(3)
桜吹雪に撒かれたはずなのに、その声ははっきりと耳に届いた。
橋の真ん中でいつの間にか足を止めていた暁が、声の主のほうへ視線を移す。
そこには桜の花びらに包まれながら、大きなキャリーバッグを抱えた一人の少年が佇んでいた。
何処の学校のものかわからない制服だった。近隣のものではなさそうだ。
薄い茶色のふわふわの癖っ毛に、筋の通った鼻、吹き出物とは無縁そうな美しい肌。
身長は平均よりだいぶ高いだろうか、目尻がやや垂れた大きな瞳は少年の印象をやや幼くさせている。
わお、アイドルみたいだな。
暁は少年の第一印象をそう位置づけた。
安直だったが、現に周囲の女性達の視線をいとも容易くさらっていた。特に帰宅途中の女子高生からは、すでに控えめな黄色い歓声がちらほら聞こえている。
少年が一歩、暁に近づく。
暁の脳内で、過去の依頼主で該当しそうな人物の照会が終わった。うん、知らないな。
少年がまた一歩、暁に近づく。
暁の脳内で、高校時代の知人で該当しそうな人物の照会が終わった。いや、同級生が今も学生なはずはないし。
また一歩、一歩と近づく間に、暁はひとつの結論に至った。
「人違いです」
「アキちゃんでしょ。俺、千晶(ちあき)だよ。七々扇千晶」
「七々扇……」
ななおうぎ、ちあき。
「……ちーちゃん?」
「そう! 会いたかった、アキちゃん!」
「ひっ」
その少年──千晶が、モデル顔負けな満面の笑みを浮かべる。
そして気づけば暁は、妙に温い腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
橋のど真ん中で突然熱い抱擁を交わす男女に、周囲からはどよめきが起こる。
その対象の片割れがアイドル(仮)なら、なおさらだろう。
「っ、ちょっと、人前で何を……!」
「アキちゃん、このほっぺどうしたの」
「え? ほっぺ?」
先ほどの突風で出来たかすり傷のことだろうか。暁が説明する口を開くよりも、千晶の動きは早かった。
暁の頬に、柔らかく熱を持った感触が押し当てられる。
……ん?
「消毒しないとだめだよ。アキちゃんは女の子なんだから」
「……」
……んん?
暁の頬から、ゆっくりと千晶の唇が離れていく。
悪びれなく告げられた有り難い忠告の向こう側で、周囲のどよめきがさらに厚みを増したのがわかった。
控えめに言って、その後の状況は最悪だった。
橋のど真ん中で突然行われた商店街の人間の再会・抱擁・ほっぺにキス。
その観客には、当然ながら商店街の人間も存在した。その行為にどんな事情があろうと、事実には違いない。
「つまり明日には君とのことが商店街中に知れ渡ることになるんだよどうするつもりなのあんたはあああ!」
「わあ、ココアだ。ありがとね、アキちゃん」
不満を一心にこめてテーブルに叩きつけたココアを、騒動の元凶──七々扇千晶は垂れた目尻を一層下げながら喉に通した。
事務所の上階は、暁の自宅になっている。
事務所内外のどちらからも自宅に上ることができるが、今日は真っ先に事務所外の階段を選んだ。
これ以上の風評被害を最小限に抑えたい、自営業者の切なる想いからの行動だった。
「ここがアキちゃんの部屋かあ。女の人の部屋ってどんな感じかと思ってたけれど、割とシンプルな部屋だねえ」
「そんなに広い部屋じゃないからね。自分の好きに食べて寝て起きてができれば、私はそれでいいんだよ」
「なるほどね」
「それで。君はどうしてここにいるんだい」
「えー。他に言うことない? 十三年ぶりに再会した甥っ子だよ?」
「……大きくなったね。千晶」
「うん。でしょ」
七々扇千晶は、暁の甥に当たる。
暁が実家を飛び出したのが十五歳の高校進学の時。
当時の千晶はまだ三歳の幼児だった。それ以来、この甥とは顔を合わせていない。
身長も暁の腰元くらいしかなかった、天使のような姿を思い出す。
言われれば面影が残っている気もするが、言われなければ自力で思い出すのは困難なほどには、甥は変貌を遂げていた。
脳内で計算するに、甥は今十六歳。この四月から高校二年のはずだ。
「保江(やすえ)姉さんの子だもの、そりゃ美形に育つよね」
「そこに置かれてる写真って、もしかして母さん?」
「ん。そうだよ」
ベッドのそばに置かれたチェストの上に、千晶の視線が寄る。
写真立ての中で柔らかく微笑む保江と、その前の小皿に寝転がる白いお守りがひとつ静かに佇む。
この部屋で装飾品らしい装飾と言えば、それくらいなものだ。
「懐かしいね。この写真、母さんが逝くより少し前の?」
「うん。亡くなる一年前の写真」
暁にとっては最愛の姉であり、唯一の理解者だった。
二十八歳で突然逝ってしまった保江と、今年暁は同じ歳を迎えている。
感傷に浸りそうになる自分に気づき、暁はぶんぶんとかぶりを振った。今は目の前の問題と向き合うのが先だ。
「端的に言うとね、俺もこの部屋に住まわせてほしいんだ」
桜吹雪に撒かれたはずなのに、その声ははっきりと耳に届いた。
橋の真ん中でいつの間にか足を止めていた暁が、声の主のほうへ視線を移す。
そこには桜の花びらに包まれながら、大きなキャリーバッグを抱えた一人の少年が佇んでいた。
何処の学校のものかわからない制服だった。近隣のものではなさそうだ。
薄い茶色のふわふわの癖っ毛に、筋の通った鼻、吹き出物とは無縁そうな美しい肌。
身長は平均よりだいぶ高いだろうか、目尻がやや垂れた大きな瞳は少年の印象をやや幼くさせている。
わお、アイドルみたいだな。
暁は少年の第一印象をそう位置づけた。
安直だったが、現に周囲の女性達の視線をいとも容易くさらっていた。特に帰宅途中の女子高生からは、すでに控えめな黄色い歓声がちらほら聞こえている。
少年が一歩、暁に近づく。
暁の脳内で、過去の依頼主で該当しそうな人物の照会が終わった。うん、知らないな。
少年がまた一歩、暁に近づく。
暁の脳内で、高校時代の知人で該当しそうな人物の照会が終わった。いや、同級生が今も学生なはずはないし。
また一歩、一歩と近づく間に、暁はひとつの結論に至った。
「人違いです」
「アキちゃんでしょ。俺、千晶(ちあき)だよ。七々扇千晶」
「七々扇……」
ななおうぎ、ちあき。
「……ちーちゃん?」
「そう! 会いたかった、アキちゃん!」
「ひっ」
その少年──千晶が、モデル顔負けな満面の笑みを浮かべる。
そして気づけば暁は、妙に温い腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
橋のど真ん中で突然熱い抱擁を交わす男女に、周囲からはどよめきが起こる。
その対象の片割れがアイドル(仮)なら、なおさらだろう。
「っ、ちょっと、人前で何を……!」
「アキちゃん、このほっぺどうしたの」
「え? ほっぺ?」
先ほどの突風で出来たかすり傷のことだろうか。暁が説明する口を開くよりも、千晶の動きは早かった。
暁の頬に、柔らかく熱を持った感触が押し当てられる。
……ん?
「消毒しないとだめだよ。アキちゃんは女の子なんだから」
「……」
……んん?
暁の頬から、ゆっくりと千晶の唇が離れていく。
悪びれなく告げられた有り難い忠告の向こう側で、周囲のどよめきがさらに厚みを増したのがわかった。
控えめに言って、その後の状況は最悪だった。
橋のど真ん中で突然行われた商店街の人間の再会・抱擁・ほっぺにキス。
その観客には、当然ながら商店街の人間も存在した。その行為にどんな事情があろうと、事実には違いない。
「つまり明日には君とのことが商店街中に知れ渡ることになるんだよどうするつもりなのあんたはあああ!」
「わあ、ココアだ。ありがとね、アキちゃん」
不満を一心にこめてテーブルに叩きつけたココアを、騒動の元凶──七々扇千晶は垂れた目尻を一層下げながら喉に通した。
事務所の上階は、暁の自宅になっている。
事務所内外のどちらからも自宅に上ることができるが、今日は真っ先に事務所外の階段を選んだ。
これ以上の風評被害を最小限に抑えたい、自営業者の切なる想いからの行動だった。
「ここがアキちゃんの部屋かあ。女の人の部屋ってどんな感じかと思ってたけれど、割とシンプルな部屋だねえ」
「そんなに広い部屋じゃないからね。自分の好きに食べて寝て起きてができれば、私はそれでいいんだよ」
「なるほどね」
「それで。君はどうしてここにいるんだい」
「えー。他に言うことない? 十三年ぶりに再会した甥っ子だよ?」
「……大きくなったね。千晶」
「うん。でしょ」
七々扇千晶は、暁の甥に当たる。
暁が実家を飛び出したのが十五歳の高校進学の時。
当時の千晶はまだ三歳の幼児だった。それ以来、この甥とは顔を合わせていない。
身長も暁の腰元くらいしかなかった、天使のような姿を思い出す。
言われれば面影が残っている気もするが、言われなければ自力で思い出すのは困難なほどには、甥は変貌を遂げていた。
脳内で計算するに、甥は今十六歳。この四月から高校二年のはずだ。
「保江(やすえ)姉さんの子だもの、そりゃ美形に育つよね」
「そこに置かれてる写真って、もしかして母さん?」
「ん。そうだよ」
ベッドのそばに置かれたチェストの上に、千晶の視線が寄る。
写真立ての中で柔らかく微笑む保江と、その前の小皿に寝転がる白いお守りがひとつ静かに佇む。
この部屋で装飾品らしい装飾と言えば、それくらいなものだ。
「懐かしいね。この写真、母さんが逝くより少し前の?」
「うん。亡くなる一年前の写真」
暁にとっては最愛の姉であり、唯一の理解者だった。
二十八歳で突然逝ってしまった保江と、今年暁は同じ歳を迎えている。
感傷に浸りそうになる自分に気づき、暁はぶんぶんとかぶりを振った。今は目の前の問題と向き合うのが先だ。
「端的に言うとね、俺もこの部屋に住まわせてほしいんだ」