが、大きな手がかりがあるに違いない。
 期待に胸膨らませていると、特に大きな体躯の河童がのっそり姿を見せた。

「琉々、か」
「河太郎どの、お久しゅうござ」
「……今まで一体何処に行っておったのか、馬鹿たれぃーーーー!!」

 琉々が言い終わるよりも早く、緑色の巨体が琉々に一直線に駆けていく。
 まともに衝撃を受けた琉々は、その河童の腕の中でしばらく呆けていた。

 ああ。どうやら琉々くんは、予想以上に仲間内に慕われていたようだ。



 その後暁たちは、この辺りの大将らしき大河童──河太郎に川岸から少し離れた林の中へと案内された。
 一際大きな木の下に、雑草を綺麗に排された円形の場所があり、木の根元にはわらでできたござが敷かれている。促された暁たちは、並んで腰を下ろした。
 そして目の前には、あぐらを掻いて巨体を据える河太郎が向き合う。

「そうか。突然置き手紙とともに姿を消したのはそういうわけだったか」
「申し訳ございません、河太郎どの。お助け頂いたご恩も返せぬまま、姿を消すことしかできず……」
「頭を上げろ琉々坊。皿の水がこぼれるぞ」

 頭を下げようとする琉々の肩を、河太郎がすかさず押し上げる。
 白くおろしたての食器のような琉々の皿。それをひと撫でしたあと、河太郎はふっと笑みを綻ばせた。琉々も照れくさそうに頭を上げる。
 このやりとり一つでも、いい師弟関係だったのが見てとれた。水が合わないと言うことさえ起きなければ、外見の相違こそあれど琉々はここで平和に暮らせていたのだろう。

「それで。そちらの方々が、琉々の手助けをしてくださっているとな」
「左様にございます河太郎どの。わたくしの故郷探しに尽力くださっている方々でして」
「……これはこれは。このような平地の水辺には、なかなか希有な御方と相見えましたな」

 河太郎の目がすっと細められた。その視線が向いた先は、暁ではなく──。

「……?」
「さて。話を戻すとしよう。貴殿らがお尋ねなのは、我々が琉々坊を助けたときのことでしたな?」
「あ、はい」

 人の良さそうな笑顔に変わった河太郎に、暁は戸惑いつつも頷いた。気のせいだろうか。てっきりあやかしを惹き付ける千晶に興味を示したかと思ったけれど。
 先ほど河太郎が視線を向けたのは──気のせいじゃない。烏丸のほうだった。

「この者が河面に浮かんでいたこと以外は特に変わったことはございませんでした。ただ、敢えて申せばひとつだけ。音ですな」
「音、ですか」

 聞き返した暁に、河太郎はゆっくりと頷いた。

「大げさなものではない。ごく小さな水音です。ただしいつもは耳にしない音色でした。てっきり不届き者が橋からゴミでも投げたかと思いましてな。川辺へ様子を見に行かせたのです」
「するとそこに、琉々が気絶したまま浮かんでいたと?」
「その通り。ただ、琉々坊が落水した音ではございませんな。小柄とはいえ、この者が河面に飛び込めばたちまち大きな音が辺りに響く。危うく聞き逃すような、小さな音では済みますまい」
「なるほど、確かに」

 何かが水に落ちたことと、琉々が発見されたことは何か関係があるのだろうか。
 関係あるとして、一体何が水に落ちたのだろうか──。

「河太郎どのっ、また、またあの人間が来ておりますっ」

 暁の思考は、慌てた様子の小河童の登場で一端途切れた。

「またか。以前のような騒ぎにならぬよう、遠くから見張っておくのだ」
「はっ」

 河太郎の指示に、小河童がすぐさま雑草の中に姿を消す。

「あの。どうかされましたか。あの人間、というのは……?」
「実は以前、この河で人が溺れたことがございましてな」

 河太郎がため息交じりに告げる。

「なに、我々が川に引きずり込んだわけではございませぬぞ。今時そのような悪戯をしては、住み処を埋められこちらの生活が脅かされる。あの少女はこの辺りに住むらしいが、暇を見つけては橋や川べりからじいっと川の中を覗いておるのです。それがついこの間、運悪く足を滑らせたようでしてな」
「……少女」

 その小さな呟きは、暁と千晶で思いがけず重なった。

 少女。
 その単語はつい先ほども耳にした。琉々がうっすら残っていると告げた過去の記憶だ。

「失礼します河太郎さん。その少女にも、少しお話を聞きたいと思います」
「は? あの小童に?」

 わけがわからない、といった表情の河太郎に構わず頭を下げたあと、暁は雑木林の道を戻っていく。

 世の中には少女なんて腐るほどいる。それでも、手がかりは死に物狂いで掴みにいく。
 それが、七々扇よろず屋本舗のポリシーなのだ。

「こんにちは。そこで何してるの?」


(6)

 なるべく警戒させないよう努めたつもりだったが、少女はやはり肩をびくつかせた。

 橋の上から川を見下ろしていた少女。
 身丈と背負っているランドセルから察するに、小学校低学年といったところだろうか。少し気が強そうに目尻が上がり、口元はきゅっと締まったまま。
 後頭部で綺麗に結われたポニーテールが、印象的な少女だった。

「川を見てるの? 綺麗な川だよね」
「……」
「この近くに住んでるの? 学校はもう終わり?」
「……」

 警戒心最高レベルは、なかなか解除されそうにない。
 少女からしてみたら、暁は突然現れた不審者以外の何者でもないのだろう。さて、どうしたものか。

「アキちゃーん。もうこんなところにいた……って、あれ。誰、その可愛い子」
「千晶」
「っ、え……」

 お。初めて少女の声を聞けた。

 軽い小芝居を打ちながら登場した千晶に、少女の頬がすぐに染まった。
 相変わらず、異性相手だと年齢問わず百戦錬磨だ。これだからイケメンは。

「川を見てたの? この川好きなんだね」
「……うん、でも」
「でも?」
「……川の流れが、思ったより早いの」

 そう呟いた少女は、橋の手すりをきゅっと握りしめる。
 暁と千晶はそっと視線を交わした。やはり、ただの暇つぶしに連日川の観察をしていたわけではないらしい。

「もしかして君、少し前にこの川に落ちちゃった子?」
「お兄ちゃん、見てたの?」
「ううん。ちょっと人づてに聞いたんだ。大変だったね。怪我はしなかった?」
「大丈夫だよ。ちょっと膝をすりむいただけ。お母さんにはすっごくすっごく怒られたけれど」
「そりゃ、こんな可愛い子が川に落ちたら、心配しないほうがおかしいよね」
「……わたし、可愛いかなあ?」
「ん。少なくとも俺は、そう思うね」

 あ、少しだけ笑った。

 みるみるうちにほぐれていく少女の表情を口調に、黒子役に徹していた暁もそっと姿を見せてみた。慎重に、慎重に。

「どうしてこの川を見ているの? もしかして、何かを探しているのかな?」
「……」

 まずい。また黙らせてしまったか。

「……ここに投げ捨てちゃったものって、きっともうとっくに流されちゃったよね」
「投げちゃったもの?」

 よかった。返ってきた。
 安堵する気持ちと並行して、少女の言葉に首を傾げる。

「もしかして、あなたはそれを探してるのかな?」
「うん。でも、もう見つからないかもしれない。川の中を探そうとしたけれど、結局騒ぎになっただけで何も見つからなかったし」

 先日の騒ぎとやらは事故ではなく、この子が自発的に川に入ったということか。
 随分と無茶をする。この無鉄砲さも子どもがゆえだろうか。

「大切なものだったんだね。一体何を捨てちゃったの?」
「……ペンダント」
「ペンダント?」
「でも、あれを持ってると、お母さんが悲しい顔をするの。だから……っ」

 じわりと瞳を潤ませた少女は、暁が反応するより早く自ら涙を拭った。
 そのままきびすを返した少女を、暁たちは呆然と見送る。

「あんな小さい子なのに、もう大人に気を遣ってるんだ」
「子どもはいつだって、大人に気を遣ってるもんだよ」

 諭すように千晶に告げながら、何を知った口を、と自身に苦笑する。
 子どもの頃散々大人に迷惑をかけてきた自分に比べ、先ほどの少女のほうが余程理性的で大人びていた。



「先ほどの少女です。間違いございません」

 帰りの車内。
 川べりの草陰から今のやりとりを見ていた琉々が、神妙な顔つきで頷いた。

「ですが、彼女とわたくしにどのような繋がりがあるのかはわかりかねます。まさか彼女の家に沼地があるわけでもございませんでしょうし……」
「どうだった、烏丸?」
「なかったな。この近くの住宅街にある、ごく一般的なマンションに入っていった」

 千晶の問いかけに、後部座席の烏丸が当然のように答える。
 どうやら知らぬ間に、少女の後を空から追っていたらしい。空を飛べるというのは、やはり相当便利だ。
 助手席から窓の向こうに流れる川を見つめていた千晶が、唐突に手を打った。

「思ったんだけどさ。河童の大将が言ってた、この小河童を見つけたときに聞いたっていう音? あれってもしかして、ペンダントが投げ込まれた音だったんじゃない?」
「あ」

 確かに、その可能性は大いにある。

 石ころ、空き缶、煙草──善悪は置いておくとして、川の中に放り投げられるものの種類なんてたかがしれている。
 ここに長年定住している河童たちならば、音だけで聞き分けられるものばかりだろう。

 しかしペンダントが投げ込まれた音は、さすがの河童たちにも聞き慣れないかもしれない。

「それじゃ何か。こいつは、ペンダントとともに川に放り込まれたっていうのか? あんな小柄なガキに?」
「うーん。それもおかしな話か」

 烏丸の退屈そうな指摘に、暁はゆっくり頷く。

 少女の口からは、もちろん「河童」という言葉は出なかった。
 隠していたという可能性もあるが、それならそもそもこの川に何かを投げ入れた事実自体、口にしない気がする。

「でも河太郎さんたちって、想像していた以上に人の良さそうな河童だったね。琉々くんのこともやっぱり心配していたみたいだし」
「はい。発見して頂いたのがあの御方たちで、本当にわたくしは運が良かったと思います。特に河太郎どのは、年の離れた兄上のように接してくださって」
「あ、それじゃ、私と保江姉さんと同じだ」
「七々扇さまにも、姉上さまが?」
「うん。大好きなお姉ちゃん。琉々くんたちと同じで、血が繋がってるわけじゃないんだけどね」

 そのとき届いた息をのむ音は、一体誰のものだっただろう。

 車内の空気がすっと固まったのがわかり、暁は目を見張った。

「千晶?」
「……そう、だったの?」


(7)

「うん。……え、もしかして、実家で聞いてなかった……?」

 返答はなかった。それが答えだった。
 結局、そのまま車内の空気は変わらないまま、暁たちは自宅兼事務所のある間黒市に舞い戻った。



「今夜こそ、この部屋で眠るのかい」
「するか。これももう、何度目のやりとりだ」
「いや。最近は夜になっても、外は相当蒸し暑いでしょう」

 琉々は再び間黒川へ戻り、暁たちも自宅で夕食を終えた。
 夕食のメニューに上がったのは、琉々がどこからか捕ってきてくれた新鮮な鮎だった。

「鮎、美味しかったのにね」

 食卓に残された、一人分の食事。
 暁は丁寧にラップをかけて冷蔵庫に保存する。

 帰宅してからも、千晶は一言も話さなかった。
 食卓に呼んでも決して反応せず、今は長い一人風呂中だ。

 車内での自分の不用意な発言のせいだ。
 それはわかっていたが、暁にはどうするべきかわからない。

 千晶があそこまで態度を豹変させた理由はなんだろう。
 暁が、保江と血のつながりがないとわかったから?
 血の繋がりのない叔母なんて信用できないということだろうか。

「本当なのか。保江とお前に、血の繋がりがないというのは」

 烏丸にまで真剣な眼差しで問われ、小さく苦笑する。
 やはり、この話をするために食後もわざわざ部屋に残っていたらしい。

「本当だよ。嘘をつく理由なんてないでしょう」
「……」
「私の父と母は、結婚して数年で養子をとったの。それが保江姉さん。跡取りに五月蠅い家だったし、養子として引き取られた保江姉さんは幼い頃からその才を認められていた。だから私の両親は、手放しで喜んだみたい」

 そして十数年後、母の予定外の妊娠が発覚した。

「それが私。最初は血を継いだ子ということで期待されたみたいだけど、すぐにそれもなくなった。保江姉さんと比べるまでもなく、私はまるで出来の悪い子だってわかったからね」
「……」
「それでも、保江姉さんは私のことを本当の妹として可愛がってくれた。私も、保江姉さんが本当に大好き。だから……」
「血の繋がりがあるからだと、思っていたんだがな」
「……え?」

 暁の手首を、烏丸が掴んだ。

 暁が咄嗟に見上げると、およそ烏丸らしくない表情でこちらを見つめていた。
 気分の赴くままに事を進めるいつもとは違う。胸につかえる何かを堪えているような。

 かすかに揺れる長い睫。
 綺麗だ。男のものとは思えないほどに。

「そうでなければ説明がつかん。血も分けない赤の他人のあいつのことを、何故お前はそこまで気にかける」
「烏、丸?」
「保江の子だからか? だが、その保江だって、血が繋がってねえじゃねえか」
「そりゃ、最初は保江姉さんの子だから何とかしなきゃと思ったけれど……」

 烏丸の言わんとしていることが掴めない。
 暁の考えはそんなにおかしなものなのだろうか。

「血が繋がりがなくたって、大切な人はいるよ。烏丸にとっての、千晶だって同じじゃない。私にとっての保江姉さんも、千晶も……嫌かもしれないけれど、烏丸もそうだよ」
「……」
「何も、可笑しくなんてないでしょう……?」
「……暁」

 烏丸の喉仏が、ゆっくりと上下するのがわかった。

「お前は、本当に……」
「烏丸」

 部屋に静かに落ちた声に、暁と烏丸は揃って振り返った。

「就寝時間だ。お前も早く床に就いた方がいい」
「ち、あき」

 タオルを肩にかけ寝間着に身を包む、見慣れたはずの甥の姿。
 しかし、向けられた無感情な眼差しに暁はすっと背筋が凍る。

 こんな千晶は初めて見た。

「久しぶりだな。お前のその表情は」

 向かいあっていた烏丸が、ふっと口元に笑みを浮かべた。
 神経を逆なでするような、皮肉な笑みだった。

「初耳の情報に驚くのはわかる。だが、何をそこまで狼狽えている?」
「……」
「むしろお前としては、まったく真逆の反応をとると思っていたがな」
「……無駄口を叩くな」
「っ、きゃ!」

 次の瞬間、千晶の体から強い圧のようなものが発せられる。
 烏丸の体が風に一気に煽られかと思ったときには、すでに忽然と姿が消えていた。
 一瞬呆然とした暁は、我に返り慌てて辺りを見回す。

「ちょっと千晶、か、烏丸はどこに……!」
「家の外に出しただけだよ。問題ないでしょ。あいつの寝床はもともと外だ」
「……」

 怖い。
 本来甥に抱くべきではない感情が芽生える。


(8)

 それを知ってか知らずか、千晶はタオルドライもそこそこにまっすぐ寝室のほうへと向かった。その背中には、明らかな暁への拒絶が見てとれた。

「……ちゃんと髪を乾かさないと、風邪引くよ」

 それでも、まさかここで退くわけにはいかない。
 暁の言葉を意に介せずベッド奥に横たわった千晶を、暁は静かに見下ろした。

「怒ってるの?」
「……」
「私が、血の繋がりのない叔母だと知ったから……?」

 率直な疑問だった。
 初対面でありながら過剰なほど暁を慕っていた千晶を、何がこんなに変えたのか。

「それとも、そのことを口に出さずにいたから? 隠し事をされてたと思ったの?」

 千晶はなおも無言だった。

「私、てっきり実家で千晶の耳にも入っていると思ってたんだ。私、実家でも陰でよく言われてたから。あれは実子の癖に出来が悪いって」
「……」
「驚かせたなら、本当にごめん。でも私、隠しているつもりは」
「アキちゃんはさ」

 ようやく耳に届いた甥の声に、一瞬喜びが宿る。
 しかしすぐに驚愕に打ち消された。

 手首を手加減なく思い切り引っ張られる。
 受け身をとり体勢を立て直そうとするが、千晶の動きの方が僅かに早かった。

「……何の、真似?」

 両手首を痛いくらいにベッドに押しつけられ、自然と視線を鋭くなる。

「離して。今自分が何をしてるか、わかってるの」
「ベッドで男女がすることとしては、むしろ正常なことだと思うけどな」
「本気で言ってるの?」

 以前もこうして、千晶に上から見下ろされたことがある。

 しかし、あのときと状況は天と地ほども異なっていた。
 今の千晶の表情からは、お遊びの感情が一切伝わってこない。

 まだ完全に乾ききっていない千晶の柔らかな癖毛。
 そこを優雅に伝った滴が、暁の首筋に冷たくしたたり落ちた。

「今までがおかしかったんだよ。血も繋がっていない、思春期をとおに過ぎた男女が、仲良く一つのベッドでおやすみなさいなんてさ」
「離しなさい」
「アキちゃんだってそうでしょ? 本当の本当は、こういうことを期待して」
「千晶!」

 ひゅ、と息をのむ音がした。

 手首を素早く抜き取った暁が、目の前の胸ぐらを遠慮なく掴む。
 スプリングの大きく軋む音が響いた直後、二人の体の位置は完全に逆転していた。

 なにがあったのか把握していない様子の甥の顔を、暁は息を整えながら見下ろす。

「……驚いた。俺、油断してるつもりはなかったんだけど」
「こういう状況を打開する術を持たなきゃ、何でも屋なんて女一人でできない。……今の君のような客も、ゼロではないからね」

 以前完全にされるがままだったのは、千晶にそういった危険要素が全くなかったからだ。
 警戒すべき状況では、相手が誰であれ本能が察知する。
 暁はそういう環境で生き抜いてきた。

「はは。なるほどね」

 シーツに縫い付けるようにした千晶の手首から、すっと力が抜けていく。
 皮肉めいた苦笑を浮かべていた目尻から、薄い滴が浮かんできた。

「千晶……?」
「っ……母さんが、逝く前に言ったんだ」

 俺には──血の繋がった味方がいるって。

 言い切った直後、ベッドに沈めた甥の肩が大きく震えた。
 いつもは端正な表情がぐにゃりと歪み、目尻からは止めどなく涙が溢れ出る。

「俺が知りうる限りの、血縁のある……あると思っていた家を渡り歩いた。でも、俺の味方なんてどこにもいなかった。ただの一人も」

 ああ。それでだったのか。

「アキちゃんしかいないと思った。アキちゃんが、母さんの言う唯一の俺の味方なんだって……っ」

 十三年ぶりに再会したときの、希望に満ちあふれた甥の表情が頭を過る。
 そこまでの希望を抱いて、生まれ育った村から離れて、千晶は暁だけにすがってきた。

 自分は、孤独な甥の最後の頼みの綱だったのだと──今、ようやく気づかされた。

「ち、あき」
「ごめん」

 暁の押さえつける力が緩むのと同時に、千晶がのろのろとベッドから抜け出す。

「ちょっと、頭冷やしてくる」

 留める言葉を持っていなかった。
 扉の向こうに消えていく背中を、暁はただ見送るしかできない。甥が自分に固執する理由は、もうどこにもないのだから。

 そして翌日──簡単な手荷物とともに、甥の姿は消えていた。



「ただいマ」「ただいマ!」「マ!」
「……お、かえりなさい?」

 事務所で調べ物をしていた暁に、無邪気な幼子の声が掛かった。

 机にへばりついていた顔を上げると、目の前のテーブルの上に家鳴三兄弟の小鬼たちが並んでいる。
 この家の屋根裏を提供して以降、何やら妙に懐かれてしまったらしい。

「家鳴くんたち。ただいまって、もしかしてどこかに行ってたの?」
「行ってタ」「タ!」「お手伝イ!」
「お手伝い?」

 ぴょんぴょん跳びはねる三人をひとまずソファーに移す。
 自らもソファーに移動すると、腰が異様に伸びるのを感じた。

「それで。一体なんのお手伝いをしてきたの、家鳴くんたち?」
「……アキラ、疲れてル?」



(9)

「え」
「疲れてル」「元気なイ?」

 知り合って間もない小鬼たちに指摘を受け、思わず苦笑する。
 自分はこんなにわかりやすい人間だったのか。

「ありがと。大丈夫だよ」

 気づけばデスクワークに数時間費やしていたらしい。
 久しぶりに無人になった事務所では、作業に没頭する暁を諫める声も、ご飯をねだる声も聞こえてこなかった。

 千晶がこの家を出て、丸二日が経った。
 甥に憑いてきた烏丸も当然のように姿を消している。

 つい数ヶ月前まではこれが普通だったはずなのに。

「赤い河童のこト。アキラ調べてル」「ル!」「ル!」
「赤い河童って、琉々くんのこと?」

 問うと、一様にうんうんと頷き返された。

「前に、車に乗ってっタ」「アキラ、女の子、気になってタ」「だから、お手伝イ!」
「ええっと……?」

 つまり、小鬼たちも三日前の車に秘かに乗り込んでいて、琉々の元いた川やそこで話した少女とのやりとりを見ていた、ということだろうか。
 まったく気づいていなかった。千晶や烏丸は、この小さな同乗者たちに気づいていたのだろうか。

「女の子の名前、サチ。家族、母一人、父いなイ」
「え?」
「家には、いなイ。母が電話で、喧嘩してタ」「してタ。母、怒ってたタ」「父に、すっごく、怒ってタ!」

 家鳴たちが我先にと報告してくるのは、どうやら先日に言葉を交わした少女──サチの家庭事情だった。

 正直プライバシー的に問題がある気がしないでもないが、サチと琉々の繋がりが見つけられるのであれば、正直とても助かる。
 恐らく軒下で観察してきたのだろう彼らからの報告に、今は有り難く耳を傾けることにした。

「ええっと。サチちゃんの家に、若い男の人はいなかった?」
「若い男、いなイ」「女の人だケ」「父は、若作りしてル、母に言われてタ!」

 なるほど。若いお父さんか。
 もしかすると、琉々の記憶にある少女と若い男はサチとその父親かもしれない。

「ね。ペンダントについては、何かお話してなかった?」
「ペンダント、地味」「茶色で、モクメ、地味」「父の、手作リ!」
「木目、手作り……それじゃあやっぱり」

 ペンダントは、父からサチへのプレゼントか。暁が一人呟くと同時に、小鬼の一人が「あ!」と嬉しそうに声を上げた。

「あと、もうひとツ! 父、テング!」
「……へ? 天狗?」

 呆気に取られた暁に、残りの二人が「違ウ」「違ウ!」と揃って首を横に振った。

「テング、違ウ?」「違ウ」「違ウ」
「じゃあ、父、何だっタ?」「……テーグ?」「……テンゲ?」

 どうやら、父に関する情報が錯綜してるらしい。
 円陣を組んで悩ましげにあぐらを掻いた小鬼たちに、暁は労いのクッキーを渡した。

「十分だよ。本当にありがとうね、家鳴くんたち」

 この事務所兼自宅には、もうあやかしをひきつける要素は何処にもない。
 きっとこの子たちも、数日以内には新たなねぐらへ移っていってしまうだろう。

 そんな、まるで子どもが拗ねたような呟きが胸にこぼれ、暁は秘かに自分を嫌悪した。



 一度引き受けた依頼は、完遂まで見届ける。
 それが七々扇よろず屋本舗の基本理念だ。

 日が傾き辺りがオレンジ色に染まっている。
 姿を見せてもらえるだろうか。一抹の不安を忍ばせながら、暁は間黒川でも人目の少ない緑生い茂る箇所まで足を運んだ。
 最近の琉々の潜伏地だ。

「……なな、おう……さま?」
「え……、琉々っ?」

 か細い声が自分を呼ぶことに気づき、急いで川沿いへ駆けていく。

 抱き上げた琉々の体はとても熱い。
 相当に衰弱していることが一目でわかった。



「われわれあやかしにとって、住み処の存在は非常に大切なものなのです……」

 慌てて自宅に連れ帰った琉々が、困ったように笑う。

「わたくしも、まさかここまで影響を受けるとは……元来暑さには強いはずなのですが、やはり少しずつ、体の不調の頻度が増して……おりまして……」
「わかった。今は無理しないで。とにかく休んで」

 本来赤茶色の肌のはずの琉々が、今は熱のせいか随分と赤い。
 ひとまず応急処置の濡れタオルを額と脇の下に設置して、ベッドに横たえた。

 三日前の遠出ではわからなかったが、あの長距離移動もかなりの負担だったのかもしれない。
 河童の好物とされるキュウリを浅漬けにして出してみたが、食欲はあまり戻らなかった。

 そして何より、この街から千晶がいなくなったことも影響しているのではないだろうか。

 存在だけであやかしに不思議な力を与える、無邪気な笑顔。
 自分を呼ぶ甥の声を聞きたくなり、素早くかぶりを振る。

 甘えるな。もうあの子はいないのだ。
 どうしよう。私は、どうしたらいい?

「……家鳴くんたち、いる?」
「いル」「いル!」「どうしタ? 河童、きタ?」
「ごめんなさい。少しの間、この子の面倒をお願いしたいの。できるかな?」

 念のため、通信連絡用のワイヤレスイヤホンを起動させたまま、テーブルの上に置いておく。
 軒下からわらわらと姿を見せた家鳴たちにあとを頼むと、暁は車のキーを乱暴に掴み取った。
 今はとにかく自分に出来ることをしよう。

 今すぐに住み処を見つけなければ──琉々の命が危ない。


(10)

 ここ数日かけて調べ上げたのは、三日前に訪れた川の流れと下流域の堆積岩の分布図だった。

 琉々の元いた住み処にあの少女、サチが関わっているのは間違いない。
 父親も同様とすれば、二人をつなげる鍵はやはりペンダントではないか。
 ペンダントと住み処がどう繋がるのかはまだわからないが、今はこの推測に賭けてみるしかなかった。 

「永居川下流域……ここだ」

 サチのペンダントの情報は、茶色のペンダント。
 木目、という言葉から察するに木製。つまり、流水に浮かびやすく金属製のものより流される距離も長い。

 通常上流から流された石は、流れの中で徐々に形が削られ、小さく丸くなりながら河底に堆積していく。
 あらゆる情報を踏まえた結果、ペンダントが順調に流されてきたとすると、到達ポイントはこの辺りだ。
 もちろん上流のどこかで引っかかったり、何者かに拾われなければ、という条件付きだが。

「よし。探すか」

 自分に活を入れると、暁はゆっくりと川の中へ入っていく。

 あらかじめ用意していた長靴とゴム製のズボン。
 なかなか動きがとりにくいが、すでに何度か使用経験のある暁にはすぐに慣れた。
 すっかり日が落ちた川の下流は橋も民家もなく、いよいよ人目がない。見つからずに作業できるのはいいことだが、その分辺りの明かりも殆どなかった。

 額に取り付けたヘッドライトのスイッチを入れる。
 家鳴三兄弟を見つけたときと同様、照り具合は上々だ。
 今夜はこの光がなければ手も足も出ない。頼むよ、相棒。

『これ、話せるカ?』『アキラ?』『アキラ!』
「家鳴くんたち?」

 イヤホン越しに賑やかな声が耳に届いた。
 孤独な作業中にこの無邪気な声は、非常に活力が沸いてくる。家にイヤホンを残してきてよかった。

『俺たち、一生懸命、思い返しタ!』『それで、やっと、思いだしタ!』『父、テング、違っタ!』
「お、おお」

 サチの父はテング。
 三兄弟は、まだその討論をしていたらしい。

『父、テングじゃなイ。テーゲー!』
「テーゲー……?」

 聞き慣れない言葉にしばらく眉をひそめた暁だったが、はっと大きく息をのんだ。

 赤茶色の肌の河童。暑さに強い体質。お礼の品の魚。
 そして、木製のペンダント──。

『あ、起きタ』『起きタ』『赤い河童、起きタ!』
『な、七々扇さまで、ございますか?』
「琉々くん! ごめんね留守にして。体調はどう?」
『流水音……まさか、この時間に川に入っておられるのですか……っ?』
「大丈夫だよ。もう当たりはついてるから。探しものが見つかったら、私もすぐに戻るね」

 それは半分嘘だった。
 琉々の住み処の正体は掴めたが、結局それをこの広い下流域から見つけ出さなければならない。

 月明かりとヘッドライトしか頼れないこの場所で、人手は暁一人。
 一晩かけたとしても、見つかる確率は相当に低いだろう。

『……っ、あなたという御方は』
「え? ……わ、あ」

 その時だった。
 闇夜に黒く沈んでいた河面に、突如としてオレンジ色の明かりが浮かぶ。

 ぽこ、ぽこと次々浮かぶそれは手のひらほどの大きさの炎で、水面に浮かぶのに何故か消えることはなかった。
 湖に集って浮かぶ蓮の花のように、目を見張るほど美しい。

「これは……火? でも、一体どこから」
『人様の前で使ったのは、初めてにございます』

 イヤホンから聞こえてきた琉々の声は、先ほどに比べやや息苦しそうだ。

『なにせ周りの河童たちにはできない、異種の術であったので。排他されるのを恐れ、今まで人前で使用したことがなかったのです』
「もしもし琉々くん? まさかこの明かりを届けるために、また体力を削ってしまったんじゃ……!」
『この問題はもとよりわたくし自身のもの。七々扇さまにばかり負担をかけていては、せっかく見つけた住み処も、情けないわたくしを拒絶しましょう』
「琉々くん……」
『どうか無理はなさらずに、宜しくお願いいたします。……暁さま』


(11)

「うん。任せて!」

 通話が途切れ、暁は再び目の前に広がる河面を見つめる。

 琉々が灯しだしてくれた、水の上に浮かぶオレンジの炎。
 それのお陰でこの川の水がとても澄んで綺麗なことがわかった。

 これならまだ、どうにかなる。どうにかしなくては。

 水深が浅くて助かった。ゆっくり慎重に歩みを進め、視線は常に河底を見据える。
 求めるのはもちろん、ペンダントの姿だ。

 サチの父が母から投げかけられていたらしい、「テーゲー」という言葉。
 それは確か、沖縄の方言だ。

 以前親交があった沖縄出身の依頼主曰く、「絶望的なまでのいい加減さ」という意味らしい。
 サチが川に放ってしまったという、父から贈られたプレゼント。
 それは恐らく、ガジュマルの木で出来ている。

 ガジュマルの木は熱帯から亜熱帯の地域に分布する木で、日当たりのいい温かな場所を好む。
 日本では鹿児島県及び沖縄県での生息が見られ、沖縄では特に、とある「あやかし」と関連付けて知られることが多い──と。

「……はは。こんなあやかし関連の知識も、あの二人が来るまでは見向きもしなかったんだけどな」

 ぽつりとこぼした独り言が、河原にやけに寂しく響く。

 今は仕事中だ。今すべきことだけを考えろ。
 言い聞かせながらも、もう一人の自分の声が嫌でも浮かんできた。

 昨日の夜ご飯を食べないままだったな。
 ちゃんと何か食べているだろうか。
 熱帯夜ではあるけれど、風邪は引いてないだろうか。
 悪い大人やあやかしに、どこかへ連れ込まれてはいないか──。

「……大丈夫」

 大丈夫。
 だってあの子は一人じゃない。漆黒に包まれたもう一人の姿が頭を過る。

 暁よりもずっと長い付き合いの連れ添いがそばにいる。それこそ、暁が村を去ってからもずっと。
 それだけで、強い安堵の気持ちが胸を包み込む。

 自分も目の前の仕事に戻らなければ。

「っ、きゃ!?」

 まずい。
 そう思った瞬間には、体が不自然に傾いていた。

 見落としていた河底の段差に足をとられ、慌ててもう片足をつける。しかしそれも、さして機能できないまま──。

「なに、してやがんだ!」

 夜の静けさが落ちるこの河原に、轟くような怒声が飛んだ。

 襲いかかるはずだった飛沫の冷たさは訪れず、固く閉ざされていた暁のまぶたがそっと開かれる。
 藍色に染まった夜空をなかで、その人物は吸い込まれるような黒だった。

「こんな人目のねえ場所で! 無茶にも限度ってもんがあんだろが!」

 叱咤する男に繋がれた手が、酷く熱い。

 水面から離れた両足が、小さく空を切る。
 闇夜に吊し上げられた手の先には、いつになく余裕のない表情の男がいた。

 夜空に広がった黒い翼が、月光に照らされ不思議な混色を浮かべている。

「おい、聞いてんのか!?」
「……烏丸」

 ぽつりとその名を呼んだ瞬間、暁は咄嗟に繋がれていない他方の手を無理やり男に伸ばした。
 何とか届いた胸ぐらにぐっと力をこめ、烏丸の体を無理やり引き寄せる。

「ってめ、何を」
「ど、してっ、あんたがここにいるの!」
「……暁?」
「どうして! あんたが側にいるって信じてたから、私はっ!」
「おいっ。いいから、ひとまず落ち着け……、あ」
「え」

 ぐらりと体勢が崩れる。
 気づけば妙な浮遊感が体中を突き抜け、今度こそ、辺り一帯に大きな水音と飛沫が飛んだ。

 どうやら、絶妙なバランスを持って暁を河面から引き上げていたらしい。
 大人二人が落水した衝撃音は意外と大きく、しばらく辺りに薄くこだましていた。
 被った水量はゴム製のズボンでは到底遮れず、上の服までぐっしょり濡れている。

「……、冷た……」
「誰のせいだ、おい」
「……だ、だって」

 巻き込まれ入水を果たした烏丸の、眉間に怒りを溜めた表情。
 その表情に安心と不安の両方を抱くのは、おかしいことだろうか。

 相反する感情が胸でせめぎ合い、目の奥がつんと痺れる。

「千晶には、あの子には、烏丸がいてくれると思ってたから。だから、私がいなくてもきっと安心だって、そう思ってたから……」
「……」
「千晶を、一人にしないでよ」

 ぼろ、と大粒の涙がこぼれる。

 川の水がしたたる状況でもそれは明らかで、暁自身隠す余裕もなかった。
 同様に髪まで川の水で濡れそぼった烏丸が、長く細い息を吐く。

「『千晶を一人にしないで』か。『私を一人にしないで』って、聞こえるな」


(12)

 烏丸の手のひらが、暁の濡れた髪をそっと撫でる。

「昔から俺の周りは、面倒な人間ばかりだ」

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その口角には至極穏やかな微笑みが浮かんでいる。
 こんな表情、初めて見た。

 瞳を瞬かせる暁に気づかないまま烏丸は双眼を閉ざし、両手を胸の前に合わせる。
 いくつかの指を立て、囁くような小声で言葉を結んでいた。

「烏丸?」
「──水の(ことわり)よ」

 今、(すべから)く、我の望みを聞け──。

 まるで二重にも三重にもなるような、鼓膜の奥まで震わせる声。
 その声が届くと、辺りの川の流れる音が大きく変容した。
 地響きのような、大きな力が湧きあがる音。
 何だ。一体何が起こる?

 次の瞬間、真っ白な光に突然包み込まれる。
 反射的に瞑った目を再び開くと、広がる光景に大きく息をのんだ。

「か、川の水が……っ」
「こうすりゃ、川の底も探しやすいだろ」 
「っ、烏丸……!」

 川の中流から流れてきた水が、重力に反して大きな山を越えるように河面を浮いていた。
 暁たちが佇む一帯の水は、凄まじい流水音を立てながら頭上をアーチ状に越えていく。

 こんなこともできるなんて、並大抵のことじゃない。
 烏丸の力とは、一体どんなものなのだろう。

「呆けてねえでさっさと探せ。長いこともたねえぞ」
「……はい!」

 考えるのはあとだ。今はただ、ペンダントを探すだけだ。

 全身濡れそぼった状態のまま、暁は河底に手をつく。
 何か物陰はないか、慎重に見極めながら移動していくが、なかなか求めているものにはたどり着けなかった。

 ペンダントがここに流れ着いているというのは、あくまで可能性の話だ。
 そもそも、ここにたどり着いていない可能性だってある。今のこの捜索は、果たして意味があるのだろか──。

「……うるさいな」

 弱気な自分の囁きを一蹴する。
 この稼業を営むようになってから、こんな葛藤は数え切れないほど経験してきた。重すぎる責任感と期待の狭間に押しつぶされそうになることも。

 そんな中でも、最後は自分の信念を信じてやってきたのだ。
 今さらこの姿勢は曲げられない。例え、周りから見てどんなに不格好で醜くても。

「アキちゃん!!」

 その時、流水音に包まれたはずの空間で、確かに覚えのある声がした。

「……千、晶?」
「アキちゃんから見て左側の! 少し大きめの二つの石! そこの間を見て!!」

 川べりに生い茂る草原の向こうから、千晶が腹の底から声を飛ばしているのが見えた。

 千晶まで、どうしてこんなところに。
 そんな疑問を投げかける間もなく、四つん這いの状態で告げられた場所へと移動する。
 少し大きめの二つの石、その間。

「あった……!」

 楕円形の木がモチーフの、可愛らしいペンダント。
 全然地味じゃないじゃないか。

「暁、退け! もう保たねえ!」
「なら、烏丸も」
「アキちゃん、早くこっちに……!」

 三人三様の声を飲み込むように、河原一帯に巨大な水飛沫が上がった。



 ここはね、私の大好きな場所なの。

 初めて訪れた小さな建物を見つめながら、保江はそう言った。
 実家の裏手に広がる緑生い茂る山。その細道を進んだ先に、人目から逃れるようにひっそりと佇む御社だった。

 血の繋がらない姉の保江は、穏やかで芯が強く、そして優しい。

 そんないつもの姉とはどこか違う、感情が素直ににじみ出るような横顔に、暁は思わずみとれた。
 この御社が保江にとって特別だということは、当時まだ十二歳の暁にも容易に理解できた。

 その腕に抱かれた生まれたばかりの甥に、そっと目をやる。
 穏やかで愛らしいその寝顔は、まるで日だまりに優しく撫でられているようだった。

 その御社を初めて一人で訪れたのは、それから四年後。滝に打たれてるみたいな大雨の夜だ。
 雨ガッパのフードをきつく締めて、暁は裏山道を走っていく。
 御社の横には、履いてきた長靴が雨風に晒されていた。

 夕刻、幼い千晶が高熱を出した。

 この村に大きな病院はなく、救急車を待たずに家の車で隣町の病院へ向かうことになった。
 千晶はまだ二歳だ。当然母の保江が付き添っていく。

 夜の山なんて入るもんじゃない、と暁は常々思っている。
 暗いし不気味だし、加えて今は大嵐だ。
 辺りの木々は鞭のように大きくしなり、枝葉がぶつかりあっては大きな音を響かせる。息をするのも苦しいくらい、細いあぜ道を雨風が吹き付けていた。
 暁は幾度となく風上から顔を背け、大きく噎せ込む。

 それでも保江がいない以上、御社まで駆けつけられるのは暁しかいないのだ。

「っ……これで、百……」

 御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
 乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。

「御社さま、御社さま」

 どうかちーちゃんの熱が、早く治りますように──。



「……、……え」

 まぶたを開けると、見慣れた天井が広がっていた。

 視線だけをゆっくり左に動かすと、窓にかかったカーテンから眩しい日差しが漏れている。
 見覚えのある無地のカーテン。自宅のベッドだ。
 じわじわと記憶が蘇ってきたあと、暁は慌てて上体を起こす。

 すると服の裾が、誰かに掴まれていることに気づいた。

「……千晶?」


(13)

 眠っているらしい。
 長い睫が揃ったまぶたを静かに下ろし、規則的な寝息がかすかに耳に届く。
 ベッド脇の床に座り込んだ状態で、千晶の手は暁の裾を握ったままになっていた。

「綺麗な寝顔しちゃって……」

 苦笑しつつ手から裾をそっと引き抜くと、布団を肩からかけてやる。
 夏とはいえ、体を冷やして風邪をひいてはまずいだろう。どうせ眠るなら、ベッドに入ればいいのに。

「起きたか」
「烏丸」

 千晶を起こさないようにベッドから降り立つと、リビングのソファーからむくりと上体を起こした烏丸が見えた。
 いつもは嫌みなほど艶めいた黒髪が、今は無造作に乱れている。まるで寝起きのそれみたいだ──って。

「あれ。もしかして烏丸も眠ってた? この家の中で?」
「昨夜は誰かがぷっつり意識を飛ばしやがったからな。後処理で余分な体力を使いすぎた」
「う。ごめん」
「謝るくらいなら、ちったあ反省しろ。経営者だろが」

 ぴしゃりと正論を告げられ、二の次もない。

 そのあと続いた烏丸の説明によれば、川の水をもろに浴びた暁はそのまま気を失ってしまったのだという。
 千晶と烏丸で自宅に運び入れ、このベッドに運んだのだと。

「ちなみに、ベッドの占領していた赤河童は事務所のソファーに移したぞ。念のため小鬼の三匹もついている。お前の様子を見て、酷く動揺していた」
「はは……。結局、琉々くんには心配をかけちゃったね」
「琉々だけじゃねえだろ。他の全員にもだ」
「……」

 それはつまり、烏丸も、ということでいいのだろうか。
 聞いてみたい気もしたが、怒らせるような気もしたのでひとまず黙っておいた。

「さっき眠ってたときにね、夢を見たの。十年以上昔の、嵐の日の夢」

 ふと口についてしまった言葉に、烏丸の金目が小さく見開かれた。

「私が十四歳くらいのときだったかな。千晶が高熱を出したことがあってね。近くの山の御社に、お百度参りに行ったんだ」
「……」
「保江姉さん、あの御社のことをとても大切にしてた……」

 その後のことは、あまり覚えていない。

 気づけば暁は、今のように自宅の布団で横たわっていた。
 大嵐の夜に抜け出していた問題児の暁に家の者は気にかける様子すらなかったが、保江だけは泣きそうな顔をして微笑んだ。

 あの御社に願いを届けてくれたんだね。ありがとう、暁──。

「保江には、あやかしと打ち解ける力があった」

 ソファーの背もたれに背を預けたまま、烏丸が口を開く。

「暇を見つけては山に通い、社を気にかけ、集うあやかしと語らっていた。……生前の俺の父上とも、何故か交流が深かった」
「保江姉さんが、烏丸のお父さんと?」

 初耳だった。

 確かに保江は実家の土地開発事業の方針を巡っては常に自然保護の姿勢を崩さなかった。
 古株の連中には反対派も勿論いたが、決して敵と思わせない人となりと巧みな交渉術でいつの間にか周囲を懐柔していた。

 幼い暁は、保江は単純に自然破壊を防ごうとしているのだと思っていた。
 しかし、あれももしかしたら、あやかしの住み処を守るためだったのかもしれない。

「それがいつからか、保江に連れられてお前も姿を見せるようになった。保江の見よう見まねで、お前はただ手を合わせるだけだったがな」

 滔々と語られる過去の日の自分に、暁は気づかざるを得なかった。

「私のこと、知ってたの? 子どもの頃から?」
「手前の父親の墓を定期的に訪れてる奴のことだ。嫌でも記憶に残る」

 拙く淡い昔の記憶の破片が、星座を象るようにはっきりと浮かび上がってくる。

 確かにあの御社に行くときは、毎回保江が準備した花を供えていた。
 そして時折こちらを監視するように止まり木に佇む──黒い鳥の姿も。

 あの御社には、烏丸の父親が眠っていたのだ。

「その後お前は、願掛けをしに一人で現れた。一度目は千晶が高熱で伏せったとき。二度目は保江が死んだとき。嵐の中の百度参りを、どちらもあそこの馬鹿のためにな」
「それは……」

 保江の急逝を知って帰省した挙げ句、実家から閉め出された日の夜のことだ。

 心身ともにボロボロになった暁は、日が落ちるのを待って敷地内の山に入り込んだ。
 雨が降っても、風が吹いても、気にならなかった。
 黒のパンプスを御社の隣に置き、ひたすらに山道を往復する。

 御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
 乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。

 御社さま、御社さま。どうかお願いします。

 どうかちーちゃんの未来が、幸せなものでありますように──。

「俺があいつの前に姿を見せたのは、そんなお前の姿を二度も見たからだ」
「……え?」