(16)
「ナイフじゃなくてハサミだったの」
沈黙が重く落ちていた室内で、暁は恐る恐る絞り出した。
「だから、そこまで切れ味いいわけじゃなかったんだ。もう血も止まったし消毒もしっかりしたから、あとは傷口が塞がれば」
「アキちゃん」
「はい」
「黙って」
「……はい」
叔母と甥の地位が、逆転した瞬間だった。
琴美をタクシーに乗せたあと、暁は気配を消すようにして一階事務所に舞い戻った。
心配でついてきた豆腐小僧の小太郎に手伝ってもらいながら、救急セットの中身をあさる。
そして次の瞬間、必要最低限にしていた事務所内の明かりが全て灯された。
点けたのは勿論、二階自宅にいたはずの甥っ子と、屋根の上にいたはずの烏丸だった。
「さっきのあやかしに感謝しなくちゃね。危うく怪我をしたいきさつを隠蔽されるところだった」
先ほどまで洗いざらいの事情を聞かれた小太郎は、すでに事務所をあとにしている。
ペコペコと頭を下げて戸を閉める姿は、逆にこちらが申し訳なく思うほどだった。
「隠蔽って、そんな大げさな」
「現に、俺たちに気づかれないように傷の手当てをしてたでしょ。あとは大きな絆創膏でも貼っておけば、転んですりむいたとか適当に報告することもできるもんね」
「……ごめん」
無表情のまま傷口を確かめる甥に、暁は素直に頭を下げる。
正直、ぎりぎりまで事務所と自宅のどちらに戻るべきか迷っていた。
もしも逆の立場なら、怪我を隠そうとする千晶を間違いなく叱り飛ばしたに違いない。家族だからこそ知らせてほしい、と。
でも結局暁は、怪我をなんとか誤魔化すほうを選んだ。家族だからこそ知らせたくない、と。
家族ってやっぱり難しい。
「心配をかけた自覚があるなら、大人しくしててよね」
「へ? あ……」
掴まれていた手が、さらに持ち上げられる。
そのまま吸い込まれるように促された先は、千晶の唇だった。
触れた柔らかな温もり。予期しなかった状況に一瞬呆けたものの、はっと思い出す。
千晶の口付けには、傷を癒やす巫の力があるのだ。
「え、と。もう治った……のかな?」
「うーん。思ったより傷が深いみたいだね。これはもうちょっと時間がかかるかも?」
手のひらから一度離れた唇が、悪戯っぽく弧を描く。
そんな表情一つさえも絵になる甥に変に感心していると、再び恭しく暁の手が持ち上げられた。
「いい加減にしろ。このエロガキが」
面倒くさそうに突っ込みを入れたのは、我が物顔で人の事務机を陣取った烏丸だった。
「言っておくがな。こいつの力が発揮できるのは、加害者にせよ被害者にせよあやかしが関わる場合のみだ。人間同士のどうこうには効果はない」
「あ、そうなんだね」
うん? ということは、どういうことだろう。
「……ちょっと話そうか、キス魔の千晶くん」
「はは、キス魔じゃないよ。それに、今のだってまったくの無駄じゃない。今回怪我をさせてきた加害者が人間だってことが、これではっきりわかったでしょ?」
咄嗟に出た言い訳のようにも聞こえたが、確かにな、と納得する。
開いた手のひらには当然、赤黒い傷跡が残っている。
しかし先ほどと比べ、不思議と痛みが遠のいたような気がした。これももしかしたら千晶の力なのかもしれない。
「それで? 怪我まで負わされてきたんだ。それなりに収穫はあったんだろうな?」
「まるで事務所の所長のようですね、烏丸くん」
ふんぞり返りながら報告を待つ烏丸に呆れつつ、暁は今夜の出来事を振り返った。
「襲いかかってきたあの女は……間違いなく美容室から出てきた琴美さんを狙ってた。そこに私が出てきたから、相当動転してたみたい。結局私を切りつけたあとは琴美さんに目もくれず逃げていったし。刃傷沙汰に慣れてないね、あれは」
「顔は? 見たのか」
「暗がりでフードを被ってたから、はっきりとは。でも」
「犯人の目星はついてる──、でしょ?」
言葉を引き取ったのは、意外にも千晶だった。
手のひらの怪我を見ていたはずの視線はいつの間にかこちらに、上目遣いで向けられている。
大きな瞳。
中に映り込んだ自分の姿を見つけ、不覚にもどきっと鼓動が鳴った。
「あのー。すみません」
夕日に照らされ歩く高校生の姿が目立つ、帰宅時間帯。
いつかと同じ言葉が、橋の上にそっと響いた。
間黒新橋を歩く一人の女子高生が、駆けられた声に肩を揺らす。
「あなたは……」
「少し話を伺いたいんです。お時間いただけますか。……中村、由香里さん」
移動した先は、道を少し中に入った先の小さな公園だった。
「何でも屋です。今回ある方から、匿名の嫌がらせを受けているということで、解決を手伝ってほしいと依頼を受けました」
意外にも素直についてきた女子高生──中村由香里にベンチを譲り、暁は少し離れた場所で遊具に腰を預ける。
「調査の結果、あなたがその嫌がらせの犯人と判断しました。よって、厳重注意をさせていただきます。これ以上の手に出るのであれば、警察に被害届を提出します」
「ナイフじゃなくてハサミだったの」
沈黙が重く落ちていた室内で、暁は恐る恐る絞り出した。
「だから、そこまで切れ味いいわけじゃなかったんだ。もう血も止まったし消毒もしっかりしたから、あとは傷口が塞がれば」
「アキちゃん」
「はい」
「黙って」
「……はい」
叔母と甥の地位が、逆転した瞬間だった。
琴美をタクシーに乗せたあと、暁は気配を消すようにして一階事務所に舞い戻った。
心配でついてきた豆腐小僧の小太郎に手伝ってもらいながら、救急セットの中身をあさる。
そして次の瞬間、必要最低限にしていた事務所内の明かりが全て灯された。
点けたのは勿論、二階自宅にいたはずの甥っ子と、屋根の上にいたはずの烏丸だった。
「さっきのあやかしに感謝しなくちゃね。危うく怪我をしたいきさつを隠蔽されるところだった」
先ほどまで洗いざらいの事情を聞かれた小太郎は、すでに事務所をあとにしている。
ペコペコと頭を下げて戸を閉める姿は、逆にこちらが申し訳なく思うほどだった。
「隠蔽って、そんな大げさな」
「現に、俺たちに気づかれないように傷の手当てをしてたでしょ。あとは大きな絆創膏でも貼っておけば、転んですりむいたとか適当に報告することもできるもんね」
「……ごめん」
無表情のまま傷口を確かめる甥に、暁は素直に頭を下げる。
正直、ぎりぎりまで事務所と自宅のどちらに戻るべきか迷っていた。
もしも逆の立場なら、怪我を隠そうとする千晶を間違いなく叱り飛ばしたに違いない。家族だからこそ知らせてほしい、と。
でも結局暁は、怪我をなんとか誤魔化すほうを選んだ。家族だからこそ知らせたくない、と。
家族ってやっぱり難しい。
「心配をかけた自覚があるなら、大人しくしててよね」
「へ? あ……」
掴まれていた手が、さらに持ち上げられる。
そのまま吸い込まれるように促された先は、千晶の唇だった。
触れた柔らかな温もり。予期しなかった状況に一瞬呆けたものの、はっと思い出す。
千晶の口付けには、傷を癒やす巫の力があるのだ。
「え、と。もう治った……のかな?」
「うーん。思ったより傷が深いみたいだね。これはもうちょっと時間がかかるかも?」
手のひらから一度離れた唇が、悪戯っぽく弧を描く。
そんな表情一つさえも絵になる甥に変に感心していると、再び恭しく暁の手が持ち上げられた。
「いい加減にしろ。このエロガキが」
面倒くさそうに突っ込みを入れたのは、我が物顔で人の事務机を陣取った烏丸だった。
「言っておくがな。こいつの力が発揮できるのは、加害者にせよ被害者にせよあやかしが関わる場合のみだ。人間同士のどうこうには効果はない」
「あ、そうなんだね」
うん? ということは、どういうことだろう。
「……ちょっと話そうか、キス魔の千晶くん」
「はは、キス魔じゃないよ。それに、今のだってまったくの無駄じゃない。今回怪我をさせてきた加害者が人間だってことが、これではっきりわかったでしょ?」
咄嗟に出た言い訳のようにも聞こえたが、確かにな、と納得する。
開いた手のひらには当然、赤黒い傷跡が残っている。
しかし先ほどと比べ、不思議と痛みが遠のいたような気がした。これももしかしたら千晶の力なのかもしれない。
「それで? 怪我まで負わされてきたんだ。それなりに収穫はあったんだろうな?」
「まるで事務所の所長のようですね、烏丸くん」
ふんぞり返りながら報告を待つ烏丸に呆れつつ、暁は今夜の出来事を振り返った。
「襲いかかってきたあの女は……間違いなく美容室から出てきた琴美さんを狙ってた。そこに私が出てきたから、相当動転してたみたい。結局私を切りつけたあとは琴美さんに目もくれず逃げていったし。刃傷沙汰に慣れてないね、あれは」
「顔は? 見たのか」
「暗がりでフードを被ってたから、はっきりとは。でも」
「犯人の目星はついてる──、でしょ?」
言葉を引き取ったのは、意外にも千晶だった。
手のひらの怪我を見ていたはずの視線はいつの間にかこちらに、上目遣いで向けられている。
大きな瞳。
中に映り込んだ自分の姿を見つけ、不覚にもどきっと鼓動が鳴った。
「あのー。すみません」
夕日に照らされ歩く高校生の姿が目立つ、帰宅時間帯。
いつかと同じ言葉が、橋の上にそっと響いた。
間黒新橋を歩く一人の女子高生が、駆けられた声に肩を揺らす。
「あなたは……」
「少し話を伺いたいんです。お時間いただけますか。……中村、由香里さん」
移動した先は、道を少し中に入った先の小さな公園だった。
「何でも屋です。今回ある方から、匿名の嫌がらせを受けているということで、解決を手伝ってほしいと依頼を受けました」
意外にも素直についてきた女子高生──中村由香里にベンチを譲り、暁は少し離れた場所で遊具に腰を預ける。
「調査の結果、あなたがその嫌がらせの犯人と判断しました。よって、厳重注意をさせていただきます。これ以上の手に出るのであれば、警察に被害届を提出します」