(8)

 それを知ってか知らずか、千晶はタオルドライもそこそこにまっすぐ寝室のほうへと向かった。その背中には、明らかな暁への拒絶が見てとれた。

「……ちゃんと髪を乾かさないと、風邪引くよ」

 それでも、まさかここで退くわけにはいかない。
 暁の言葉を意に介せずベッド奥に横たわった千晶を、暁は静かに見下ろした。

「怒ってるの?」
「……」
「私が、血の繋がりのない叔母だと知ったから……?」

 率直な疑問だった。
 初対面でありながら過剰なほど暁を慕っていた千晶を、何がこんなに変えたのか。

「それとも、そのことを口に出さずにいたから? 隠し事をされてたと思ったの?」

 千晶はなおも無言だった。

「私、てっきり実家で千晶の耳にも入っていると思ってたんだ。私、実家でも陰でよく言われてたから。あれは実子の癖に出来が悪いって」
「……」
「驚かせたなら、本当にごめん。でも私、隠しているつもりは」
「アキちゃんはさ」

 ようやく耳に届いた甥の声に、一瞬喜びが宿る。
 しかしすぐに驚愕に打ち消された。

 手首を手加減なく思い切り引っ張られる。
 受け身をとり体勢を立て直そうとするが、千晶の動きの方が僅かに早かった。

「……何の、真似?」

 両手首を痛いくらいにベッドに押しつけられ、自然と視線を鋭くなる。

「離して。今自分が何をしてるか、わかってるの」
「ベッドで男女がすることとしては、むしろ正常なことだと思うけどな」
「本気で言ってるの?」

 以前もこうして、千晶に上から見下ろされたことがある。

 しかし、あのときと状況は天と地ほども異なっていた。
 今の千晶の表情からは、お遊びの感情が一切伝わってこない。

 まだ完全に乾ききっていない千晶の柔らかな癖毛。
 そこを優雅に伝った滴が、暁の首筋に冷たくしたたり落ちた。

「今までがおかしかったんだよ。血も繋がっていない、思春期をとおに過ぎた男女が、仲良く一つのベッドでおやすみなさいなんてさ」
「離しなさい」
「アキちゃんだってそうでしょ? 本当の本当は、こういうことを期待して」
「千晶!」

 ひゅ、と息をのむ音がした。

 手首を素早く抜き取った暁が、目の前の胸ぐらを遠慮なく掴む。
 スプリングの大きく軋む音が響いた直後、二人の体の位置は完全に逆転していた。

 なにがあったのか把握していない様子の甥の顔を、暁は息を整えながら見下ろす。

「……驚いた。俺、油断してるつもりはなかったんだけど」
「こういう状況を打開する術を持たなきゃ、何でも屋なんて女一人でできない。……今の君のような客も、ゼロではないからね」

 以前完全にされるがままだったのは、千晶にそういった危険要素が全くなかったからだ。
 警戒すべき状況では、相手が誰であれ本能が察知する。
 暁はそういう環境で生き抜いてきた。

「はは。なるほどね」

 シーツに縫い付けるようにした千晶の手首から、すっと力が抜けていく。
 皮肉めいた苦笑を浮かべていた目尻から、薄い滴が浮かんできた。

「千晶……?」
「っ……母さんが、逝く前に言ったんだ」

 俺には──血の繋がった味方がいるって。

 言い切った直後、ベッドに沈めた甥の肩が大きく震えた。
 いつもは端正な表情がぐにゃりと歪み、目尻からは止めどなく涙が溢れ出る。

「俺が知りうる限りの、血縁のある……あると思っていた家を渡り歩いた。でも、俺の味方なんてどこにもいなかった。ただの一人も」

 ああ。それでだったのか。

「アキちゃんしかいないと思った。アキちゃんが、母さんの言う唯一の俺の味方なんだって……っ」

 十三年ぶりに再会したときの、希望に満ちあふれた甥の表情が頭を過る。
 そこまでの希望を抱いて、生まれ育った村から離れて、千晶は暁だけにすがってきた。

 自分は、孤独な甥の最後の頼みの綱だったのだと──今、ようやく気づかされた。

「ち、あき」
「ごめん」

 暁の押さえつける力が緩むのと同時に、千晶がのろのろとベッドから抜け出す。

「ちょっと、頭冷やしてくる」

 留める言葉を持っていなかった。
 扉の向こうに消えていく背中を、暁はただ見送るしかできない。甥が自分に固執する理由は、もうどこにもないのだから。

 そして翌日──簡単な手荷物とともに、甥の姿は消えていた。



「ただいマ」「ただいマ!」「マ!」
「……お、かえりなさい?」

 事務所で調べ物をしていた暁に、無邪気な幼子の声が掛かった。

 机にへばりついていた顔を上げると、目の前のテーブルの上に家鳴三兄弟の小鬼たちが並んでいる。
 この家の屋根裏を提供して以降、何やら妙に懐かれてしまったらしい。

「家鳴くんたち。ただいまって、もしかしてどこかに行ってたの?」
「行ってタ」「タ!」「お手伝イ!」
「お手伝い?」

 ぴょんぴょん跳びはねる三人をひとまずソファーに移す。
 自らもソファーに移動すると、腰が異様に伸びるのを感じた。

「それで。一体なんのお手伝いをしてきたの、家鳴くんたち?」
「……アキラ、疲れてル?」