(19)

「あ、すみません。ご迷惑でなければもう少しだけ──」
「アキちゃん、ただいまっ」

 そのとき、事務所の戸が開く音とともにはっと息をのむ音が届いた。

「え、琴美さん……!?」
「夏帆ちゃん!」

 千晶に背中を押されて現れた夏帆の姿に、琴美はソファーから腰を浮かせた。
 四ヶ月ぶりの対面だ。驚愕の表情を浮かべた二人だったが、しばらくすると琴美の口が開く。「……あーあ」

「やっぱり悔しいなあ。勝手だけど、夏帆ちゃんの髪を切るのは私だって、妙な自負があったから」
「っ、琴美さん……、本当に本当にすみませ……」
「すごく似合ってるよ、ショートヘア」

 謝罪の言葉に覆い被せるように発せられた言葉に、夏帆は目を見張った。

「あんまり綺麗な髪だから、私、そのヘアスタイルを維持することばかり考えていたんだね。もっと夏帆ちゃんの本当の要望を聞けば良かった。美容師失格だね」
「そんなことありません! 私、琴美さんには本当に感謝していて、琴美さんとの時間がとても嬉しくて……」

 本当は、ずっと、琴美さんに会いたかった……。

「夏帆ちゃん」

 顔を歪めた夏帆は、ぱっと床に視線を落とす。
 そんな夏帆の頭を、琴美は優しく撫でた。身長は夏帆の方が遥かに高いが、そこには年上の温かな包容力があった。

「こんな未熟な私で良かったら、是非また美容室に来てね。今よりももっと夏帆ちゃんに似合うショートヘアに仕上げてみせるから」

 顔を伏せたまま、夏帆が何度も頷く。
 その夏帆の姿は、いつもの大人びた女性ではなく一人の女子高生だった。扉にもたれて成り行きを見守る千晶と目が合い、そっと目を細める。

 彼女は、確かに恋をしていた。

 可愛らしい雰囲気で笑顔が少し幼い。仕事に強い信念を持った──素敵な大人の女性に。

「もう顔を見せられない」という、以前聞き及んだ言葉が現実にならなかったことに、暁は心から安堵した。
 願わくば、「どうしても気持ちを伝えられない」という言葉もまた、現実になりませんように。



「へえ。それじゃ、槙野の髪を整えたのは、あのカミキリだったんだ」

 その日の夜。
 食卓を囲んでいる中で千晶が眉を上げた。

「カミキリちゃんに聞いたの。三ヶ月前に、河原で自分の髪をバラバラに切っている女子高生を見つけたこと。見るからに訳ありだったしそのままの髪じゃ何処にも行けそうにない彼女に了承を得て、今のショートヘアに整えてあげたんだって」

 最初にカミキリ少女は言っていた。人に望まれることなく、髪を切り落とすことはしない──と。
 つまり、人から「望まれれば」切る機会もあったのではないか。
 そう考えて投げかけた質問が、今回思わぬ形で真相に近づく手助けとなった。

 とはいえ、まさか当の女子高生が憧れの美容師のお得意様だったとは、カミキリ少女も夢にも思わなかったに違いない。

「どうりで。自分で切ったにしては整いすぎてると思ってたんだよね」

 私は自分で切ってるけどね、と暁は胸の中で独りごちる。

 今まではそんな頓着も気にならなかったが、今の暁は甥の身元引受人だ。
 身だしなみを整えるためにも、今度カミキリ少女に髪を整えてもらおうか。考え巡らせるうちに、あることを思い出す。

「そういえば、あれから文献に当たってみたんだけど」
「うん? 文献?」
「豆腐小僧の豆腐に触れたあと、嘘を吐くとカビが生える……だっけ? それって本物の豆腐小僧から直接教わった知識なの? 書籍には、そんな記述どこにもなかったんだけど」
「あー。あれはね、ハッタリ」
「ハッタリ!?」

 悪びれることなく白状した甥っ子に、暁は声を裏返した。

「ハッタリって、え。つまりあれは口から出任せってこと?」
「うん。そうなるかな」
「おい。飯時にカビの話をするな。飯がまずくなる」

 千晶の隣でパンケーキを頬張る烏丸に構わず、暁は追求を続けた。
 説明によれば、小太郎から切りつけ犯に豆腐がかかったことを耳にし、手っ取り早く小芝居を打ったのだという。

「お陰で簡単に事実確認ができたし。終わりよければすべてよし、でしょ」
「そ、それじゃあ、実際彼女の左手に生えてきた緑色のあれは……」
「あれは正真正銘のカビだよ。幻だけどね。烏丸に頼んで、頃合いを見て幻術を使ってもらったんだ」
「いい加減にしろ。カビの話ならあとでやれ」
「いや、カビを生やした本人が何を言ってるの!?」

 常識人の顔をした烏丸も、どうやら一枚噛んでいたらしい。
 自身のあずかり知らぬところで起こっていた、色んな意味ですれすれの計画。たまらず暁は眉間を揉んだ。

「だって仕方ないでしょ。あの女、アキちゃんに手を出したんだから」
「はい?」
「あの美容師の人のことだけなら、ここまで首を突っ込むつもりはなかったけれど。自分の持ち物に手を出されるのは、我慢できない質だから」
「……」

 とてもいい笑顔で告げられた言葉に、暁は目を瞬かせるほかなかった。
 自分はいつから、甥っ子の持ち物になったのだろう。

「それに、あの場への同行はきちんと話し合って決めたことでしょ。アキちゃんがこの手の怪我を隠したことに対するお詫びに、さ」

 暁の手のひらにまだ残る絆創膏を、千晶が指さす。
 この怪我が完治するまでは、甥には頭が上がる気がしない。

「それはそうだけど。でももう、あんな無茶しちゃ駄目だよ」
「断言できない。この怪我だって、実は今もまだ痛むんじゃないの」
「っ、ひゃ」

 食卓を囲む時間が、ピタリと止まった。

 ばっと負傷した手を口元に当て、思わずぱっと視線を逸らす。
 傷部分を軽く撫でられただけだ。それなのにこんな変な声を出してしまうなんて。
 じわじわと頬に集まる熱を、どうにかして周囲に払う。

「ご、ごめん。びっくりして私、なんか変な声を」
「びっくりして、か。本当にそれだけ?」
「ちょ、千晶、何するの……!」

 嫌な予感が的中した。

 新しいおもちゃでも見つけたような甥の手が、再び暁の手を捕らえようと動く。
 咄嗟に暁が席を立とうと腰を浮かせた。

「あ」
「え」
「やめろ」

 低く重い響きとともに、暁の視界が黒の着物に覆われた。
 いつの間にか暁の隣に立った烏丸が、差し出された千晶の手を取り動きを封じている。

「え、と。烏丸……?」
「へえ。意外と紳士なんだ。長いことつるんできたけど、初めて知った」
「知るか。夕食くらい静かに食べさせろ。騒々しい」

 烏丸の肩越しに見える千晶の表情が、わずかに鋭さを帯びる。
 相変わらずこの二人、仲がいいのか悪いのかわからない。

 何やらさらに妙な空気になったのを肌で感じながら、暁はひとまず無事に元の席に腰を下ろした。

「そういえば、ずっと不思議だったことの答えが出たんだ」
「不思議だったこと?」
「ん。どうして面倒ごとが御免なはずの自分が、わざわざ槙野の悩みを聞こうと思ったのか」

 二人で仲良く下校していた、あの時のことか。
 そういえばあの時も烏丸に指摘され、千晶自身も腑に落ちないように首を傾げていた。

「多分、アキちゃんを側で見てたからだよ。だから俺も、誰かのためになれたらって思えたんだと思う」
「……」

 千晶にとっては、なんでもない会話の一つだったのだろう。
 しかしながら淀みなく告げられた言葉は、暁の胸をじんと痺れさせた。

 誰かのためになれたら。それはずっとずっと、自分自身に求めてきたことだったから。

 もしかしたらほんの少しだけでも、憧れの存在に近づけているのだろうか。
 いつの間にかまた何かを言い合っている二人を眺めながら、暁は小さく口元に笑みを浮かべた。